2008年6月26日木曜日

相変わらずの上昇神話

 NHKスペシャルの「沸騰都市」シリーズで、5月28日に放映された「ドバイ」と翌日の「ロンドン」は、それぞれ見ごたえがあった。2つの都市に共通するのは、経済活動が異常なほど活発なことだ。ドバイの場合は極端な開発ラッシュで、海岸を埋め立てるだけでなく、海中に人口の島を作り始めた。そこに世界中から富豪を集め、贅沢な別荘生活を楽しんでもらおうという計画だ。そのシンボルとなる高層ビルの高さは、800メートルに及ぶという。ロンドンの場合は、いかにもお国柄を反映して、世界一の金融センターになることを目論んでいる。すでに結果は表れていて、今や実態はニューヨークを凌駕しているらしい。
 この二つの都市に共通するのは、現在の活況が将来も続くという期待に支えられていることだ。ドバイの場合は開発が開発を生み、一日単位で地価が上昇している。その期待利益を元手にして、別の開発計画に出資する。その出資は更なる利益をもたらす。まさに投機が投機を生む循環プロセスである。同じようにロンドンは、思い切った金融市場の自由化によって世界中から金融資金が流入した。当初はウインブルドン現象と揶揄されたように、ロンドンの市場で活躍するのはモルガン、ゴールドマン、メリルリンチなどの外国企業が目立T、イギリス企業の影は薄かった。しかし今やロンドンは、単なる場所貸しから世界の金融センターに変貌した。規制をきら投機ファンドをはじめ、世界中の金融資金がロンドンの投機市場に流入する。資金は資金を呼び、止まることを知らない。
 しかし経済活動で、無限の成長ということがあるのだろうか。すでに日本では土地神話に基づくバブルの崩壊を経験している。またアメリカでは、サブプライムシステムによる節度なき信用創造によって、底なしの金融不安に慄いている。
 沸騰都市といわれるドバイとロンドンを支えているのは、結局のところ相変わらずの上昇神話に過ぎないのではないだろうか。今後の成り行きが気がかりでならない。

2008年6月23日月曜日

文明コンプレックスの克服

 韓国の英語熱は相当なものらしい。英語を第二公用語にせよという論者もいるという。お陰で日本もとばっちりを受けている。日本人の英語力は、韓国人と比べてレベルが低いと馬鹿にされている。とくに発音については、くそみそだ。日本の悪口を言えば喜ばれるお国柄だから、格好の餌食になっているわけだ。おなじ植民地になるのだったら、英国やフランスに支配されたら良かったという知識人さえいるという。
 しかし日本も、こと英語コンプレックスに関しては、けっこう情けない時期があった。今でもその傾向がないわけではないが、その発端はたぶん明治の文明開化にあるらしい。長い鎖国の眠りを覚ましてくれたのは、浦賀にやってきた巨大な鋼鉄の軍艦だった。そのあと蒸気機関車をはじめとして、次々に持ち込まれた西欧の便利で珍奇な品々は、まさに驚きと憧憬の的になった。そして国をあげて、これらを作り出す西欧諸国から、できるだけ多くを学びとろうと奔走した。とくに進取の気性に富むもの達は、競って蘭語や独語、英語など欧語の習得に励んだ。
 何しろ西欧から持ち込まれたものは、きらびやかな物品に限らず芸術、軍事、交通、建造物などすべてがすばらしかった。したがって興味の的が、これらを生み出した文明そのものへと広がったのは当然の成り行きである。こうして西欧型の知識体系も、急ピッチで国内に普及するようになった。この動きに最も敏感だったのは知識人や学者であった。しかも彼らが求める知識の多くは、西欧文書の翻訳から得ることができた。日本の知識人が西欧語の習得を最も重視したのはそのためである。
 文明すなわち知識の内容は、形式知である。したがって言語によって伝えることができる。しかし言語で表現できないもの、すなわち文化の内容はいかに優れたものであっても、言語で伝達することはできない。それ故に暗黙知といわれるのである。軽率にも日本の知識人はこの点を見落していた。文化と文明のすべてを言語で表現できると考えた。さらに言えば、文化と文明の区別もしていなかった。それゆえ西欧に対する文明劣等感は、文化劣等感にまで及んだのである。
 形式知の母体は暗黙知である。別の表現をすれば、文明の母胎は文化である。文明開化以来、日本は国を挙げて西欧文明の習得に熱中し、ついにそれと肩を並べるようになった。もはや学ぶべきものはほとんどない。対等の立場で競い合うだけのことだ。しかし知識人の多くはそれに気付かず、閉塞感に苛まされている。西欧文明の翻訳つまり模倣しかやってこなかったからである。彼らには翻訳による模倣はできても、創造はできないのだ。
韓国が英語熱にうなされている現状は、よそ事ではない。日本も同じ道を歩んできたからだ。つまり文化と文明を混同してきたのである。しかし、今や日本は文明と文化の違いに目覚めた。その契機となったのは、科学技術を中心にした西欧文明のエッセンスを、学び尽くしたことに気づいたからである。21世紀の今、西欧型文明の限界は誰の目にも明らかである。環境破壊、地球収奪型経済の破綻、破滅型兵器の独占体制崩壊など枚挙すればきりがない。この閉塞状態を破るにはどうするべきか。答えははっきりしている。西欧型文明を盲信しないで、新しい文明の開発に着手することである。その出発点は、文明の母体である文化の再確認から始まる。日本文化の研究は、いまや緊急の課題である。

