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2012年5月23日水曜日

政治は空気枕だ


民主主義政治の難しさを説明するにはどうしたらよいだろうか。空気枕にたとえると分かりやすいと思う。政治的に解決を求められる課題や不満は限りなく多い。たとえばその一つが、政治という空気枕に強い圧力を加える。当然ながらその部分は凹むことになる。しかしその凹んだ分は、必ずほかの部分を膨らます。なにしろ空気は外に出られないのだから、枕の中を移動するだけなのだ。要するに問題や不満を解決しても、その解決そのものが新たな問題や不満を生み出すことになる。これは民主主義政治、ひいては文明社会の宿命でありダイナミズムともいえるのである。
 独裁政治ではこのような堂堂巡りはあり得ない。なにしろ独裁政治という空気枕には、不満の圧力が全くないからだ。仮にそれがあれば、圧力を行使する前に抹殺される。かくして政治は至高の権力になるのである。共産主義国家が立法、行政、司法という三権分立を否定し、ひたすら特権階級の安泰を図ろうとするのはそのためである。

2012年4月20日金曜日

政治の役割

民主主義国家を運営する基本原理は三権(立法、司法、行政)分立である。しかし中国では、三権の上位に政治を位置づけている。中国で屡々発生する不思議な出来事も、この考え方に基づくものであろう。たとえば行政の要職にある人物が汚職した場合、死刑になることがある。その根拠は概ね政治的判断である。その判断すなわち決定を下すのは誰か。昔は神の化身ともいうべき皇帝であった。現在は、いわゆる政治家である。したがって中国で政治の最上位にあるものは、“神の役割”を担うことになる。
 それにしても“神の役割”を担う政治とは何だろう。国家を統治し運営する過程では、利害、矛盾、葛藤、反目、偏見などによる混沌が日常的に発生する。単純な正義や原理で処理できるものは極めて少ない。そもそも正義とは何かという問題自体が、永遠に解決できないのだ。それにも拘わらず政治は、社会の混沌に対処しなければならない。 このように考えると政治の意義は、実際やっている個々の行為でしか説明できない。つまり政治には原理や原則などはないのだ。そうだとすると政治を最上位に位置づける中国の考え方は、むしろ説得力があるようにも思える。民主主義国家といえども政治の拠って立つ基盤、すなわち人間の営みの本質は混沌そのものになるからだ。
 混沌に対処しなければならない政治の、不思議な役割について例を挙げよう。いま日本が抱える課題の一つは地方の衰退である。この衰退を経済現象として眺めると、当然の帰結といえるであろう。地方の経済基盤は林業や農業などの第一次産業であるが、その多くがグローバル化による競争によって敗退したからである。マスコミが主張するように政治の責任ではなく、経済の問題なのだ。しかし政治の立場としては、何らかの対策を講じなければならない。そのため多額の地方交付税や補助金を、梃入れのために投入してきた。しかし経済の論理で考えると、いま論議されているのは予算の配分問題に過ぎないし、配分をうまくやっても地方経済が立ち直るとは考えられない。一種の輸血のようなものに過ぎず、抜本的な対策は第一次産業に代わる新産業の開発しかない。しかも冷静にみてその可能性も低いと考えられる。経済の立場で考えると、政治の考え方は理屈に合わない。それ故にこそ政治は、経済をも超越することになるのだろうか。

2012年3月31日土曜日

民主政権の功績

3月30日、野田内閣は与党内における一部の反対を押し切って、消費増税法案を国会に提出した。しかしこれで終わった訳ではない。この後は衆参両院で、与野党入り交じっての厳しい論議が待ち受けている。もし可決されなければ、野田首相は総辞職か解散かの、何れかを決断することになるだろう。私はたぶん解散に追い込まれると予想する。
 バカ首相とズル首相が2代つづいたお陰で、日本の政治は大いに毀損された。この点については、おそらく国民の大部分が同感しているはずだ。ようやくバカでもなくズルでもない普通の人物が3代目の首相になったが、それも火宅ともいうべき民主党の中にあっては、真価を発揮することはできない。
 この二三年の間に、日本は大きな災厄に見舞われた。一つは東日本大震災であり、もう一つは民主党政権による政治・外交の混乱である。東日本大震災は未曾有の天災だから、誰も責任を負うことはできない。しかし、その後の復興施策の遅れや稚拙さについては、明らかに民主党政治の責任である。
 なぜ民主党の政治が、このようにお粗末なのか。原因ははっきりしている。この党を構成するメンバーの大部分が、評論家に過ぎないからである。評論家にもピンからキリまであるが、その共通するところはプレイの当事者ではなく、観覧席であれこれ講釈する輩である。民主党メンバーの多くがアナキスト的であったり、サヨク的であったり、或いは原理主義的であったりする。しかし殆どは〇〇的と形容されるだけで、真性のものではない。何れも依拠するのは上っ面の観念論だけで、生活現場の深層に思いを馳せる感受性がないし、対策を講じる能力もない。出来ることは見栄えのよいパフォーマンスと紋切り型のスローガンだけだ。蓮舫代議士が“仕切り”場面で見せた軽薄なやりとりは、その典型である。似たような話は辻本代議士や、小宮山代議士、千葉元代議士など、枚挙にいとまがない。
 以上のように民主党政治の問題を列挙すると、それこそ紙面がいくらあっても足りない。このお粗末さは、おそらく政治史の上でも特記されるに違いない。ただ逆説的にいえば、功績が全く無いとは断言できない。来るべき総選挙において、国民が政治家を評価する眼は、極めて厳しいものになるだろう。耳障りのよい評論家風の言説には、二度と誑かされることはないだろう。民主党政治のお陰で、国民の政治意識と政治家を評価する鑑識力は大いに高まった。長期的に考えると、これは民主党政治がもたらした唯一最大の貢献と言えるだろう。

2012年1月31日火曜日

辻本清美が世界に投稿!

