2008年6月23日月曜日

文明コンプレックスの克服

 韓国の英語熱は相当なものらしい。英語を第二公用語にせよという論者もいるという。お陰で日本もとばっちりを受けている。日本人の英語力は、韓国人と比べてレベルが低いと馬鹿にされている。とくに発音については、くそみそだ。日本の悪口を言えば喜ばれるお国柄だから、格好の餌食になっているわけだ。おなじ植民地になるのだったら、英国やフランスに支配されたら良かったという知識人さえいるという。
 しかし日本も、こと英語コンプレックスに関しては、けっこう情けない時期があった。今でもその傾向がないわけではないが、その発端はたぶん明治の文明開化にあるらしい。長い鎖国の眠りを覚ましてくれたのは、浦賀にやってきた巨大な鋼鉄の軍艦だった。そのあと蒸気機関車をはじめとして、次々に持ち込まれた西欧の便利で珍奇な品々は、まさに驚きと憧憬の的になった。そして国をあげて、これらを作り出す西欧諸国から、できるだけ多くを学びとろうと奔走した。とくに進取の気性に富むもの達は、競って蘭語や独語、英語など欧語の習得に励んだ。
 何しろ西欧から持ち込まれたものは、きらびやかな物品に限らず芸術、軍事、交通、建造物などすべてがすばらしかった。したがって興味の的が、これらを生み出した文明そのものへと広がったのは当然の成り行きである。こうして西欧型の知識体系も、急ピッチで国内に普及するようになった。この動きに最も敏感だったのは知識人や学者であった。しかも彼らが求める知識の多くは、西欧文書の翻訳から得ることができた。日本の知識人が西欧語の習得を最も重視したのはそのためである。
 文明すなわち知識の内容は、形式知である。したがって言語によって伝えることができる。しかし言語で表現できないもの、すなわち文化の内容はいかに優れたものであっても、言語で伝達することはできない。それ故に暗黙知といわれるのである。軽率にも日本の知識人はこの点を見落していた。文化と文明のすべてを言語で表現できると考えた。さらに言えば、文化と文明の区別もしていなかった。それゆえ西欧に対する文明劣等感は、文化劣等感にまで及んだのである。
 形式知の母体は暗黙知である。別の表現をすれば、文明の母胎は文化である。文明開化以来、日本は国を挙げて西欧文明の習得に熱中し、ついにそれと肩を並べるようになった。もはや学ぶべきものはほとんどない。対等の立場で競い合うだけのことだ。しかし知識人の多くはそれに気付かず、閉塞感に苛まされている。西欧文明の翻訳つまり模倣しかやってこなかったからである。彼らには翻訳による模倣はできても、創造はできないのだ。
韓国が英語熱にうなされている現状は、よそ事ではない。日本も同じ道を歩んできたからだ。つまり文化と文明を混同してきたのである。しかし、今や日本は文明と文化の違いに目覚めた。その契機となったのは、科学技術を中心にした西欧文明のエッセンスを、学び尽くしたことに気づいたからである。21世紀の今、西欧型文明の限界は誰の目にも明らかである。環境破壊、地球収奪型経済の破綻、破滅型兵器の独占体制崩壊など枚挙すればきりがない。この閉塞状態を破るにはどうするべきか。答えははっきりしている。西欧型文明を盲信しないで、新しい文明の開発に着手することである。その出発点は、文明の母体である文化の再確認から始まる。日本文化の研究は、いまや緊急の課題である。

2008年6月15日日曜日

国の借金は800兆円!

