2011年4月26日火曜日

評論家という職業

 かつてテレビが一般家庭に普及し始めた60年代前半に、評論家の大宅壮一は一億総白痴化と評した。その表現にならって近頃のテレビを観ると、一億総評論家の感じがする。どの時事番組を見ても、アナウンサー、政治家、芸能タレントが入り混じって好き勝手な意見を言い合っている。
 しかし本来の評論はこのような居酒屋談義でなく、もっと専門的で責任あるものでなければならない。事実そうなっているわけで、政治評論家、文芸評論家、科学評論家、経営評論家など数え上げればきりがない。評論という仕事は、今では職業として確立しているのである。それどころか評論という職業は、現代社会をリードする花形とさえ目されている。ただし評論家は自戒しなければならない。評論はあくまで評論であって、その“冠”に専門分野の何かを付けても、“冠”そのものではないのである。たとえば政治という冠を付けたら“政治”評論家になるが、政治家とは違う。経営という冠を付けたら“経営”評論家になるが、経営者とは違う。立花隆は文芸評論家として著名だが、彼に小説が書けるとは思えない。それにも拘わらず世間は、評論家がその冠について有能であると考えている。それどころか評論家自身が錯覚をおこすのである。
 錯覚がもたらす悲喜劇は、いま現在我々の身近なところで進行中である。すなわち民主党政権による政治である。この政党が野党時代に一貫してやっていた政治活動は、評論家そのものであった。政治という冠と、評論家という職業の違いを峻別するには、高度な知性と謙虚さが必要だ。彼らはその何れをも持ち合わせていなかったといえるだろう。ただしいま民主党が行っている政治についての“政治”評論は、ここでは紙幅が足りないので別の機会に譲ることにしよう。
 以上のような問題を内在させている限り、評論の意義はかなり危ういものになる。それを克服し確固とした職業ジャンルを創り上げるにはどうすべきか。ここで思い切った提案をしてみたい。すなわち評論のための新しい方法論の開発である。併せて名称の変更もやるべきだ。たとえば“政治”評論を改め、“評論”政治とする。“経営”評論ではなく“評論”政治とする。もちろん“文芸”評論は“評論”文芸になる。つまりテーマは何であれ、冠はすべて“評論”で統一する。こうすることによって、従来は専門分野に寄生していた評論は、それ自体が独自の知識ジャンルを構成することになる。具体的にその方法論がどんなものになるか、いまは何も言えない。しかし昔の誰かが言ったではないか。必要は発明の母であると・・・。

