先年から孤老になったため、台所仕事をやるようになった。とくに料理などは、ほとんど経験したことがないので戸惑うことが多い。例えば、野菜や魚などの生鮮材料に貼付されている「賞味期限」という表示である。文字通りに解釈すると、それを食べる全ての人が“おいしい”と感じることができる締め切りの日ということのようだ。
しかしこの定義は変だと思う。何となれば、美味しいと感じる味覚は人それぞれであって、一律に決められないはずだ。賞味期限と表示された月日をもって、全ての人が画一的に、美味か否かを感じ取ることができるだろうか。
実は、このようなナンセンスな表示を普及させたのは、大手の某流通業者だという噂がある。この業者は経営戦略として、競合他社に対し物流システムの面で、圧倒的な差をつけようと考えた。そのため物流システムの合理化を行い、産地での収穫から店頭に陳列するまでの時間を、大幅に短縮したのである。そして、そのシステムにのせた商品すべてに生産日と賞味期限を表示したのである。案の定、消費者は賞味期限が明示してある商品を選ぶようになった。この様子を見たライバル企業が、同じようなシステムを導入するようになったのは当然の成り行きである。
このようにして賞味期限という表示は、いまでは生鮮食料品業界の基本的な慣行になっている。しかし既に述べたように、賞味期限という表示には、基本的に納得しがたいものがある。では、何も表示しなかったらどうか。これに対しては、腐敗品の横行が恐ろしいので、腐敗期限の表示はどうかという意見がある。しかし、これもまた賛成しがたい考え方である。腐敗という現象は、その商品の置き場所や温度管理など、さまざまな条件によって生じるので、一律には期日がきめられない。最も正確な方法は、購買者の手に渡る時点で、測定機器でチェックすることである。しかし、そんなことは実際には出来ないだろう。
賞味期限や腐敗期限といった考え方が、全くなかった時代はどうやっていたか。購買者が自ら、臭いを嗅いだり眼で見たりして判断していた。それで十分だったのである。現在のように自分で判断することなく、すべてを表示に頼るのは確かに便利ではある。しかし、せっかく持っている五感の能力を使わないというのは、本当に好ましいことなのだろうか。
2012年1月17日火曜日
年賀状が減った
一昨年から今年にかけて旧友からの年賀状が激減した。亡くなったり施設に入居したり理由はいろいろあるが、一番多いのは、何となく音信が途絶えるケースだ。その一方で、若干ではあるが、新しく友人リストに加わった名前もある。その結果を加減すると、かなりの減少である。最繁期に比べると、おそらく四分の一程度になっているだろう。来年あたりからは十数名程度にしたい。
年賀状の数を減らそうと思うようになった動機の第一は、友人について考えを改めたからである。まず第一に幼友達である。この数年、私はかなり頻繁に故郷を訪れて彼等と会ってきたが、率直に言って話が弾むことはあまりなかった。それもその筈で、遊学や就職で彼の地を離れて以来、60年以上も経っているのだ。
第二は青春時代である。学校の寮などで生活を共にしたのがその始まりで、かなり濃密な友人関係ができた。また就職後の職場でも、仕事の関係で新しい知己を得ることが出来た。さらに年を経ると、社会生活のいろんな場面で、新たに親交を結ぶようになった人もいる。
しかし年月が経ったいま振り返ってみると、諺にあるようにまさに「去る者は日々に疎し」の感が強い。それはたんに距離や会う頻度などの物理的な状況を言うのではない。むしろそれを超越した人間としての共感の度合いである。
いまや高齢者となり、余命に限りあることを自覚するようになったからには、本音の感性と心境で付き合える友人を選びたい。それ以上のことに、なけなしのエネルギーを費やしたくない。いやなものは嫌、すきなものは好きで通したい。義理の付き合いや、惰性の付き合いをやめよう。そう決心したとき、名簿に残す友人の数は驚くほど少なくなってしまったのである。