 財務省によると19年12月末現在、国の借金は800兆円を越えたというという。日本の国家予算の規模は80兆円程度だから、その10年分だ。この数字を見て政策担当者や評論家の一部は、まるで財政破綻が迫っているように騒ぎたてる。しかし一方では、日本の個人金融資産は1545兆円あるから大丈夫という論者もいる。国の借金800兆の殆どは国債であり、その所有者の大部分は国民だ。したがって相殺すると、まだ745兆円も資産オーバーだというのだ。
 この論議の決着が、未だについていないのは実に不思議なことだ。たんなる解釈論ではなく、理路整然と黒白がつけられないものか。経済学者や財政学者はいったい何をしているのだろう。いらいらさせられるので、素人なりに考えをまとめてみた。
 まず国の借金と、個人の財産というのは非対称すなわち次元が違う。これを相殺するのは妙な話だ。極端な話だが、アメリカの総資産から日本の総借金を引き算したとして、その差額に意味はない。相殺計算を意味あるものにするには、資産と負債を同一の次元に置かなければならない。それには、錯綜している概念を以下のように整理する必要がある。
 まず、最上位の経済主体として「国家」を定義する。国家を構成するサブの経済主体は①政府、②地方自治体、③企業法人、④個人、⑤の5つである。たんに「国」というだけでは、この5つの経済主体を区別できない。政府と国家を混同し、一種の丼勘定にしてしまう。これを避けるには、上の区分によってまず国の借金を、①政府の借金(負債)と言い換える。この金額が800兆である。負債があれば資産もあるはずだ。国民財産統計によると政府の資産は106兆になっている。②の地方自治体は負債が100兆円だ。それに対して資産はどうか。県所有の施設など色々あるだろうが、ここでは政府と同じく負債の8分の1として、12兆と仮定しよう。③企業法人については資産は国民財産統計によると、資産は1390兆円で負債は934兆円である。④個人は資産が1545兆円で、負債は400兆になるらしい。⑤その他は、金額が小さい割りに内容が複雑なので省略する。
 以上をまとめると、国家経済を構成する政府、地方自治体、企業法人、個人すべての資産合計は3053兆円である。同様にして負債合計は2334兆円になる。したがって資産合計から負債合計を差し引くと、純資産719兆円が求められる。こうしてみると、資産面で見た日本の国力はたいしたものだ。800兆円ぐらいの借金にはびくともしないと思われる。
 ただし我流ながら、この一連の計算をしてみると、一国の財政に関する理論はあまりにも貧弱だ。私が利用できたデータは国民財産統計と国民経済計算だけだった。したがって道路や港湾さらには国防施設などの膨大なインフラは、資産として計算できない。これらのインフラは年次予算で調達されるので、単年度で処理されるため、繰り越されないからだ。つまり資産にはなっていない。かりに資産にすれば減価償却計算が必要だ。しかし現在の予算制度は、会計論でみると単式簿記だから計算不可能だ。早急に複式簿記に移行すべきだろう。補足しておくが、以上の計算には土地や建物も含まれていない。これらをどう扱うかを明確にした理論がないし、単式簿記では処理できないからだ。しかし土地建物を資産計算の対象にしないのはおかしいと思う。坪当たり何百万円もする土地は、日本中で何坪あるだろう。建物にしても、超高層ビルを筆頭に何棟あるだろう。これらを計算に入れたら、国家の資産は天文学的な数字になるだろう。これらを計算しない理論的根拠はあるのだろうか。
財政や経済の専門家は、なぜ国の財産についての明快な理論や提言を創造できないのか。お互いが勝手な解釈と、意見を言い合うだけなのだ。これほどの重大なテーマに定見はないのかと聞きたい。

2008年5月31日土曜日

日経記者の国籍

5月29日、中国は四川大地震への救援物資の輸送に、日本の航空自衛隊の輸送機派遣を打診していた。要請を受けた政府は大急ぎで準備を始めた。しかし翌30日には、中国は手のひらを返したように断ってきた。まだ日本嫌いの国内世論が強い環境下では、まずいと判断したのだろう。
この一連のどたばた騒ぎの原因は、ひとえに中国側の複雑な事情によるものだ。それを真に受けて真面目に対応した日本政府は馬鹿をみたことになる。批判されるべきは中国である。しかし日経新聞のコメントは全く違っていた。日本政府の軽挙妄動をたしなめるものであった。このような過剰な自己反省的な記事を書く記者は、一体どのような思想の持ち主なのだろう。もし逆の立場なら、中国のマスコミは日本の変心を大いにこき下ろしたに違いない。少なくとも自分の国の判断が間違っていたとは言わないだろう。日経記者の国籍を問いたい。