 先日、久し振りに雑誌「世界」2月号を購読した。嘗て一世を風靡した岩波書店発行のサヨク誌だが、今や廃刊の危機に直面しているらしい。目次を見て先ず驚いたのは、20年前とほとんど変わらない項目と、訴求のキャッチフレーズだ。主なものをピックアップすると次のようになっている。 ・ 民主主義の尊厳を救え
・ なぜ政治が機能しないのか
・ 政治不信のゆくえ
・ 原発再稼働は危険だ
・ 脱原発世界会議
・ 中国民間との対話
・ 教育のチカラ
・ 沖縄という窓
・ その他
 以上のほか、とくに興味をひいたのは「辻本清美民主党代議士」が投稿した“今こそ政治の質を変える時”である。野党時代の彼女が、小泉首相に向かってひっきりなしに「総理!総理!」と些細な質問を連発し、議事進行を妨げた言動については、今も多くの人の記憶に残っているはずだ。またピースボートに所属していた時代に、カンボジアでの自衛隊のPKO活動を視察して、物議を醸した発言も有名である。道路工事などの復興活動でヘトヘトの自衛官に向かって胸ポケットを指差し、「あんた!!そこにコンドーム持っているでしょう!!」。
 この奇矯な人物も、サヨクが政権を獲得して以来、副大臣など幾つもの政府高官職を歴任してきたが、その経験から“今こそ政治の質を変える時”と考えたらしいのだ。しからばその論旨たるや如何。わかりにくい文章だったので、解読するのに苦労したが、要約すると次のようになっていた。
1)なぜ期待に応えられないか
 私(辻本)が目指したのはスローガンや要求型ではなく、市民自ら対策を示して動き、解決を模索していくNPO型の市民運動でした。そして政治を行う側にも、この新しい運動の受け皿となる人材が必要だと考え、自ら国政に参加しました。しかし自民党主導の政治環境では、この考え方は受け入れられませんでした。
2)自民党政権の功罪
 長年続いた自民党の政治には、功もあり罪もあります。特に罪について言えば、①アジアとの付き合いの拙さ ②日米関係の拙さ。普天間問題はそのツケが回ったと考えるべき ③原発問題。とくに除染については手抜きをやってきた ④自民党には世襲政治家が多い
等々であります。それでも高度成長時代には何とかやってこられた。しかし今後は新しい政治理念が必要になります。そのため鳩山氏が首相に就任したのは極めて有意義でした。ただ惜しむらくは、彼には正しい理念があったのに、強かさとしぶとさが欠けていた。
3)政権維持にかける執念の欠如
 民主党の理念を実現するには政権を安定させる必要があります。しかし現実には衆参のねじれ問題があります。しかも与党内には考え方の不統一があります。沖縄の飛行場問題もその一つです。私は鳩山総理に、辺野古への移設に拘ったら失脚すると直言しました。しかし鳩山さんは考えを変えませんでした。もし政権維持に執念を持つならば、初志に反しても私の意見を聞くべきだったと思います。政権維持が本来の目的ではありませが、維持できなければ、やりたい政治が出来ません。地方に行くと未だに自民党の支持者が目立ちます。その点、よほど執念をもたないと政権維持は出来ないでしょう。
4)お任せ民主主義を越えて
 このテーマについては、菅さんに触れなければならないでしょう。菅さんと同じく私も小政党の出身なので、彼の考え方がよく分かります。そのため言いにくいことも直言しましたし、彼と仙谷さんとの関係が円滑になるよう、気配りもしました。そのほか私は、被災地で働くボランティアが働きやすくなるようにしたり、官邸の風通しがよくなるように努力しました。また菅さんの欠けている部分を出来るだけ補おうとしました。 この風通しの問題について、自民党はどうやっているか。親分子分の関係で育っていますから、意思の疎通については、打てば響くようになっています。しかし小党出身の私たちは、親分子分の関係がなく、いきなり大臣になったり、政審会長になったりします。そのため旧弊に縛られない大胆な発想が可能です。その反面、部下やサポートしてくれる人たちへの配慮に欠けることもありました。菅さんは一人でやってきた人ですから、その点が目立ったのです。
 さて問題はこれからです。鳩山さんも菅さんもいなくなって、三代目の首相になりました。私はこれからも粘り強く政治の質を高めるために努力していきたいと考えています。いままで主張してきたような、「新しい公共」や「社会的包摂」といったスローガンや要求型の闘争ではなく、実践型でやっていきたいと思います。その一方で国民が自分たちの責任を自覚して、自ら挑戦するようにリードし、そのための基盤を作るべきと考えます。

以上を読んで、皆さんはどう思いますか。標題とは全く違うことが9ページにわたってくだくだと書いてあるので、要約するのにずいぶん苦労した。そのくせ肝心なことは抜けている。例えば沖縄問題が混乱した最大の原因は、鳩山氏が「最低でも基地を沖縄の県外に移動させる」と約束したことだった。しかし、彼女はそれには全く触れていない。
私はこの辻本という人物の思考能力と文章力の貧困さに驚嘆した。これで、よくぞ政府の要職を歴任してきもたのだ。聞きたいのは、今まさに問題になっている民主党の政治そのものなのに、自民党の批判や自分の考え方だけをくどくど書いている。これこそ私が非難して止まない幼児型サヨクの実態であり、実力なのだと確信した。

2012年1月24日火曜日

日本のサヨク

結論を先に言うと、日本のサヨクは特殊だ。世界のサヨクとは全く異質のものだ。何故そうなったかは後述するとして、サヨク先進国での語源は次の通りだ。
           団体:the left又は the left wing
          個人:a leftist又は a left-winger
いずれもたんなる議会における座席の配置から生まれた呼称に過ぎなかった。それが何時しか特殊な意味を持ち始めたのは、その位置に座席をとる人たちが、特定の思想に偏っていたからである。この点までは日本の場合もよく似ている。しかし、日本のサヨクが、現在の特殊な思想傾向にいたる背景や内容は、世界のそれとは大いに異なっている。その最大の原因は、日本の“知識人”といわれる人たちに由来する。
 しからば日本の知識人には、どのような特徴があるのか。それについては2011年11月30日に、このブログ(雑想の森)の「日本人に自虐精神を植え付けたのは誰か」で触れておいたが、その内容を繰り返すと次のようになる。