年賀状の数を減らそうと思うようになった動機の第一は、友人について考えを改めたからである。まず第一に幼友達である。この数年、私はかなり頻繁に故郷を訪れて彼等と会ってきたが、率直に言って話が弾むことはあまりなかった。それもその筈で、遊学や就職で彼の地を離れて以来、60年以上も経っているのだ。
第二は青春時代である。学校の寮などで生活を共にしたのがその始まりで、かなり濃密な友人関係ができた。また就職後の職場でも、仕事の関係で新しい知己を得ることが出来た。さらに年を経ると、社会生活のいろんな場面で、新たに親交を結ぶようになった人もいる。
しかし年月が経ったいま振り返ってみると、諺にあるようにまさに「去る者は日々に疎し」の感が強い。それはたんに距離や会う頻度などの物理的な状況を言うのではない。むしろそれを超越した人間としての共感の度合いである。
いまや高齢者となり、余命に限りあることを自覚するようになったからには、本音の感性と心境で付き合える友人を選びたい。それ以上のことに、なけなしのエネルギーを費やしたくない。いやなものは嫌、すきなものは好きで通したい。義理の付き合いや、惰性の付き合いをやめよう。そう決心したとき、名簿に残す友人の数は驚くほど少なくなってしまったのである。
“想定外”という言葉を恣意的に使い分けるな
1000年に一度の津波被害を想定できなかったという原子力関係者の説明に対して、原発に反対してきたマスコミや評論家などの学識経験者は、それを逃げ口上であると批判している。しかし地球上で日常的に発生する数々の出来事で、1000年に一度しか発生しない事態を誰が予知できるだろうか。例えばこの人たちが守り抜こうとしている日本の平和憲法は、どの程度まで想定外の事態を念頭に置いているのだろうか。
最近、アメリカのシンクタンク・ランド研究所は、中国との軍事衝突の可能性が、全く無いとは言い切れないと表明している。データによると、過去3400年のうち完全に平和な時代は、250年に過ぎないらしい。つまり戦争があるのが普通であって、それがないのはむしろ例外というべきなのだ。それにも拘わらず、進歩的と称する我が国の学識有識者たちは、漫然と平和憲法が維持できると考えている。念のために、その平和憲法の核心部分を取り出すと、次のようになっている。
“・・・平和を愛する(海外)諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した・・・・・”。
この文面に表れている他力本願の虫のよい依存心はさて措くとして、戦争状態が普通という国際関係の歴史を全く無視しているのは致命的である。1000年に一度の津波を想定しなかった原発技術者を非難しながら、その一方で日本が戦争に巻き込む確率はゼロという前提に立っている。しかし戦争の確率は、上述したように津波発生の確率と比べると格段に高い。それでも平和憲法擁護者がそれを無視して、戦争の勃発を想定外と考えているのは何故か。論理的な思考力の不足なのか、あるいは御都合主義なのか。
最近、アメリカのシンクタンク・ランド研究所は、中国との軍事衝突の可能性が、全く無いとは言い切れないと表明している。データによると、過去3400年のうち完全に平和な時代は、250年に過ぎないらしい。つまり戦争があるのが普通であって、それがないのはむしろ例外というべきなのだ。それにも拘わらず、進歩的と称する我が国の学識有識者たちは、漫然と平和憲法が維持できると考えている。念のために、その平和憲法の核心部分を取り出すと、次のようになっている。
“・・・平和を愛する(海外)諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した・・・・・”。
この文面に表れている他力本願の虫のよい依存心はさて措くとして、戦争状態が普通という国際関係の歴史を全く無視しているのは致命的である。1000年に一度の津波を想定しなかった原発技術者を非難しながら、その一方で日本が戦争に巻き込む確率はゼロという前提に立っている。しかし戦争の確率は、上述したように津波発生の確率と比べると格段に高い。それでも平和憲法擁護者がそれを無視して、戦争の勃発を想定外と考えているのは何故か。論理的な思考力の不足なのか、あるいは御都合主義なのか。
