2011年11月30日水曜日

日本人に自虐精神を植え付けたのは誰か

 加地伸行大阪大学名誉教授によると、論語では知識人を小人と言い、教養人を君子と称するらしい。私は知識人には真正と似非の二タイプがあると考えていたが、この分け方は間違いだった。要するに知識人はすべて小人なのである。さらに言えば、文明の成果を重視するのが知識人で、文化を重んじるのが教養人ともいえよう。

 この分かりにくさを解くには、まず文化と文明の違いを理解しなければならない。文化とは、特定の民族がもつ感性と理性のすべてを駆使して創り上げてきた歴史的な成果である。一方の文明は、理性によってのみ構築された歴史的な成果であるため、文化のすべてをカバーすることはできない。ただし文明は、自らの成果である文字によって、汎用性のある表現が可能である。そのため文明の成果は自らの文化圏を越え、異なる文化圏にまで及ぶようになった。
 日本では幕末の門戸開放によって、欧米の文明を吸収したが、それも欧米の文字を媒体にして可能になったのである。そして欧米文明の内容を知るほどに、その異質性とレベルの高さに大きなショックを受けた。かくして欧米語に堪能になることは、異文化のうちの文明を知る大切な手段となり、欧米語の翻訳者には高い評価が与えられるようになった。そのあげく日本の知的エリートの大半は、すべて翻訳技能を通じて欧米文明の追随者となった。新しい日本型知識人の誕生である。この流れは明治から現在まで続いている。
 以上の背景のもとに現代日本の知識人は、すべて欧米の語学に堪能であり、さらには欧米文明の虜になった。いわゆる語学エリート=知識人の図式が形成されたのである。但しこの段階では、まだ教養人と知識人の区別はないし、文化と文明の区分もはっきりしていない。しかもこの図式は、敗戦によって一段と強まった。結果として日本の知識人の殆どが、欧米思想に基づく欧米文明にかぶれることになった。具体的な名前を挙げると、南原繁、丸山真男、大内兵衛、都留重人など社会科学系学者の殆どが当てはまる。社会科学は理性に基づく西欧型文明の精華であるが、同じ文脈上にある法学や商学もこれに該当する。さらには西欧文学も、この系譜すなわち西欧型理性の産物である。その意味では評論家の加藤周一や、フランス文学の泰斗とされる渡辺一夫についても同列に論じることができるだろう。したがってこれらの西欧かぶれの「一流の知識人」が、敗戦を契機にして祖国である日本の全てについて、深刻な自国嫌悪の気分に犯されたのは無理もない。やがて祖国に対して、厳しい批判と反省の矢を放ち始めたのは、けっして偶然ではないのである。
 問題なのは、その自国嫌悪の言説を強引に注ぎ込まれた学生たちである。彼等は思想的には白紙の状態であったから、まるで吸い取り紙のように、何の抵抗もなく濃色の反日インクや自虐インク、更にはアナーキーインクを吸い込んだ。こうして戦後間もなくから団塊世代に至るまでの数十年間、自虐精神を植え付けられた反日知識人が大量に生み出されたのである。卒業後の彼等は、知的エリートとして政治家、産業人、教育者、官僚、マスコミなど社会のあらゆる分野で活動を開始した。しかしその実践の場では、いかなる著名な知識人の言説であっても、それが借りものの空論である場合は、インチキ性はたちまち露呈する。こうして祖国否定に染め上げる濃色のインクも、次第に色あせることになる。学生時代に洗脳された残滓を今なお引きずっている教え子の数は、たぶん少ないだろう。それでも皆無になったというわけではない。とくに祖国否定の言説を拠り所にしている職業人には、他に生活の術がない。たとえば進歩的を自称する大新聞やその他のマスコミ関係者、特定のイデオロギーを固守する原理主義政治家、教育という職業の本分を放擲して自らの地位向上と保全だけに力を注ぐ教育者などはその好例である。
 戦後の日本人に自虐精神を植え付けた西欧文明一辺倒の一流知識人は、功なり名を遂げることが出来たが、後発の二流知識人はこの先も自らの職業的命脈が尽きるまで、自虐精神を拠り所にして祖国を誹謗し続けるのだろうか。