2011年4月24日日曜日

東電いじめをやめよ

 原発事故が発生したとき、菅首相は東電の本社に乗り込み、同社の幹部を大声で罵倒した。重大場面で、このようなはしたない行為をやるのは、軍隊で言えばせいぜい大隊長レベルである。それを一国のトップがやってのけるとは、とても信じがたい。しかし、このはしたない現場主義?をきっかけにして、東電いじめの罵声は日本のあらゆる分野に蔓延した。それを列挙すれば、まず監督官庁である。次いでマスコミ。さらに反対派の学者。そして地方政治家とつづく。とくに4月23日夜のNHKニュース番組に登場した、福島県知事の傲慢な態度には、腹が立つより悲しみさえ感じさせられた。ひたすら頭を下げて謝罪する東電の社長を、傲然と見下ろしたままで突っ立っている。そして手にした文書をおもむろに読み上げ、「あなたはこのように苦しんでいる県民のことをどう考えているのか」と詰問する。この知事自身は、顔色もよくつやつやしていて、とても憔悴しているようにはみえない。おそらく快適な自宅で十分に睡眠をとっているに違いない。そしてマスコミの取材を意識して、執拗に責任を追及するのである。彼の念頭には、おそらく次の知事選挙があるのだろう。それが私の僻目かどうかは、いずれ明らかになるだろう。
 この事例はあまりにお粗末すぎるが、他にも似た話はいくつもある。当初はそれほどでもなかったが、今では被害住民の多くが、ひたすら東電の責任を追求するようになっている。その原因の多くは、マスコミの報道姿勢にあると考えてよいだろう。
 しかし本当のところ、責任の全てが東電にあるといえるのだろうか。それに答えるには、まず我が国が原発を導入するに至った経緯を振り返らなければならない。少なくとも東大を始めとする大学教授や専門家たちが、基本設計を描いたはずだ。それを諮問したのは、当時の政権政党であり政府である。さらに拡大すれば、国全体と言ってよいほどの大多数が賛成したのである。もちろん、このような大事業を伊達や酔狂ではじめるわけがない。日本のエネルギー消費の将来を考えた末の結論だった。つまり原発導入は、国民全体の合意で行われたのである。民主党の中には、自民党がやったことで自分たちは関係ないとうそぶく人がいる。しかし、それはないだろう。革命政権ならいざ知らず、政権を引き継ぐこと自体が、了解したことになるからだ。
 上述のように、原発そのものの導入責任は追求できないとして、次に問題になるのは原発設備の故障責任を誰に負わすかである。なにしろ1000年に一度の地震と津波である。それを見込まずに設計したといって責任を追求できるのか。さらに言えば、この分野で、東電が負うべき責任がどの程度あるのだろう。東電はたんに上述の専門家たちによって設計された設備を、忠実かつ正確に導入し運営してきただけなのだ。
 結論はたぶん、犯人捜しをしてもしようがないということであろう。大切なことは、これを教訓にして、将来は一そう高度なシステムを作ることだ。そして最高責任者は、八つ当たりしたり、かんしゃく玉を破裂させるようなことをしてはならない。その行為自体が、トップの資格なきことを証明することになるからである。

2011年4月23日土曜日

日本の原発風評を広めるのは誰か

 4月の初め頃から、東日本大震災に関する風評被害が、世界中に広がりはじめた。国際感覚の鈍い菅政権もようやく気にするようになり、4月16日の国際通貨金融委員会に出席した野田財務相は、各国に対し「科学的事実に基づいた冷静な対応をするよう」求めたという。しかし、その後も一部の国では日本からの輸入品について、放射線量について問題がないという証明を要求している。なかでも声高に問題提起しているのは中国で、とくに農産物と一部の工業製品をターゲットにしている。例によって問題認識の甘い菅政権は、その原因を正確な情報が不足しているためと判断し、実態を正確に伝えることで解決すると考えているらしい。
 しかし強かな相手は、そんなことで納得するはずがない。この日本の不幸を千載一遇のチャンスと捉えて、攻撃の手を強めてくるに違いない。その理由は2つある。第1は、嘗て毒入り餃子事件や、農薬汚染農産物事件で恥をかかされた意趣返しである。あの事件以来、中国の農産物に対する不信感は、国外どころか国内にさえ浸透した。その一方で日本の農産物に対する信頼は高まり、輸入量は大幅に増大しつつあった。この傾向がさらに強まることは、中国農業の根幹さえ揺るがすことになる。いずれ何らかの措置がとられると予想されていた矢先に、今回の大災害である。まさに天佑と考えたに違いない。この国のやり方として、風評を利用するのはごく当たり前のことであろう。
 風評をたてたりそれに便乗する理由の第2は、日本の工業部品に対抗する中国の産業戦略に端を発している。途上国や中進国が当面の政治体制を維持するには、国民の所得や生活水準を高めなければならない。文明生活の快適さを知ったこの国の人々は、ますますその欲望の度合いを強めるだろう。それを懐柔するには何としてもGDPを増やさなければならない。たしかにこの国のGDPは今や世界第2であるが、国民一人当たりでいうと日本の10分の1にも達しない。この格差を縮めるには、工業化を進めるのが最も妥当な戦略である。現時点における中国の成功も、まさにこの戦略のたまものである。しかし問題はこれからである。工業化を達成したと言っても、それはまだ中レベル以下のものであって、それ以上の高レベル製品をつくるまでには至っていない。かくして中国の工業化戦略は、以下のように日本を標的にした2本の柱で再構成されることになるだろう。

