政治や文化、社会などを論じるとき、我々は往々にして日本的とかアメリカ的という表現をする。しかし国を構成する一人一人は、極めて多様である。それにも拘わらずこのような一括り、すなわちマスとして認識できるのは何故だろうか。このマスそのものに、独自の個性が生じるからである。
個人パワーの総和が集団パワーと等価になることもあるが、まったく異質のパワーに変化することもある。悪しき例の典型は、群集心理がひき起こす暴動だ。好ましい例としては創造性を発揮する“集団天才”を挙げることができる。このような変異現象は、いかなる原理に基づくのだろうか。一般論としては心理学のテーマだが、より深く理解するには複雑性の理論なども役に立つのではないだろうか。
2007年10月26日金曜日
製造業の復活
1990年代から2000年の初頭にかけて、日本の製造業の多くは自信を失っていた。それに反比例するように、競争力が強まった韓国や台湾の企業は意気軒昂たるものがあった。日本の製造業が凋落した原因については、当時もいろいろと論評されたが、要点を絞ると以下の3点であった。
1. 日本企業は総花的かつ横並び的な経営を行っていた。そのため製品分野は拡散し、経営資源の活用に無駄が生じた。これに対し韓国や台湾の企業は、IT関連の成長分野に焦点を絞って攻め立てた。
2. 地球規模での市場拡大に対して、適切な対応策を講じなかった。途上国が中心になる新需要の特徴は高品質より低価格であるが、それを読み違えて過剰品質ともいえる製品を作りつづけた。
3. 特許戦争で遅れをとった。日本の競争力に危機感を抱いた欧米系の企業は、強力な国の支援のもとに特許戦略を推し進めた。これに対しアジアの孤児である日本は、いろいろなハンディを背負い完敗した。
しかし日本の製造業は、その後不死鳥のように復活し2004年以降は再び元気を取り戻している。その主な理由は、上で示した弱点の第1を完全に払拭したからである。さらに第2の弱点については、厳しい反省によって再び強みに変えることができた。とくに生産財の分野では、日本の高精度で信頼性の高い製品技術は他の追随を許さない。低コスト製品で世界を席巻しつつある中国といえども、日本製の生産設備によって支えられている。
こうなると残るのは第3の問題だけになる。ただ具合のいいことに、生産財は生産量が少ないので、量産品のような国を挙げた特許戦争にはなりにくい。かくして日本の製造業は、大量製品を狙わずに多種少量生産に舵を向けたのである。この戦略は今のところ上手くいっている。もちろん大量消費財であっても、自動車や液晶テレビのように高度な技術を要する製品はますます強さを発揮している。したがって日本の製造業は、これからも高度な技術やスキルを必要とする分野においてますます強みを発揮することになるだろう。
1. 日本企業は総花的かつ横並び的な経営を行っていた。そのため製品分野は拡散し、経営資源の活用に無駄が生じた。これに対し韓国や台湾の企業は、IT関連の成長分野に焦点を絞って攻め立てた。
2. 地球規模での市場拡大に対して、適切な対応策を講じなかった。途上国が中心になる新需要の特徴は高品質より低価格であるが、それを読み違えて過剰品質ともいえる製品を作りつづけた。
3. 特許戦争で遅れをとった。日本の競争力に危機感を抱いた欧米系の企業は、強力な国の支援のもとに特許戦略を推し進めた。これに対しアジアの孤児である日本は、いろいろなハンディを背負い完敗した。
しかし日本の製造業は、その後不死鳥のように復活し2004年以降は再び元気を取り戻している。その主な理由は、上で示した弱点の第1を完全に払拭したからである。さらに第2の弱点については、厳しい反省によって再び強みに変えることができた。とくに生産財の分野では、日本の高精度で信頼性の高い製品技術は他の追随を許さない。低コスト製品で世界を席巻しつつある中国といえども、日本製の生産設備によって支えられている。