2011年11月29日火曜日

TPPにどう対応するか

 ブッシュ大統領がイラクとの戦争に踏み切ったとき、小泉首相は第一番に支持を表明した。当時のマスコミの多くは、この決断を「忠犬ポチ公」の振る舞いだと揶揄した。しかし、そのお陰で日米関係は以前にもまして良好になり、その後の複雑な国際関係において、アメリカの支持によって日本は多くの恩恵を得た。
 中世イタリアの小国フェレンティエの宰相であったマキャベリーには、次の言葉がある。「大国が行動を起こすとき、小国は即座に同調しなければならない。もし躊躇う様子を見せていたら、その大国が勝利したあと必ず報復されるであろう。また、いざというときには決して助けてくれないだろう」。
 いまTPPへの加盟問題で日本は揺れているが、アメリカがこれを提案するには二つの大きな目的がある。その1は経済の行き詰まり打破であり、その2は中国の封じ込めである。これらは、いま衰退気味のアメリカ経済を立て直すための重要なテーマである。この理由だけでも、日本がTPPに加盟する意義は大きい。しかもこの加盟は、日本自体にとっても意義のあることである。但しそれについては、ここでは省くことにする。もちろん関岡英之や東谷曉などの反対論者も数が多い。
 たしかに1984年に始まった日米構造協議などでは、アメリカのエゴが目立った。しかし状況は変化するのだ。いつまでも過去にこだわらないで、環境の変化を見極め、冷静に対処しなければならない。もちろん、それらすべてを忘れてはならない。深く重く心の中に止めた上で、対応しなければならない。それが大人として国際関係に臨む流儀であろう。いつまでも幼児っぽい原理主義では、腹黒い国が跋扈する国際社会の中で生き抜くことは難しい。

2011年11月28日月曜日

評論だけの政治家は退場せよ

今まで評論家タイプの政治家がのさばりすぎた。例えばこの2年間、民主党政権を担当してきた顔ぶれを見るとよく分かる。マニフェストなる御大層なものを掲げて選挙民の気をひき、政権を強奪した結果はどうだったのか。  民主党の面々は、野党時代に舌鋒鋭く自民党の政策や行政を追求してきた。しかし立場が変わると、その内容の貧弱さを白日の下に曝すことになった。評論家は、しょせん評論家に過ぎないのだ。揚げ足取りや、一点集中型攻撃の論理構成がいくら巧みであっても、現実の政治には何の役にも立たない。鳩山元首相は、自ら招いた普天間問題処理の行き詰まりで「この問題の複雑さと難しさをはじめて知った・・」と述懐したが、その率直さと正直さは賞賛されるべきだろうか。とんでもない話だ。鳩山氏だけではない。この程度の状況認識しか出来なかった民主党の評論家型政治家は、全員揃ってきれいさっぱり身を引くべきだろう。

2011年11月24日木曜日

原理主義政治家を排除せよ

 蕗の董から空を見るというのは、天下を微視的あるいは局地的にしか見ないやり方を揶揄する言葉だ。しかしその逆はどうだろう。つまり天から蕗の董を見るということ。それでは現実は全く見えないだろう。しかし日本では、そのやり方がまかり通る。例えば社民党の福島党首のような、原理主義者または観念論的理想主義者はその典型といえよう。この程度の甘い思想や言説に惑わされる日本人は本当にふがいない。次の選挙では、この種の政治家を根絶やしにしなければならない。さもなければ日本の将来は危うい。世界の政治はすべて現実的に動いていて、観念だけで成り立っている国は一つもない。