その1 中レベル製品の市場を、完全に日本から奪うこと。それには汚染部品の風評を流すことが極めて有効である。

その2 いま中国に進出し、高レベル製品を作っている日本企業を、風評によって倒産に追い込む。そのあと安値で設備と技術を買収する。

以上のように原発事故にかかわる風評は、極めて意図的なものであることに気付かなければならない。親中国を標榜してきた民主党政権も、今回の事件によって目が覚めたのではないだろうか。

2011年4月16日土曜日

いそいで復興のシナリオを描け

 一ヶ月ほど前(2011年3月11日)に発生した東日本大震災の被害の全貌は、とてもとらえにくい。地震、津波、原発事故、そしてそれに伴う放射能汚染という途方もない複合災害になってしまったからだ。とくに原発事故関連に関しては、そのトラブルが未だに進行中である。いろいろな対策が講じられてはいるが、素人目にはまるでモグラ叩きのように見える。事故発生以来すでに1ヶ月を越えるというのに、次々と新しい問題が発生する。そのためにシーベルト、ベクレル、シーピーエムといった専門的な数値がやたらに発表されるが、その意味するところが分かりづらい。政府は、ここらで一般国民にも分かりやすい説明をする必要があると思う。菅首相は原子力工学に詳しいのが自慢のようだが、なぜそうしないのだろう。あまりにじれったいので、首相のために我々が何を知りたいかを、3つに分けて整理して差し上げよう。
 要点の第一は放射能の数値はどうであれ、それをどれだけ浴びたらいけないのか。継続的な被浴に問題があるというなら、その期間。たとえば一日何時間で、何週間とか。また食物として摂取する量に問題があるならば、その種類別の数値。細かい条件別に、これらのデータを一覧表にして配布してほしい。
 要点の第二は過去における災害データの収集だ。広島に原爆を投下されたのだから、日本には放射能被害に関する知見が十分にあるはずだ。当時、広島には永遠に人間が住めないとまで言われた。また夥しい数の死傷者が出たが、その一方で生き延びた人もいた。それを可能にした条件は何だったのか。そもそも被爆地周辺のシーベルト数値は、福島の場合と比較してどの程度の差になるのか。さらに言えばアメリカやロシアのデータや情報は入手できないのか。たとえばアメリカは、広島のデータを持ちかえっていて日本以上に蓄積しているはずだ。さらにその後も、マリアナ諸島やネバダ砂漠で実験している。最近ではスリーマイル島の事故経験もある。一方のロシアも、チェルノブイリのデータを十分持っている。アメリカやロシアは、日本政府の対応を批判するだけでなく、これらの経験に基づく対策を教えてくれるよう要求すべきだ。
 要点の第三は復興の見通しと、その大まかなスケジュールだ。日本には壮大な復興の歴史がある。1945年に敗戦を迎えたが、その時点での全国に及ぶ戦禍は、筆紙に尽くしがたいものだった。今回の状況とは比較にならない。それでも3年後、つまり1948年頃には何とか復興の兆しを見ることができた。さらに1950年から1954年にかけては、後に復興期と言われるほど産業全体が軌道に乗り始めた。その後は多少の曲折はあっが、1990年までは一貫して安定成長の路線を走ってきた。大まかに言って、あれほどのダメージを受けながら、わずか3年ほどの短期間に産業および経済再建の目途をつけたのだ。政府はこの実績から教訓を学び、今後の見通しを明確かつ早急に示さなければならない。

