2007年11月24日土曜日

日本人は騒音不感症か

  人はみな感性をもっている。その基になるのは人間に共通する五感であろう。しかし個別に見ると、まったく同じ感性をもつものは一人もいない。その原因はおそらく、生まれつきの素質に加えて、生活環境の違いや文化の違いなどによるのであろう。
  一般に日本人は、自らの特徴を情緒型または感性型と考えている。たしかに半世紀前までは、その傾向が強かった。しかし近年は、その特徴も失われつつあるように感じられる。
  とくに気になるのは、音に対する感性が衰えていることだ。たとえば繁華街では、いまだに大売出しを宣伝するロードスピーカーが、音量一杯にがなりたてる。満員の通勤電車では、つり革にぶら下がっている乗客の耳元に、車掌の安全を説くアナウンスが飛び込んでくる。地方に旅行したときは、旅館の隣にあった役場の拡声器から、町中にお早うメロディーが伝えられた。睡眠中の私は、何事かと跳ね起きた。時刻はちょうど七時だった。
  欧米の都市を旅した日本人の何人かは、騒音のない静けさに感銘をうける。しかし大部分は、それも感じないらしい。つまり国民の多くが騒音に関して不感症になっているのだ。かつて日本の文化は、静謐さに特徴があった。芭蕉の「古池や蛙とびこむ水の音」などはその典型といえよう。苔むした庭園では、筧の跳ねる音を間遠に聞くことができた。
  騒音に対する不感症は感性の衰弱、さらには精神の荒廃につながるように思われてならない。何とかならないだろうか。もともと日本人の音に対する感性は優れているはずだ。それは昔に限ったことではない。現代音楽の雄、武満徹は日本人の音感を代表する作曲家であった。われわれは音に対する伝統的な感性を、もう一度呼び覚まさなければならない。

2007年11月11日日曜日

マスコミ恐るべし

  嘗て私は、かなりのアメリカ人嫌いだった。しかしアメリカで多くの誠実な人たちを知るにおよび、自分の偏見を改めざるを得なくなった。同じようなことは、中国人や韓国人についても言える。何しろこの両国が、国を挙げて日本に浴びせた悪口雑言は凄まじかった。そのため私は、いつしか中国や韓国を嫌うようになった。しかし個人的につき合う限りは、憎悪の感情をそれほど強く感じたことはない。少数ではあるが友情を感じる相手さえいたほどだ。
  それにしても、個人としては憎悪の感情がないのに、国というマスで捉えたときは、どうしてあのように極端な昂ぶりになるのだろうか。その一つとして考えられるのは政策である。明らかに中国や韓国は、政情が不安定になると国民の不満をそらすために、憎悪の対象を日本に向けさせてきた。しかしもっと恐ろしいのはマスコミである。新聞やテレビなどの媒体を通じて、二十四時間たえまなく日本憎しと喧伝されたら、たまったものではない。並みの人間なら、気がつかないうちに洗脳されてしまうだろう。
  現代社会では、マスコミの力は絶大である。それだけにこの仕事を生業にする人たちには、並外れた誠実さと謙虚さと良識の3つが望まれる。しかし実態はどうだろうか。誠実さについていえば、むしろ鼻持ちならぬ偽善しか感じられない。謙虚さについては、その対極にある傲慢そのものではないか。嘗て朝日新聞は、新聞の使命は啓蒙にあると嘯いた。つまり購読者を見下しているのである。良識についてはどうか。これも同じ朝日新聞記者の言であるが、そのモットーは反権力だという。その表れが、機械的ともいえる反政府一辺倒の論説である。そもそもマスコミは、政治権力という言葉に偏見を持ちすぎている。現代政治における権力とは、意思決定をおこなうための一機能に過ぎない。意思決定機能がなければ、如何なる組織といえども機能することはできない。この程度のことは常識であり、自明のことではないか。それを悉く否定し反対するのはナンセンスとしか言いようがない。このようなマスコミ人の幼児的な権力アレルギーは、多分ヒトラーかスターリンのような独裁者のイメージに由来するのであろう。マスコミの良識とは、この程度のものなのか。
  かくして、マスコミ特に大新聞に期待する誠実、謙虚、良識は、ことごとく裏切られるようになった。それでもマスコミは今なお健在で、立法、司法、行政に次ぐ第4の権力といわれている。しかし安部前首相を辞任に追い込んだ朝日の大キャンペーンや、今回の大連立騒ぎの裏方を務めた読売の渡辺会長、日本テレビの氏家会長などの言動をみると、マスコミはもはや第一の権力者にのし上がっているというべきだろう。

2007年11月10日土曜日

民主党は分裂すべきだ

  民主党の小沢党首が辞任を表明したあと直ちに撤回した事件は、空騒ぎが好きなマスコミを大いに喜ばせた。しかしこのような政局がらみのすったもんだは、大まじめに論議するだけの価値があるのだろうか。彼がいなくなると党は分裂するから、何とか宥めすかして居残ってもらおうという民主党の意向は、滑稽としかいいようがない。
  そもそも民主党には、分裂の危機などはないのだ。何故ならば、政策的には結党のはじめからバラバラだった。旧社会党の残党と自民党から離脱したメンバーは、水と油ともいうべきイデオロギーの違いに目をつぶってきた。たんに数あわせだけで結びついている。まじめに考えれば、これは野合というべきもので政治家の堕落だ。
  国民の多くはこの国の現状と将来について、真剣に心配している。だからこそ政党が主張する理念やポリシーにについては、大きな関心をもっている。しかし今まで国会で行ってきた民主党の政策論議は、極めて貧弱な内容だ。たとえばスキャンダルの追求、揚げ足とり、国際情勢を無視した憲法の解釈論といったものばかりだ。たしかにこのような枝葉末節の論議に止まる限り、党がもっているイデオロギーの矛盾に触れる必要はない。つまり党は分裂の危機にさらされることはない。
  このように考えると、民主党は明らかに目的と手段を取り違えている。本来、政党の目的は、その理念に基づいて国民のためになる政策を立案実践することのはずである。しかし民主党は結党以来、根幹となる理念を明らかにすることはなかった。それを明らかにすると、野合集団はたちまち分裂するからである。つまりこの政党の目的は、党の維持そのものだったのだ。
  政治の本質的な目的をもたない民社党は解党すべきだ。その意味で、今回の小沢騒動は絶好の機会だった。しかし姑息なやり方でその機会を失った。いずれこの付けは、致命的なかたちで払わされることになるだろう。

2007年11月4日日曜日

本が売れない

  いま出版業界は危機状態にあるという。年間5億冊も出荷しながら、その38%は返本されるらしい。その一方で種類は増えているので、一題目あたりの冊数は少なくなっている。そのため量産効果が出ないので、コストアップにもつながる。かくして多くの出版業者は赤字経営を余儀なくされている。このままでは日本の文化は衰退してしまう。何故このように本離れが進んでしまったのか。大いに気になるので、その原因を考えてみた。
  第一は、本来は主要な顧客であった若い読者の本離れが進んでいる.その一方で彼らの情報源は、もっぱらテレビに偏っている。
  第二は内容の斬新性がなくなっている。たとえば私の専門は経営管理だが、この十年来、魅力的なコンセプトや革新的なテクノロジーにお目にかかったことがない。目立つのは内容の薄いトピックスばかりだ。最近では企業買収や三角合併の解説書が多かったが、それもITがらみと同じように、今では下火になっている。原因の一つは、出版人がサラリーマン化して出版という仕事に情熱を失ったからではないだろうか。新しい著者やテーマを発掘しようという気迫がない。ちょっとでも売れ行きのよい本を見ると、すぐそれを真似て同じような企画をする。リスクを恐れるあまり、柳の下で二匹目の泥鰌をねらうだけだ。
  第三は日本の社会全体が、一種の弛緩ともいうべき精神状態になっている。たとえば中高年といわれる世代には、いわゆる燃え尽き症候群の気分が横溢している。また若者たちは一種のペシミズムに冒されている。このような時代環境のもとでは、知的好奇心が高まるはずがない。読書の原動力は知的好奇心だが、その知的好奇心は読書によっていっそう加速される。この好循環が失われてしまったのだ。

2007年11月1日木曜日

評論家は楽だ

  以前のことだが、ある専門雑誌のコラム欄を担当したことがある。期間は1年である。それまでにも著作の経験はしていたが、いずれも専門家向けの実務書であった。したがって他人の仕事や考え方を、評論するようなものではなかった。
  件のコラムを担当したのは、学者が3名、ルポライターが2名、それに私を加えた合計6名である。編集長の希望としては、当時の産業振興策や大企業の経営について、辛口の評論を行うことであった。
  連載が始まると、他の執筆者の筆致はとても軽快にみえた。ひたすら難渋したのは私だけだった。どうしたらもっと手際よく書くことができるか。大いに悩んだ結果、やっと原因がわかった。私は実務家の仕事と、評論家の仕事を混同していたらしい。
  簡単に言うと、実務家の仕事は問題の発見と解決がワンセットになっている。したがって解決できないことが分かっている問題を、問題といってはならない。問題だけを言い立てる実務家は軽蔑される。しかし評論の仕事は、問題の発見または提起だけで済むのである。
  評論家と実務家の違いに気づいた後は、コラムの執筆がとても楽になった。問題は無数にある。それを取り上げるだけでよいのだ。それこそ快刀乱麻、言いたい放題だ。だからといって間違っているわけではない。私はいつの間にか、正義の騎士のような気分に浸っていたのである。

2007年10月27日土曜日

個人と集団

  政治や文化、社会などを論じるとき、我々は往々にして日本的とかアメリカ的という表現をする。しかし国を構成する一人一人は、極めて多様である。それにも拘わらずこのような一括り、すなわちマスとして認識できるのは何故だろうか。このマスそのものに、独自の個性が生じるからである。
  個人パワーの総和が集団パワーと等価になることもあるが、まったく異質のパワーに変化することもある。悪しき例の典型は、群集心理がひき起こす暴動だ。好ましい例としては創造性を発揮する“集団天才”を挙げることができる。このような変異現象は、いかなる原理に基づくのだろうか。一般論としては心理学のテーマだが、より深く理解するには複雑性の理論なども役に立つのではないだろうか。