2011年11月2日水曜日
韓国が日本に追いつく
先日の新聞記事によると、韓国には「江南左派」という言葉があるそうだ。江南とはソウルの南側にある地域のことで、そこには経済的に恵まれた人達が住居を構えている。いわゆる高級住宅地族というわけだ。住民の職業は、当然ながら事業家や高級サラリーマンなどが多いが、とりわけ目立つのが評論家や学者などサヨク系の進歩的文化人だという。すなわち「江南左派」とは、この人たちのことをいうらしい。
彼等は自分たちは、江南という高級住宅地に住んで恵まれた生活をエンジョイしながら大企業の批判や反米を主張し、その一方で北朝鮮を擁護し、保守政権の批判に熱を上げる。なぜそれが出来るかというと、彼等の著書や講演などに人気があるからだ。当然ながら高額所得をエンジョイすることになる。最近では専ら格差論に熱中しているらしい。しかし彼等が貧しい人のために具体的に何かを施すことはない。つまり典型的な「安楽椅子で葉巻を燻らす」社会主義者なのだ。
この記事を見て思い起こすのは、数十年前からごく最近まで日本の言論界をリードしてきた進歩的文化人や知識人の人気である。論語では教養人のことを君子といい、知識人のことを小人というが、まさに正鵠を射る言葉である。現在では民主党政権が馬脚を現したこともあって、日本人の多くはサヨク系知識人の言動を信じなくなった。しかし韓国の状況をみると、そうではないらしい。日本と同じような反省をするには、あと10年はかかるように思う。
彼等は自分たちは、江南という高級住宅地に住んで恵まれた生活をエンジョイしながら大企業の批判や反米を主張し、その一方で北朝鮮を擁護し、保守政権の批判に熱を上げる。なぜそれが出来るかというと、彼等の著書や講演などに人気があるからだ。当然ながら高額所得をエンジョイすることになる。最近では専ら格差論に熱中しているらしい。しかし彼等が貧しい人のために具体的に何かを施すことはない。つまり典型的な「安楽椅子で葉巻を燻らす」社会主義者なのだ。
この記事を見て思い起こすのは、数十年前からごく最近まで日本の言論界をリードしてきた進歩的文化人や知識人の人気である。論語では教養人のことを君子といい、知識人のことを小人というが、まさに正鵠を射る言葉である。現在では民主党政権が馬脚を現したこともあって、日本人の多くはサヨク系知識人の言動を信じなくなった。しかし韓国の状況をみると、そうではないらしい。日本と同じような反省をするには、あと10年はかかるように思う。
2008年7月1日火曜日
文学と政治
文学的センスと政治的センスの間には、大きな隔たりがあるようだが、必ずしもそうではない。たとえばアンドレ・マルローは、政治への情熱と、文学への情熱を区別しなかった。日本でも三島由紀夫や江藤淳、大江健三郎、三浦朱門、村上龍など事例は多い。逆にドゴール、チャーチル、毛沢東など文学のセンスに恵まれた政治家の名前を挙げることもできる。日本の顕著な例は石原慎太郎だが、中曽根康弘元首相も俳人として知られている。
文学的センスと政治的センスの間には、共通するものがあるのかもしれない。立花隆は政治家を、言語操作のプロだといったことがある。この見方も、文学と政治の共通する一つの側面を捉えたものといえるだろう。オバマとクリントンの選挙戦をみると一層その感を深くする。
しかし文学センスと政治センスは、もっと本質的な点で共通しているように思われる。あえて言えば、それは文学者あるいは政治家として、対象を認識する態度と方法ではないだろうか。文学および政治を構成するカテゴリーは、イデオロギー、テーマ、イメージ、デザイン、モチベーション、コントロール、コミュニケーション、・・・など筆紙に尽くせないほど多岐にわたる。この多様さと複雑さこそ、文学と政治の共通点である。