2008年5月17日土曜日

嫉妬の国民性

 人間行動の大きなエネルギー源は嫉妬である。ただしその発現のしかたは国によって違う。たとえば日本では傑出したものの足を引っ張ることによって、嫉妬を解消する。閉鎖社会の横並び指向が原因であろう。逆にアメリカ人は、ライバルを越えることによって嫉妬を解消する。たぶん開放型社会であるとともに、競争社会であることが原因と思われる。韓国人が日本を嫉妬するのは、「怨」という言葉で象徴される独特の国民性に由来する。これは実にわかりやすい。しかし中国が日本を嫌うのは何故か。閉鎖型で足を引っ張りたいのではないようだ。では開放型で競争を挑みたいのか。そうでもないようだ。どうもわからない。このわかりにくさが、中国の特性か。

2008年5月11日日曜日

国の責任

何か事件があると、マスコミや評論家は「国の責任」という言葉を乱用する。たとえばエイズや肝炎ビールスなどの薬害問題、アスベストによる肺癌問題、環境汚染問題など枚挙に暇がない。これら諸々の問題に対して、国は適切な対策を講じなかったというのがお定まりの論調である。当然ながら行政権が必要とされるすべての分野では、それに伴って責任が生まれる。したがって問題が発生するたびに、国の責任が問われるのは間違いではない。
 しかしよく考えてみると、国の責任とは何だろう。本来、国を構成するのは国民であり、それ以外の何者かによって国が成り立っているわけではない。したがって国の責任を追及することは、自分自身を糾弾することになるのである。つまり人ごとはない。国という抽象的な存在の責任を追及しても意味がないのだ。
 ただし現実問題として、国民の一人一人が行政のすべてにかかわることはできない。そこで分業が行われる。行政を司る役人(官僚)がそれを担当する。つまり国という抽象的な存在が行政を執行するのではなく、特定の役人個人が代行するのである。
 代行者にはそれに相当する権限と責任が生じる。この段階では、もはや「国」ではなく、代行者としての個人名が明確にされなければならない。したがってマスコミや評論家は、国の責任ではなく、役人個人の名前を挙げて責任を問わなければならない。この点を曖昧にするから、行政担当者は緊張感を失うことになるのだ。また役人は、恣意的に権限を行使することにもなる。
 最近、反日的な内容で問題になっている映画「靖国」の事例は、その典型といえるだろう。この映画の製作会社の形態は日本法人になっているが、取締役はすべて中国人である。その会社が製作したいわくつきの映画が、文部科学省の傘下にある日本芸術文化振興会の推薦によって、国から助成金を受けたのである。一部の過激な保守主義者が、その上映阻止を図ったのは、当然の成り行きだったかもしれない。もちろん良識を自認する大新聞は、その行動をヒステリックに非難している。すべては上映阻止にかかわる過激な行動だけがクローズアップされている。
 しかしこの事件を、「国の責任」という立場で捉えるとどうだろうか。自分の国を非難する映画を推奨し、それに助成金を与えるという国があるだろうか。この案件を文部科学省の上層部が知っていたら、おそらく承認しなかったに違いない。しかし実際には、このレベルの案件の採否を決定する権限は、かなり下位の担当官に与えられているだろう。つまり国の権限といっても、実際は特定の個人に与えられているのである。それが組織的に行わなければならない業務の実態である。
 一国の官僚といえども一枚岩ではない。それどころか、中にはとんでもない偏向思想の持ち主がいるかもしれない。その人物が、国という隠れ蓑によって、意図的に反国家的な決定をするかもしれない。その危険を避けるには、案件ごとに責任権限を行使した者の個人名を明らかにすべきである。漠然とした国の責任という言い方では、問題の本質はわからない。国から責任権限を与えられた特定個人の責任を明確にしなければならない。