2007年10月26日金曜日

製造業の復活

1990年代から2000年の初頭にかけて、日本の製造業の多くは自信を失っていた。それに反比例するように、競争力が強まった韓国や台湾の企業は意気軒昂たるものがあった。日本の製造業が凋落した原因については、当時もいろいろと論評されたが、要点を絞ると以下の3点であった。
1. 日本企業は総花的かつ横並び的な経営を行っていた。そのため製品分野は拡散し、経営資源の活用に無駄が生じた。これに対し韓国や台湾の企業は、IT関連の成長分野に焦点を絞って攻め立てた。
2. 地球規模での市場拡大に対して、適切な対応策を講じなかった。途上国が中心になる新需要の特徴は高品質より低価格であるが、それを読み違えて過剰品質ともいえる製品を作りつづけた。
3. 特許戦争で遅れをとった。日本の競争力に危機感を抱いた欧米系の企業は、強力な国の支援のもとに特許戦略を推し進めた。これに対しアジアの孤児である日本は、いろいろなハンディを背負い完敗した。
しかし日本の製造業は、その後不死鳥のように復活し2004年以降は再び元気を取り戻している。その主な理由は、上で示した弱点の第1を完全に払拭したからである。さらに第2の弱点については、厳しい反省によって再び強みに変えることができた。とくに生産財の分野では、日本の高精度で信頼性の高い製品技術は他の追随を許さない。低コスト製品で世界を席巻しつつある中国といえども、日本製の生産設備によって支えられている。
こうなると残るのは第3の問題だけになる。ただ具合のいいことに、生産財は生産量が少ないので、量産品のような国を挙げた特許戦争にはなりにくい。かくして日本の製造業は、大量製品を狙わずに多種少量生産に舵を向けたのである。この戦略は今のところ上手くいっている。もちろん大量消費財であっても、自動車や液晶テレビのように高度な技術を要する製品はますます強さを発揮している。したがって日本の製造業は、これからも高度な技術やスキルを必要とする分野においてますます強みを発揮することになるだろう。

2007年10月25日木曜日

大江健三郎と曽野綾子

  9月29日、沖縄で開かれた「教科書検定意見撤回を求める県民大会」に11万人が参加したという主催者発表は誇張であった。したがってそれに便乗して大々的に報道した朝日の記事もウソになる。県警の調査では4万人強に過ぎなかったらしい。しかしこの意図的な虚偽発表の影響は大きく、検定の中立性を揺るがしかねない事態になっている。
 そもそもこのような県民大会がなぜ開かれたのか。それは太平洋戦争末期に起きた慶良間諸島での、集団自決事件の真相を明らかにしようとする良識派の動きを、左翼勢力が封じようとしたからである。
  嘗てこの島で起きた住民の集団自決は、島民のリーダーが指示したものであった。しかし生き残った某関係者の意図によって、いつしか守備隊長であった赤松大尉の命令によるものとされてしまった。その記事を最初に書いたのは沖縄の新聞であったが、それをもとにして大江健三郎は「沖縄ノート」を出版した。その内容はひどかった。事実の検証を全くしないで、赤松大尉を“罪の巨魁”と決め付け、8ページにもわたって罵倒の文章を書いたのである。いかにも大江らしい浅薄な正義感によるものであった。
  曽野綾子は事件には何の関わりもなかったが、“罪の巨魁”という表現にこだわった。彼女の宗教的な信条に基づけば、愛国心に燃えた一介の青年将校を“罪の巨魁”と捉えるのは如何にも不自然であった。彼女は単純に他人の文章を信じた大江とは違って、人間洞察に秀でた本物の作家である。赤松大尉が本当に“罪の巨魁”なのかを確かめることにした。もしそうでなかったら、罪のないものを不当に貶めることになる。彼女の宗教的良心はその呵責に耐えられなかったのだ。こうして「ある神話の背景」の執筆がはじまった。結果として赤松大尉が集団自決を命令した事実は全く確認できなかった。
かくして大江健三郎の無責任な著作は一人の冤罪者をつくりあげたが、曽野綾子の誠実な著作は冤罪者の無念を晴らすことになった。

2007年10月24日水曜日

だれが国を売っているか

 いま「沈底魚」という小説が売れている。日本の大物政治家が、実は亡国のスパイであったという物語である。祖国を売るスパイは、昔から東西のあらゆる国で、暗躍してきた。その動機はイデオロギーだけでなく、脅迫、金、怨恨など実に多様である。いずれにしろ、国家機密が漏洩されることによる損害は甚大である。そのため各国は、スパイ活動に対しては容赦なく厳罰を課している。唯一の例外は戦後の日本だ。そのためスパイ天国とまでいわれてきた。極端な事例では、韓国の秘密警察が東京にやってきて、金大中を誘拐したほどだ。
 なぜこのような情けない事態になったのか。その最大の理由は、大新聞や似非インテリがアナーキズムの思想を普及させ、国民から国益という意識を失わしめたからである。もはや防諜といういう言葉は死語のようになっているし、防諜の要となる公安調査庁の役割や機能も各国に比べて見劣りがする。
 実をいうと、私はずいぶん以前から日本の防諜体制に危惧を抱いていた。北鮮、中国、韓国、ロシヤなど日本を敵視する国に対して、政治家やマスコミ人の言動が、あまりにも国益を損なうものであり過ぎたからだ。彼らの中には、売国奴が潜んでいるに違いない。最近ではこの仮説に基づいて、私はその言動をトレースすることにしている。それにしても大衆の直感力は大したものだ。「沈低魚」の売れ行きがよいということは、たぶん国益を損なう政治家の存在を信じているからであろう。

2007年10月21日日曜日

政治は空気枕だ

 民主主義政治の難しさを説明するにはどうしたらよいだろうか。空気枕にたとえると分かりやすいと思う。政治的に解決を求められる課題や不満は限りなく多い。たとえばその一つが、政治という空気枕に強い圧力を加える。当然ながらその部分は改善されるので、表面の見かけは凹むことになる。しかしその凹んだ分は、必ずほかの部分を膨らます。なにしろ空気は外に出られないのだから、枕の中を移動するだけなのだ。要するに部分的な問題や不満を解決しても、その解決そのものが新たな問題や不満を生み出すことになる。これは民主主義政治、ひいては文明社会の宿命でありダイナミズムともいえるのである。
 独裁政治ではこのような堂堂巡りはあり得ない。なにしろ独裁政治という空気枕には、不満の圧力が全くないからだ。仮にそれがあれば、圧力を行使する前に抹殺される。かくして政治は至高の権力になるのである。共産主義国家が立法、行政、司法という三権分立を否定し、ひたすら特権階級の安泰を図ろうとするのはそのためである。

漢詩は演歌である

  日本はユーラシア大陸の東の果てから、さらに海を隔てた僻地に位置する島国である。そのため古来から文明の後進国として、近隣諸国とくに中国から多くを学んできた。この動きは遣唐使の時代から、明治の初期にいたるまで連綿として続いた。日本で漢詩がもてはやされたのもその一環である。当時、漢詩をたしなむことは知識人の資格条件でもあった。恰も大正以後において、英語を理解することが新しい知識人の資格条件のように誤解されたのとよく似ている。
  しかし漢詩そのものに、それほど価値があるのだろうか。私はほんの一部しか読んでいないが、率直にいってその内容が深遠なものとは思えない。思想性や哲学を感じることができないのだ。あえて分類すれば、花鳥風月を描写したものと、別離の哀しさ、そして世に容れられない拗ね者の恨み節がほとんどである。まあいえば気取った演歌のようなものではないか。 
  もちろん漢詩には独特の魅力がある。私はそれを、2つ挙げることができる。第1は視覚的な効果である。無味乾燥なローマ字ではなくて、漢字すなわち象形文字の配列は、それ自体が一種の絵といえるだろう。第2は、音楽的な効果である。漢詩を口ずさむと、心地よいリズムに乗ることができる。この2つと上で述べた演歌的な感情を組み合わせて、漢詩は極めてポピュラーな人気を得ることができたのであろう。その意味で漢詩は、当時のハイカラミーハー族にとっては、一種のエンターテインメントになっていたのである。

2007年10月19日金曜日

大衆の暗黙知

  暗黙知についてマイケル・ポラニーの原作を読むと、我々はかなり誤解しているように思う。彼によると暗黙知で最も大事なのは統合の知である。すなわち無数の情報断片を知覚している思考主体は、その断片の全てを統合して特定の概念を形成する。情報断片の相互関係を、言葉で説明することはできない。しかし断片と断片の間には明らかに関係がある。関係があるにも拘わらず、説明できないから暗黙知なのである。
  大衆を一個の思考単位とみれば、その集積体にも暗黙知が存在すると思う。例えばメディアのさまざまな批判やノイズにも拘わらず、大衆の小泉内閣支持率は圧倒的に高かった。これは大衆という集団化された思考主体が、暗黙知によって独自に判断していたと思われる。同様の事例は、嘗てスターリンの死去によって株式が暴落したときにも見ることができた。

2007年10月18日木曜日

中国の対日超限戦

  中国の戦略観は、戦略後進国の日本では想像もできないほど過酷である。それを象徴するのが、超限戦の理論だろう。
  中国は対日戦略において、この理論を徹底的に適用しているように思われる。戦略とは敵に勝利するための方策であり、勝利とは自国の意志を敵対国に強制できることである。そのための究極の行為が戦争である。しかし超限戦の理論では、戦略のための手段を軍事に限定しないで際限なく拡大している。勝つためには何一つ制限を設けない。ルールや倫理さえ無視される。9.11テロも、この思想では当然視されるであろう。
  実は、日本はこの思想の最大の被害国である。近年において中国が日本に仕掛けてきた理不尽な行為は、すべてその戦略思想に基づいて実行されてきたと考えられる。歴史教科書問題、靖国参拝問題、歴史認識と謝罪の強要、反日デモなどはすべてこの文脈上にある。それどころか、密航者による麻薬の持ち込みや、凶悪犯罪もその一環かもしれない。その目的が日本の社会を混乱させ、崩壊させることだとしたら合点がいくのである。とにかく勝つためには手段を選ばない。これが現在における中国の戦略思想であり、超限戦の理論である。

日本も超限戦を仕掛けるべきだ

  「超限戦」とは、中国の空軍大佐が提唱した戦略論である。超限の意味は、限界や枠組みを超えるという意味だ。すなわち従来の戦争の定義は、武器や兵隊による軍事だけを意味していたが、経済、文化、教育、芸術など国力の全てを動員して戦うことである。
  この理論のかなりの部分は、すでに各国で実践されている。たとえばクリントンは、台頭する日本の経済力に脅威を感じ、経済戦争という認識で対応していた。しかし日本の政治家は戦略音痴だから、そんなことを考えたこともないだろう。
  この理論では、国際関係の全てを国益を守るための戦争と考える。したがって超限戦の考えに立てば、日本も戦うことができるのである。これは軍事力を持たない日本にとって福音といえるだろう。敗戦以来ずっと敗北主義に冒されてきたが、そのコンプレックスを克服する拠り所になるかもしれない。

