文学的センスと政治的センスの間には、大きな隔たりがあるようだが、必ずしもそうではない。たとえばアンドレ・マルローは、政治への情熱と、文学への情熱を区別しなかった。日本でも三島由紀夫や江藤淳、大江健三郎、三浦朱門、村上龍など事例は多い。逆にドゴール、チャーチル、毛沢東など文学のセンスに恵まれた政治家の名前を挙げることもできる。日本の顕著な例は石原慎太郎だが、中曽根康弘元首相も俳人として知られている。
文学的センスと政治的センスの間には、共通するものがあるのかもしれない。立花隆は政治家を、言語操作のプロだといったことがある。この見方も、文学と政治の共通する一つの側面を捉えたものといえるだろう。オバマとクリントンの選挙戦をみると一層その感を深くする。
しかし文学センスと政治センスは、もっと本質的な点で共通しているように思われる。あえて言えば、それは文学者あるいは政治家として、対象を認識する態度と方法ではないだろうか。文学および政治を構成するカテゴリーは、イデオロギー、テーマ、イメージ、デザイン、モチベーション、コントロール、コミュニケーション、・・・など筆紙に尽くせないほど多岐にわたる。この多様さと複雑さこそ、文学と政治の共通点である。
たとえばコミュニケーションについて考えてみよう。コミュニケーションの局面でも文学や政治では、無数ともいえる要素を考慮しなければならない。要素間には矛盾があるし、しかも時間とともに変化する。コミュニケーションを構成する要素の例として、人間を取り上げてみよう。男と女、老人と若者、善人と悪人、金持ちと貧乏人、学歴、職業・・・・このように分類していくと、おそらく際限がないだろう。しかもこの無数の要素の間および要素の内部では、必ず葛藤や争いが発生する。政治と文学は、このような取りとめもないもの、いわば混沌を対象にしなければならない。その難しさはただ事ではない。この複雑怪奇な状況に臨んで、行動の引き金になるセンサーは何か。多分それは、対象と状況を鋭敏に感じ取る能力であろう。言い換えれば認識能力である。
かくして対象や状況を鋭敏に感じとるセンス=認識能力こそ、文学と政治に共通する不可欠の能力といえるのである。かなり突飛な話だが、この仮説で文学者を評価してみたらどうだろう。例えば大江健三郎。一時はアナーキーな政治スタンスで人気を得たが、今では色あせている。とくに「沖縄ノート」では、劣弱な取材力(認識力)を露呈した。村上龍も、デビュー作の「限りなく透明に近いブルー」で示した感覚はすごかった。しかし「ハバナモード」あたりから最近のJMMにいたる政治的な発言を見ると、幾許の未熟さを感じる。そうとなれば、文学者としての認識力についても、多少の評価替えが必要になるのだろうか。
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