2008年1月3日木曜日

イチローの野球

 正月2日に放映されたNHK番組「プロフェッショナル/イチロー・スペシャル」は見ごたえがあった。アメリカ大リーグにおけるイチローの活躍ぶりは周知のことだが、その裏側での努力や悩みについては、あまり知られていなかったからだ。
 最も強く印象付けられたのは、イチローがたんなる天才ではないということだ。彼が野球に取り組む姿は、求道的でさえある。打者はバッターボックスに立ったら、投げ込まれるボールに全精神を集中させなければならない。この点だけについて言えば、他の一流バッターと同じかもしれない。しかしイチローは、たんに集中するだけではなくて、その集中する自分を意識している。つまり自分を他者として観察する冷静さをもっている。この自意識を研ぎ澄ますことによって、自己を完全に制御することができる。昨年まで彼は、技術に自信をもつ体が勝手に反応して、ボール球でもヒットを打たせてくれると考えていた。そのため打ち損じもあった。しかしこれからは彼の制御スキルは、体にストライクボールしか打つことを許さなくなるだろう。かくして心身は一体となり、打率は一段とアップするに違いない。
 さらにイチローの野球は、スポーツでさえ日本人の気質や文化と無縁でないことを教えてくれる。彼は昨年、超200本安打の7年連続記録を達成した。本人によると、この大記録は大へんな重圧のもとでようやく成し遂げたという。世間で当然のことのように思われているのとは全く違う。そしてその重圧の中で、7年目は一つの悟りに近づいたという。それは今までのように重圧に耐えて達成したのではなく、重圧に立ち向かうと覚悟して達成したものらしい。まさに禅僧が苦行から悟りを得るプロセスとそっくりではないか。
 おそらくこれからもイチローの野球は進化し続けるだろう。しかしこのようなイチローの姿は、なにも彼固有のものではなく、むしろ日本人の選手に共通するものである。多かれ少なかれ日本人のスポーツには、このような求道的なスタイルが見受けられる。そのため日本人はフェアーすぎて、国際試合に向かないと揶揄されることもある。しかしそれでも良いではないか。その典型といえるのが、柔道や剣道などの国技である。これらの国技には美学と哲学を伴った求道性がある。なりふり構わず、勝ちさえすればよいのではない。その美学によって負けることがあっても良いではないか。スポーツもまた文化なのだから。