2011年7月1日金曜日

株価と菅首相

 菅直人氏が首相に就任して以来、何一つ功績がない。国民にもたらしてくれたのたのは、政治の混迷と、不信と諦めだけである。歴代首相の中でもこれほどひどい人物は、鳩山氏を除いて珍しい。さすがの週刊新潮もやけっぱちになって、7月7日号には「今は辞めるな菅総理!」という記事を掲載している。その論旨が面白い。いま辞められても、まだ国民は懲りないかも知れない。もっと長引けば、いくらお人好しの国民でも、ついにはサヨク型インテリ主導の政治に音を上げるだろうというわけだ。

 実は私も、菅首相にはもう少し居座ってもらいたい。その理由は、僅かだが株を持っているからだ。周知のようにこの一年あまり株価は低迷を続けている。大方の意見も、菅内閣が続く限り回復の望みはないという。私も当初は同じ考えだった。しかし、最近になって考えが変わった。それを説明したい。
 いずれは菅直人氏も辞めるだろう。チャンスはその時だ。欲求不満でジリジリしていた産業界、なかでも現実的な証券界は、一斉に快哉を叫ぶだろう。つまり株価は暴騰する。その意味で菅直人氏がもたらしたマイナスエネルギーは、プラスエネルギーに反転し、投機筋にとって一種の救世主になる可能性がある。
 このパラドックスは荒唐無稽な冗談ではない。実はちゃんとした事例があるのである。それは、かってスターリンが死去したときの、証券界の反応である。このニュースによって株価は暴落したが、サヨクや似非インテリはそれを冷笑した。その論旨は次のとおり。
 「好戦的なアメリカの対立軸として、ソ連が頑張っている。その象徴ともいうべきスターリンがいなくなれば、アメリカはますます強引に世界制覇と侵略に向かうから、軍事面での紛糾は増大する。結果として軍需は増大し、インフレを助長する。つまり株価は上昇する」というわけだ。恥ずかしながら私もその説を信じた。しかし結果はどうだったか。株価は暴落し、長期にわたる不況のきっかけとなった。つまりサヨクインテリに蔑視されてきた俗物の代表のようなカブ屋が、直感的に正しい判断をしたことになる。すなわち真に好戦的なのは、アメリカ大統領ではなくて、スターリンだということだ。
 このように株価を予測し、取引する証券人の判断は恐ろしいほど冷徹だ。その立場で考えれば、同じく「癌」であっても、「菅という癌」は使いようによっては役に立つということだ。この人物の延命策が上手くいけばいくほど、失望のために株価は低迷する。しかし辞任という結果は目に見えている。多少の時間誤差があるだけだ。そえさえ我慢できれば、株価は必ず上昇する。兜町の住人にとって、これほど分かりやすく、うまい投機チャンスはまたとないだろう。

2011年6月16日木曜日

官僚機構の改革

 経産省の中堅幹部、古賀茂明氏の著作「日本中枢の崩壊」が、いまベストセラーになっている。この人の名前は先般の参院予算委員会において、当時の仙谷官房長官から「よけいなことは言うな」と、恫喝されたことでよく知られている。

 この本を読むと、行政の中枢にいる日本の官僚たちが、いかにモラルダウンしているかがよく分かる。言うまでもなくこの問題は、今に始まったことではない。半世紀以上も前から、ことあるごとに指摘されてきたことである。そして今や、それによる国益の損壊は臨界点に達しているのだ。ただし、ここでは少し冷静に考えてみよう。官僚機構やそれに携わるメンバーについて、すべてを否定しなければならないのだろうか。また、これに代替できるやり方はないのだろうか。
 再考するについては、官僚という概念について本質的な研究を行ったマックスウェーバーの言説を想起してみたい。彼は官僚組織の本質を“階層型”として認識し、その運営の方法については“形式化”と“規則化”の二面で定義した。これら3つの特徴は、政府機関に限らない。維持と効率化をめざすあらゆる大組織が備えているものである。さらにこれらの組織体は、経験によって多くの原則を確立した。主なものを列挙すると次の4つである。
・ 権限委譲の原則
・ 階層化の原則
・ 専門化の原則
・ 文書化(標準化)の原則