こうなると残るのは第3の問題だけになる。ただ具合のいいことに、生産財は生産量が少ないので、量産品のような国を挙げた特許戦争にはなりにくい。かくして日本の製造業は、大量製品を狙わずに多種少量生産に舵を向けたのである。この戦略は今のところ上手くいっている。もちろん大量消費財であっても、自動車や液晶テレビのように高度な技術を要する製品はますます強さを発揮している。したがって日本の製造業は、これからも高度な技術やスキルを必要とする分野においてますます強みを発揮することになるだろう。
2007年10月25日木曜日
大江健三郎と曽野綾子
9月29日、沖縄で開かれた「教科書検定意見撤回を求める県民大会」に11万人が参加したという主催者発表は誇張であった。したがってそれに便乗して大々的に報道した朝日の記事もウソになる。県警の調査では4万人強に過ぎなかったらしい。しかしこの意図的な虚偽発表の影響は大きく、検定の中立性を揺るがしかねない事態になっている。
そもそもこのような県民大会がなぜ開かれたのか。それは太平洋戦争末期に起きた慶良間諸島での、集団自決事件の真相を明らかにしようとする良識派の動きを、左翼勢力が封じようとしたからである。
嘗てこの島で起きた住民の集団自決は、島民のリーダーが指示したものであった。しかし生き残った某関係者の意図によって、いつしか守備隊長であった赤松大尉の命令によるものとされてしまった。その記事を最初に書いたのは沖縄の新聞であったが、それをもとにして大江健三郎は「沖縄ノート」を出版した。その内容はひどかった。事実の検証を全くしないで、赤松大尉を“罪の巨魁”と決め付け、8ページにもわたって罵倒の文章を書いたのである。いかにも大江らしい浅薄な正義感によるものであった。
曽野綾子は事件には何の関わりもなかったが、“罪の巨魁”という表現にこだわった。彼女の宗教的な信条に基づけば、愛国心に燃えた一介の青年将校を“罪の巨魁”と捉えるのは如何にも不自然であった。彼女は単純に他人の文章を信じた大江とは違って、人間洞察に秀でた本物の作家である。赤松大尉が本当に“罪の巨魁”なのかを確かめることにした。もしそうでなかったら、罪のないものを不当に貶めることになる。彼女の宗教的良心はその呵責に耐えられなかったのだ。こうして「ある神話の背景」の執筆がはじまった。結果として赤松大尉が集団自決を命令した事実は全く確認できなかった。
かくして大江健三郎の無責任な著作は一人の冤罪者をつくりあげたが、曽野綾子の誠実な著作は冤罪者の無念を晴らすことになった。
そもそもこのような県民大会がなぜ開かれたのか。それは太平洋戦争末期に起きた慶良間諸島での、集団自決事件の真相を明らかにしようとする良識派の動きを、左翼勢力が封じようとしたからである。
嘗てこの島で起きた住民の集団自決は、島民のリーダーが指示したものであった。しかし生き残った某関係者の意図によって、いつしか守備隊長であった赤松大尉の命令によるものとされてしまった。その記事を最初に書いたのは沖縄の新聞であったが、それをもとにして大江健三郎は「沖縄ノート」を出版した。その内容はひどかった。事実の検証を全くしないで、赤松大尉を“罪の巨魁”と決め付け、8ページにもわたって罵倒の文章を書いたのである。いかにも大江らしい浅薄な正義感によるものであった。
曽野綾子は事件には何の関わりもなかったが、“罪の巨魁”という表現にこだわった。彼女の宗教的な信条に基づけば、愛国心に燃えた一介の青年将校を“罪の巨魁”と捉えるのは如何にも不自然であった。彼女は単純に他人の文章を信じた大江とは違って、人間洞察に秀でた本物の作家である。赤松大尉が本当に“罪の巨魁”なのかを確かめることにした。もしそうでなかったら、罪のないものを不当に貶めることになる。彼女の宗教的良心はその呵責に耐えられなかったのだ。こうして「ある神話の背景」の執筆がはじまった。結果として赤松大尉が集団自決を命令した事実は全く確認できなかった。