2007年10月16日火曜日

精神病理学の盲点

  ある意味で世界は狂信者によって動かされている。ヒトラー、スターリン、毛沢東はその好例である。狂信者にもピンからキリまである。ピンの例としては、噂される秘密結社:300人委員会を挙げることができる。またキリの例としては、自虐史観に凝り固まった大新聞の論説屋さんを挙げることができる。オウム真理教やカクマル派、赤軍派などの確信犯はその中間というべきか。
  多くの場合、これらの狂信者は知能指数が高い。仲には天才もいる。彼らの日常生活は、マナーを守り穏健そのものである。優等生といってもおかしくない。したがって現在の精神病理学の所見では、彼等を異常とみることはできない。しかし平凡な人間の目で見ると、どうみても彼等の信念と行動は常軌を逸している。これを異常として認識できないのは、精神病理学の限界というべきではないだろうか。どのようなセオリーに基づけば、このような狂信者の異常性を指摘できるだろうか。

2007年10月15日月曜日

理解されはじめた日本の文化

  四十数年前、フランスを訪問した池田首相は、ドゴール大統領からトランジスタのセールスマンと皮肉られた。彼に限らず欧米人の黄色人種への偏見は、歴史的にも根深いものがある。とくに日本人については、その傾向が甚だしかった。たぶん風采が貧弱なわりには優秀で、脅威を感じざるをえなかったからだろう。
  日本人の風采については、フランスの小説家ピエール・ロティは、まるで猿のようだと罵倒した。その印象をさらに拡大し、ついには日本を「猿」が住む島と表現している。漫画家のジョルジュ・ピゴーにいたってはもっとひどい。背が低く出歯で近眼という醜い日本人のイメージを、欧米人に定着させたのは彼の功績?といっていいだろう。このような嫌悪感と脅威感、つまり日本文化に対する無理解は、戦前から近年にいたるまで続いた。したがってトルーマンによる残酷な原爆投下の決定やドゴールの非礼は、日本人を「猿」とみなす欧米人の本音を、露骨に表したものといえるだろう。
  しかしグローバル化のおかげで、状況は一変した。日本文化に根ざした工業製品、芸術、漫画、ゲームソフト、さらには料理にいたるまで、欧米だけでなく世界中で高く評価されるようになった。グローバル化をプロモーとしたアメリカの魂胆はわからない。しかし結果として、日本の文化がこのように正当に評価されるようになったのは、とても喜ばしいことではないか。

2007年10月14日日曜日

価値観喪失の恐ろしさ

  食品や玩具などの有毒物質入り商品によって、中国の信用は地に落ちたが、このような退廃の原因は何だろう。プリンストン大学のペリー・リンク教授は、中国共産党支配によってもたらされた「価値観の喪失」によるものだという。すなわち中国には共産党が宣伝する真実と、大衆の生活から生まれる真実の二つがあるが、この二つの真実を併存させる矛盾が、価値観の喪失と偽善をもたらした。偽善の実例として、今なお天安門には毛沢東の巨大な肖像画を掲げているが、現実には資本主義の拡散を許している。政治的に従順でさえあれば、経済では何をやってもよいという風潮が生まれてしまったのだ。
  価値観の喪失や混乱は、差し当たっての日常生活には影響がないように見える。しかしその弊害は癌のように、長い年月をかけて健康な体を蝕む。中国では1956年から気狂いじみた反右翼闘争に大衆を駆り立てた。しかし毛沢東の死後は一変して、大衆に経済活動の自由を享受させている。かくして民衆の価値観は拠り所を失い、金儲けのためなら何をやっても良いという恐るべき事態に陥ったのだ。
  価値観の喪失がもたらす退廃の、格好の見本は日本である。戦後から現在にいたる戦勝国の政策と、それに便乗した左翼学者やマスコミなどによって、伝統的な価値観はことごとく破壊された。代わって提唱されたのはコスモポリタニズムであり、国連主義である。そのため朝日新聞のごときは、国益という用語さえタブーにしていた。しかし近隣諸国の露骨な国家エゴにさらされるにいたり、惰眠を貪っていた日本にも、どうやら覚醒の気配が窺えるようになった。今こそ祖国が培ってきた価値観を見直し、それに基づいた進路を確立しなければならない。

2007年10月12日金曜日

ベッドサイドの雑談

 家内が難病に罹った。1年ほど前から何となく様子がおかしく、時々体の不調を訴えるようになっていた。昨年の暮れ、某大学病院に検査入院したところ、多系統萎縮症と診断された。以来、病状は確実に進行しているが、なす術もなく見守るしかない。難病というのは、治療ができない病のことなのだ。
 家内の一日は、ほとんど寝たきりといってもよいだろう。私は退屈さを紛らせてやりたいので、時々ベッド脇に腰掛けて雑談の相手になっている。とりとめもない話題が多いのだが、今日はかなりシリアスなことを話し合った。
 「私たちはやがて金婚式を迎えようとしていますが、この病気に罹ることが分かっていたとしても、あなたはプロポーズしてくれましたか」。
 「当たり前だよ。下らないことを聞くなよ」。
 「では、10年後に罹病することが分かっていたら?」。
 「もちろん同じだよ」。
「じゃあ、半年後にこうなることが分かっていても?」。
「答えは同じ・・・」。
「明日だったら?」。
「・・・・・・」。

2007年10月4日木曜日

忍耐は才能だ

  昨日、タクシーの運転手から面白い話を聞いた。彼は子供のころから絵が好きで、我流で描いてきたが、5年前からある大きな会派に属するようになったという。その後わずか3年で大賞を獲得し、いまでは号7万円で売れるほどになっているらしい。それでもタクシー稼業を続けている理由は、絵では食えないからだ。彼の説明によると、美術大学を出ても絵筆一本で生活できる人は数パーセント以下という。
  美大にいく人の殆ど全てが、生まれつき絵が上手い。私などは想像もつかないような特別の感覚と才能に恵まれている。その並外れた才能があっても食えないというのである。一方、統計によると、平凡なサラリーマンでも平均年収は500万ほどになるという。
  運転手にその話をすると、彼は笑って答えた。「平凡なサラリーマンと言うのは間違いです。彼らは大変な才能を元手にして生活しています」。私は膝を乗り出して質問した。「それは何ですか」。
  鸚鵡返しに返事が返ってきた。「忍耐です。忍耐は才能です。多分それは、画才などは比べ物にならないほど市場価値のある才能でしょう」。

2007年9月27日木曜日

行動とは人に会うことだ

  行動といえば、なんとなく体を動かすことのように思ってしまう。しかし、それは間違いだ。行動とは人に会うことだ。
  人に会えば、必ず何かが生まれる。もちろん漠然と会うだけではダメだ。相手との意義あるコミュニケーションが成立しなければならない。では意義あるコミュニケーション何か。共通する問題意識や目的意識を相互作用によって形成することだ。
  したがって人に会うことは、緊張と消耗が伴う。事前の準備も欠かせない。つまりエネルギーが必要だ。エネルギーを使うと言ってもラジオ体操をやるわけではない。エネルギーの質が違うが、この行為こそ行動といえるのだ。

マスコミ人の堕落

  現在はあらゆる分野で、職業倫理の堕落が進行している。この現象は政治家、教育者、医者など知識人と目される階層で多く見られる。
  とくにひどいのはマスコミ人だ。以前は、この職業に従事するものは、しっかりした志をもち、一種の警世家の風格があった。しかし今は違う。もっぱらマッチポンプ式のアジテーターに成り下がっている。マスコミ人の多くは、高給を食むたんなる売文屋に成り下がっているが、テレビはとくにひどい。
  しかもこのマスコミ人は、現在では第4の権力者どころか第1の権力者なのだ。なにしろ大多数の大衆は定見を持たないので、左右いずれにも揺れ動く。その連中をアジって売上げを伸ばそうとする。この害毒を阻止するすべはないのだろうか。

ゲッペルスの演説

今回の参院選で感じたが、最近の政治家は、一様に演説が下手になっている。魂が揺さぶられるような名演説を聞いたことがない。政治に対する国民の関心が薄いのは、このあたりにも理由があるのではないだろうか。
いつだったかNHKの番組で、「プロパガンダの天才・ゲッペルス」を見たことがある。彼はナチスの指導者として、演説の天才といわた人物だ。そのイデオロギーは別にして、演説の技術としてみると学ぶべきところが多々あるように思われる。
その特徴は、理性ではなく感情に訴える点にある。しゃべり方は単調ではない。一節ごとに区切り、聴衆が反芻する時間を与える。つまり、間の持ち方がうまい。そのタイミングの取り方は、まさに神技といえるだろう。押して引く、押して引くというリズムが心地よい。聴衆は何時の間にか催眠状態になってしまう。
しかし最近の政治演説は、感情よりは理性に訴えるようになっている。また揚げ足取りをおそれるために、優等生的かつ総花的な項目網羅主義に陥っている。これでは面白くないのも当然だろう。

2007年9月26日水曜日

中国と韓国の違い

  この数十年来、中国と韓国は日本に対し非難を続けてきた。その内容には共通するところも多かったが、最近になって両者の違いがはっきりしてきた。簡単に言うと、文化の成熟度の違いだ。
  中国は他国を非難するにしても、基本的には政治的な意図が隠されている。そこには一種の理性があるので、コントロールが利く。最近のように手の平を返したように、日本に接近し始めたのはその表われだ。以前は国内統一のために反日アジが必要だった。しかし先進国化しなければならない現在では、技術援助などを受けるために、日本との友好が不可欠だ。そうと決まれば手の平を返したようになる。 
  韓国はどうか。理性より先に感情が先だ。そのため理性によるコントロールが利かない。この特徴は文化の成熟度であり、国民性だろう。経済的に先進国に近づいたといっても、文化の面では未だ幼稚と言わざるを得ない。

産経とマイクロソフトの提携

  Cネットが発信した9月27日付けのレポートによると、新聞より早く速報(スクープ)をウエブに出すために、産経グループとマイクロソフト社が提携したという。インターネット時代に即した事業展開というべきだろう。その決断を称えよう。
  今や世界の情報伝達は、すべてリアルタイムシステムでカバーできるようになっている。それにも拘わらず日本の大新聞のビジネスモデルは、未だに紙媒体の印刷と配達システムに依存している。その長年にわたる既得の基盤があまりに恵まれていたので、思い切った革新ができないのだ。そのため本来はニュースの速報が使命であり、インターネットでリアルタイム送信ができるにも拘わらず、それをやらない。従来型の新聞が売れなくなるのを恐れるからだ。
  もはや大新聞は、ニュースを速報する本来の使命を忘れている。ただ紙媒体に依存する現在の儲けの仕組みを維持したいだけだ。情けないではないか。早くニュースを知りたい顧客のニーズを無視して、わざと直ぐには知らせない。もっぱら自分の既得権を守ろうとしている。新聞は社会の公器とは、かねてから大手新聞が自賛してきたスローガンではなかったのか。