2011年4月14日木曜日

経済学者はなぜ発言しないのか

 東日本大震災は、その規模の大きさにおいて、日本の歴史始まって以来の出来事といわねばならない。その被害の範囲と大きさは人命、財産、交通、生活などのあらゆる分野に及んでいて、それを回復するために要する時間や費用などは見当がつかないほどである。しかしこのまま有効な対策を講じないで無為に時を過ごせば、日本の国力は著しく劣化するだろう。また国際的な地位も低下するだろう。素人政治家の集団に過ぎない民主党内閣では、とてもこの難局を乗り切ることはできまい。
 今後の見通しとして、とくに重要になるのは経済の復興だろう。現状を見ると、たとえば日本の主力である自動車産業や電気機器の工場では、部品供給の齟齬のため生産は大幅に減退している。この状況をどのようにして打開するか。差し当たっては電力の供給力を回復させたり、工場の補修や機械の修理など、現場でのハード面の回復に尽力するのは当然だ。しかしそれと平行して、マクロ経済の面から今後の産業・金融政策をどのように展開するかは極めて重要だ。ただしアマチュアー政治家の集団に過ぎない現在の民主党政権にそれを期待するのは無理だろう。かくしたその道の学識経験者の提言が極めて重要になる。具体的に言えば、経済学者こそこのテーマについて有効な提言を行わなければならない。
 しかし今のところ経済学者からの、それに関する発言は殆どない。その一方で産経の経済コラムなどでは、かなり大胆な提案をしている。たとえば保有するアメリカ国債を担保にした、日銀引き受けによる100兆円の復興国債の発行である。この大災害の復興には、5兆円や10兆円の投入ではとても間尺に合わないだろう。その意味では、このような大胆な発想が必要なのだ。最近では経済学の権威も地に落ちた感があるが、今こそ復権のチャンスではないか。ケインズがどうのマルクスがどうのいった文献研究ではなく、この難局に役立つクリエイティブな理論や実践的な提言をやってもらいたい。

2011年4月13日水曜日

軽薄な産業進化論

 野口悠紀雄の著作「モノづくり幻想が日本経済をダメにする」によると、産業は必然的に1次から2次、2次から3次へと進化するものである。したがって日本も、早急に2次産業依存から、3次産業に構造を変えるべきだという。この考え方は理論とはいえない単なる俗説に過ぎないが、どういうわけか一部の経済学者の間では無条件に信じられている。野口氏もその一人のようだ。
 氏は3次産業へ転換する条件として、新たな産業技術の習得、とくに金融工学なるものを高く評価しているようだが、先般のサブプライム問題やでリバティヴ問題については、どのような見解をお持ちなのだろうか。また氏は、情報整理の達人としても有名である。その情報整理のノウハウ本は、ミリオンセラーにもなっている。しかし情報整理がうまくなっても、創造性が高まる保証はない。実際、経済学者としての氏の理論面での功績については、私は寡聞にして知るところがない。そこまでは望まないにしても、少なくとも金融工学なるものの、イカサマ性ぐらいは見抜けなかったのだろうか。
 産業の進化を論ずるならば、俗説にこだわらず視点を一新するべきだろう。たとえば1次産業、2次産業、3次産業それぞれは、その産業の枠内でも進化することができる。実際に、産業界ではそうなっている。農業も工業も、その産業内で技術革新を成し遂げ、生産性を大いに高めた。この活動がなければ近年の爆発的な人口増に伴う、膨大な食料の確保や生活必需品を、まかなうことはできなかっただろう。日本はその1次産業や2次産業で大きな貢献をしている。この活動のどこがまずいのか。時代の趨勢に遅れをとっているのか。
 進化は、どの方向にも向かうことができる。馬鹿の一つ覚えみたいに、1次から2次、2次から3次という方向しかないと考えるのはあまりにも硬直した考え方だ。