2008年5月4日日曜日

中国は異形の国

 桜井よしこの表現を借りると、中国は「異形の国」である。この国が惹き起こす数々の事件や問題を想起すると、まさにぴったり当てはまる。たとえば5月2日の産経新聞は、次のように報じている。
    “中国「童工」市場 ”
中国広東省東莞市の電子工場などで、四川省涼山彜族自治州の農村からだまされて連れて来られた子供が強制労働に従事させられていたことが、広東省地元紙・南方都市報の調査報道で明らかになった。同紙の28日付以降の一連の報道によると、広東省一帯には、「童工」と呼ばれる未成年労働者の大規模な市場があり、この5年にわたり数百人が売られてきたという。多くが9歳から16歳の未成年。時間給3・8元以下と同市規定の最低賃金下回る賃金で、月360時間もの長時間労働を強制され、賃金の3分の2は仲買人らに搾取されていた。食事も数日に1回しか与えられず、少女だと仲買人らにレイプされたり、逃げた少年が殺害されたケースもあったという。
 報道をうけて東莞市警察は捜査に乗りだし、2日までに100人以上の子供たちを救出。売買にかかわった15人の容疑者を拘束しているという。中国では昨年6月、山西省臨汾市洪洞県のレンガ工場で大規模な未成年強制労働事件が発覚。これまでひた隠しにされてきた「世界の工場」の違法労働力市場の実態が明らかになってきている。このような事件は、他の文明国ではありえないことだ。しかし驚くべきことに、新興大国を自負する中国では現実に起きている事件なのだ。
いまや中国は、経済や軍事の面では一流国になったと自負している。さらに文化の面でも、一流国の仲間入りをしたいらしい。北京オリンピックの開催と成功に、あれほどこだわるのもそのためである。たしかに着々と実績を積み上げているその実績は、認めなければなるまい。
 しかし、その一方でこの国に対する抜きがたい不信感と違和感は、何に由来するのだろうか。たとえば最近の生々しい記憶では、毒入りギョウザ事件がある。上で転載した強制労働事件も中国なら、あっても不思議ではない。また年間を通じては、何万件にも及ぶ高級役人による汚職事件がある。その一方で産業界では、平気で外国のブランド品をコピーし、これで大もうけしている。
これらの先進国の常識を覆す奇怪な事件のすべてに、中国政府が関与しているわけではないし、奨励しているわけでもあるまい。むしろ最近では、その防止にかなり努力してことも認めなければならない。それにも拘らずこのような問題を根絶できないのは、国民を統率する能力がないのだろうか。
 どうもそうではないらしい。少なくとも政治と外交の面では、恐ろしいほど徹底した統率が行われている。ありとあらゆる反政府的思想や行動は、完全に封殺されている。その数々を述べるのは省くが、たとえば法輪功グループに対する弾圧などは、とても先進国では考えられない。外交もそうだ。日本攻撃のために取り上げてきた靖国神社参拝への非難攻撃の激しさはどうだ。また尖閣諸島周辺では、日本の領海内にある場所で勝手に油田の採掘を行っている。要するに政治や外交における国論の統率は鉄壁ともいえるのだ。しかしそれ以外の経済、道徳、文化などについては全くの後進国なのである。このアンバランスは、他の文明大国では全く見ることができない。中国が、異形の国と揶揄される所以であろう。

2008年4月29日火曜日

存在証明という考え方(病友への手紙)