2007年9月25日火曜日

ひ弱な日本人

  今年(2007年)の7月上旬、中国で売られているブランド飲料水の50%がニセモノだったことが暴露された。しかし実態はそんな生易しいものではなく、おそらく90%以上が不正品だろう。いまさら中国製品について驚くほどのことでもない。おそらくその他の製品についても、同じような問題を抱えているに違いない。この国はあらゆる面で闇社会なのだ。
  私が恐ろしく思うのは、そんなことではなく、日本人のひ弱さなのだ。このような飲料水や食品で生活したら、大半は健康を損なうだろう。しかし中国人は平気だ。あらゆる面で非衛生な環境で生活しているので、抵抗力が強大になっている。
  グローバル化は今後も止まることはないだろう。そうだとすれば、日本人はまるで無菌室のような国内の環境から出て行かざるを得ない。果たして耐えられるだろうか。

2007年9月24日月曜日

知識より知恵だ

 今は情報の時代といわれる。しかしいくら情報があっても、それを使いこなす知恵がなければ猫に小判だ。したがって情報の時代とは、知恵の時代でもあるのだ。その知恵とは何か。明快な定義があるわけではないが、われわれが日常的に認めている知恵の例を挙げたら、おおよその見当がつく。

 暗記しない知恵、五感の知恵、パターン化する知恵、分けて考える知恵、たとえ話の知恵、問題をつくる知恵、目的をつくる知恵、自己暗示にかける知恵、先取りの知恵、複眼の知恵、枠を取り払う知恵、カンに頼る知恵、悲観的に考えない知恵、省く知恵、疑う知恵、逆を考える知恵、こだわりの知恵、目的と手段をつかい分ける知恵、巨視的能力と微視的能力、結びつける知恵、ヨコ展開の知恵、人を動かす知恵、動機づけ能力、模倣の知恵、 箇条書きの知恵、打てば響く知恵、情報を集める知恵、 図で表す知恵、対話中にヒントをもらう知恵、関連づける知恵、質問する知恵、ただ乗りの知恵、想像する知恵、矛盾を気にしない知恵、好奇心を働かす知恵、感情移入の知恵、自己暗示の知恵、嘘をつく知恵、吝嗇の知恵、忘れる知恵、お世辞をいう知恵、悪事の知恵その他

2007年9月22日土曜日

天網恢恢にして洩らさず

  マスコミは小泉元首相や石原知事の政治手法を、ポピュリズムによる世論操作といって非難してきた。そもそもポピュリズムという表現の裏には、大衆蔑視の思想が隠されている。つまり大衆は浅はかだから、世論操作に騙されるという考え方である。失礼な話ではないか。その思い上がりがあったから、左傾マスコミは中国の文革を支持したり北朝鮮を賛美する記事を書きまくって、意図的に日本の世論をミスリードしたのだ。
  このような大衆蔑視に立脚した政治思想は、左傾マスコミだけでなく、一部の学識経験者の間でも根強い。その論拠は、概ね次のようだ。
  前提は人間の知性には個人差があるという事実である。その個人差にも拘わらず、民主主義では政治への参画権を平等に与えている。人権が平等であるのは当然としても、政治への参画権を等しくする必要があるだろうか。政治には知性、見識、倫理観、責任感などが不可欠だが、それを大衆全員が等しくもっているとは考えられない。その意味で、構成員の全員に対し、投票権を均一平等に与える民主主義がベストとはいえない。ただ、これに勝る方法が見当たらないので採用しているだけだと。
  この説には、納得させられる部分がないわけではない。しかし、今までの長い政治の歴史をみると、大衆によるミスリードは一時的なもので、結局はまともな方向に落ち着いている。つまり統計学で言う大数の原則が見事に作用しているのだ。時間軸と平面軸を広くとった統計論的な世界では、ちゃんと自然の摂理に叶うようになっている。これを天網恢々にして洩らさずというのだろう。

2007年9月21日金曜日

カンデンスキーに惹かれる

  カンデンスキーの抽象画は、なぜ多くの人を惹きつけるのだろうか。その理由を説明するには、彼の代表作コンポジションⅦが最も適しているように思われる。この絵は混沌と時間をテーマにしているといわれるし、終末と復活を象徴しているともいわれる。
  私の解釈では、それはすなわち“生”の様相を表現しているのではないだろうか。つまり“生”とは、ビッグバンから始まって反エントロピーに向かい、結局はエントロピーに戻るものなのだ。私はおこがましくも、兼ねがね考えている「思考ミキサー」というイメージが、このコンポジションⅦに似ているように思われてならない。

2007年9月19日水曜日

地に墜ちた新聞の品位

  今回の参院選挙では、朝日新聞の安部たたきキャンペーンが凄まじかった。さすがに同業の新聞社からも顰蹙をかっている。発端は2005年1月、朝日が安部幹事長(当時)がNHKの番組に干渉したという虚偽の記事を書いたことだ。安部氏とNHKはこれに反論し、朝日は大いに恥をかいた。おそらくそれを根に持っていたのだろう。江戸の仇を長崎でとばかり、朝日は社を挙げて安部氏のあら捜しや揚げ足とりの記事を書きまくった。もはや中立と公正を標榜するクオリーティペーパーとしての、誇りや自制心をかなぐり捨てたらしい。この陰湿さは、まさにインテリやくざそのものではないか。
  折りしも今月19日付けのニューズウイーク誌に、元デイリーテレグラフ社の記者コリン・ジョイス氏による「東京特派員の告白」が掲載された。以前からジャーナリズムの胡散臭さには気づいてはいたが、その疑いを確信に変えさせる内容だった。
  要するに洋の東西を問わず、新聞社は部数が増えさえすればよいのだ。そのためには手段を選ばない。アジ、偽善、変節、虚偽、威嚇、迎合・・・まさに悪徳のデパートのようなものだ。社会の木鐸などというスローガンは、一体誰がいうことなのだろうか。いまや新聞・ジャーナリズムは、自滅の道をまっしぐらに進んでいるように思われる。

2007年9月18日火曜日

人権主義と中国の苛立ち

  欧米や日本など民主主義先進国の人権主義は、中国にとって厄介な棘のようなものだ。そもそも途上国には、無知な大衆の数が圧倒的に多い。彼らは生きるためには、野生的な行動も辞さないだろう。いざとなれば文明国のようなルールなど通用しない。それどころか、群集心理がいつ暴発するかわからない。
  このような野性的な大衆をどのようにしてコントロールするか。極端な例でいえば、鰯のような大群の生存バランスは、基本的に統計論の法則にしたがっている。その大群は鰹や鰤に食い荒らされるが、それでも一定の歩留まりは保証されている。そのおかげで、いくら蚕食されても絶滅はしない。
  中国の政治理念も基本的には同じかもしれない。嘗ての文化大革命では1000万人が殺されたというし、最近では交通事故の死者は膨大な数に上るらしいが殆ど気にもかけない。この程度のロスを問題にしないのが伝統的な政治姿勢だし、間違っていたとも思っていないようだ。しかし最近では、この本音をあからさまにできなくなっている。中国はたぶん苛立っているだろう。民主主義国の人権主義は、中国にとって一種の嫌がらせのように感じられるのではないだろうか。

イスラムの教義

  イスラムの教義は難解というが、事情に詳しい人によると極めて分かりやすく、5つの戒律に集約されるという。すなわち、1)イスラム教徒であることを宣言すること。2)1日5回の礼拝をすること。3)一生に一度メッカに詣でること。4)断食すること。5)貧しい人に喜捨すること。である。
  そして最も基本的な原理は、絶対の唯一神の下で万民が平等であり、誰もが神と対話できるということ。これらを信じて行動すれば、死後の幸福は保障されるというのである。これを見る限り哲学的な教義は何もない。極めて実務的で、むしろ生活指導ともいえるのである。だからこそ、無教養で極貧にあえぐ大半のアラブ人の心を掌握できるのだろう。

結晶性知能と流動性知能

 老人を特徴づける知能のことを、専門用語で結晶性知能というらしいが、私はクローズ型と言い換えて理解している。経験に基づいて思考の枠組を固めながら、内容を内向きに深化させる傾向があるからだ。このため老人の思考は、ものごとの抽象化や概念化さらには原理化に向かうように感じられる。
 これに対し若者を特徴づける知能は、流動性知能といわれる。私はこれもオープン型と言い換えて理解している。この場合は新しい知識を積極的に吸収して、思考の枠組みを拡大する傾向がある。そのため新しい発見も多いが、不安定で論理を飛躍させる傾向もあるという。
 もちろん全ての老人と若者の知能を、このような単純な類型で捉えることはできない。しかし老人は保守的で若者は革新的という通説とは、一脈通じる点があるようにも思われる。

2007年9月17日月曜日

晴耕雨読というライフスタイル

 かつて晴耕雨読は、魅力的なライフスタイルであった。しかし現在では、殆どの人がその生活を望ましいとは考えていない。なぜだろうか。今の日本でこのライフスタイルを選ぶことは、それほど難しいことではない。普通の老人であれば、年金や幾ばくの蓄えがあるので、飢える心配はないからだ。
 しかし100年前に晴耕雨読が出来る人は、恵まれた一部の人だけだった。今はそれが出来るのに、やりたくないのはなぜだろうか。たぶん読書より楽しく面白い事柄がたくさんあるからだろう。たとえば旅行、テレビ、ゴルフなど枚挙にいとまがない。 
 その一方で読書そのものの魅力が、低下している。読書の魅力が薄れた理由の第1は出版物が多いわりに、魅力的な内容をもつものが少ない。第2は、社会の変化が激しく、内容がそれに追随できなくなっている。つまり書籍という情報形式は、スピードと映像の時代にそぐわなくなっている。この二つは、いずれも時代環境の変化がもたらしたものである。かくして晴耕雨読は、今では時代遅れのライフスタイルになってしまった。