2011年4月11日月曜日

なぜ新聞を賤業というか

 すでに大方の記憶にはないかもしれないが、2007年の参院選挙では、朝日新聞のなりふり構わぬ安部たたきキャンペーンが凄まじかった。さすがに同業の新聞社からも顰蹙をかったほどだ。発端は2005年1月、朝日が安部幹事長(当時)がNHKの番組に干渉したという虚偽の記事を書いたことだ。安部氏とNHKはこれに反論し、朝日は大いに恥をかいた。おそらくそれを根にもっていたのだろう。江戸の仇は長崎でとばかり、朝日は社を挙げて安部氏のあら捜しや揚げ足とりの記事を書きまくった。もはや中立と公正を標榜するクオリーティペーパーとしての、誇りや自制心をかなぐり捨てたらしい。この陰湿さは、まさにインテリやくざそのものだった。
 おりしも同年9月19日付けのニューズウイーク誌に、英国高級新聞デイリーテレグラフ社の元記者コリン・ジョイス氏が書いた「東京特派員の告白」が掲載された。私は以前から新聞ジャーナリズムの胡散臭さには気づいていたが、その疑いを確信に変えさせる内容だった。記事の要点は次の通りだ。
 彼は新米記者として着任以来、何とかして日本の現状を正確かつ公平に記事にしようと心がけたという。しかし本社の方針は決まっていて、英国の一般読者が日本についてもっている固定観念にマッチし、すんなり受け入れやすいように書くこと。さらには面白さと奇妙さを強調すること。このガイドラインにマッチしない記事は全てボツにされた。具体例を挙げると以下のようなものだ。
・ 日本人の行動がステレオタイプであるこの強調
・ 第2次大戦中の芳しくないエピソード
・ 日本人がロボットに抱く特殊な感情(たとえばロボットに名前をつける)
・ お尻を自動的に洗浄する最新式の便器
・ 満員電車で蠢くチカン
・ その他
 紳士の国を代表する新聞でさえこの程度だ。要するに洋の東西を問わず、新聞社は部数が増えさえすればよいのかもしれない。そのためには手段を選ばない。アジ、偽善、変節、虚偽、威嚇、迎合・・・まさに悪徳のデパートのようなものだ。社会の木鐸などというスローガンは、一体誰のいうことなのだろうか。いまや新聞・ジャーナリズムは、自滅の道をまっしぐらに進んでいるように思われる。

2011年4月8日金曜日

なにも知らない素人は政治主導ゴッコをやめよ

 枝野官房長官が毎日やっている災害状況報告をやめてほしい。長々くどくどとしゃべり続けるわりには、聞く方にとって何の参考にもならない。私などはこの長官がテレビ画面に現れた途端に、パチンとスイッチを切ることにしている。要するに専門家からの受け売りを、伝声管のように読み上げるだけだ。ときたま注釈らしき説明がつくが、たんなるトートポロジー(同語反復)に過ぎない。
 何故にこのような面倒な手順を踏まなければならないのか。こたえははっきりしている。民主党は政治主導をスローガンにしてきたので、それに拘っているのだろう。しかし国民としては、民主党の面子など関係ない。要するに的確な情報と判断、それに基づく政府の覚悟と方針を聞きたいだけだ。災害発生以来、国民はそれに値するメッセージを聞いたことがない。それを持っていない半可通な素人のお話は、まさに政治主導というお遊びにしか見えないのだ。
 本当に深刻な問題は、別のところにあると思う。最高責任者やそれに続く閣僚や政府高官には、確固とした方針を立てる能力がないのではないか。たとえばフランス大統領のサルコジのような・・・・。今のようにパフォーマンスだけで、無能をごまかしてもらっては困るのだ。
このように国民が慨嘆している間にも、事態は悪化の一途を辿り、ついに我が祖国・日本は破局を迎えるかもしれない。野党時代に揚げ足取りだけに専念していた政党を、あからさまに支援したマスコミの無責任さや、それに乗せられた我々国民の軽率さが、このような悲惨な付けとなって回ってきたのだろうか。