 加地伸行大阪大学名誉教授によると、論語では知識人を小人と言い、教養人を君子と称するらしい。私は知識人には真正と似非の二タイプがあると考えていたが、この分け方は間違いだった。要するに知識人はすべて小人なのである。さらに言えば、文明の成果を重視するのが知識人で、文化を重んじるのが教養人ともいえよう。
 この分かりにくさを解くには、まず文化と文明の違いを理解しなければならない。文化とは、特定の民族がもつ感性と理性のすべてを駆使して創り上げてきた歴史的な成果の全てである。一方の文明は、理性によってのみ構築された成果であるから、文化のすべてをカバーすることはできない。ただし文明は、自らの成果である文字と文章およびその翻訳によって、自らの文化圏を越え、異なる文化圏にまで及ぶようになった。
 日本では幕末の門戸開放によって、欧米の文明を吸収したが、それも欧米の文字を媒体にして可能になったのである。そして欧米文明の内容を知るほどに、その異質性とレベルの高さに大きなショックを受けた。かくして欧米語に堪能になることは、異文化のうちの文明を知る大切な手段となり、欧米語の翻訳者には高い評価が与えられるようになった。そのあげく日本の知的エリートの大半は、すべて翻訳技能を通じて欧米文明の追随者となった。新しい日本型知識人の誕生である。この流れは明治から現在まで続いている。
 以上の背景のもとに現代日本の知識人は、すべて欧米の語学に堪能であり、さらには欧米文明の虜になった。いわゆる語学エリート=知識人の図式が形成されたのである。但しこの段階では、まだ教養人と知識人の区別はないし、文化と文明の区分もはっきりしていない。しかもこの図式は、敗戦によって一段と強まった。結果として日本の知識人の殆どが、欧米思想に基づく欧米文明にかぶれることになった。具体的な名前を挙げると、南原繁、丸山真男、大内兵衛、都留重人など社会科学系学者の殆どが当てはまる。社会科学は理性に基づく西欧型文明の精華であるが、同じ文脈上にある法学や商学もこれに該当する。さらには西欧文学も、この系譜すなわち西欧型理性の産物である。その意味では評論家の加藤周一や、フランス文学の泰斗とされる渡辺一夫についても同列に論じることができるだろう。したがってこれらの西欧かぶれの「一流!の知識人」が、敗戦を契機にして祖国である日本の全てについて、深刻な自国嫌悪の気分に犯されたのは無理もない。やがて祖国に対して、厳しい批判と反省の矢を放ち始めたのは、けっして偶然ではないのである。
 問題なのは、その自国嫌悪の言説を強引に注ぎ込まれた学生たちである。彼等は思想的には白紙の状態であったから、まるで吸い取り紙のように、何の抵抗もなく濃色の反日インクや自虐インク、更にはアナーキーインクを吸い込んだ。こうして戦後間もなくから団塊世代に至るまでの数十年間、自虐精神を植え付けられた反日知識人が大量に生み出されたのである。卒業後の彼等は、知的エリートとして政治家、産業人、教育者、官僚、マスコミなど社会のあらゆる分野で活動を開始した。しかしその実践の場では、いかなる著名な知識人の言説であっても、それが借りものの空論である場合は、インチキ性はたちまち露呈する。こうして祖国否定に染め上げる濃色のインクも、次第に色あせることになる。学生時代に洗脳された残滓を今なお引きずっている教え子の数は、たぶん少ないだろう。それでも絶滅したわけではない。とくに祖国否定の言説を拠り所にしている職業人には、他に生活の術がない。たとえば進歩的を自称する大新聞やその他のマスコミ関係者、特定のイデオロギーを固守する原理主義政治家、教育という職業の本分を放擲して自らの地位向上と保全だけに力を注ぐ教育者などはその好例である。
 戦後の日本人に自虐精神を植え付けた西欧文明一辺倒の一流知識人は、功なり名を遂げることが出来たが、後発の二流知識人はこの先も自らの職業的命脈が尽きるまで、自虐精神を拠り所にして祖国を誹謗し続けるのだろうか

  さて、この特殊な環境で育った日本の知識人の多くが、現在も知的職業といわれる仕事に就いたままである。列挙すると学者、評論家、高級官僚、教育者、マスコミ業、労組職員などである。もちろん彼等の中には、それぞれの職業の現場において、次第に現実に目覚める者がないわけではない。しかし、それ以外の多くは、リアリズムとは無縁の思考と行動のままである。この実態こそが、日本のサヨクが特殊扱いされる所以である。

2011年12月1日木曜日

バカ首相とズル首相の功績

民主党が政権につき、バカ首相とズル首相が二代つづいた。そのために日本が失った国益は計り知れない。しかし反面では、御本人たちの意図とは無関係に、思わぬプラス効果を生み出している。その最たるものは、今まで眠っていた国民の政治意識を目覚めさせたことである。端的な証拠が、今回の大阪の知事と市長を選ぶダブル選挙で、「維新の会」が大勝利を収めたことである。
 従来の日本の政治は、政治家ではない政治屋が牛耳っていたので、その低調ぶりは目を被わしめるものがあった。この惨状は国政と地方政治の、どちらにも共通している。それでも国政については、何かにつけ大きな事件が多いので、国民の関心もほどほどには保持してきた。しかし地方政治については、沖縄などの特殊な例を除いては、それほど関心がもたれていない。そのため政治ボスと自治体職員のなれ合いによる、いかさま政治や行政がまかり通っていた。たとえば大阪市などでは、「市の職員による市の職員のための市政」と言われるほどの状況になっていたわけである。
 国民の政治への目覚めは、バカ首相とズル首相の言行によって、国益が著しく損なわれている実態を知ることから始まった。同時に、新たに政治の中枢に座った民主党のメンバーが、いかに無能であるかも見届けた。
 しかし彼等を選んだのは誰か。国民はそれに想いが及ぶと、忸怩たる気分に陥らざるをえない。かくして国民は一念発起した。政治家を選ぶ選挙には、真剣に考え行動しなければならない・・・・・と。今回、大阪の選挙で維新の会が圧勝したのは、その覚醒の証拠である。

2011年11月28日月曜日

評論だけの政治家は退場せよ

今まで評論家タイプの政治家がのさばりすぎた。例えばこの2年間、民主党政権を担当してきた顔ぶれを見るとよく分かる。マニフェストなる御大層なものを掲げて選挙民の気をひき、政権を強奪した結果はどうだったのか。  民主党の面々は、野党時代に舌鋒鋭く自民党の政策や行政を追求してきた。しかし立場が変わると、その内容の貧弱さを白日の下に曝すことになった。評論家は、しょせん評論家に過ぎないのだ。揚げ足取りや、一点集中型攻撃の論理構成がいくら巧みであっても、現実の政治には何の役にも立たない。鳩山元首相は、自ら招いた普天間問題処理の行き詰まりで「この問題の複雑さと難しさをはじめて知った・・」と述懐したが、その率直さと正直さは賞賛されるべきだろうか。とんでもない話だ。鳩山氏だけではない。この程度の状況認識しか出来なかった民主党の評論家型政治家は、全員揃ってきれいさっぱり身を引くべきだろう。