貴簡を戴きながら、返事が遅れたことをお詫びします。病床に伏す貴兄の心情は察するにあまりあります。お互い年をとり、軽々な言葉のみの慰めなど無意味なことと感じます。
 小生は家内が難病に冒されて以来、毎日を忙しく、しかし虚ろに過ごしています。朝、昼、晩の台所仕事は言うに及ばず、深夜は排尿介助のため1度か2度は起きなければなりません。そのため慢性的な睡眠不足で、思考力や判断力の著しい衰えを感じます。その他の家事や介護にかかわる諸々の雑務は、全く経験がなかっただけに、右往左往するばかりです。しかし病人の立場で考えれば、この程度の苦労など、なきに等しいかもしれません。些細なことでも、手助けする度に、彼女が「ごめんね」と呟く言葉には、身が切られる思いがします。
 小生は、今更ながら「生きる目的」について想いをめぐらせています。そして漠然ながら一つの考えに到達しました。すなわち生きる目的とは、存在証明願望を満たすことではないかということです。この考え方の契機になったのは、父が死の2週間前に小生宛に送ってくれた手紙です。それは不思議な形式と内容のものでした。それでも当時は、一応は遺言書として受け止めていました。しかし今になって考えれば、一介の大工として貧しくしがない一生を終えようとする老人が、渾身の力を込めて書き綴った存在証明書であったと思うのです。金釘流のたどたどしい文字で書かれた手紙の大意は以下のようでした。
自分が貧しい農家の次男であったこと。幼いとき父を失い、母は子供3人を抱えて途方に暮れたこと。親戚の口利きで養子にやられそうになったこと。貰われ先のことが気になったので、ひそかに丘に登りその家を遠望したこと。しかし土壇場になって兄が泣き喚いて反対し、養子話は立ち消えになったこと。以下このような話が、延々と便箋で10枚近くも続きました。
 父の死後も小生は、この手紙のことを時々思い出していました。不器用に生き、自分のことをほとんど語らなかった人が、なぜあのような手紙をくれたのか。最近になって小生は、ようやく一つの仮設に到達しました。つまり存在証明願望という考え方です。それを貴兄にお話したい。
 ヒトの出生は、他の動物と同じように自分の意思に基づくものではありません。しかし成長に伴い、知能は異常に発達します。とくに自意識の自覚は、ヒトの人間たる所以を決定づけることになります。かくして死にいたるまでの活動期は、自己の知能と意識を意志的に制御することによって生きることになります。しかし活動期が過ぎると、人間も他の動物と同じように死ななければなりません。しかもその死は、出生のときと同じように意思に基づくわけではありません。このように人間の意思は、出生や死亡の前後には全く機能しないのです。この点は活動期とは本質的に異なります。
 このように考えれば、生きることとは、制御できない出生と死亡の間の仮初めの出来事に過ぎないのです。したがって生きる目的などと、大げさに考えるほどのことではないかもしれません。事実、いかなる壮大な目的を描き、それを達成したとしても、死後には空しさだけが残るのです。歴史上の評価も、あるときは高くても、あるときは一変します。つまり移ろいやすいのです。かくして普遍的な生きる目的は何か。そもそも、そのようなものが存在するのか。この何年か、小生はこの疑問に取り憑かれてきました。そして最近になり、やっと結論を出しました。存在証明願望を充たすことが生きる目的だと。なぜそのように考えるのか、説明しましょう。
 人間のひとり一人は必ず死にます。それどころかビッグバン以来エントロピーを増大しつづける銀河系そのものが、何億年後には消滅するでしょう。人間は無意識ながら本能的に、その運命を知っています。少なくとも小生はそう信じています。その無常感に浸りながらも人間がやっておきたいのは、何億年という銀河系の寿命とは比べることもできない短い生涯であっても、とにかく生きたという事実を証明することではないでしょうか。すなわち存在証明願望です。この願望は個人ごとに、いろいろなかたちで表れます。ある人は財産を残すことで、存在したことを証明しようとするでしょう。ある人は地位と権力で、存在したことを証明するでしょう。しかし多くの人は、その願望があっても証明するための手だてがありません。小生の父などは、その典型です。そのため小生宛に、あのような稚拙な手紙を書いたのだと思います。
 人を思いやることができるのは、相手がこの存在証明願望を持っていることを知っているからだと思います。その最も端的な例が家族愛でしょう。それに次ぐものが友情でしょうか。どんなに世間で疎まれる人間であっても、家族は許し庇ってくれます。友人の場合も同じです。何故ならば、家族や友人は本人の存在を無条件に肯定してくれるからです。言い換えれば、存在証明願望を充たしてくれるからです。
 いま人生の終末期にある小生にとって、貴重な喜びの一つとなっているのは何か。それは、ほかならぬ貴兄が小生の存在を認めてくれることです。小生もまた生きている限り、けっして貴兄の存在を忘れることはないでしょう。