 行政もこれらの原則に基づいて行われるが、その実績記録の長期間にわたる蓄積は、気が遠くなるほどの膨大で特殊な知識体系となった。ただしこれらは、第三者にとって法規条文のジャングルである。このジャングルは部外者を疎外し、専門家つまり官僚の独占物となる。しかしそのジャングル構築の意思決定者は、政治家であって官僚ではない。彼等はそれを執行するだけである。したがって条文を執行する官僚の行為を批判するのは、誤りでもあるのである。この膨大な知識ジャングルに無知な民主党の某代議士が、シキリと称して予算編成に容喙し、見当違いの官僚いじめで顰蹙をかったのは、その典型といえるだろう。
 官僚機構の改革がいかに困難であるかは、直近のわずかな例を見ても明らかである。だからといって、改革が不可能とか不要であると考えてはならない。沈滞気味の日本を再び蘇らせるには、改革はどうしても必要なのだ。問題は、その大事業をどのようにして進めるか、つまりトータルデザインと展開の方法論である。
 たしかに一部官僚の腐敗問題も看過すべきではないが、それの浄化だけでは本質的な解決にはならない。パーキンソンの法則にもあるように、もともと人間が構築する組織には自らを堕落させる要素が、宿命的に内蔵されているのである。したがってそれの浄化作業は、永遠に避けることはできない。そのためここでは、それとは全く別の対策を提案したいのである。
 官僚制度の致命的欠陥は、上で述べた官僚機構を運営する4つの原則そのものに内在している。すなわち権限委譲、階層化、専門化、文書化(標準化)を改めなければ、抜本的な改革は出来ない。しかし、そのようなやり方が果たして可能だろうか。もちろん現時点では無理だ。そうであれば、そのやり方を新たに創造するしか術はないのである。
 そもそも4原則を貫く基本的な考え方とは何か。それはタテワリ思考の一語に尽きる。そしてその前提は、対応すべき社会環境に変化がないという認識である。したがって4原則を作り替えるには、前提を否定してタテワリ思考の対極にあるヨコワリ思考を、取り入れなければならない。そのようなことが可能だろうか。もちろん可能だ。産業界では既にやっていることなのだ。常に環境の変化にさらされるビジネスの世界では、間断なく創造的破壊に挑戦しなければ生き残ることができない。したがっていったん定着した組織体制も、その陳腐化が意識されるようになると、なんの執着もなくスクラップ&ビルドを断行するのである。
 いまこそヨコワリ思考に基づいて、日本の官僚機構を再編成しなければならない。その試案を提案しよう。それには先ず現在の政府組織を俯瞰してみよう。それは以下の省庁で構成されている。
内閣官房、内閣法制局、人事院、内閣府、総務省、法務省、外務省、財務 省 、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省、防衛省
 この体制をタテ思考というならば、ヨコ思考とはどういうものか。それは環境変化に応じるために、プロジェクトを編成することである。たとえば災害復興プロジェクト、人口減対策プロジェクト、円高是正プロジェクト、千島四島奪還プロジェクトといったようなテーマである。これらの大課題に対しては、従来型のタテワリ行政手法や組織ではとても歯が立たない。もちろん従来型の知識ジャングルのデータベースから、事例や解答を検索することもできない。
 要するに新たな創造活動によってしか対応できないのだ。そうだとすれば、方策は一つしかない。柔軟で創造力のある人材を、各所からピックアップしてプロジェクトチームを編成し、それに対策立案を委ねることだ。ヨコ思考による再編成とは、このやり方をいうのである。この組織の形態を、産業界ではマトリックス型と称している。このブログのフォーマットでは、マトリックス組織を図示できないので、敢えて文章によってそのイメージを説明しよう。
 まず碁盤のようにタテとヨコに直線を引く。そして横軸の最上欄に、省庁名を一つずつ列挙する。次に縦軸の最右欄に、プロジェクト名を順次記入する。次に省庁名とプロジェクト名が交差する部分に、当該プロジェクトに適した人名を記入する。
 この作業は文章で書けば簡単だが、実際は大変な作業である。何しろ対象にする官僚の数は膨大な数になる。しかも、そのメンバーをプロジェクトに当てはめるについては、適任者を選択しなければならない。ただし、その選択については、プロジェクトの目的と内容も熟知していなければならない。この大仕事を進めることが出来るのは誰か。たぶん個人では不可能だろう。したがってここでもまた、プロジェクトチームの編成が必要になる。この仕事のための新しい専門家も生まれるだろう。またその専門家を抱える専門組織やビジネスも生まれるだろう。この際限のない営為を、堂々巡りと断じて諦めるのは簡単だ。しかし諦めたら、官僚機構の矛盾は永遠に解決できないことになる。
 マックスウェーバーは官僚機構の本質を見事に解明したが、その改革案を提示しなかった。現代に生きる我々も、その問題点はよく分かっているが、これらを抜本的に改革するシステムを考案するには至っていない。事務処理の効率化、綱紀の粛正、天下りの抑制、エリート意識から公僕意識への転換など、さまざまな改善が試みられてきたが、いずれも官僚機構がもつ本質的な問題の解決にはならない。そのため、ここでは一つの試案としてマトリックス組織方式を提案する。この大仕事をドンキホーテに成り果てないで、チャレンジし続けるにはどうすればよいか。課題はいくつもあるが、特に重要なのは次の2点であろう。
① 機構改革プロジェクトの形成を、ルーティン化すること。
官僚機構が関与するテーマは、経済、教育、外交、治安など国民生活のあらゆる分野に及び、その内容も経験したものだけではなく、未経験のものも含まれる。当然ながら安定時代には経験案件のウエイトが高いが、近年のような激動の時代には、未経験案件のウエイトが高くなる。したがって官僚機構が長期間にわたって蓄積した膨大な知識データベースでも、対応しきれないことが多くなる。それに対応するには、新たな経験知識を形成するしかない。しかもその頻度が高いとなれば、その作業を本格化ないし日常化しなければならない。もはや定常業務の片手間では不可能になるからだ。かくして官僚機構の知識ベースのリニューアルプロジェクトは、ルーチン化されることになる。