たとえばコミュニケーションについて考えてみよう。コミュニケーションの局面でも文学や政治では、無数ともいえる要素を考慮しなければならない。要素間には矛盾があるし、しかも時間とともに変化する。コミュニケーションを構成する要素の例として、人間を取り上げてみよう。男と女、老人と若者、善人と悪人、金持ちと貧乏人、学歴、職業・・・・このように分類していくと、おそらく際限がないだろう。しかもこの無数の要素の間および要素の内部では、必ず葛藤や争いが発生する。政治と文学は、このような取りとめもないもの、いわば混沌を対象にしなければならない。その難しさはただ事ではない。この複雑怪奇な状況に臨んで、行動の引き金になるセンサーは何か。多分それは、対象と状況を鋭敏に感じ取る能力であろう。言い換えれば認識能力である。
かくして対象や状況を鋭敏に感じとるセンス=認識能力こそ、文学と政治に共通する不可欠の能力といえるのである。かなり突飛な話だが、この仮説で文学者を評価してみたらどうだろう。例えば大江健三郎。一時はアナーキーな政治スタンスで人気を得たが、今では色あせている。とくに「沖縄ノート」では、劣弱な取材力(認識力)を露呈した。村上龍も、デビュー作の「限りなく透明に近いブルー」で示した感覚はすごかった。しかし「ハバナモード」あたりから最近のJMMにいたる政治的な発言を見ると、幾許の未熟さを感じる。そうとなれば、文学者としての認識力についても、多少の評価替えが必要になるのだろうか。
文学的センスと政治的センスの間には、共通するものがあるのかもしれない。立花隆は政治家を、言語操作のプロだといったことがある。この見方も、文学と政治の共通する一つの側面を捉えたものといえるだろう。オバマとクリントンの選挙戦をみると一層その感を深くする。
しかし文学センスと政治センスは、もっと本質的な点で共通しているように思われる。あえて言えば、それは文学者あるいは政治家として、対象を認識する態度と方法ではないだろうか。文学および政治を構成するカテゴリーは、イデオロギー、テーマ、イメージ、デザイン、モチベーション、コントロール、コミュニケーション、・・・など筆紙に尽くせないほど多岐にわたる。この多様さと複雑さこそ、文学と政治の共通点である。
たとえばコミュニケーションについて考えてみよう。コミュニケーションの局面でも文学や政治では、無数ともいえる要素を考慮しなければならない。要素間には矛盾があるし、しかも時間とともに変化する。コミュニケーションを構成する要素の例として、人間を取り上げてみよう。男と女、老人と若者、善人と悪人、金持ちと貧乏人、学歴、職業・・・・このように分類していくと、おそらく際限がないだろう。しかもこの無数の要素の間および要素の内部では、必ず葛藤や争いが発生する。政治と文学は、このような取りとめもないもの、いわば混沌を対象にしなければならない。その難しさはただ事ではない。この複雑怪奇な状況に臨んで、行動の引き金になるセンサーは何か。多分それは、対象と状況を鋭敏に感じ取る能力であろう。言い換えれば認識能力である。
かくして対象や状況を鋭敏に感じとるセンス=認識能力こそ、文学と政治に共通する不可欠の能力といえるのである。かなり突飛な話だが、この仮説で文学者を評価してみたらどうだろう。例えば大江健三郎。一時はアナーキーな政治スタンスで人気を得たが、今では色あせている。とくに「沖縄ノート」では、劣弱な取材力(認識力)を露呈した。村上龍も、デビュー作の「限りなく透明に近いブルー」で示した感覚はすごかった。しかし「ハバナモード」あたりから最近のJMMにいたる政治的な発言を見ると、幾許の未熟さを感じる。そうとなれば、文学者としての認識力についても、多少の評価替えが必要になるのだろうか。
2008年1月3日木曜日
イチローの野球
正月2日に放映されたNHK番組「プロフェッショナル/イチロー・スペシャル」は見ごたえがあった。アメリカ大リーグにおけるイチローの活躍ぶりは周知のことだが、その裏側での努力や悩みについては、あまり知られていなかったからだ。