2011年11月24日木曜日

原理主義政治家を排除せよ

 蕗の董から空を見るというのは、天下を微視的あるいは局地的にしか見ないやり方を揶揄する言葉だ。しかしその逆はどうだろう。つまり天から蕗の董を見るということ。それでは現実は全く見えないだろう。しかし日本では、そのやり方がまかり通る。例えば社民党の福島党首のような、原理主義者または観念論的理想主義者はその典型といえよう。この程度の甘い思想や言説に惑わされる日本人は本当にふがいない。次の選挙では、この種の政治家を根絶やしにしなければならない。さもなければ日本の将来は危うい。世界の政治はすべて現実的に動いていて、観念だけで成り立っている国は一つもない。

水清ければ魚棲まず

知り合いの外資系企業の駐在員(イタリア人)は、日本語の勉強を兼ねてよくテレビの時代劇を見るそうだ。その感想がなかなか面白い。たとえば水戸黄門が、なぜあんなに人気があるのか理解できないという。パターンはいつも同じで、悪代官を懲らしめるというストーリー。腑に落ちないのは、あの程度の些事が問題になることだ。賄賂を取ったり、善良なライバルを陥れたりすることのどこが悪い。わが祖国イタリアで、そんなことを一々取り上げていたら、行政どころか社会そのものが成りたたなくなる。
 その意見を聞いて直ちに連想したのは中国だ。ついでに水清くして魚棲まずということわざも思い出した。このような大らかな意見を聞くと、昨今のわが国の政治の混乱は、いかにも子供っぽく感じられる。マスコミの記者諸君は、たぶん宝塚少女歌劇のファンに違いない。政治家を論評する視点はただ一つ、“清く正しく美しく”だけなのだ。たとえば生き馬の目を抜く国際関係についての、政治家の見識や能力をどのように評価するのだろう。

2011年9月20日火曜日

暗愚な君主は奸臣に騙される

 現在の政治形態を極言すると、専制政治と民主政治の2つしかない。専制政治において、君主になるのは特定個人すなわち王様や皇帝である。一方の民主主義の場合は、国民大衆が君主といえるだろう。
 興味深いのは、政治形態が上記の何れであっても、その国の命運は、君主が賢明か否かで決まる。たとえば専政政治の例を支那の歴史で見てみよう。当時の超大国であった明は、名君とされる洪武帝や永楽帝によって大いに繁栄した。しかし武宗から世宗へと愚君が2代続き、それ以後は衰退の一途を辿った。きっかけは君主の愚昧さを奸臣につけ込まれたからである。
 民主政治が主流になっている現在はどうだろう。直近の日本の例を挙げてみよう。上の論法でいえば、この国の君主は国民である。したがって首相の立場は、国民の下僕ということになる。そのため国民大衆という主人が愚昧である場合は、奸臣すなわち首相以下の閣僚に誑かされることになる。国民にとって、奸臣と言うべき鳩山氏や菅氏を擁する民主党を選んだのは誰か。つまり愚かな君主“国民”自身ということになる。そして、それを唆したのはマスコミというわけだ。天を仰いで慨嘆したい。

2011年8月3日水曜日

政治とテロ

特定の政治家に対する不満が鬱積すると、対抗手段を持たない大衆は、その人物を標的にして直接的な反撃を敢行する。それは民主や独裁といった政治の体制には関係ないし、後進国とか先進国といった区分にも関係はない。方法はいろいろあるが、なかでも過激なのがテロ行為である。日本も例外ではなくテロ事件は、明治から昭和にかけては頻発した。ただ、1960年10月に日比谷公会堂で起きた浅沼稲次郎暗殺事件の後は、小競り合い程度のもの以外は見受けなくなっている。
 ただし今は沈静化しているからといって、今後も発生しないとは断言できない。政治とは、本来複雑な利害や思惑が交錯するものであり、その対立の中には、妥協や融和が絶対に出来ない部分が存在するからである。確信犯という犯罪名が存在する事実がそれを証明している。
 政治を行う者は、この現実とリスクを十二分に知悉していなければならない。その危険にも拘わらず、使命感に燃えて自らの政治理念を実現しようとしなければならない。それを支える原動力は、おそらく「覚悟」というものであろう。この覚悟なしに、マニフェストの類いをぺらぺら喋るごときは、たんなる口舌の輩に過ぎないということになろう。
 先だって某誌で、小泉進二郎自民党代議士が、父親の小泉純一郎について語った記事を読んだ。それには「あの郵政民有化を巡る大政争において、父は刺客に狙われることを覚悟して、いつも腹に晒しを巻いていました」と書いてあった。
 宰相であれ陣笠代議士であれ、その人物の経綸がどの程度のものかは、その場限りのパフォーマンスやぺらぺら喋る内容だけでも十分窺い知ることができる。しかしテロに対する覚悟があるかどうかは分からない。

2011年7月20日水曜日

浅薄な似非アナキスト

 先日(2011年6月6日)の毎日新聞に、驚くべき記事が掲載されていた。菅首相夫人・伸子氏の発言である。
「・・・・菅の原点はゲリラ、市民ゲリラということ。それをもっと思い出してもらわなくちゃ。昔からの支持者から、それをさんざん言われる。あと少ししかないから、何かやってくれないと面白くないよって。私もそう思う」。このような考え方の人物に、我々は国政を任せてしまったのである。あきれ果てて天を仰ぐしかないのである。
 そもそも菅首相は市民運動家として政治活動をやってきた人物だから、その基本的な考え方はアナーキズムに近い。アナーキズムとは、我々が依拠する現実の社会秩序や価値観の全てを否定する思想である。したがって、自分が属する国家、歴史、倫理、家族関係などのすべてに反感をもっている。そしてつまるところは、これらの破壊こそが目的になるのである。その文脈でみると、彼が首相に就任して以来の脈絡のない非建設的な行動が、ある程度は理解できる。ただ少しずつ明らかになってきたところだが、彼はどうも本物のアナキストではないようだ。そのために破壊といっても中途半端だ。したがっていずれは、これらの支持グループにも、次第に見放されていくのではないか。
 アナキストの破壊活動は、はじめはゲリラ行為によって遂行される。しかし菅氏だけでなく、彼を取り巻く民主党政権の面々は、予算編成のシキリで見せつけた稚拙さのように、いずれも中途半端だ。その意味では、まさに似非アナキストでしかない。だからゲリラ活動も半端だ。本物のアナキストであれば、破壊の徹底度が違う。しかし菅氏にはその能力も覚悟もない。ただ社会の不満分子に迎合して、現存の何かを思いつきで否定してきただけだ。その行為だけが、まさにゲリラ活動なのだ。同じゲリラやテロといっても、この点はアラブの本格的ゲリラとは違うところだ。