② 組織原理を単一型でなく複合型にすること。
比喩的にいえば、組織メンバー全員に第一住所と第二住所の二つを与える。まず第一住所に在住するときは、膨大な従来型の知識ベースを基にして業務を行う。仕事の内容は、原則として従来やってきたのと同じである。一方、第二住所に移された時は、第一住所とは全く違うプロジェクト業務を行う。仕事の内容は、上で説明したとおりである。
 以上のように官僚機構を階層型と機動型の組み合わせにして、組織構成員をその二つに所属させること。そしてその実践の中から、澱のようのように溜まっている積年の弊を浄化し、未解決のまま放置されてきた課題を、新しい発想や方法で解決していくこと。この営為こそが、いま多くの批判を受けて閉塞状態になっている官僚組織を、新時代に適合させる最も有効な方法と考える。

2011年6月3日金曜日

介護機器エンジニアリングの怠慢

 日本がつくる工業製品の多くは、その性能と品質において、世界のトップレベルだと言われている。しかし中には例外もある。とくに独占的な環境のおかげで、ほとんど競争がない業界ではその傾向が強い。好例が介護機器関連業界である。その代表ともいえる介護用ベッドを挙げてみよう。
 老妻が多系統萎縮症という難病に罹ったため、私は4年半ほどその介護に専念した。典型的な老老介護である。本人は24時間、ベッドに横臥したままで、一挙手一投足にも難渋していた。たとえば食事は、三食すべてベッドの上で済ませなければならないので、その度にベッドの角度を60度前後に調節する必要がある。水平姿勢のままでは、食物の嚥下がやりにくいからだ。そのため介護用ベッドは、背もたれに相当する位置を、電動方式で60度前後の角度に折り曲がるように設計されている。
 排便の場合は、介助作業はさらに複雑になる。まず病人をベッドから降ろす介助を容易にするため、床面からの高さを調節しなければならない。つぎに病人を抱えて、便器に座らせる。排便が終われば、再び本人を抱えてベッドに戻す必要がある。この場合の作業手順は、ベッドから降ろす場合と逆順になるわけだ。いずれにしろ抱き上げたり、抱き降ろしたりする作業は、老齢者にとってかなりの負担になる。しかも私の場合は、その頻度が多かった。一日を通して7~8回にもなり、しかも深夜が多かった。
 この過酷な介助作業をサポートするために、ベッドメーカーと雖も全く工夫しなかったわけではない。その一つはベッド高さ調節の電動化であり、もう一つは背もたれ角度調節の電動化である。しかし最も負担の大きいベッドからの抱き降ろしと、抱き上げ作業をサポートする機能の電動化は全く実現していない。それをやるには、ベッドを手前の斜め方向に捻らせなければならない。この動作を機械がやってくれたら、介護作業はどんなに楽になるだろう。一般的な日本の機械メーカーにとって、この程度のメカニズムを作ることは、大して難しいことではないだろう。しかし介護用ベッドのメーカーには、それを開発する能力がないらしい。もともとベッドメーカーは家具屋とか箱屋といわれているように、複雑な動きの機械を設計することが不得意なのだ。そのため介護用ベッドを作り始めて何年にもなるが、介護を助ける技術開発は殆ど進んでいない。目立つのはベッドを豪華に見せるためのデザインだけである。機械技術の面では、怠慢としか言いようがないのである。