風吹けば桶屋がもうかる

会議などで、理路整然と自分の考えを説明する人がいる。人前で話すのが不得意なものにとってはとても羨ましい。では理路整然とは、どういうことか。一般には、論理的であることだとされている。そこで少し突っ込んで、論理的とはどういうことかと、某大学教授に尋ねてみた。さすがに彼は言下に答えた。原因と結果のつながりや、目的と手段の連鎖を直線的に示すことであると。それを聞いて私は、落語の「風吹けば桶屋がもうかる」という話を思い出した。大筋は次の通りだ。「風がふく→土埃がたつ→それが目に入って盲人がふえる→盲人は三味線で生計を立てる→三味線には猫の皮が張られる→そのため猫の数が減る→猫が減るとネズミが増える→ネズミは桶を囓る→桶の需要が増える→桶屋が儲かる」
 たしかにこのストーリーには、因果関係の連鎖がある。しかし何か変だ。その理由は何だろう。その答えを一先ず保留することにして、ここで俄に朝日新聞の社説でしばしば見受ける語り口を思い出した。それは ・・・〇〇に通じる・・・ という文章である。以下にその例を示そう。

① 監視カメラに反対した朝日の社説
治安のよさで定評がある日本といえども、時には強盗が銀行やコンビニに押し入ることがある。また新宿の歌舞伎町では、通行人が路上で財布を強奪される事件もあった。これらの暴力を防止したり捜査に役立たせるために、警視庁は要所に監視カメラの設置を計画した。ただし、その画面には一般の人も記録される。つまり市民の多くが、その行動を当局に監視されることになる。これによって個人のプライバシーは侵害される。そして究極のところ個人の自由が束縛される。すなわち監視カメラの設置は、個人の自由の束縛に通じる・・・・・。
現在では監視カメラの設置は常識になっているが、朝日はまったく知らん顔で、その主張が間違っていたことには全く触れていない。

② 住民基本台帳カード(住基カード)に反対した朝日の社説
住基カードが一枚あれば、身分証明書、年金手帳、健康保健証、運転免許証、パスポート、納税証明書、各種許認可の申請など、個人が公民として必要になる書類の申請や作成が、一カ所で集中的にできる。逆にこれがなければ、上述の書類に関係するあらゆる役所に出向かなければならない。但しこのような各種のデータを一元的にまとめるには、国民一人一人のIDコードが必要になる。
しかし当時の朝日は、社説でこの計画に猛反対した。例によってその論拠は、IDコードは国民のプライバシーを犯すことに通じる・・・・。その論理を図式化すると次のようになる。

IDデータを作成する→データの悪用を企むものがいる(100分の1)→データを盗む技術を持つ者がいる(100分の1)→データを盗まれる人がいる(100分の1)→悪用価値のあるデータ(100分の1)→データを盗まれてプライバシーが傷つく(100分の1)

以上のステップごとに示した数値は、私が見積もった仮の値で、かなり少なめである。
 監視カメラの話と住基カードの話に共通するのは、因果関係の連鎖はあるけれども、連鎖が発生する確率に触れていないことだ。桶屋の例で言えば、埃が立って盲人の目に入る確率は何%だろう。また三味線で生計を立てる確率は何%か。仮にそれぞれの確率10分の1としても、連鎖の数が10であれば、最終段階で発生する確率は0.1の10乗分の1、つまり十億分の一に過ぎない。具体的な計算は次のようになる。 

0.1×0.1×0.1×0.1×0.1×0.1×0.1×0.1×0.1×0.1=0.0000000001

また住基カードについて計算すると、各段階の発生確率が100分の1と仮定したから

   0.01×0.01×0.01×0.01×0.01=0.0000000001

つまり百億分の1の発生確率になるのである。~に通じる~とか、論理的に語ることのいかがわしさは明らかである。我々はマスコミが画策する与論操作の論理には、十分注意しなければならない。