2007年9月16日日曜日

経済の本質

経済の本質は、つまるところ自然環境の破壊と収奪の効率化である。その原点が地下資源の採掘だ。本来はタダなのに、利用者が価値を認めるので値段が付けられる。たまたまその産地を保有するものが第1所得者になる。さらにその転売過程や、加工過程でも付加価値が得られる。ただしその付加価値も需要と供給で決まる架空のものだ。そのための資金の供給と需要は、別系列の付加価値形成過程から生まれる。本来はタダの自然産物に、まるで寄生植物のように付加価値を付与するプロセスが発生するからだ。まさに花見酒の経済である。この観点でいうと、モノの生産だけに価値があるという見方は間違っている。対象は何であれ、お金の支払いがあればすべてGDPのアップに貢献するのである。
こうなると近代人が営む経済活動は虚構といった方がよいかもしれない。経済学はその虚構の上に立っているに過ぎない。近代社会の経済は、自然の収奪によって成りたっている。いずれ自然が破壊尽くされたら破綻する。しかし経済学はその限界を自覚していない。それどころか、「合理的に行動する経済人」という現実離れした前提条件に立脚している。かくして経済学は虚構であり、知的な遊びに過ぎないのである。

2007年9月15日土曜日

プロの定義

茂木健一郎氏はプロフェッショナルについて、「自分のやっていることに快楽を感じること」と定義している。この表現は簡潔だが本質を衝いている。自分の仕事に対し、求道的な態度で臨む人は、この定義にぴったり当てはまる。日本で多く見られる職人魂の権化のような人は、その絶好のモデルといえよう。彼らはその仕事に熱中すればするほど、脳内の快楽物質(ドーバミン)が湧き出るらしい。

政治とは何か

 民主主義国家を運営する基本原理は三権(立法、司法、行政)の分立である。しかし中国では、三権の上位に政治がある。われわれが理解できない不思議な出来事も、この考え方に基づくものであろう。たとえば行政の要職にある人物が汚職した場合、死刑になることがある。その根拠は概ね政治的判断である。その判断すなわち決定を下すのは誰か。昔は神の化身ともいうべき皇帝であった。現在は、いわゆる政治家である。したがって中国で政治の最上位にあるものは、“神の役割”を担うことになる。
 それにしても“神の役割”を担う政治とは何だろう。国家を運営する過程では、利害、矛盾、葛藤、反目、偏見などによる混沌が日常的に発生する。単純な正義や原理で処理できるものは極めて少ない。そもそも正義とは何かという問題自体が、永遠に解決できないのだ。それにも拘わらず政治は、社会の混沌に対処しなければならない。
 このように考えると政治とは、実際やっている個々の行為でしか説明できない。つまり政治には原理や原則などはないのだ。そうだとすると政治を最上位に位置づける中国の考え方は、むしろ説得力があるようにも思える。民主主義国家といえども政治の拠って立つ基盤、すなわち人間の営みの本質は混沌そのものになるからだ。
 混沌に対処しなければならない政治の、不思議な役割について例を挙げよう。いま日本が抱える課題の一つは地方の衰退である。この衰退を経済現象として眺めると、当然の帰結といえるであろう。地方の経済基盤は林業や農業などの第一次産業であるが、その多くがグローバル化による競争によって敗退したからである。マスコミが主張するように政治の責任ではなく、経済の問題なのだ。しかし政治の立場としては、何らかの対策を講じなければならない。そのため地方交付税14兆円と補助金19兆円併せて33兆円を、梃入れのために投入している。それによって地方を活性化しようとするからだ。
しかし経済の論理で考えると、いま論議されているのは予算の配分問題に過ぎないし、配分をうまくやっても地方経済が立ち直るとは考えられない。一種の輸血のようなものに過ぎず、抜本的な対策は第一次産業に代わる新産業の開発しかない。しかも冷静にみてその可能性は低いと考えられる。経済の立場で考えると、政治の考え方は理屈に合わない。それ故にこそ政治は、経済をも超越することになるのだろうか。

2007年9月14日金曜日

森毅先生の人生論

森毅先生の人生忠臣蔵説はとてもユニークだ。歌舞伎の忠臣蔵は12段階あるが、人生も同じだとおっしゃった。
一般に自然現象は指数関数で説明できるが、人の一生も自然現象だから、同じ考え方が適用できるという。
すなわち人生の1段階は、1の2乗で0歳から1歳まで。2段階は2の2乗で4歳まで。3段階は3の2乗で9歳まで。4段階は4の2乗で16まで。同様にして5段階は25まで。6段階は36まで。7段階は49。8段階は64。9段階は81。10段階は100。11段階は121ということになる。生物学的にそれ以上は無理。
人生の最盛期は7段階。そして9段階に入ると人間は自由になるという。周囲を見ても、まさにそのとおり。この段階区分は面白いほど説得力がある。
なお森先生は、老人には大きな責任があると付け加えられた。それは若者に老齢化することへの期待を持たせることだといわれる。先生流の表現では、「老人になると、ええことあるでえ。」といえるようにすべきという。

2007年9月11日火曜日

水清ければ魚棲まず

 知り合いの外資系企業の駐在員(イタリア人)は、日本語の勉強を兼ねてよくテレビの時代劇を見るそうだ。その感想がなかなか面白い。たとえば水戸黄門が、なぜあんなに人気があるのか理解できないという。パターンはいつも同じで、悪代官を懲らしめるというストーリー。
 腑に落ちないのは、あの程度の些事が問題になることだ。賄賂を取ったり、善良なライバルを陥れたりすることのどこが悪い。わが祖国イタリアで、そんなことを一々取り上げていたら、行政どころか社会そのものが成りたたなくなる。
 その意見を聞いて直ちに連想したのは中国だ。ついでに水清くして魚棲まずということわざも思い出した。このような大らかな意見を聞くと、昨今のわが国の政治の混乱は、いかにも子供っぽく感じられる。マスコミの記者諸君は、たぶん宝塚少女歌劇の熱烈ファンに違いない。政治家を論評する視点はただ一つ、“清く正しく美しく”だけなのだ。たとえば生き馬の目を抜く国際関係についての、政治家の見識や能力をどのように評価するのだろう。

2007年9月10日月曜日

安直な質問

 ITが進歩したおかげで、知的生産がとても便利になった。とくにGOOGLによって、世界中のサイトから膨大なデータや情報を即座に検索できる。もちろん情報検索だけで、知的生産ができるわけではない。コンセプトの創生やアイデアの発想はまったく別次元の話になるからだ。
 アイデアを発想するには幾つかのキーがあるが、なかでも重要なのは「質問」だ。成功したアイデアマンの殆どが、“それは何故か”を連発する習性がある。もちろん質問さえすればよいというわけではない。まず何らかの仮説をもち、その正しさを検証するために質問しなければならない。いやしくもプロであれば、仮設のない無意味な質問は恥である。
 しかし、世の中にはけっこう愚問が多い。よく聞かされるのが、テレビのインタービューだ。かってあるインタビュアーは、黒沢明監督に、「あなたにとって映画とは何ですか」と質問した。黒澤は激怒して言った。半世紀以上も掛けたライフワークを、そんなに安直に答えられるか、と。
 スポーツ記者はしばしばホームランを打った選手に「ホームランを打った感想は?」と聞くが、これもまた同類の愚問だ。

マンションの灯

  宇宙の中の
  地球は小さい
  地球の中の
  東京は狭い
  その東京に
  マンションは
  いくつあるのか
  マンションには
  窓がいくつあるのか
  夕暮れには
  窓の一つ一つに
  灯がともる
  喜びも悲しみも
  みんなそれぞれ
  おたがい
  何も知らないままに

2007年9月9日日曜日

国の責任(2)

 先ほど、国の責任という表現の曖昧さについて述べたが、別の見地からもこの問題を考えてみたい。
 多くの場合、実際に責任を問われるのは国の行政権が関わった場合だ。その担当者がお役人つまり官僚ということになる。したがって国の責任を追求したら、究極は責任権限の委譲ルールに基づき、その問題を直接担当した「お役人個人」の判断や意思決定に還元される。官僚とは、そのような重責を負う仕事なのだ。それ故にこそ一般大衆は官僚を評価するのであって、意味もない権威やステイタスに頭を下げるのではない。
 国の責任という曖昧な表現では、この個人としての官僚の責任を明確にできない。そこで提案するが、問題を処理したときは必ず担当部局と個人名を明示するようにしたらどうだろう。そうすれば、問題を担当する官僚の真剣度は、今まで以上に高まるに違いない。更にいえば、国の責任はすべて首相の責任といった世論操作や、短絡思考を抑えることもできるだろう。

国の責任(1)

 昨日(9月7日)、薬害C型肝炎訴訟の裁判で、仙台地裁は国に責任はないという判決を下した。この一連の裁判は全国で5回行われたが、国の責任を認めないのは今回が初めてだという。これら諸判決の是非については、ここでは触れないことにする。
 気になるのは、相変わらずの「国の責任」という表現である。そもそも国の責任とは、どういうことなのだろう。マスコミは何かにつけ、国の責任は重いと言い立てるが、この表現を濫用しすぎるのではないだろうか。
 国とは、それ自体が独立して存在しているわけではない。国民一人ひとりによって構成されている。したがって国の責任は、結局のところ国民個人の責任に還元される。反日日本人は、しばしば国を誹謗したり貶めたりするが、それはすなわち天に唾するものではないだろうか。

2007年9月8日土曜日

完璧主義は育児にも弊害

  昨年だったと思うが国立女性教育会館が、子供の教育に関する国際比較調査を行い、結果を発表した。それによると日本の親のしつけは、他国に比べて極端に甘いという。たとえば日常の挨拶、食事の行儀、体の清潔さ、後かたづけなどの項目につき、5歳では一人で出来ないのが8割という。
  親の甘さの原因については、親自身が育児を教わったり、自分でやった経験がすくなく、ほとんどが育児書に頼っているからだという。
  しかし、この見解は、もう一つの問題を見逃している。育児書に頼ると言うことは、正解をリスク無しに得ようとするからではないか。育児には、とにかく自分で試行錯誤する蛮勇が必要だ。それを避けたいために、育児書に頼る。その根元は、完璧主義に毒された新日本人の臆病さにあるのではないか。