最も強く印象付けられたのは、イチローがたんなる天才ではないということだ。彼が野球に取り組む姿は、求道的でさえある。打者はバッターボックスに立ったら、投げ込まれるボールに全精神を集中させなければならない。この点だけについて言えば、他の一流バッターと同じかもしれない。しかしイチローは、たんに集中するだけではなくて、その集中する自分を意識している。つまり自分を他者として観察する冷静さをもっている。この自意識を研ぎ澄ますことによって、自己を完全に制御することができる。昨年まで彼は、技術に自信をもつ体が勝手に反応して、ボール球でもヒットを打たせてくれると考えていた。そのため打ち損じもあった。しかしこれからは彼の制御スキルは、体にストライクボールしか打つことを許さなくなるだろう。かくして心身は一体となり、打率は一段とアップするに違いない。
さらにイチローの野球は、スポーツでさえ日本人の気質や文化と無縁でないことを教えてくれる。彼は昨年、超200本安打の7年連続記録を達成した。本人によると、この大記録は大へんな重圧のもとでようやく成し遂げたという。世間で当然のことのように思われているのとは全く違う。そしてその重圧の中で、7年目は一つの悟りに近づいたという。それは今までのように重圧に耐えて達成したのではなく、重圧に立ち向かうと覚悟して達成したものらしい。まさに禅僧が苦行から悟りを得るプロセスとそっくりではないか。
おそらくこれからもイチローの野球は進化し続けるだろう。しかしこのようなイチローの姿は、なにも彼固有のものではなく、むしろ日本人の選手に共通するものである。多かれ少なかれ日本人のスポーツには、このような求道的なスタイルが見受けられる。そのため日本人はフェアーすぎて、国際試合に向かないと揶揄されることもある。しかしそれでも良いではないか。その典型といえるのが、柔道や剣道などの国技である。これらの国技には美学と哲学を伴った求道性がある。なりふり構わず、勝ちさえすればよいのではない。その美学によって負けることがあっても良いではないか。スポーツもまた文化なのだから。
最も強く印象付けられたのは、イチローがたんなる天才ではないということだ。彼が野球に取り組む姿は、求道的でさえある。打者はバッターボックスに立ったら、投げ込まれるボールに全精神を集中させなければならない。この点だけについて言えば、他の一流バッターと同じかもしれない。しかしイチローは、たんに集中するだけではなくて、その集中する自分を意識している。つまり自分を他者として観察する冷静さをもっている。この自意識を研ぎ澄ますことによって、自己を完全に制御することができる。昨年まで彼は、技術に自信をもつ体が勝手に反応して、ボール球でもヒットを打たせてくれると考えていた。そのため打ち損じもあった。しかしこれからは彼の制御スキルは、体にストライクボールしか打つことを許さなくなるだろう。かくして心身は一体となり、打率は一段とアップするに違いない。
さらにイチローの野球は、スポーツでさえ日本人の気質や文化と無縁でないことを教えてくれる。彼は昨年、超200本安打の7年連続記録を達成した。本人によると、この大記録は大へんな重圧のもとでようやく成し遂げたという。世間で当然のことのように思われているのとは全く違う。そしてその重圧の中で、7年目は一つの悟りに近づいたという。それは今までのように重圧に耐えて達成したのではなく、重圧に立ち向かうと覚悟して達成したものらしい。まさに禅僧が苦行から悟りを得るプロセスとそっくりではないか。
おそらくこれからもイチローの野球は進化し続けるだろう。しかしこのようなイチローの姿は、なにも彼固有のものではなく、むしろ日本人の選手に共通するものである。多かれ少なかれ日本人のスポーツには、このような求道的なスタイルが見受けられる。そのため日本人はフェアーすぎて、国際試合に向かないと揶揄されることもある。しかしそれでも良いではないか。その典型といえるのが、柔道や剣道などの国技である。これらの国技には美学と哲学を伴った求道性がある。なりふり構わず、勝ちさえすればよいのではない。その美学によって負けることがあっても良いではないか。スポーツもまた文化なのだから。
2007年11月1日木曜日
評論家は楽だ
以前のことだが、ある専門雑誌のコラム欄を担当したことがある。期間は1年である。それまでにも著作の経験はしていたが、いずれも専門家向けの実務書であった。したがって他人の仕事や考え方を、評論するようなものではなかった。