2011年6月16日木曜日

官僚機構の改革

 経産省の中堅幹部、古賀茂明氏の著作「日本中枢の崩壊」が、いまベストセラーになっている。この人の名前は先般の参院予算委員会において、当時の仙谷官房長官から「よけいなことは言うな」と、恫喝されたことでよく知られている。

 この本を読むと、行政の中枢にいる日本の官僚たちが、いかにモラルダウンしているかがよく分かる。言うまでもなくこの問題は、今に始まったことではない。半世紀以上も前から、ことあるごとに指摘されてきたことである。そして今や、それによる国益の損壊は臨界点に達しているのだ。ただし、ここでは少し冷静に考えてみよう。官僚機構やそれに携わるメンバーについて、すべてを否定しなければならないのだろうか。また、これに代替できるやり方はないのだろうか。
 再考するについては、官僚という概念について本質的な研究を行ったマックスウェーバーの言説を想起してみたい。彼は官僚組織の本質を“階層型”として認識し、その運営の方法については“形式化”と“規則化”の二面で定義した。これら3つの特徴は、政府機関に限らない。維持と効率化をめざすあらゆる大組織が備えているものである。さらにこれらの組織体は、経験によって多くの原則を確立した。主なものを列挙すると次の4つである。
・ 権限委譲の原則
・ 階層化の原則
・ 専門化の原則
・ 文書化(標準化)の原則

 行政もこれらの原則に基づいて行われるが、その実績記録の長期間にわたる蓄積は、気が遠くなるほどの膨大で特殊な知識体系となった。ただしこれらは、第三者にとって法規条文のジャングルである。このジャングルは部外者を疎外し、専門家つまり官僚の独占物となる。しかしそのジャングル構築の意思決定者は、政治家であって官僚ではない。彼等はそれを執行するだけである。したがって条文を執行する官僚の行為を批判するのは、誤りでもあるのである。この膨大な知識ジャングルに無知な民主党の某代議士が、シキリと称して予算編成に容喙し、見当違いの官僚いじめで顰蹙をかったのは、その典型といえるだろう。
 官僚機構の改革がいかに困難であるかは、直近のわずかな例を見ても明らかである。だからといって、改革が不可能とか不要であると考えてはならない。沈滞気味の日本を再び蘇らせるには、改革はどうしても必要なのだ。問題は、その大事業をどのようにして進めるか、つまりトータルデザインと展開の方法論である。
 たしかに一部官僚の腐敗問題も看過すべきではないが、それの浄化だけでは本質的な解決にはならない。パーキンソンの法則にもあるように、もともと人間が構築する組織には自らを堕落させる要素が、宿命的に内蔵されているのである。したがってそれの浄化作業は、永遠に避けることはできない。そのためここでは、それとは全く別の対策を提案したいのである。
 官僚制度の致命的欠陥は、上で述べた官僚機構を運営する4つの原則そのものに内在している。すなわち権限委譲、階層化、専門化、文書化(標準化)を改めなければ、抜本的な改革は出来ない。しかし、そのようなやり方が果たして可能だろうか。もちろん現時点では無理だ。そうであれば、そのやり方を新たに創造するしか術はないのである。
 そもそも4原則を貫く基本的な考え方とは何か。それはタテワリ思考の一語に尽きる。そしてその前提は、対応すべき社会環境に変化がないという認識である。したがって4原則を作り替えるには、前提を否定してタテワリ思考の対極にあるヨコワリ思考を、取り入れなければならない。そのようなことが可能だろうか。もちろん可能だ。産業界では既にやっていることなのだ。常に環境の変化にさらされるビジネスの世界では、間断なく創造的破壊に挑戦しなければ生き残ることができない。したがっていったん定着した組織体制も、その陳腐化が意識されるようになると、なんの執着もなくスクラップ&ビルドを断行するのである。
 いまこそヨコワリ思考に基づいて、日本の官僚機構を再編成しなければならない。その試案を提案しよう。それには先ず現在の政府組織を俯瞰してみよう。それは以下の省庁で構成されている。
内閣官房、内閣法制局、人事院、内閣府、総務省、法務省、外務省、財務 省 、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省、防衛省
 この体制をタテ思考というならば、ヨコ思考とはどういうものか。それは環境変化に応じるために、プロジェクトを編成することである。たとえば災害復興プロジェクト、人口減対策プロジェクト、円高是正プロジェクト、千島四島奪還プロジェクトといったようなテーマである。これらの大課題に対しては、従来型のタテワリ行政手法や組織ではとても歯が立たない。もちろん従来型の知識ジャングルのデータベースから、事例や解答を検索することもできない。
 要するに新たな創造活動によってしか対応できないのだ。そうだとすれば、方策は一つしかない。柔軟で創造力のある人材を、各所からピックアップしてプロジェクトチームを編成し、それに対策立案を委ねることだ。ヨコ思考による再編成とは、このやり方をいうのである。この組織の形態を、産業界ではマトリックス型と称している。このブログのフォーマットでは、マトリックス組織を図示できないので、敢えて文章によってそのイメージを説明しよう。
 まず碁盤のようにタテとヨコに直線を引く。そして横軸の最上欄に、省庁名を一つずつ列挙する。次に縦軸の最右欄に、プロジェクト名を順次記入する。次に省庁名とプロジェクト名が交差する部分に、当該プロジェクトに適した人名を記入する。
 この作業は文章で書けば簡単だが、実際は大変な作業である。何しろ対象にする官僚の数は膨大な数になる。しかも、そのメンバーをプロジェクトに当てはめるについては、適任者を選択しなければならない。ただし、その選択については、プロジェクトの目的と内容も熟知していなければならない。この大仕事を進めることが出来るのは誰か。たぶん個人では不可能だろう。したがってここでもまた、プロジェクトチームの編成が必要になる。この仕事のための新しい専門家も生まれるだろう。またその専門家を抱える専門組織やビジネスも生まれるだろう。この際限のない営為を、堂々巡りと断じて諦めるのは簡単だ。しかし諦めたら、官僚機構の矛盾は永遠に解決できないことになる。
 マックスウェーバーは官僚機構の本質を見事に解明したが、その改革案を提示しなかった。現代に生きる我々も、その問題点はよく分かっているが、これらを抜本的に改革するシステムを考案するには至っていない。事務処理の効率化、綱紀の粛正、天下りの抑制、エリート意識から公僕意識への転換など、さまざまな改善が試みられてきたが、いずれも官僚機構がもつ本質的な問題の解決にはならない。そのため、ここでは一つの試案としてマトリックス組織方式を提案する。この大仕事をドンキホーテに成り果てないで、チャレンジし続けるにはどうすればよいか。課題はいくつもあるが、特に重要なのは次の2点であろう。
① 機構改革プロジェクトの形成を、ルーティン化すること。
官僚機構が関与するテーマは、経済、教育、外交、治安など国民生活のあらゆる分野に及び、その内容も経験したものだけではなく、未経験のものも含まれる。当然ながら安定時代には経験案件のウエイトが高いが、近年のような激動の時代には、未経験案件のウエイトが高くなる。したがって官僚機構が長期間にわたって蓄積した膨大な知識データベースでも、対応しきれないことが多くなる。それに対応するには、新たな経験知識を形成するしかない。しかもその頻度が高いとなれば、その作業を本格化ないし日常化しなければならない。もはや定常業務の片手間では不可能になるからだ。かくして官僚機構の知識ベースのリニューアルプロジェクトは、ルーチン化されることになる。

