2012年5月23日水曜日

政治は空気枕だ


民主主義政治の難しさを説明するにはどうしたらよいだろうか。空気枕にたとえると分かりやすいと思う。政治的に解決を求められる課題や不満は限りなく多い。たとえばその一つが、政治という空気枕に強い圧力を加える。当然ながらその部分は凹むことになる。しかしその凹んだ分は、必ずほかの部分を膨らます。なにしろ空気は外に出られないのだから、枕の中を移動するだけなのだ。要するに問題や不満を解決しても、その解決そのものが新たな問題や不満を生み出すことになる。これは民主主義政治、ひいては文明社会の宿命でありダイナミズムともいえるのである。
 独裁政治ではこのような堂堂巡りはあり得ない。なにしろ独裁政治という空気枕には、不満の圧力が全くないからだ。仮にそれがあれば、圧力を行使する前に抹殺される。かくして政治は至高の権力になるのである。共産主義国家が立法、行政、司法という三権分立を否定し、ひたすら特権階級の安泰を図ろうとするのはそのためである。

2012年5月18日金曜日

自死の日本史を読んで


ずいぶん時間が掛かったが、ようやく評判の名著「自死の日本史」を読み終えた。その印象が薄れないうちに、感想文を書くことにする。
 敗戦直後から三十年ほど経ったころ、にわかに日本人論が盛んになった。主としてこれをリードしたのはいわゆる知識人で、ほとんどが贖罪的ないし自虐的な論説であった。皮肉なことに、その一方では日本の経済力は大いに高まり、ついにはGDPが世界の第2位に達していた。ジャパン・アズ・ナンバーワン(エズラー・F・フォーゲル著)が出版され、世界の話題になったのもこの頃である。しかし知識人、とくに進歩的知識人はその事実さえ否定的に受け止め、働き過ぎとかエコノミックアニマルなどと自嘲的な評論に終始していた。
 「自死の日本史」が出版されたのは、ちょうどその頃すなわち1984年であった。著者はフランス人のモーリス・パンゲである。当時、彼は東大で教鞭を執っていたが、フランス人特有の明晰さとユニークな視点で日本人を観察していた。その結果、この名著が生まれたのである。民族の特徴を捉えるには色々な方法があるが、なかでも有効なのは歴史アプローチであろう。それを更に細分化すれば、風俗の観点に立った風俗史。宗教の観点に立った宗教史。政治の観点に立った政治史などということになる。しかしパンゲの場合は、自殺のやり方という観点に立って、画期的な日本人論を展開したのである。この秀抜な着想によって、日本人の本質が見事に解き明かされている。
 そもそも自殺という行為は、キリスト教では神に対する反逆とみなされる。何故ならば人間は、創造主によってつくられたものである。したがってそれを勝手に損なうのは許しがたい罪なのである。しかし日本には、古くからそのような禁忌はなかった。そのこと自体が、西欧人にとって極めて奇異なことであったろう。ただしパンゲは、日本に於ける自死の風習を冷静に理解してくれたようだ。すなわち自殺者を神への反逆者とみなす宗教的偏見でもなく、神経症患者とみなす心理学的解釈でもない。他殺ではなく、自死という日本人独特の行為を、時代別に文化現象として捉えたのである。かくしてその論述は、日本人気質の特質のみならず、その歴史的な変遷をも説明しているのである。
 パンゲは日本人の自死の歴史を、ヤマトタケル皇子の后である弟橘姫の入水から述べはじめている。この場合の動機と行為は「献身」というべきか。
 その後の時代の移り変わりにしたがって、日本では多くの自死事件があったが、その中で特に私の目にとまった記述を、時代順(歴史的)に列挙してみよう。
  (年代)  (事  件)     (自死の形態)   (動機と目的)
  835年  空海の入滅     意志的な自己埋葬    教義の実践
 1021年  壇ノ浦で平家敗北  入水による自死     名誉の維持
 1333年  北条軍の敗北    一族の集団切腹     名誉の維持
 1336年  湊川の敗戦     楠正成兄弟の刺し違え  復讐の誓い
 16~17世紀  戦国時代      敗者の自刃     諦観とプライド    
 1703年    赤穂四十七士    名誉ある切腹    主君への忠義
   〃      曾根崎心中     手代と遊女の心中  冤罪の抗議と愛
 1877年    西南の役      西郷隆盛の自刃   自己犠牲
          乃木大将      夫妻の殉死     忠誠と至誠        
 1927年    芥川龍之介     服毒        ニヒリズム
 1944年    神風特攻隊     人間爆弾      究極の愛国心
 1970年    三島由紀夫     切腹        過剰な自意識