2011年4月5日火曜日

グレイのパワー

 日常的に生じる社会現象は、3つの領域に分類できるかもしれない。第1は白の領域、第2は黒の領域、そして第3はその中間の灰色すなわちグレイの領域だ。仮に色相の帯として考えると、左端の真黒から少しずつ右に移動するにつれ、黒の色合いは次第に薄まって、濃灰色に変わっていく。さらに右に移動を続けると、その灰色はいっそう薄まり、最後に右端に至ると真白になってしまう。本来ならば、この連続する色相の帯を区切ることはできないだろう。しかし私は、あえて3つに区切ることにしている。そしてもう一つ加えているのは、この3領域が占める面積、すなわち分布である。具体的には、黒と白はそれぞれ5%で、灰色は90%になると考える。この値に科学的な根拠は全くない。私が経験で得てきたものである。この独断と偏見にみちた尺度で、社会現象を眺めてみると、案外うまく説明できるのである。
 たとえば採決で決めなければならないときは、当然ながら二つの立場、すなわち賛成者と反対者が出現する。ただし当初から、自分の立場を鋭く主張するものは数が少ない。その他の大多数は、曖昧な表情を保っている。しかし時間の経過とともに、その表情は次第に変わる。そして最後に採決の時がきたら、ほとんど全員が明確に意思を表明する。グレイゾーンに属する大多数のパワーが始動した瞬間である。
 グレイゾーンを動かすために、白と黒の両側から、いろいろな働きかけが行われる。政治やマーケティングの分野では、とくにこの策動が激しい。マスコミなどはその下品さによって、20世紀が生んだ賤業といわれるほどだ。しかし策動がどうであれ、最後の決め手は、グレイゾーン集団が潜在的にもっている価値観、倫理観、学習能力そして文化である。この点において日本は、世界でも最も高い水準にあるのではないだろうか。日下公人氏は、50年も前からこの見地に基づき日本の将来を予言し続けているが、ことごとく的中している。日下氏が一貫して主張しているのは、日本人が持っている数々の美徳であり、これを大いなる資源とみなしている。従来の国際競争の場で優位を決めるのは地下資源であったが、これからは文化資源が決め手になるとも書いている。そしてそれを保有しているのは、観念的な舶来知識を珍重する知識人ではなく、実生活に根ざした知恵を備えた庶民であり、この点において日本は世界でもダントツの資源国だと述べている。
 21世紀の国際競争における国力の差は日下氏の言うとおりだとして、グレイゾーンを構成する各国の庶民のレベル、つまり上述した価値観や倫理観で比べてみよう。たとえば中国の一般大衆、アメリカの一般大衆、アフリカの一般大衆、これらを眺めるだけで、もはや説明の必要はないだろう。大災害は世界の各所で発生するが、そのたびに必ず耳にするのは、大衆の略奪であり暴動である。しかし日本の場合は明らかに違う。この認識は、今では世界の常識だといえよう。東日本大震災で行動した被害者たちの、冷静な振る舞いについては、ニューヨークタイムズ、ガーディアン、ウオールストリート・ジャーナルなど欧米の主要紙はこぞって賞賛している。
 日本のグレイゾーンのレベルを量る身近な例をもう一つ挙げてみよう。それは政党に対する支持率の推移だ。具体例として、2009年8月に行われた衆議院の選挙を示そう。その結果、自民党は予想外の大敗を喫し、民主党はこれまた望外の大量議席を獲得した。この結果について与論すなわち庶民は、政治家不在で政治屋しかいない自民党を拒否しただけだと表現した。その一方で、未知数の民主党を試してみたいと述べている。当時としては、この判断は極めて妥当と言うべきではないだろうか。これより既に数年前、総裁選に出馬した小泉純一郎氏が、内部からぶっ壊すと宣言せざるをえないほど自民党は腐っていたのだから。
 それでは、試されている民主党はどうか。その体たらくは周知の通りだ。その反映すなわち支持率の推移をみても明らかである。今回のような非常事態が発生しなければ、間違いなく解散総選挙になっていただろう。今やグレイゾーンすなわち庶民を構成する大部分は、来るべき裁断の日を待ちわびている。その日を境に、迷走を続けている日本の政治も、再び正道に戻ることが確信できる。