2008年6月15日日曜日

国の借金は800兆円!

 財務省によると19年12月末現在、国の借金は800兆円を越えたというという。日本の国家予算の規模は80兆円程度だから、その10年分だ。この数字を見て政策担当者や評論家の一部は、まるで財政破綻が迫っているように騒ぎたてる。しかし一方では、日本の個人金融資産は1545兆円あるから大丈夫という論者もいる。国の借金800兆の殆どは国債であり、その所有者の大部分は国民だ。したがって相殺すると、まだ745兆円も資産オーバーだというのだ。
 この論議の決着が、未だについていないのは実に不思議なことだ。たんなる解釈論ではなく、理路整然と黒白がつけられないものか。経済学者や財政学者はいったい何をしているのだろう。いらいらさせられるので、素人なりに考えをまとめてみた。
 まず国の借金と、個人の財産というのは非対称すなわち次元が違う。これを相殺するのは妙な話だ。極端な話だが、アメリカの総資産から日本の総借金を引き算したとして、その差額に意味はない。相殺計算を意味あるものにするには、資産と負債を同一の次元に置かなければならない。それには、錯綜している概念を以下のように整理する必要がある。
 まず、最上位の経済主体として「国家」を定義する。国家を構成するサブの経済主体は①政府、②地方自治体、③企業法人、④個人、⑤の5つである。たんに「国」というだけでは、この5つの経済主体を区別できない。政府と国家を混同し、一種の丼勘定にしてしまう。これを避けるには、上の区分によってまず国の借金を、①政府の借金(負債)と言い換える。この金額が800兆である。負債があれば資産もあるはずだ。国民財産統計によると政府の資産は106兆になっている。②の地方自治体は負債が100兆円だ。それに対して資産はどうか。県所有の施設など色々あるだろうが、ここでは政府と同じく負債の8分の1として、12兆と仮定しよう。③企業法人については資産は国民財産統計によると、資産は1390兆円で負債は934兆円である。④個人は資産が1545兆円で、負債は400兆になるらしい。⑤その他は、金額が小さい割りに内容が複雑なので省略する。
 以上をまとめると、国家経済を構成する政府、地方自治体、企業法人、個人すべての資産合計は3053兆円である。同様にして負債合計は2334兆円になる。したがって資産合計から負債合計を差し引くと、純資産719兆円が求められる。こうしてみると、資産面で見た日本の国力はたいしたものだ。800兆円ぐらいの借金にはびくともしないと思われる。
 ただし我流ながら、この一連の計算をしてみると、一国の財政に関する理論はあまりにも貧弱だ。私が利用できたデータは国民財産統計と国民経済計算だけだった。したがって道路や港湾さらには国防施設などの膨大なインフラは、資産として計算できない。これらのインフラは年次予算で調達されるので、単年度で処理されるため、繰り越されないからだ。つまり資産にはなっていない。かりに資産にすれば減価償却計算が必要だ。しかし現在の予算制度は、会計論でみると単式簿記だから計算不可能だ。早急に複式簿記に移行すべきだろう。補足しておくが、以上の計算には土地や建物も含まれていない。これらをどう扱うかを明確にした理論がないし、単式簿記では処理できないからだ。しかし土地建物を資産計算の対象にしないのはおかしいと思う。坪当たり何百万円もする土地は、日本中で何坪あるだろう。建物にしても、超高層ビルを筆頭に何棟あるだろう。これらを計算に入れたら、国家の資産は天文学的な数字になるだろう。これらを計算しない理論的根拠はあるのだろうか。
財政や経済の専門家は、なぜ国の財産についての明快な理論や提言を創造できないのか。お互いが勝手な解釈と、意見を言い合うだけなのだ。これほどの重大なテーマに定見はないのかと聞きたい。