② 組織原理を単一型でなく複合型にすること。
比喩的にいえば、組織メンバー全員に第一住所と第二住所の二つを与える。まず第一住所に在住するときは、膨大な従来型の知識ベースを基にして業務を行う。仕事の内容は、原則として従来やってきたのと同じである。一方、第二住所に移された時は、第一住所とは全く違うプロジェクト業務を行う。仕事の内容は、上で説明したとおりである。
 以上のように官僚機構を階層型と機動型の組み合わせにして、組織構成員をその二つに所属させること。そしてその実践の中から、澱のようのように溜まっている積年の弊を浄化し、未解決のまま放置されてきた課題を、新しい発想や方法で解決していくこと。この営為こそが、いま多くの批判を受けて閉塞状態になっている官僚組織を、新時代に適合させる最も有効な方法と考える。

2011年5月22日日曜日

generalityとspecialty

 アメリカの元大統領カーター氏は大変な教養人で、その該博な知識は51分野に及ぶといわれた。しかし重大な問題がおきたときに、その深い教養を生かすことが出来なかった。問題を解決するには、その本質を洞察して対策の“優先順序”をつける必要があるが、彼はそれができなかったらしい。そのため知識はあっても、generalityが欠けていると批判されたのである。ただし辞書でgeneralityを引いても、そのようには訳されていない。たんに一般論や概論となっているだけである。しかし私としては、この批判がgeneralityという言葉の本質をついているように思われるのである。
 東日本大震災における菅首相の言動は、generalityの欠如、すなわち優先順序を付ける能力がない見本のようなものだ。いきなりヘリコプターで現地を視察し、原子炉への海水注入を中断させたからだ。彼は大学で原子力関連技術を学んだというが、今回はそれをひけらかす絶好の見せ場にしたわけだ。しかしそのパフォーマンスが、問題の早期解決にどれだけ障害になったか、徐々に明らかになりつつある。
 この事例を見てspecialtyが役に立たないとは言わない。そうではなくて、御本人はspecialtyがないことを証明したのだ。大学を出て既に何年になるのか。そのキャリアーの大半は市民運動のアジテーターとして、政治活動をやってきたのだから、ご自慢のspecialtyなど既に陳腐化している。それをひけらかす無神経さに驚かされるのだ。
 この人物のSpecialtyは論外として、generalityはどうなのだろう。これこそ政治家として最も大事な資質といえよう。たとえば首相の座についた最初の発言を思い出してみよう。そのころ円高が目立ちはじめていたが、たしか92円前後だったと思う。それを彼は思わせぶりに、96円あたりが妥当だと宣ったのだ。しかし現在にいたるまで、そういう相場は、ただの一度も実現していない。また全く見当違いの場面で、“乗数効果”という経済用語を口走り、専門家の失笑を買った。これではgeneralityの前提になる一般教養にも欠けていることになる。もちろんカーター氏の例のように知識があっても、それだけではgeneralityの本質とはほど遠い。しかし菅首相の場合は、generalityの本質どころか、その前提さえ欠けているらしいのだ。
 Generalityとspecialtyの、その何れも怪しい人物が現在の地位に上りつめたのは何故か。野党時代の揚げ足取りに特化したスキルとパフォーマンスに、国民の多くが幻惑されたからであろう。我々は一日も早く、この悪夢から目覚めなければならない。