2007年9月6日木曜日

中国の歴史認識

 以前に青海チベット鉄道を紹介するテレビを見たことがある。北京からラサまでの長大な旅を取材したものだ。途中には広大な山地が広がっている。最も高い地点では標高5000メートルを超えるという。
しかし終点のラサは、人口わずか40万の中都市だ。途中にも大した都市はない。したがって観光客以外は、それほど多くの乗客を期待することはできないだろう。それを反映してダイヤの密度も薄い。1日あたり1往復しかない。他には数本のローカル便が1日おきに走るだけである。景観は確かにすごいが、これではとても採算は取れないだろう。
だが中国はそれを問題にしていない。目的は他にあるからだ。つまりこの鉄道敷設によって、チベットが中国の一部であることを内外に闡明したいのだ。
それにしてもチベットが、中国の一部であるという根拠はどこにあるのだろうか。彼らの主張によると、元の時代に領有したからだという。驚くではないか。そんないい加減な理屈が通るのだろうか。
それでも中国の歴史認識では、そうなるという。この場合の歴史認識は800年前を対象にしているらしい。しかし江沢民が日本に対して強制した歴史認識は、60年前の満州事変頃に限定している。それ以前の歴史は全く無視している。だからこそ一方的に日本の侵略を主張できるのだ。一方では800年前の歴史を主張し、一方では60年前の歴史しか認めない。この詭弁を何とする。

2007年9月5日水曜日

自殺について

 オランダやフランスでは安楽死を法的に認めているが、日本はまだそうなっていない。しかし将来は、この問題に真剣に取り組まなければならなくなるだろう。それどころか、従来はタブーになっていた自殺についても、選択肢の一つとして認めてもよいのではないか。自殺がなぜいけないのか、今や真剣に考える時期がきているように思われる。
 人間の人間たる所以は、意志に基づいて行動することだ。そうだとしたら“死”を、自分の意志で選んでも不思議なことではない。人間は出生を自分では選べない。この時点では未だ意思がないからだ。(芥川はそれをテーマにした短編を書いた)。つまり人間ではない。しかし意思が確立したのちは、人間として自分の死を決めてもよいのではないだろうか。
 PPK(ピンピンコロリ)が理想だという俗説があるが、これはごく普通の人間の本音でもあろう。問題はコロリを意味するK、すなわち死だ。これを受け身で待つ限り、そんなにうまくことが運ぶ保証はない。しかし自分の意思で行えば、確実にできる。

格差社会論とパワーパラドックス

 竹中半蔵氏が財務大臣の頃、面白い意見を述べたことがある。日本には政治的弱者が、強者に転換するパワーパラドックスが存在するというのである。その結果、日本には規制や保護に守られた産業が増えすぎて、競争政策が貫けないというのである。まったくその通りで、日本には弱者が強者に変身して幅を利かしている場合が多い。その原因は、多分日本が国を挙げて偽善社会になっているである。多分その元凶は、左翼政党とそれを支持するマスコミのセンチメンタリズムであろう。

2007年9月4日火曜日

服部家の没落

 ゴードン・チャンはその著作で、WTO加盟によって中国の経済構造は大きく変化するが、それをきっかけにして崩壊すると予言した。その真偽はともかく、産業構造の変化が社会経済に及ぼす影響はかりしれない。たとえば私の故郷は、かって名木飫肥杉の産出で栄えた。その要となった服部家と川越家の繁栄は、すでに江戸時代の中期から始まっていたという。その豪邸の面影は、今でも少年時代の私の記憶に残っている。
 しかし1990年代の初頭30年ぶりに帰郷したとき、川越家の邸宅は跡形もなく荒れ果てた更地になっていた。かろうじて服部家の建物は残っていたが、既に人手に渡っていた。300年近くも続いた名家が、たった30年の間に姿を消したのである。明治維新や敗戦という激動期にも生き残った強靱な事業が、あっけなく崩壊した。この短い期間に起きた経済構造の変動が、如何に過酷なものであったかを思い知らされたのである。

2007年9月2日日曜日

世代ギャップについて

 老人による「今どきの若者は困ったものだ」という慨嘆は昔からあった。しかし今、われわれが目の当りにする世代ギャップは、それらとは本質的に違うように思う。具体的にいうと、おおよそ30歳以下の新世代とそれ以上の世代の断絶である。断絶の様相は3つの側面でみることができる。その1は意識、その2はテクノロジー、その3は言語である。
 まず意識ギャップであるが、これは認識ギャップと言い換えることもできる。新世代の意識は、顕在と潜在の両面でペシミズムに染まっているようだ。これに対して旧世代の意識はオプティミズムといえるだろう。この違いは各々の成長過程で体験した時代環境によるものだ。近代において日本が選んだ道は、明治、大正および昭和の末期まで、ひたすら勃興、成長、復興という上り坂であった。この時代に生きた人たちが積極的かつ楽観的なのは当然であろう。しかし新世代すなわち昭和末期以降に生まれ育った世代の時代環境を、色彩で喩えるならば灰色としか言いようがない。学校で教わる歴史は、日本がいかに近隣諸国に迷惑をかけたかを強調し、国民としての誇りや自信を持たせるものではなかった。地球規模では環境汚染が深刻化し、一種の終末論が重くのしかかる。社会経済の主要部分は殆どシステム化され、フロンティアの開拓余地は限られているため、何もやれないという閉塞感にさいなまされる。途中ではバブルの崩壊もあった。このように何一つ明るい話題がなかった世代の心情を想うとき、旧世代は傷ましさを感じざるを得ないだろう。
 第2のテクノロジーギャップは、ITの進歩普及に伴って極めて顕著になった。インターネットやモバイルは、従来型のヨミカキソロバン型のビジネスリテラシーを全く無用の長物にした。そのため旧世代と新世代の間には、ビジネススキルの連続性がなくなっている。旧世代のスキルを引き継いでも役に立たないので、新世代はそれを自分で開発し習得しなければならない。銀行業務などはその典型だ。
 第3のギャップは言語ギャップだ。旧世代にとって、新世代の言葉使いは外国語の翻訳のように聞こえることがある。例として、パソコンのヘルプデスクに電話したときの質疑応答を再現してみよう。

 クライアント:「もしもし、〇〇についての操作を教えてください」
 ヘルプデスク:「承知しました。それでは△△のアイコンをクリックしていただいてよろしいでしょうか。」
 クライアント:「はい」
 ヘルプデスク:「次に××のアイコンをクリックしていただいてよろしいでしょうか。」

旧世代としては、この「していただいてよろしいでしょうか」の部分は、「して下さい」で十分だと思うだろう。このような奇異な言葉使いは、ITに関連するマニュアルの多くが翻訳ものに由来するからである。極言すれば、たかだかIT関連の用語法に過ぎなかったものが、いまや日本語そのものを変えつつある。その主役はIT機器を体の一部のように使いこなしている新世代なのである。
このようにして新世代と旧世代の間には、今まで経験したこともないギャップが生じている。旧世代はそれを非難したり嘆いたりしても意味がない。ギャップの存在をありのまま認め、何とか折り合いをつけていくしかないだろう。それには自の考えを理解させようというのではなく、まず相手の考えを理解しようとする努力が必要だろう。

2007年8月29日水曜日

中国が発信する情報の真偽

 中国が発信する報道は、原則として疑う必要がある。かつて朝日新聞は毛沢東の文化革命の初期に、新生中国には蝿一匹もいないと報道したが、その無邪気さをいまさらのように思い出す。それをあざ笑うように最近における中国の報道テクニックは、かなり手の込んだものになっている。古い喩えでいえば、「皮を切らせて肉を切り、肉を切らせて骨を切る」やり方だ。たとえば6月2日にNHKが放映した「激流中国」などはその典型だ。これについては、7月2日のブログ「中国の深慮遠謀」で述べた。
 先日の段ボール肉まん事件も同じパターンだ。国際的な非難が高まり、中国政府は悪徳食品会社の企業を摘発する姿勢をアピールせざるを得なくなった。そのため実態の一部を放映させたのだ。しかし今回は世界の反応を、思い通りに操作できなかった。政府が摘発に取り組む姿勢を評価するのではなく、中国製品全体への不信感が拡大したのだ。そこで慌ててヤラセ番組ということにして、事実ではないと言い出したのだ。報道担当者はとんだ災難であったろう。
 いうまでもなく、マスコミによる事実の歪曲は中国に限らない。われわれ市井の受信者は、つねに報道の内容を鵜呑みにしないよう心がける必要がある。そもそも報道の専門家といえども、実際に事実に当面することはほとんどない。多くは他の情報源から受信したものに解説や解釈を加えて報道しているに過ぎない。とくに偏った思想をもつメディアの記事は、いくらクオリティペーパーなどと気取っていても胡散臭いものである。大いに警戒しなければならない。

2007年8月28日火曜日

少子高齢化にどう対応するか

 日本は人口の減少を心配しすぎるのではないだろうか。この狭い国土に1億2000万人も住んでいるのだ。つい40年前は人口が多すぎると騒ぎ、8000万人が適正と論じた学者もいた。そもそも世界には、人口1億以上の国は11しかない。そのうち先進国はアメリカと日本の2国だけである。あとはアジア・アフリカにある6カ国と南米2国およびロシアだけだ。そんなことより、気にかけなければならないのは、いま急速に進行しつつある老齢化だ。これの対策は早急に考える必要がある。
 国内経済で言えば、高齢者市場はすでに大きく花開いている。具体的には旅行、液晶テレビなどの超高級家電、趣味・教養および老人医療などの分野だ。その消費の勢いは今後も衰えることはないだろう。むしろ問題になるのは生産面である。相対的に若年労働者の割合が低下するからだ。一般に生産を担うのは若者であるから、これは大きな問題といえる。しかし短期的には、近年の技術革新によって自動化が進んだので、それをフルに活用することができる。そして長期的には、若者のセンシティブでパワフルな労働力と、高齢者の経験と熟練を組み合わせた新しい生産システムを構築しなければならない。これこそ今後の最大の課題になるであろう。

欧米人は老いの価値を理解できない

西欧思想の普及によって、現代日本は善悪二面の影響を受けている。たとえば合理的精神は良い面の代表だ。しかし老いに関する考え方は悪い面の代表といえよう。欧米的な見方では、老いは美の反対すなわち醜である。また尊敬の対象ではなく憐れみの対象だ。生産的な存在ではなく、非生産的な存在でもある。つまり社会の厄介者である。しかし東洋的な考え方では、古来から老いは美であり、尊敬の対象であった。例えば中国の山水画をみると、往々にして中央に白髪の老人が配置されている。つまり美の構成要素になっている。日本でも枯淡の味は、ハイレベルな美的感覚として評価される。老いを尊重する東洋の思想は、西欧より奥行きが深い。