 上に列挙した自死の事例は、私が勝手に「自死の日本史」から選んだものだ。そのため百を越える事例に言及している著者の意図を、十分に表していないかもしれない。しかし、この一部を見るだけでも、日本人がもつ気質の特殊性は十分に窺えるのである。自死の方法は時代と共に変遷しても、自死行為を西欧のように罪悪視しない日本文化そのものは変わっていない。それどころか日本人の自死は、美意識の実践のようにさえ感じられるのだ。

2012年5月12日土曜日

ユーローは立ち直れるか


このところ新聞テレビが報じるユーロー危機については、ビジネスマンのみならず一般市民の間でも、大いに関心が高まっている。それも当然のことで、我われ日本人にとって、ヨーロッパ文明は憧れの的であり、その暮らしぶりには一種の羨望さえ感じてきたのだ。その経済がかくも脆弱とは、驚きの感を禁じ得ない。しかし冷静に考えてみると、ヨーロッパといっても一律ではなく、色々な国があるのだ。とくに産業の近代化という観点でみると、意外なほど貧弱な国が多い。具体的にユーロに加盟している国名を挙げると次のようになる。
アイルランド、イタリア、エストニア、オーストリア、オランダ、キプロス、ギリシャスペイン、スロバキア、スロベニア、ドイツ、フィンランド、フランス、ベルギー、ポルトガル、マルタ、ルクセンブルク、アンドラ、コソボ、サンマリノ、バチカン、モナコ、モンテネグロ(イギリスとスイスはユーローに加盟していない)。
以上のうち人口3000万人を越えるのは、ドイツ、フランス、イタリア、スペイン、ポーランドぐらいで、その他は殆どが1000万人程度か、それ以下の小国である。さらにこれらの中で、産業や経済の面で存在感を示すことが出来るのは、わずかにドイツとフランスだけなのだ。他はほとんどが第一次産業と第三次産業がメインであって、雇用やGDP増大に貢献する近代型の第二次産業が極めて弱い。製造業が全く無いというわけではないが、多くは小規模な企業である。保守的で、技術革新に熱心でなかったツケが回ってきたと言わざるを得ないのだ。
 ユーロ諸国がこのような貧弱な産業構造にも拘わらず、我々に強い存在感を示してきたのは何故か。理由の第一は、これらの国々が繁栄していた過去の残影と、現在の実態とを混同しているからだ。第二の理由は、この地域では国籍に拘らず個人の交流や移動が自由だったので、彼等の才能とその成果はこの地域共通の資産として認識されていることだ。例えばショパンはポーランド人であるが、活動の拠点はフランスである。またアインシュタインはドイツ生まれだが、兵役を逃れるため国籍を捨てた。その後は無国籍のまま幾つかの大学を渡り歩き、最後にとった国籍はスイスだった。つまり我々の、彼等の出自についての認識はヨーロッパ人であって、特定の国ではないのである。
 しかし現実の経済問題となると、以上二つの認識は明らかに錯覚である。第一の過去の残影については、役に立っているのは僅かに遺跡に依存する観光ビジネスだけであって、産業近代化の面ではむしろ阻害要因である。また第二の才能の共通化については、芸術や科学の分野はいざ知らず、ビジネスの分野では国別に峻別されなければならない。要するに我々が思い込んでいたユーロー圏のアドバンテイジは、現実の経済・ビジネスの分野では存在しないのである。以上の観点で眺めてみると、近いうちにユーロ圏の産業競争力が高まるとは考えられない。それどころか弱体化はいっそう進むであろう。 