 このような技術の停滞が続いている主な原因を、列挙すると以下のようになる。その1は介護用ベッドの業界が一種のガラパゴス状態になっていて、機械業界からの参入がほとんど無いからだ。その理由は上で述べたように、介護用ベッドが家具と見なされているからだ。その2は、消費者つまり介護をやっている人たちが、積極的に不満を表明しないからだ。そして3つ目は、介護用品を扱う業界の特殊な事情である。介護用品の購入資金は、ほとんど介護保険で賄われ、しかもレンタル方式になっている。加えて支払い事務を代行するのは、ケアマネージャーである。その費用は、究極のところは介護者の負担になるのだが、以上3つの理由によって、それが極めて見えくい。その結果として、性能とコストについて誰も関心を払わないのである。介護用ベッドの業界は、まさに管理の真空地帯になっているのである。この状態に管理当局が気付かない限り、介護用ベッドの品質とコストは永遠に改善されないだろう。結果として老老介護の当事者は、これからも苦労を強いられることになるのである。

2011年5月22日日曜日

generalityとspecialty

 アメリカの元大統領カーター氏は大変な教養人で、その該博な知識は51分野に及ぶといわれた。しかし重大な問題がおきたときに、その深い教養を生かすことが出来なかった。問題を解決するには、その本質を洞察して対策の“優先順序”をつける必要があるが、彼はそれができなかったらしい。そのため知識はあっても、generalityが欠けていると批判されたのである。ただし辞書でgeneralityを引いても、そのようには訳されていない。たんに一般論や概論となっているだけである。しかし私としては、この批判がgeneralityという言葉の本質をついているように思われるのである。
 東日本大震災における菅首相の言動は、generalityの欠如、すなわち優先順序を付ける能力がない見本のようなものだ。いきなりヘリコプターで現地を視察し、原子炉への海水注入を中断させたからだ。彼は大学で原子力関連技術を学んだというが、今回はそれをひけらかす絶好の見せ場にしたわけだ。しかしそのパフォーマンスが、問題の早期解決にどれだけ障害になったか、徐々に明らかになりつつある。
 この事例を見てspecialtyが役に立たないとは言わない。そうではなくて、御本人はspecialtyがないことを証明したのだ。大学を出て既に何年になるのか。そのキャリアーの大半は市民運動のアジテーターとして、政治活動をやってきたのだから、ご自慢のspecialtyなど既に陳腐化している。それをひけらかす無神経さに驚かされるのだ。
 この人物のSpecialtyは論外として、generalityはどうなのだろう。これこそ政治家として最も大事な資質といえよう。たとえば首相の座についた最初の発言を思い出してみよう。そのころ円高が目立ちはじめていたが、たしか92円前後だったと思う。それを彼は思わせぶりに、96円あたりが妥当だと宣ったのだ。しかし現在にいたるまで、そういう相場は、ただの一度も実現していない。また全く見当違いの場面で、“乗数効果”という経済用語を口走り、専門家の失笑を買った。これではgeneralityの前提になる一般教養にも欠けていることになる。もちろんカーター氏の例のように知識があっても、それだけではgeneralityの本質とはほど遠い。しかし菅首相の場合は、generalityの本質どころか、その前提さえ欠けているらしいのだ。
 Generalityとspecialtyの、その何れも怪しい人物が現在の地位に上りつめたのは何故か。野党時代の揚げ足取りに特化したスキルとパフォーマンスに、国民の多くが幻惑されたからであろう。我々は一日も早く、この悪夢から目覚めなければならない。

2011年5月17日火曜日

パロディ“日本経済を再強化する方法”