2007年8月27日月曜日

朝日新聞販売拡張員の犯罪

完璧主義で凝り固まった朝日新聞の口癖は、「あってはならないこと」である。その足元で8月26日、名古屋でとんでもない事件が起きた。同新聞販売店の販売拡張員を含む3名が、路上で若い女性を誘拐し、殺害したというのだ。彼らは犯罪者仲間を募る携帯電話のサイトで知り合ったが、素性が分からないようお互いに偽名を名乗っていたという。この事件は新しい犯罪の手口として大いに注目されるが、ここではそれとは別に、朝日新聞の二枚舌(ダブルスタンダード)体質について追及したい。
大新聞の販売拡張体制のひどさは周知のことである。とくに不足がちの販売拡張員を確保するには、ありとあらゆる手段が講じられる。たとえば就職の際は前歴を一切問わないし、借金があればそれを立て替えてやる。このようにして集められた人材に、いかがわしい者が紛れ込むのは当然のことだ。
なぜ、そのようにまでして販売力、さらにはシエアを高めたいのか。かつて朝日は親左翼の立場から、産業界の成長拡大路線を批判していた。とくに大企業の拡販戦略については、独占をもたらすものとして反対してきた。下請けシステムについては、弱いものいじめの象徴とように扱ってきた。しかし自らのなりふり構わぬ拡販対策については、まるで口をぬぐったような態度である。
今回の販売拡張員の犯罪については、おそらく自社の社員ではないと説明するだろう。またそのような人材を雇わざるを得ない販売店の窮状については、他人の経営に容喙しないと言い張るだろう。しかし新聞販売店の下請け体制と、大企業の下請け体制のどこに本質的な違いがあるだろうか。朝日新聞は、建前と本音を使い分ける二枚舌の偽善体質を改めなければならない。さもなければ、大変革が予想される21世紀のマスコミ業界で、生き残ることは難しいだろう。

テレビで見る戦国時代の軍議

 いまNHKで放映中の風林火山はかなり評判がよいらしいが、ここで取り上げたいのはドラマの出来栄えではない。戦国時代の会議のあり方である。この種のドラマでは、しばしば軍儀の紛糾する場面が演出されるが、大よそパターンは決まっている。すなわち重臣たちが各々の意見を述べ立てるが、やがて鋭い対立が生じ議論は膠着状態となる。首領はそれまで黙って聞いているが、この段階になってはじめて口を開く。いくつかの要点を衝く質問のあと、明確な決断を下す。
 この軍儀のやり方と、現在の経営会議のやり方を比較すると面白い。いわゆるワンマン会社では、役員が意見を言う前にトップが自分の方針をまくし立てる。いわゆる討論ではなく、方針の伝達である。一方、権限委譲が進んでいる場合はどうか。それぞれの担当責任者が方針を説明し、他のメンバーはあまり口出ししない。専門分化が極度にすすんでいることもあるが、他人の縄張りを侵したくないという配慮もある。この場合の会議は、一種の情報交換といった方がよいだろう。
 このようにして現在における経営会議の多くは、戦国時代の軍儀のように殺気が漲るようなものにはなりえない。その理由は、専門分化に由来する情報洪水のせいなのか。それとも経営があまりに複雑化したため、トップの情報処理能力と決断能力に限界が生じたのか。

2007年8月26日日曜日

イタリア青年の感想

 日本に滞在しているイタリア青年から感想を聞いた。彼は日本を信じられないほど恵まれた国だという。失業率は4%そこそこだし、消費税率も低い。とくに治安の良さは奇跡的だ。山手線の網棚に忘れ物をしたが、一巡するのを待っていたらそのまま戻ってきたという。欧州ではとても考えられないことだ。しかし不思議なことに、日本のマスコミや知識人は、日本ほどダメな国はないように騒ぎ立てる。そして大衆はそれを信じ、自分の国を愛することが出来ない。
 そこで彼は日本のために提案したいという。欧米諸国の常識ともいえる兵役は無理としても、せめて1年間、若者が後進国に出向きボランティア活動をするように義務づけたらどうか。そうすれば、日本という国がいかに素晴らしいか分かるだろう。日本人は海外旅行をしても、その国の真の姿をみることがない。したがって自分の国の価値も理解できないのではないか、と。

企業は生命体

清水博博士はその著作「生命を捉えなおす」で、生命を「動的秩序をみずから創出するもの」と定義している。この定義によれば、企業も一種の生命体といえる。動的秩序を創出するには、生命体は自らを維持するための代謝機能を備えなければならない。企業の場合のそれは、生産活動に該当する。外部から材料、エネルギー、情報を入力し、プロセスを経てプロダクトを出力するからである。
ただし生産を行うには、「意志」が必要だ。もちろん意志だけでは生産できない。意思の他にも数え切れないほどの要件が必要になる。たとえば、認識能力。これには環境認識と自己認識が含まれる。認識に基づく予測能力も欠かせない。デザイン能力や組織力、計画能力、さらにはコントロール能力も不可欠だ。しかも生産活動には常にリスクが伴う。つまり生き残るには幸運も必要だ。生産活動に必要な要件がすべて揃っていても、成功を保証することは出来ないからだ。はっきりしているのは、ただ一つ。意志のない経営は必ず破綻するということだ。良質で強固な意志があり、生産活動(代謝機能)に必要な要件を全て備え、しかも幸運に恵まれたとき企業は成功する。
ただし企業は生き物である以上、そのメカニズムは複雑だ。トップといえどもすべてを知って、コントロールすることはできない。この点も生命体としての人間によく似ている。近年における最先端の生命科学といえども、人体すべてのメカニズムを解明することはできないからだ。現在の医療専門家にできるのは、広義の対症療法と健康法だけだ。企業経営を研究する経営学の立場もまったく同じといえよう。企業経営に対応する自らの能力を過大評価せず、せいぜい対症療法か健康法の範疇に止まっていることを自覚するべきだろう。

2007年8月25日土曜日

メイド・イン・チャイナに人気がある!

先進国の間では、中国製品は”安かろう悪かろう”の代名詞になっている。しかし、ところ変われば人の考えも変わるものだ。知り合いのイタリア人によると、ナポリではその中国製品の偽モノがよく売れるそうだ。偽モノというのは、イタリアで作った製品に”メイド・イン・チャイナ”と打刻したものをいう。つまりナポリでは”メイド・イン・チャイナ”とは、リーズナブル価格の代名詞なのだ。粗悪品という評価は全く欠落している。この傾向はアフリカや中央アジアにも共通しているらしい。中国という膨大な生産人口が作り出す粗悪品は、先進国で嫌われても何ら痛痒を感じないらしい。

不公平について

 誰が言い出したのか、格差が大きな社会問題になっている。その背景は、おそらく多くの人が公平に処遇されていない、つまり不公平の被害を受けていると感じているからだろう。では不公平とは何だろう。
一般に不公平は、地位や富の分配の面で強く意識される。報酬は能力に比例しない。正直者は損をする。地方交付税によって、地方は都会から搾取している・・・といった具合だ。
A君は同窓会の嫌われ者だが、県会副議長の娘と結婚したおかげで地元政界のボスになっている。B君は典型的なゴキブリ社員だが、上司に気に入られて出世コースを歩み、かつての同僚たちを押さえつけている。
しかしこれらの不公平は、報酬や地位の面だけからみた評価に過ぎない。別の見方、たとえば才能や徳性について言えば、A君やB君は、天から不公平な扱いを受けている。その一方で才能豊かな人は、地位や収入は恵まれなくても才能の神から偏愛されていることになる。かくして不公平そのものは避けがたいというべきだ。地位や富の不公平だけをあげつらうのは、それこそ不公平というべきだろう。

百科事典の役割は終わった

 ITの発達によって、社会のあらゆる分野で大変動が起きている。百科事典も例外ではない。インターネットに蓄積されたデータベースや、グーグルなどの検索技術によって殆ど使う必要がなくなった。しかも変化の内容は、たんなる情報の内容や検索技術だけではなく、知識のあり方そのものに及んでいる。百科事典の陳腐化は、その象徴的といえよう。
まず百科事典では関連する文献や、情報の出所を明示しない。だからより詳しく調べることができない。次に項目が極度に限定されている。たとえば平凡社の世界百科事典には、「日本文化」という項目がない。その理由は「日本文化」という概念定義が学問的に確立していないからだ。しかし日本料理、日本映画、日本画などの項目はある。この場合は概念がはっきりしていることになる。
一方グーグルでは「日本文化」でも検索できるし、関連文献も数多くあらわれる。つまり定義が確立していなくても、その用語が流通していれば検索することができる。これは情報を求めるものにとって極めて便利だ。現在のように情報が高速大量に作り出される時代は、いちいち概念や用語の定義が確立するまで待つことができないからだ。
かくしてアカデミックな研究者は別として、実務の世界に生きる情報利用者は、タイムラグのある百科事典から離れ、インターネットが提供する情報検索システムに依存することになった。もちろんインターネットで得られる情報は玉石が混淆している。したがって情報収集や利用に際しては高度な判断力が必要だ。

2007年8月24日金曜日

朝鮮半島の将来

韓国の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領は、民族主義者であると同時に国家主義者でもあるらしい。彼が南北統合に熱心なのは、この二つの思想に基づいている。しかし南北分離以来すでに60年を経過した。その間には両者による凄惨な戦争もあったし、政治や経済の面では決定的なギャップが生じている。たんに感傷的な民族意識に期待して、この壁を取り払うのはあまりにもリスクが大きい。むしろ統合した後の、同族間の激しい相克も予想される。そうなればまさにバルカン半島のような事態になるだろう。もう一つの国家主義によって期待される国威発揚も見通しは暗い。北鮮は言うに及ばず韓国といえども、いま世界に向かって主張できる文化面の功績はあまりにも少ない。たしかに近年の経済発展は著しいが、その元を問えば、多くが日本の模倣である。かくして今やこの国では、日中サンドウイッチ論が囁かれている。両大国の挟間にあって、アイデンティティが失われるという危機感である。これもまた例によって、日本統治のせいにする論議に発展するかもしれない。しかし日本の韓国統治はわずか35年に過ぎない。歴史で言えばほんの一瞬の出来事だ。その程度のことで失われるアイデンティティなどは、本来はなかったも同然である。朝鮮半島の将来は、盧武鉉流の民族主義や国家主義にとらわれる限り見通しは暗い。

2007年8月23日木曜日

日本は外国の悪口を言ったことがない

 嘗てフランスのドゴール大統領は池田首相をトランジスタ商人と皮肉り、後の女性首相はことごとに日本の悪口を述べ立てた。オランダの高官は日本の住宅をウサギ小屋と揶揄し、中国の李鵬首相は豪州を訪れたとき、21世紀末には日本という国は消滅しているだろうと演説した。
 戦後60年になるが、日本はいかなる外国にも、こんな失礼なことをいったことはない。前非を悔いた日本は今や世界一の紳士国である。しかし中国や韓国などは未だに半世紀以上も前のことを取り上げて非難の材料にする。どうして日本は反論しないのか。こうなるともはや紳士どころではなく、たんなる臆病者に過ぎないのではないか。それどころか朝日などは、外国からの悪口に便乗して、自虐的な論調に拍車を掛けてきた。つまり日本は、外国の悪口は言わない代わりに、自分の国の悪口をいう不思議な国なのである。