2011年5月4日水曜日

史上で稀なる首相

 管直人氏が首相の座について現在に至るまでの、言動の一つ一つを検証してみると、成る程と納得できることが一つもない。この事実は、まさに驚嘆に値する。首相といえども人間だから、一つや二つの誤りを犯すことは不思議ではない。事実、歴代の首相をみても、完全無欠な政治を行った人物はいない。
 しかし菅首相のように、やる事なす事すべてが納得できないというようなことはなかった。何故そうなのか。その根本的な理由は、この人物の人格と、政治信条の二つにおいて理解することができる。 ただし、ここでは人格については触れないことにしよう。そのいかがわしさについては、既にマスコミ辺りで十二分に話題にされているからだ。
 結論からいうと、管首相の政治理念は限りなくアナーキズムに近い。それは彼の“市民運動家”という政治活動の出自に由来する。では市民派の定義、またはそれを特徴づける本質は何か。最大のポイントは、国家という概念の欠落、あるいは国家概念そのものの否定である。そして市民派運動家が行動している内容も、基本的にアナーキズムというべきであろう(白水社クセジュ文庫:アナーキズムを参照)。その考え方を要約すれば、反秩序と反権力の思想である。ただ反秩序についてはあまりに馬鹿馬鹿しいので、ここでは反権力についてだけ述べておきたい。
 この連中が抱いている“権力”のイメージは、たとえばナチスドイツ時代の権力や、軍国主義日本時代のそれらしい。しかし現在の自由主義国家においては、そんなものは全く存在しない。現在における権力は、たんに行政上の機能に過ぎないのだ。具体例を挙げよう。税金を徴収するのは権力である。交通法規を守らせるのも権力だ。暴力を取り締まるのも権力である。現在の民主主義国家における権力とはこのような類いのもので、これを称して行政上の機能というのである。
 ところで権力の意味を拡大解釈し「反権力」をスローガンにして暴走したらどうなるか。その具体例が50年代の全共闘運動である。勝手につくりあげた権力という妄想に挑戦して、とんでもない大騒動をひきおこした。今こそ、その総括の時期であるが、当時の活動家にコメントを求めても、ほとんどは黙して語らないという。市民の常識に戻った今となっては、若気のいたりと恥じるからであろう。
 しかしながら不思議なことに例外があるのである。それが今の民主党政権の中枢メンバーである。菅首相は、まさにその一人なのだ。しかし今、ご本人は当時の行動を総括しようそのとはしない。その結果が現在の政治的迷走をもたらしているのである。国民の不幸、ここに極まれりというしかないではないか。

2011年4月24日日曜日

東電いじめをやめよ

 原発事故が発生したとき、菅首相は東電の本社に乗り込み、同社の幹部を大声で罵倒した。重大場面で、このようなはしたない行為をやるのは、軍隊で言えばせいぜい大隊長レベルである。それを一国のトップがやってのけるとは、とても信じがたい。しかし、このはしたない現場主義?をきっかけにして、東電いじめの罵声は日本のあらゆる分野に蔓延した。それを列挙すれば、まず監督官庁である。次いでマスコミ。さらに反対派の学者。そして地方政治家とつづく。とくに4月23日夜のNHKニュース番組に登場した、福島県知事の傲慢な態度には、腹が立つより悲しみさえ感じさせられた。ひたすら頭を下げて謝罪する東電の社長を、傲然と見下ろしたままで突っ立っている。そして手にした文書をおもむろに読み上げ、「あなたはこのように苦しんでいる県民のことをどう考えているのか」と詰問する。この知事自身は、顔色もよくつやつやしていて、とても憔悴しているようにはみえない。おそらく快適な自宅で十分に睡眠をとっているに違いない。そしてマスコミの取材を意識して、執拗に責任を追及するのである。彼の念頭には、おそらく次の知事選挙があるのだろう。それが私の僻目かどうかは、いずれ明らかになるだろう。
 この事例はあまりにお粗末すぎるが、他にも似た話はいくつもある。当初はそれほどでもなかったが、今では被害住民の多くが、ひたすら東電の責任を追求するようになっている。その原因の多くは、マスコミの報道姿勢にあると考えてよいだろう。
 しかし本当のところ、責任の全てが東電にあるといえるのだろうか。それに答えるには、まず我が国が原発を導入するに至った経緯を振り返らなければならない。少なくとも東大を始めとする大学教授や専門家たちが、基本設計を描いたはずだ。それを諮問したのは、当時の政権政党であり政府である。さらに拡大すれば、国全体と言ってよいほどの大多数が賛成したのである。もちろん、このような大事業を伊達や酔狂ではじめるわけがない。日本のエネルギー消費の将来を考えた末の結論だった。つまり原発導入は、国民全体の合意で行われたのである。民主党の中には、自民党がやったことで自分たちは関係ないとうそぶく人がいる。しかし、それはないだろう。革命政権ならいざ知らず、政権を引き継ぐこと自体が、了解したことになるからだ。
 上述のように、原発そのものの導入責任は追求できないとして、次に問題になるのは原発設備の故障責任を誰に負わすかである。なにしろ1000年に一度の地震と津波である。それを見込まずに設計したといって責任を追求できるのか。さらに言えば、この分野で、東電が負うべき責任がどの程度あるのだろう。東電はたんに上述の専門家たちによって設計された設備を、忠実かつ正確に導入し運営してきただけなのだ。
 結論はたぶん、犯人捜しをしてもしようがないということであろう。大切なことは、これを教訓にして、将来は一そう高度なシステムを作ることだ。そして最高責任者は、八つ当たりしたり、かんしゃく玉を破裂させるようなことをしてはならない。その行為自体が、トップの資格なきことを証明することになるからである。

2011年4月8日金曜日

なにも知らない素人は政治主導ゴッコをやめよ

 枝野官房長官が毎日やっている災害状況報告をやめてほしい。長々くどくどとしゃべり続けるわりには、聞く方にとって何の参考にもならない。私などはこの長官がテレビ画面に現れた途端に、パチンとスイッチを切ることにしている。要するに専門家からの受け売りを、伝声管のように読み上げるだけだ。ときたま注釈らしき説明がつくが、たんなるトートポロジー(同語反復)に過ぎない。
 何故にこのような面倒な手順を踏まなければならないのか。こたえははっきりしている。民主党は政治主導をスローガンにしてきたので、それに拘っているのだろう。しかし国民としては、民主党の面子など関係ない。要するに的確な情報と判断、それに基づく政府の覚悟と方針を聞きたいだけだ。災害発生以来、国民はそれに値するメッセージを聞いたことがない。それを持っていない半可通な素人のお話は、まさに政治主導というお遊びにしか見えないのだ。
 本当に深刻な問題は、別のところにあると思う。最高責任者やそれに続く閣僚や政府高官には、確固とした方針を立てる能力がないのではないか。たとえばフランス大統領のサルコジのような・・・・。今のようにパフォーマンスだけで、無能をごまかしてもらっては困るのだ。
このように国民が慨嘆している間にも、事態は悪化の一途を辿り、ついに我が祖国・日本は破局を迎えるかもしれない。野党時代に揚げ足取りだけに専念していた政党を、あからさまに支援したマスコミの無責任さや、それに乗せられた我々国民の軽率さが、このような悲惨な付けとなって回ってきたのだろうか。