2012年5月5日土曜日

環境の変化で”富”が変わる


 アルビン・トフラーが「富の未来」を著したのは2006年であるが、それから6年経った今、世界はその予測どおりになっている。彼が定義している“富”とは、欲求をみたせるもの、またはそれと交換できるものを所有する状態のことである。その代表例が現金であるが、それだけではない。骨董品や土地建物も然り。極端な例では第二夫人、第三夫人というように扶養する妻の人数で富を誇示する民族も存在する。その一方で、人間の富の意識は環境の変化にも呼応する。したがってその内容は多様化の一途を辿ることになる。
 しかし一方では価値を失う富もある。そうなってしまう最大の原因は、過度な普及であろう。たとえばつい最近まで、学歴は一種の富であった。ビジネスに役立つ人脈も然り。職種や大企業に属する社員という身分さえ、一種の富とみなされる時代があった。しかし最近では、この類いの富は大きく価値を失っている。もはや学歴や所属する会社といったステイタスは、富として殆ど認められない。職種についても同じことがいえる。嘗ては高評価を得ていた医者、学者、官僚などになりたくない若者が増えている。
富を象徴するものが、なぜこのように変化するのか。第一の理由は、社会環境の変化であり、第二の理由はその変化に適応しようとする人間の営みであろう。環境の変化について事例を挙げてみよう。まず身近に感じるのは、日本のモノづくり競争力の衰退である。本来、コストダウンはカイゼン技術によって、日本がもっとも得意とするものであった。しかしそれを越えるパワーが現れた。中国の低賃金労働である。カイゼンではいくら頑張ってもせいぜい数パーセントのダウンしかできない。しかし中国の賃金相場は10分の1である。つまり環境が全く違うのだ。このような環境のもとでは、日本の生産技術力という富は、大きく価値を損なうのである。
一方、共産主義というイデオロギーはどうか。ごく最近まで、これを信奉する中国人にとっては大いなる富であった。この理論と実践力を身につけると、強大な権力すなわち利益を手にすることが出来た。しかし現在では、その価値はかなり損なわれている。すなわちこの国を覆う社会環境が、露骨で利己的な拝金主義に変わってしまったからである。
以上のように環境の変化に応じて富は変化するから、新たに富を獲得するには、慎重に戦略を立てなければならない、差し当たって日本はどうすべきか。それには先ず今後における世界の動向を予測する必要があろう。実を言うと、その実態は既にフリードマンの好著「フラット化する世界」で明らかにされている。私なりに補足すれば、それは後進国の大衆に芽生えた西欧型商品への爆発的な購買意欲と、その急速な伝播であろう。この現象は一体何をもたらすか。いずれは地球資源の枯渇をもたらすだろう。砂上に楼閣を築くがごとく富を創造しながら、その一方で富を損なうことになるのだ。この深刻な矛盾をどう克服するか。日本が21世紀の勝者になる条件である。
18世紀後半から20世紀を通じては、西欧はその文明に由来する人工物によって未曾有の富を形成した。しかしその一方では、文明の本質である複写性がフラット化を生み出し、富の陳腐化をもたらしている。まさに自己矛盾というべきであろう。
一方、日本はその伝統に基づき独自の富も形成してきたが、西欧型の富の創出でも抜群の成績を上げた。しかし今後は上で述べたように、フラット化によって西欧型“富”の時代が終わる。つまり新たな“富”を形成する環境をデザインしなければならない。それができるのは、たぶん日本だけだろう。なぜならば、日本は世界のどこにもない固有の文化をもっているからだ。この固有文化に由来する富と、西欧文明に由来する富を接ぎ木することによって、途方もない富が創出できるはずだ。私はその創出プロセスに仮の名称を与えている。すなわち「第六次産業」である。その具体的なイメージは、いずれこのブログで明らかにしたい。

2012年5月3日木曜日

中国動乱の前兆か



 今週(4月25日)のニューズウイークは読み応えがあった。「不安な中国」と題して、重慶市トップであった薄煕来氏の失脚劇を分析した特集記事である。何しろ共産主義国の政治は、中国に限らずロシアや北朝鮮でもみられるように、殆ど密室で行われる。そのため予想外の事件が突然発生する。いや公表されると言うべきだろう。それ以前に事態は密やかに進行し、決着がついた後に明らかにされるのである。つまりこのような国の実態は、表面で見る限りは何も分からない。
 これに対して自由主義国家の権力争いは実に分かりやすい。そのプロセスの大部分が公開されるので、醜さや愚かさまでマスコミを通じて、白日の下に曝されるのである。そのための弊害もないわけではない。しかし共産主義国のように、政治が秘密裏に行われるのと比べると、その好ましさは比較にならない。
 薄煕来の失脚を予感させる事件も、我々はごく最近までまったく知らなかった。それまでの長期にわたる水面下の暗闘は、4月6日になって初めてその姿を現すことになった。この日、中国重慶市の王立軍副市長が、四川省成都の米総領事館を訪れて館員と面会したことを明らかにしたのである。亡命準備との見方もあるが、真相はわからない。
 しかしこの事件をきっかけに、恰も一枚岩のように見える中国の政治も、表向きはいざ知らず、裏側ではかなり際どいものだということが分かった。ニューズウイークの記者によると、今回の事件は、胡錦濤や温家宝が属する共産主義青年団派閥と、薄煕来が属する太子党派閥の争いとは言えないようだ。かねてから野心家で煙たがられていた薄煕来個人を失脚させるために、周到に準備された追放劇であったらしい。
しかし共産主義青年団派閥と太子党派閥の間には、こだわりや不快感は全く無いのだろうか。私はそうは思わない。この両派閥の政治理念と利害関係はかなり違うのである。しかしこの国では、その違いを巡る争いを公にすることは決してない。全ては密室で行われる。そして決着がつくと、勝者は高らかに自らの政治路線を称揚し、敗者に対しては恰も犯罪者のように貶めの言辞を投げつけるのである。私は薄煕来氏の失脚劇を一過性の事件とは思わない。いずれ近いうちに、中国全体を動揺させる政治闘争が始まることを予感する。