2011年4月11日月曜日

なぜ新聞を賤業というか

 すでに大方の記憶にはないかもしれないが、2007年の参院選挙では、朝日新聞のなりふり構わぬ安部たたきキャンペーンが凄まじかった。さすがに同業の新聞社からも顰蹙をかったほどだ。発端は2005年1月、朝日が安部幹事長(当時)がNHKの番組に干渉したという虚偽の記事を書いたことだ。安部氏とNHKはこれに反論し、朝日は大いに恥をかいた。おそらくそれを根にもっていたのだろう。江戸の仇は長崎でとばかり、朝日は社を挙げて安部氏のあら捜しや揚げ足とりの記事を書きまくった。もはや中立と公正を標榜するクオリーティペーパーとしての、誇りや自制心をかなぐり捨てたらしい。この陰湿さは、まさにインテリやくざそのものだった。
 おりしも同年9月19日付けのニューズウイーク誌に、英国高級新聞デイリーテレグラフ社の元記者コリン・ジョイス氏が書いた「東京特派員の告白」が掲載された。私は以前から新聞ジャーナリズムの胡散臭さには気づいていたが、その疑いを確信に変えさせる内容だった。記事の要点は次の通りだ。
 彼は新米記者として着任以来、何とかして日本の現状を正確かつ公平に記事にしようと心がけたという。しかし本社の方針は決まっていて、英国の一般読者が日本についてもっている固定観念にマッチし、すんなり受け入れやすいように書くこと。さらには面白さと奇妙さを強調すること。このガイドラインにマッチしない記事は全てボツにされた。具体例を挙げると以下のようなものだ。
・ 日本人の行動がステレオタイプであるこの強調
・ 第2次大戦中の芳しくないエピソード
・ 日本人がロボットに抱く特殊な感情(たとえばロボットに名前をつける)
・ お尻を自動的に洗浄する最新式の便器
・ 満員電車で蠢くチカン
・ その他
 紳士の国を代表する新聞でさえこの程度だ。要するに洋の東西を問わず、新聞社は部数が増えさえすればよいのかもしれない。そのためには手段を選ばない。アジ、偽善、変節、虚偽、威嚇、迎合・・・まさに悪徳のデパートのようなものだ。社会の木鐸などというスローガンは、一体誰のいうことなのだろうか。いまや新聞・ジャーナリズムは、自滅の道をまっしぐらに進んでいるように思われる。

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