2011年4月3日日曜日

無能レベル

 昨年(2010年7月)に亡くなった梅竿忠雄京大名誉教授は、実にユニークな発想の持ち主だった。その代表作「文明の生態史観」や「オタマジャクシの群れ形成の数理」「情報産業論」などエポックメーキングとなる著作は数多くある。その一方で、産業化社会では不可欠とされる組織運営の実態を観察し、ユーモラスで鋭い提案も行っている。無能レベルという概念は、その最も顕著な例の一つといえよう。これを簡単な例を用いて説明すると、以下のようになる。
 軍隊は典型的な階層組織であるが、そこに大へん優れた兵士がいたとする。その能力を高く評価した上官は、彼を下士官に推挙した。この地位でも彼は能力を発揮したので、やがて小隊を束ねる士官に昇進した。しかしこの段階で問題が発生した。部下たちが彼の能力に疑問を持ち始めたのである。小隊ともなれば、それを構成する人員は100名前後になるはずである。いかに上意下達の世界といっても、その中には様々な個性が充満している。それを束ねていくのは簡単なことではない。この新米小隊長は、まずこの問題に対処できなかった。更にもう一つ。これこそ最も本質的なテーマであるが、彼は戦場の状況に応じた戦術構想を立てることができなかった。十数名の部下を使って、上官の指示を忠実に遂行する実務能力には長けていたが、それ以上のことはできなかったのだ。つまり彼の能力は下士官レベルであって、小隊長という地位は無理であった。これを無能レベルというのである。
 同様の事例は、企業内でも屡々みることができる。課長まではよくできたが、次長になった途端におかしくなった。次長までは無難だったが、部長になると失速したという話だ。これらの悲喜劇はすべて無能レベルという概念で説明できる。
 さて問題は、日本の政治を迷走させている菅首相の無能レベルが、どの辺りにあるかということである。分かりやすくするために、企業組織の地位で考えてみよう。率直にいって、とても社長とは考えられない。企業ではこの人物のように、パフォーマンスだけで生きている輩をゴキブリ社員という。それだけでは部長はおろか、課長にも値しないのである。野党時代には、揚げ足取りのスペシャリストとして名をはせたとしても、実践の場では何の役にも立たない。

2011年4月2日土曜日

サルコジ大統領と菅首相の違い

 3月31日、フランスのサルコジ大統領が震災慰問のために訪日した。官邸を空っぽにして、総指揮者としての役割をすっぽかし、ヘリコプターで原発の事故現地に赴いた菅首相の、ちまちましたパフォーマンス的言動と比べて、そのスケールの大きい行動力に感嘆する。
フランスでは発電量の80%を原発に依存している。だからこれが否定されるような事態になれば、産業政策の根幹に関わる重大事に発展するのである。しかし同じユーロー加盟国であっても、ドイツは原発の導入に消極的だった。最近になってメルケル首相の努力で、ようやくやる気になっていたのに、折悪しくも今回の事故だ。おかげでドイツ南西部バーデン・ビュルテンベルク州では、27日にあった州議会選挙で連立与党が敗北し、環境政党・緑の党が躍進することになった。その結果をみてメルケル首相も、「福島原発の大事故を巡る議論が敗因となったのは明らかだ」と述べざるを得なかった。かくしてフランス大統領の来日は、まさに国のエネルギー政策の成否に関わると判断した、果敢な政治戦略的行動なのである。
そもそも日本とフランスは、原発の発電量において世界の3位と2位をしめるのだが、今回のような非常事態が発生すると、産業を守ろうとする政府と、そうでない政府の違いがはっきりあらわれる。サルコジ大統領にはフランス一の原発企業のトップも同行し、あらゆる援助を惜しまないと明言してくれた。
 しかし我が国の首相は、まず東電を罵倒し、そのあとヘリコプターで現地を視察するというパフォーマンスを演じてみせた。このアクシデントを政治的に利用しようとする思惑が見え見えだった。サルコジとは、動機もやり方も全く違うのだ。そもそも菅首相が市民党を自称していた野党時代は、原発には反対していたはずだ。彼の当時の主張は、大切なのは消費的な市民生活だけであって、それを保証するための企業の産業活動には極めて冷淡で、ときには否定的でさえあった。しかし評論家ではなく、政治の当事者となった今となっては、産業振興の重みに気づいたというのだろうか。

2011年3月28日月曜日

“愚の骨頂”内閣

 民主党が政権の座について以来、国民の一人として私は、ただの一日も平穏な気分に浸ることができない。このブログでも、鳩山内閣が外交面でやらかした数々の失策について批判する余裕がない。後を継いだ菅首相が、いま現在進行中の東北関東大災害に対して、極度の無能ぶりを露呈しているからだ。この人物がトップでいる限り、日本の将来は真っ暗である。なぜ私は、かくも激しく不安と焦慮に駆られるのか。

トップに位置する人物を選ぶ最も重要な基準は、「問題を複雑かつ多角的に捉えたのち、決定と行動を単純化する」能力の有無である。これに対して、最も避けなければならないのは、「問題を単純に捉えて行動するため、対策と行動を複雑にしてしまう資質?である。菅首相の場合は、まさにこれに該当する。
たとえば大地震発生の報に接すると、現場視察と称して超多忙な現地に赴き、関係者を激励したり叱責したりした。そんなことが何かの役に立つと思うのだろうか。たんなるパフォーマンスに過ぎないことは、誰の目にも明らかなのに・・・。
その間、政府の司令塔はがら空きで、総合的な管理と指揮は全く不在になってしまった。その後、事態の進展とともに問題はどんどん複雑化する。つまり単純に考えて行動したので、彌縫策を次々と発令せざるを得なくなったのだ。いわく被災者生活支援特別対策本部、原子力災害対策本部、電力需給緊急対策本部、節電啓発担当大臣の任命、震災ボランティア担当の首相補佐官任命等々めまぐるしい限りだ。しかしそれぞれの新設部門の業務は、お互いが重複したり既存部門との関連が不明確で、現場では訳がわからないと悲鳴を上げている。
その一方で、従来からある最も重要な中央防災会議は一度も開いていない。菅首相は。この会議の存在自体を知らないらしい。この会議のメンバーは、首相と全閣僚、日銀総裁、日本赤十字社社長、そのた専門家や有識者で構成されている。上述した急ごしらえの素人集団とは専門度が違う。しかもその配下にはそれぞれの専門組織があり問題処理能力は高い。これをすっ飛ばして、右往左往する素人集団に大げさな肩書きをつけるだけで、問題が解決できると思っているのだろうか。“愚の骨頂”内閣による日本の不幸は、まさに拍車をかけつつある。