件のコラムを担当したのは、学者が3名、ルポライターが2名、それに私を加えた合計6名である。編集長の希望としては、当時の産業振興策や大企業の経営について、辛口の評論を行うことであった。
連載が始まると、他の執筆者の筆致はとても軽快にみえた。ひたすら難渋したのは私だけだった。どうしたらもっと手際よく書くことができるか。大いに悩んだ結果、やっと原因がわかった。私は実務家の仕事と、評論家の仕事を混同していたらしい。
簡単に言うと、実務家の仕事は問題の発見と解決がワンセットになっている。したがって解決できないことが分かっている問題を、問題といってはならない。問題だけを言い立てる実務家は軽蔑される。しかし評論の仕事は、問題の発見または提起だけで済むのである。
評論家と実務家の違いに気づいた後は、コラムの執筆がとても楽になった。問題は無数にある。それを取り上げるだけでよいのだ。それこそ快刀乱麻、言いたい放題だ。だからといって間違っているわけではない。私はいつの間にか、正義の騎士のような気分に浸っていたのである。
件のコラムを担当したのは、学者が3名、ルポライターが2名、それに私を加えた合計6名である。編集長の希望としては、当時の産業振興策や大企業の経営について、辛口の評論を行うことであった。
連載が始まると、他の執筆者の筆致はとても軽快にみえた。ひたすら難渋したのは私だけだった。どうしたらもっと手際よく書くことができるか。大いに悩んだ結果、やっと原因がわかった。私は実務家の仕事と、評論家の仕事を混同していたらしい。
簡単に言うと、実務家の仕事は問題の発見と解決がワンセットになっている。したがって解決できないことが分かっている問題を、問題といってはならない。問題だけを言い立てる実務家は軽蔑される。しかし評論の仕事は、問題の発見または提起だけで済むのである。
評論家と実務家の違いに気づいた後は、コラムの執筆がとても楽になった。問題は無数にある。それを取り上げるだけでよいのだ。それこそ快刀乱麻、言いたい放題だ。だからといって間違っているわけではない。私はいつの間にか、正義の騎士のような気分に浸っていたのである。
2007年10月12日金曜日
ベッドサイドの雑談
家内が難病に罹った。1年ほど前から何となく様子がおかしく、時々体の不調を訴えるようになっていた。昨年の暮れ、某大学病院に検査入院したところ、多系統萎縮症と診断された。以来、病状は確実に進行しているが、なす術もなく見守るしかない。難病というのは、治療ができない病のことなのだ。
家内の一日は、ほとんど寝たきりといってもよいだろう。私は退屈さを紛らせてやりたいので、時々ベッド脇に腰掛けて雑談の相手になっている。とりとめもない話題が多いのだが、今日はかなりシリアスなことを話し合った。
「私たちはやがて金婚式を迎えようとしていますが、この病気に罹ることが分かっていたとしても、あなたはプロポーズしてくれましたか」。
「当たり前だよ。下らないことを聞くなよ」。
「では、10年後に罹病することが分かっていたら?」。
「もちろん同じだよ」。
「じゃあ、半年後にこうなることが分かっていても?」。
「答えは同じ・・・」。
「明日だったら?」。
「・・・・・・」。
家内の一日は、ほとんど寝たきりといってもよいだろう。私は退屈さを紛らせてやりたいので、時々ベッド脇に腰掛けて雑談の相手になっている。とりとめもない話題が多いのだが、今日はかなりシリアスなことを話し合った。
「私たちはやがて金婚式を迎えようとしていますが、この病気に罹ることが分かっていたとしても、あなたはプロポーズしてくれましたか」。
「当たり前だよ。下らないことを聞くなよ」。
「では、10年後に罹病することが分かっていたら?」。
「もちろん同じだよ」。
「じゃあ、半年後にこうなることが分かっていても?」。
「答えは同じ・・・」。
「明日だったら?」。
「・・・・・・」。
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