 2010年8月17日、中国のGDPは日本を抜いて世界二位となった。その勢いはさらに加速し、両国のギャップはいっそう増大するだろう。悔しいではないか!そこで私は熟慮の末、迷首相である菅直人氏に、起死再生の一大政策を提案したい。
 それには先ず、中国の強みになっている最大の要因を分析すること。次にその分析によって得たエッセンスを、マスコミを通じて国民に納得させることだ。かつて朝日新聞が毛沢東の文化大革命を礼賛し、それを国民に喧伝したあのやり方によって・・・・。
 まず分析で得た結論から言うと、中国経済大躍進の決め手は、国内に奴隷制度を導入したことである。かつてはアメリカも、奴隷制度によって経済の基盤を築いた。同じ人間でありながら、肌の色が黒いというだけで、タダにちかい低賃金で牛馬のようにこき使った。そのおかげでアメリカの農業は大発展を遂げ、現在の強大国に発展する基盤をつくり上げたのだ。
 中国は、今まさにその奴隷制度を模倣している。しかもそれを、同じ肌の色とDNAをもつ国民に対してやっているのだ。具体的にいうと、都市族と農村族の区別である。この二つの区別は、戸籍によって行われる。そのため農村籍の労働者は、都市籍の労働者より数分の一から数十分の一の賃金で働かされるのである。残念ながら日本の経済学者は、この中国経済躍進の鍵について、ほとんど言及していない。やむを得ず、経済学に素人の私が発言せざるを得ないのだ。
 さて問題は、如何にして低下傾向にある日本のGDPを、再び上向きに転換させるかである。すでに米中二つの経済大国の事例で示したわけだが、日本もその奴隷制度を模倣したらどうだろうか。たとえば23年度の予算で23.5兆円が計上されている地方交付税を全廃する。さらに中国に学んで、地方政府から税金を徴収する。中央政府が徴収している金額は全く分からないので何ともいえないが、相当の金額だろうと想像する。その多くの部分は軍備に使われているはずだが、汚職用の賄賂にも流れているかもしれない。いずれにしろ、日本がこれを併用したら23.5兆円をはるかに越える財政余裕が生じる筈である。それだけではない。地方経済を振興させるためにやってきた一切の施策や財政支出も止めてしまう。その結果として地方の経済は疲弊し、都市部と農漁村部との格差は救いがたいほど大きくなるだろう。その一方で、地方出身者の都市部への移動を徹底的に禁止する。
 しかし、いくら厳しく禁止しても農村から都市部への密移動は止まらない。そのかわりスネに傷をもつ移住労働者は、極度の低賃金で働かざるを得なくなる。このようにして、低賃金化の条件は中国と似たようなものになるのである。これだけでも、日本の競争力は格段と高まるはずだ。
 さらに日本経済には、もう一つの秘密兵器がある。それは出身地のいかに関わらず、日本の労働者に共通する特徴である。すなわち、どんな仕事に対しても真面目に取り組む労働の姿勢である。その結果、日本で作られる製品の品質レベルは、例外なく高くて信頼できる。かくして世界でも類のない高品質・低価格の製品が、輸出できるようになる。品質と価格の両面で差をつけるその競争力は、中国の製品を本質的に凌駕するだろう。そして日本のGDP成長率は、再び世界を驚かすことになるだろう。