かくして大江健三郎の無責任な著作は一人の冤罪者をつくりあげたが、曽野綾子の誠実な著作は冤罪者の無念を晴らすことになった。
2007年10月24日水曜日
だれが国を売っているか
いま「沈底魚」という小説が売れている。日本の大物政治家が、実は亡国のスパイであったという物語である。祖国を売るスパイは、昔から東西のあらゆる国で、暗躍してきた。その動機はイデオロギーだけでなく、脅迫、金、怨恨など実に多様である。いずれにしろ、国家機密が漏洩されることによる損害は甚大である。そのため各国は、スパイ活動に対しては容赦なく厳罰を課している。唯一の例外は戦後の日本だ。そのためスパイ天国とまでいわれてきた。極端な事例では、韓国の秘密警察が東京にやってきて、金大中を誘拐したほどだ。
なぜこのような情けない事態になったのか。その最大の理由は、大新聞や似非インテリがアナーキズムの思想を普及させ、国民から国益という意識を失わしめたからである。もはや防諜といういう言葉は死語のようになっているし、防諜の要となる公安調査庁の役割や機能も各国に比べて見劣りがする。
実をいうと、私はずいぶん以前から日本の防諜体制に危惧を抱いていた。北鮮、中国、韓国、ロシヤなど日本を敵視する国に対して、政治家やマスコミ人の言動が、あまりにも国益を損なうものであり過ぎたからだ。彼らの中には、売国奴が潜んでいるに違いない。最近ではこの仮説に基づいて、私はその言動をトレースすることにしている。それにしても大衆の直感力は大したものだ。「沈低魚」の売れ行きがよいということは、たぶん国益を損なう政治家の存在を信じているからであろう。
なぜこのような情けない事態になったのか。その最大の理由は、大新聞や似非インテリがアナーキズムの思想を普及させ、国民から国益という意識を失わしめたからである。もはや防諜といういう言葉は死語のようになっているし、防諜の要となる公安調査庁の役割や機能も各国に比べて見劣りがする。
実をいうと、私はずいぶん以前から日本の防諜体制に危惧を抱いていた。北鮮、中国、韓国、ロシヤなど日本を敵視する国に対して、政治家やマスコミ人の言動が、あまりにも国益を損なうものであり過ぎたからだ。彼らの中には、売国奴が潜んでいるに違いない。最近ではこの仮説に基づいて、私はその言動をトレースすることにしている。それにしても大衆の直感力は大したものだ。「沈低魚」の売れ行きがよいということは、たぶん国益を損なう政治家の存在を信じているからであろう。
2007年10月21日日曜日
政治は空気枕だ
民主主義政治の難しさを説明するにはどうしたらよいだろうか。空気枕にたとえると分かりやすいと思う。政治的に解決を求められる課題や不満は限りなく多い。たとえばその一つが、政治という空気枕に強い圧力を加える。当然ながらその部分は改善されるので、表面の見かけは凹むことになる。しかしその凹んだ分は、必ずほかの部分を膨らます。なにしろ空気は外に出られないのだから、枕の中を移動するだけなのだ。要するに部分的な問題や不満を解決しても、その解決そのものが新たな問題や不満を生み出すことになる。これは民主主義政治、ひいては文明社会の宿命でありダイナミズムともいえるのである。
独裁政治ではこのような堂堂巡りはあり得ない。なにしろ独裁政治という空気枕には、不満の圧力が全くないからだ。仮にそれがあれば、圧力を行使する前に抹殺される。かくして政治は至高の権力になるのである。共産主義国家が立法、行政、司法という三権分立を否定し、ひたすら特権階級の安泰を図ろうとするのはそのためである。
独裁政治ではこのような堂堂巡りはあり得ない。なにしろ独裁政治という空気枕には、不満の圧力が全くないからだ。仮にそれがあれば、圧力を行使する前に抹殺される。かくして政治は至高の権力になるのである。共産主義国家が立法、行政、司法という三権分立を否定し、ひたすら特権階級の安泰を図ろうとするのはそのためである。