文学と政治

 文学的センスと政治的センスの間には、大きな隔たりがあるようだが、必ずしもそうではない。たとえばアンドレ・マルローは、政治への情熱と、文学への情熱を区別しなかった。日本でも三島由紀夫や江藤淳、大江健三郎、三浦朱門、村上龍など事例は多い。逆にドゴール、チャーチル、毛沢東など文学のセンスに恵まれた政治家の名前を挙げることもできる。日本の顕著な例は石原慎太郎だが、中曽根康弘元首相も俳人として知られている。
 文学的センスと政治的センスの間には、共通するものがあるのかもしれない。立花隆は政治家を、言語操作のプロだといったことがある。この見方も、文学と政治の共通する一つの側面を捉えたものといえるだろう。オバマとクリントンの選挙戦をみると一層その感を深くする。
しかし文学センスと政治センスは、もっと本質的な点で共通しているように思われる。あえて言えば、それは文学者あるいは政治家として、対象を認識する態度と方法ではないだろうか。文学および政治を構成するカテゴリーは、イデオロギー、テーマ、イメージ、デザイン、モチベーション、コントロール、コミュニケーション、・・・など筆紙に尽くせないほど多岐にわたる。この多様さと複雑さこそ、文学と政治の共通点である。
たとえばコミュニケーションについて考えてみよう。コミュニケーションの局面でも文学や政治では、無数ともいえる要素を考慮しなければならない。要素間には矛盾があるし、しかも時間とともに変化する。コミュニケーションを構成する要素の例として、人間を取り上げてみよう。男と女、老人と若者、善人と悪人、金持ちと貧乏人、学歴、職業・・・・このように分類していくと、おそらく際限がないだろう。しかもこの無数の要素の間および要素の内部では、必ず葛藤や争いが発生する。政治と文学は、このような取りとめもないもの、いわば混沌を対象にしなければならない。その難しさはただ事ではない。この複雑怪奇な状況に臨んで、行動の引き金になるセンサーは何か。多分それは、対象と状況を鋭敏に感じ取る能力であろう。言い換えれば認識能力である。
かくして対象や状況を鋭敏に感じとるセンス=認識能力こそ、文学と政治に共通する不可欠の能力といえるのである。かなり突飛な話だが、この仮説で文学者を評価してみたらどうだろう。例えば大江健三郎。一時はアナーキーな政治スタンスで人気を得たが、今では色あせている。とくに「沖縄ノート」では、劣弱な取材力(認識力)を露呈した。村上龍も、デビュー作の「限りなく透明に近いブルー」で示した感覚はすごかった。しかし「ハバナモード」あたりから最近のJMMにいたる政治的な発言を見ると、幾許の未熟さを感じる。そうとなれば、文学者としての認識力についても、多少の評価替えが必要になるのだろうか。

水清ければ魚棲まず

知り合いの外資系企業の駐在員(イタリア人)は、日本語の勉強を兼ねてよくテレビの時代劇を見るそうだ。その感想がなかなか面白い。たとえば水戸黄門が、なぜあんなに人気があるのか理解できないという。パターンはいつも同じで、悪代官を懲らしめるというストーリー。腑に落ちないのは、あの程度の些事が問題になることだ。賄賂を取ったり、善良なライバルを陥れたりすることのどこが悪い。わが祖国イタリアで、そんなことを一々取り上げていたら、行政どころか社会そのものが成りたたなくなる。
 その意見を聞いて直ちに連想したのは中国だ。ついでに水清くして魚棲まずということわざも思い出した。このような大らかな意見を聞くと、昨今のわが国の政治の混乱は、いかにも子供っぽく感じられる。マスコミの記者諸君は、たぶん宝塚少女歌劇のファンに違いない。政治家を論評する視点はただ一つ、“清く正しく美しく”だけなのだ。たとえば生き馬の目を抜く国際関係についての、政治家の見識や能力をどのように評価するのだろう。

2011年11月2日水曜日

韓国が日本に追いつく

 先日の新聞記事によると、韓国には「江南左派」という言葉があるそうだ。江南とはソウルの南側にある地域のことで、そこには経済的に恵まれた人達が住居を構えている。いわゆる高級住宅地族というわけだ。住民の職業は、当然ながら事業家や高級サラリーマンなどが多いが、とりわけ目立つのが評論家や学者などサヨク系の進歩的文化人だという。すなわち「江南左派」とは、この人たちのことをいうらしい。
 彼等は自分たちは、江南という高級住宅地に住んで恵まれた生活をエンジョイしながら大企業の批判や反米を主張し、その一方で北朝鮮を擁護し、保守政権の批判に熱を上げる。なぜそれが出来るかというと、彼等の著書や講演などに人気があるからだ。当然ながら高額所得をエンジョイすることになる。最近では専ら格差論に熱中しているらしい。しかし彼等が貧しい人のために具体的に何かを施すことはない。つまり典型的な「安楽椅子で葉巻を燻らす」社会主義者なのだ。
 この記事を見て思い起こすのは、数十年前からごく最近まで日本の言論界をリードしてきた進歩的文化人や知識人の人気である。論語では教養人のことを君子といい、知識人のことを小人というが、まさに正鵠を射る言葉である。現在では民主党政権が馬脚を現したこともあって、日本人の多くはサヨク系知識人の言動を信じなくなった。しかし韓国の状況をみると、そうではないらしい。日本と同じような反省をするには、あと10年はかかるように思う。