2011年5月10日火曜日

岡本太郎展をみて

 先日、竹橋の近代美術館で岡本太郎展を見た。いま、美術の世界は激動の真っ最中といわれるが、この人は既に半世紀も前から、この流れに身を投じてきた先駆者である。しかし一方では、変人扱いする人も少なくない。同行した友人もその一人だった。しかし見終わった後の感想は、全く違っていた。
 岡本太郎の最大の業績は、マンネリズムに陥っていた日本の美術界に革新の熱風を吹き込んだことだろう。しかも彼の活躍の分野は、驚くほど多岐にわたっている。絵画はもちろんのこと、ブロンズやアルミ更にはセメントまでを材料にした立体もの、ついでにインダストリアルデザインまで手がけた。そのベースになっているコンセプトは、私の解釈ではシュールリアリズムのように思われる。他にも縄文文化の再発見や土俗文化への傾倒など、美術鑑賞や批評の面でも大いに創造性を発揮している。万博であれほど騒がれた太陽の塔も、彼にとってはone of them に過ぎなかった。
 このように、岡本太郎によって開拓された新しい美術思想と作品は、多くの優れたフォローワーを生み出した。その好例が村上隆である。岡本と村上に共通しているのは、美術について新しいイデオロギーを主張していることだ。従来の西欧追随型の日本の美術界には、このような過激な人物はいなかった。ただひたすらアカデミズムの手法を追求するだけで、思想性に欠けていたのである。たとえば彼らは“若さ”の美は描いているが、“老い”の美は描いていない。そもそも老いには美は存在せず、醜だけしかないと思い込んでいたのではないだろうか。このような精神性の欠如のために、ありきたりの綺麗な絵だけしか描けなかったのである。
 岡本太郎がこのマンネリを打破するきっかけを掴んだのは、多分ピカソとの出会いであろう。それ以来、彼の作品にはシュールリアリズムの影響がはっきりと表れている。私の考えでは、このアプローチがなければ、老いに美を見出すことはできない。しかし彼だったらそれが出来たかもしれない。ただし、このテーマには関心がなかったらしい。
もちろん岡本の絵には、問題がないわけではない。なかでも気になるのは、彼の作品でしばしば見受けられる“パターン化”である。あまり適切な例ではないかもしれないが、この部分に限れば、東郷青児の美人画と共通していないだろうか。正直言って今回の展覧会でも、展示室によっては似たようなテーマやフォルム、色彩などによって、些かうんざりさせられることがあった。勿論そのような問題があるにせよ、岡本太郎が日本の美術界に大きな刺激とヒントを与えたことは明らかである。彼の言動の奇矯さをあげつらう批評家がいることも事実だが、そんなことは作品や思想とは関係ないというべきだろう。

 

2011年5月4日水曜日

史上で稀なる首相

 管直人氏が首相の座について現在に至るまでの、言動の一つ一つを検証してみると、成る程と納得できることが一つもない。この事実は、まさに驚嘆に値する。首相といえども人間だから、一つや二つの誤りを犯すことは不思議ではない。事実、歴代の首相をみても、完全無欠な政治を行った人物はいない。
 しかし菅首相のように、やる事なす事すべてが納得できないというようなことはなかった。何故そうなのか。その根本的な理由は、この人物の人格と、政治信条の二つにおいて理解することができる。 ただし、ここでは人格については触れないことにしよう。そのいかがわしさについては、既にマスコミ辺りで十二分に話題にされているからだ。
 結論からいうと、管首相の政治理念は限りなくアナーキズムに近い。それは彼の“市民運動家”という政治活動の出自に由来する。では市民派の定義、またはそれを特徴づける本質は何か。最大のポイントは、国家という概念の欠落、あるいは国家概念そのものの否定である。そして市民派運動家が行動している内容も、基本的にアナーキズムというべきであろう(白水社クセジュ文庫:アナーキズムを参照)。その考え方を要約すれば、反秩序と反権力の思想である。ただ反秩序についてはあまりに馬鹿馬鹿しいので、ここでは反権力についてだけ述べておきたい。
 この連中が抱いている“権力”のイメージは、たとえばナチスドイツ時代の権力や、軍国主義日本時代のそれらしい。しかし現在の自由主義国家においては、そんなものは全く存在しない。現在における権力は、たんに行政上の機能に過ぎないのだ。具体例を挙げよう。税金を徴収するのは権力である。交通法規を守らせるのも権力だ。暴力を取り締まるのも権力である。現在の民主主義国家における権力とはこのような類いのもので、これを称して行政上の機能というのである。
 ところで権力の意味を拡大解釈し「反権力」をスローガンにして暴走したらどうなるか。その具体例が50年代の全共闘運動である。勝手につくりあげた権力という妄想に挑戦して、とんでもない大騒動をひきおこした。今こそ、その総括の時期であるが、当時の活動家にコメントを求めても、ほとんどは黙して語らないという。市民の常識に戻った今となっては、若気のいたりと恥じるからであろう。
 しかしながら不思議なことに例外があるのである。それが今の民主党政権の中枢メンバーである。菅首相は、まさにその一人なのだ。しかし今、ご本人は当時の行動を総括しようそのとはしない。その結果が現在の政治的迷走をもたらしているのである。国民の不幸、ここに極まれりというしかないではないか。