2011年4月3日日曜日

無能レベル

 昨年(2010年7月)に亡くなった梅竿忠雄京大名誉教授は、実にユニークな発想の持ち主だった。その代表作「文明の生態史観」や「オタマジャクシの群れ形成の数理」「情報産業論」などエポックメーキングとなる著作は数多くある。その一方で、産業化社会では不可欠とされる組織運営の実態を観察し、ユーモラスで鋭い提案も行っている。無能レベルという概念は、その最も顕著な例の一つといえよう。これを簡単な例を用いて説明すると、以下のようになる。
 軍隊は典型的な階層組織であるが、そこに大へん優れた兵士がいたとする。その能力を高く評価した上官は、彼を下士官に推挙した。この地位でも彼は能力を発揮したので、やがて小隊を束ねる士官に昇進した。しかしこの段階で問題が発生した。部下たちが彼の能力に疑問を持ち始めたのである。小隊ともなれば、それを構成する人員は100名前後になるはずである。いかに上意下達の世界といっても、その中には様々な個性が充満している。それを束ねていくのは簡単なことではない。この新米小隊長は、まずこの問題に対処できなかった。更にもう一つ。これこそ最も本質的なテーマであるが、彼は戦場の状況に応じた戦術構想を立てることができなかった。十数名の部下を使って、上官の指示を忠実に遂行する実務能力には長けていたが、それ以上のことはできなかったのだ。つまり彼の能力は下士官レベルであって、小隊長という地位は無理であった。これを無能レベルというのである。
 同様の事例は、企業内でも屡々みることができる。課長まではよくできたが、次長になった途端におかしくなった。次長までは無難だったが、部長になると失速したという話だ。これらの悲喜劇はすべて無能レベルという概念で説明できる。
 さて問題は、日本の政治を迷走させている菅首相の無能レベルが、どの辺りにあるかということである。分かりやすくするために、企業組織の地位で考えてみよう。率直にいって、とても社長とは考えられない。企業ではこの人物のように、パフォーマンスだけで生きている輩をゴキブリ社員という。それだけでは部長はおろか、課長にも値しないのである。野党時代には、揚げ足取りのスペシャリストとして名をはせたとしても、実践の場では何の役にも立たない。

2011年4月2日土曜日

サルコジ大統領と菅首相の違い

 3月31日、フランスのサルコジ大統領が震災慰問のために訪日した。官邸を空っぽにして、総指揮者としての役割をすっぽかし、ヘリコプターで原発の事故現地に赴いた菅首相の、ちまちましたパフォーマンス的言動と比べて、そのスケールの大きい行動力に感嘆する。
フランスでは発電量の80%を原発に依存している。だからこれが否定されるような事態になれば、産業政策の根幹に関わる重大事に発展するのである。しかし同じユーロー加盟国であっても、ドイツは原発の導入に消極的だった。最近になってメルケル首相の努力で、ようやくやる気になっていたのに、折悪しくも今回の事故だ。おかげでドイツ南西部バーデン・ビュルテンベルク州では、27日にあった州議会選挙で連立与党が敗北し、環境政党・緑の党が躍進することになった。その結果をみてメルケル首相も、「福島原発の大事故を巡る議論が敗因となったのは明らかだ」と述べざるを得なかった。かくしてフランス大統領の来日は、まさに国のエネルギー政策の成否に関わると判断した、果敢な政治戦略的行動なのである。
そもそも日本とフランスは、原発の発電量において世界の3位と2位をしめるのだが、今回のような非常事態が発生すると、産業を守ろうとする政府と、そうでない政府の違いがはっきりあらわれる。サルコジ大統領にはフランス一の原発企業のトップも同行し、あらゆる援助を惜しまないと明言してくれた。
 しかし我が国の首相は、まず東電を罵倒し、そのあとヘリコプターで現地を視察するというパフォーマンスを演じてみせた。このアクシデントを政治的に利用しようとする思惑が見え見えだった。サルコジとは、動機もやり方も全く違うのだ。そもそも菅首相が市民党を自称していた野党時代は、原発には反対していたはずだ。彼の当時の主張は、大切なのは消費的な市民生活だけであって、それを保証するための企業の産業活動には極めて冷淡で、ときには否定的でさえあった。しかし評論家ではなく、政治の当事者となった今となっては、産業振興の重みに気づいたというのだろうか。