漢詩は演歌である
日本はユーラシア大陸の東の果てから、さらに海を隔てた僻地に位置する島国である。そのため古来から文明の後進国として、近隣諸国とくに中国から多くを学んできた。この動きは遣唐使の時代から、明治の初期にいたるまで連綿として続いた。日本で漢詩がもてはやされたのもその一環である。当時、漢詩をたしなむことは知識人の資格条件でもあった。恰も大正以後において、英語を理解することが新しい知識人の資格条件のように誤解されたのとよく似ている。
しかし漢詩そのものに、それほど価値があるのだろうか。私はほんの一部しか読んでいないが、率直にいってその内容が深遠なものとは思えない。思想性や哲学を感じることができないのだ。あえて分類すれば、花鳥風月を描写したものと、別離の哀しさ、そして世に容れられない拗ね者の恨み節がほとんどである。まあいえば気取った演歌のようなものではないか。
もちろん漢詩には独特の魅力がある。私はそれを、2つ挙げることができる。第1は視覚的な効果である。無味乾燥なローマ字ではなくて、漢字すなわち象形文字の配列は、それ自体が一種の絵といえるだろう。第2は、音楽的な効果である。漢詩を口ずさむと、心地よいリズムに乗ることができる。この2つと上で述べた演歌的な感情を組み合わせて、漢詩は極めてポピュラーな人気を得ることができたのであろう。その意味で漢詩は、当時のハイカラミーハー族にとっては、一種のエンターテインメントになっていたのである。
しかし漢詩そのものに、それほど価値があるのだろうか。私はほんの一部しか読んでいないが、率直にいってその内容が深遠なものとは思えない。思想性や哲学を感じることができないのだ。あえて分類すれば、花鳥風月を描写したものと、別離の哀しさ、そして世に容れられない拗ね者の恨み節がほとんどである。まあいえば気取った演歌のようなものではないか。
もちろん漢詩には独特の魅力がある。私はそれを、2つ挙げることができる。第1は視覚的な効果である。無味乾燥なローマ字ではなくて、漢字すなわち象形文字の配列は、それ自体が一種の絵といえるだろう。第2は、音楽的な効果である。漢詩を口ずさむと、心地よいリズムに乗ることができる。この2つと上で述べた演歌的な感情を組み合わせて、漢詩は極めてポピュラーな人気を得ることができたのであろう。その意味で漢詩は、当時のハイカラミーハー族にとっては、一種のエンターテインメントになっていたのである。
2007年10月19日金曜日
大衆の暗黙知
暗黙知についてマイケル・ポラニーの原作を読むと、我々はかなり誤解しているように思う。彼によると暗黙知で最も大事なのは統合の知である。すなわち無数の情報断片を知覚している思考主体は、その断片の全てを統合して特定の概念を形成する。情報断片の相互関係を、言葉で説明することはできない。しかし断片と断片の間には明らかに関係がある。関係があるにも拘わらず、説明できないから暗黙知なのである。
大衆を一個の思考単位とみれば、その集積体にも暗黙知が存在すると思う。例えばメディアのさまざまな批判やノイズにも拘わらず、大衆の小泉内閣支持率は圧倒的に高かった。これは大衆という集団化された思考主体が、暗黙知によって独自に判断していたと思われる。同様の事例は、嘗てスターリンの死去によって株式が暴落したときにも見ることができた。
大衆を一個の思考単位とみれば、その集積体にも暗黙知が存在すると思う。例えばメディアのさまざまな批判やノイズにも拘わらず、大衆の小泉内閣支持率は圧倒的に高かった。これは大衆という集団化された思考主体が、暗黙知によって独自に判断していたと思われる。同様の事例は、嘗てスターリンの死去によって株式が暴落したときにも見ることができた。
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