スペシャリティとゼネラリティ

あらゆる生き物は生存に必要な機能をもっている。人間も例外ではない。視覚、嗅覚、触覚、聴覚にはじまり、筋力、走力、コミュニケーション力など極めて多様かつ多彩だ。しかし人間が持つ機能の一つ一つは、それほど優れたものではない。たとえば聴覚や嗅覚は犬と比べると遙かに劣る。馬や豹と比べると、走るスピードは比べようがないほど遅い。しかし個体として生存するために必要な環境適応力は、他の生き物に比べて最も優れているといえるだろう。では、その適応能力の源泉は何だろうか。多分それは、個々の機能の性能ではなく、それらを組み合わせた総合力である。別の言い方をすれば、スペシャリティではなくゼネラリティによるのである。特定の環境や固定した条件下では、スペシャリティは抜群の効果を発揮する。しかし複雑な環境や変化する時代においては、ゼネラリティこそ生き残りの決め手になるだろう。

知識情報処理の新テーマ

 パソコンOSの陣取り合戦が、マイクロソフト製Windowsの圧勝に終わったのは約10年前のことだ。そして現在、インターネット検索の市場で圧倒的なシェアを誇るのはグーグルである。膨大な情報を検索するツールとして、このソフトは信じられないほどの威力を発揮する。洪水のような情報に翻弄される現代人にとっては、まさに救いの神といえるだろう。
 Windowsを知識情報処理のインフラとするならば、グーグルはそれを使って知識情報検索を行う人のための極めて性能のよいツールである。何しろ世界中に張り巡らされたウェブの、30億に及ぶサイトに瞬時にアクセスして、関連する情報をくまなく検索できるのだ。かくして知識情報処理に関する課題は概ね解決できたのだろうか。そうではない。むしろ更に大きな課題が明らかになってきたのである。
 そもそも我々が、知識情報を検索するのは何らかの目的があるからだ。検索すること自体は目的ではない。課題に関連する情報を検索収集し、それを材料にして新しい情報を創造したり、評価判断して意思決定するのが目的である。つまり知識情報処理のプロセスは、情報の蓄積や検索だけではなく、それを原料にして新情報を生み出すプロセスも必要である。これこそが知識情報処理の最終的な目的である。
 かくして我々は、知識情報処理技術の本質的なテーマを発見した。21世紀はマイクロソフトやグーグルが築いた技術をベースにして、この新らしい課題に挑戦しなければならない。このテーマを解決する知識情報処理技術は、従来とは全く違うアプローチが必要だろう。比喩的にいえば、従来の技術は物理学的発想に基づいていた。しかし新しい知識情報処理技術は化学的発想を参考にしなければならない。情報の物理的処理とは、単位情報を検索したり分類集積したりするが、単位情報そのものを変質させることはない。しかし情報の化学的処理とは、単位情報の組み合わせによって化学反応を促し、元の情報を変質させなければならない。つまり新情報を創造することになるのである。

2007年8月21日火曜日

気になるコミュニケーション

 40年ほど前、ニューヨークのマグローヒル書店で買い物をした。ついでに広大な売り場を散策したが、その一角でうず高く積み上げられている書籍群があった。案内ボードにはコミュニケーション関連と書かれていた。帰国後も大へん気になったので、日本の書店でも同種の書籍を探してみた。しかしほんの僅かしか見つけることができなかった。
 そして現在、一時に比べて下火になったとはいえ、日本の大書店にはコミュニケーション関連本が溢れている。理由は明らかだ。日本もどうやらアメリカと同じように、今までの融和社会から隔絶社会に変わったらしいのだ。たとえば世代ギャップ、地域ギャップ、意識ギャップ、所得ギャップ、学歴ギャップなど枚挙に暇がない。勿論このようなギャップは以前からあった。しかし底流に日本人としての融和の精神があったので、ギャップによる対立はそれほど鋭いものではなかった。今は、その底流がなくなっている。
 融和社会のコミュニケーションは暗黙裡に行われるが、隔絶社会のそれは意識的に行われなければならない。言い換えれば、技術として身に付けなければならない。かくして現在の日本では、コミュニケーションに関する話題は尽きることがない。

2007年8月20日月曜日

何を信じるか

 8月10日付けの産経新聞によると、北朝鮮は昨年10月の核実験直後、アメリカにメッセージを送り「朝米関係を正常化し韓国以上に親密な米国のパートナーになる」と伝えたらしい。そういえば今年の1月にはベルリンで、ヒル米国務次官補と金北朝鮮外務次官が二人だけで会合し、我々には不可解ないくつかの取り決めをした。マカオにおける資金凍結の解除、段階的な核放棄の容認、さらにはヒル次官補による日露を除く4カ国会議の提案などである。
 このような今年1月以来の米朝間の動きは、我々にとって極めてわかりにくい。各国の水面下外交は、一体どのように行われているのか。若しかしたら昨年10月以来、日本ではまったく見当違いの論議と対策を講じてきたのかもしれない。前例はある。かつてニクソンは日本の頭越しに中国と国交を開いてショックを与えた。要するに我々はアジア戦略で、二度にわたりアメリカにコケにされたのだ。
 しかし冷静に考えれば、国際関係とは本来そういうものなのだ。すべての国にとって、最優先すべきは国益である。反日日本人や左傾マスコミのように「国益」をタブー視するのは、ナンセンスとしか言いようがない。
 それにしてもこの10ヶ月の北鮮問題に関する政治家、官僚、学者、マスコミ、評論家などの論議はまったく無意味だった。空しさの限りというべきだ。しかしわれわれ庶民が得ることのできる情報といえば、マスコミの報道しかない。それが間違っていたのだ。とくに、したり顔で語る高級紙!の論説委員や評論家の言説は、事実とは関係のないノイズかゴミクズ情報にすぎなかったのだ。
国際社会は、表面的な外交関係とは全く違う水面下の交渉で動いているらしい。残念ながら、その実態を知る手立ては全くない。それを知る唯一の手掛かりは、すべての国が国益を求めているという事実だけである。我々はその真理を手掛かりに、複雑な国際関係を自分で判断するしかない。

2007年7月31日火曜日

盛り上がり

盛り上がり 迫りきたれる 深みどり
                           樹海の底に 何ぞひそめる

かもめ


            かもめ翔ぶ

                海辺に立ちて 想うなり

                            怯惰に過ぎし 歳月のこと







2007年7月30日月曜日

生産はイデオロギーで管理できない

MRPはアメリカで開発された生産管理ソフトであるが、昭和40年代から日本の機械組立工場で普及し、生産管理システムの代名詞のようになった。現在ではこのシステムは、ITの発展にともなって更なる高度化が進んでいる。そのためERPという新たな名称で呼ばれることもある。しかし実際に工場の現場を見ると、MRPが仕様すなわち能書きどおりに使われている例は皆無といってよいだろう。使われているのはごく一部の、部品展開というサブシステムや受発注システムおよび在庫入出庫システムに過ぎない。工場の製造現場で最も苦労している進捗管理については全く役に立たない。それもそのはずで、そもそもMRPには進捗管理というシステム機能がないのである。しかしMRPにはなくても、進捗管理は現場にとって不可欠である。なぜならば、製造の現場では予期せぬトラブルや例外事項が頻発するからである。したがってMRPを導入したすべての工場が、自社固有の進捗管理システムを開発している。その補強によって、MRPはやっと生産管理システムとして機能している。つまり厳密にいうと日本で使われているMRPは、もはやMRPではない。一部にMRPの部品展開システムなどを組み込んだ別のシステムになっているのである。
 MRPがこのように有名無実になってしまった原因は何か。それは生産管理という実務の分野にMRP独自のイデオロギーを持ち込んだからである。MRPのシステムコンセプトは、計画通りに作らせるということである。もし計画通りに作れないとしたら理由は2つしかない。その1は計画がまずかったこと。その2は計画通り作らないこと。したがって1の対策は、計画をより一そう精緻にすること。2の対策は、計画通りにやらない現場に何らかの懲罰を加えることである。
 MRPが定着しなかった理由は、共産主義経済が破綻した理由とよく似ている。すなわち5カ年計画の例でみられるように、経済を机上の計画だけでコントロールできると考えたからである。何が何でも計画通りやらせるべきという発想は、現実を無視する意味においてイデオロギーである。その意味では、計画偏重のMRPも生産現場にイデオロギーを持ち込んだことになる。うまく行かないのは当然と言えるだろう。

2007年7月29日日曜日

抽象画に惹かれる

若い頃はピカソやカンデンスキーなどの抽象画が嫌いだった。いかにも独りよがりで、奇をてらっているように思えたからだ。
しかし近頃は、そうは感じなくなった。なぜだろう。たぶん老齢化にともない、自分の存在自体が抽象的になったのだろう。肉体の輝きやみずみずしさを失い、骨と皮だけになっている。それでも生きているのはどの部分か。肉体とは別のいわゆる知、情、意の3つが辛うじて生を支えているのだろう。この3つは、まさに抽象そのものではないか。
ただ抽象画が好きになったという私の表現は、必ずしも正確ではない。むしろ抽象芸術と言うべきだろう。その意味で一番好きなのはConstantin Brancuci の彫刻である。たとえば Bird in Space と題された作品。鳥が備えている羽や嘴など一切の具象部分を取り除き、単純な曲線だけでつくられたフォルムである。それでも誰が見ても“鳥”であることが分かるのである。
骨と皮だけの抽象的な存在に成り果てた老人であるが、人間であることは誰が見てもわかる。むしろあらゆる夾雑物を排したBrancuciの彫刻のように、人間の生の本質そのものになっているかもしれない。

2007年7月28日土曜日

朝日の国益論

笠信太郎が信奉したコスモポリタニズムが次第に先鋭化して、朝日はアナキズムのメッカになってきた。国益概念の否定はその証拠である。したがって自分の国の外交政策を誹謗し、一体どこの国の新聞かと思わせるのは不思議ではない。しかし歴史教科書問題を契機にして、にわかに国益を口にするようになった。ただしその論法は相変わらずである。問題の歴史教科書は韓国や中国から非難されている。それを強行すると、これらの諸国との関係がまずくなるから、国益を損なうというのである。本末転倒のおかしな話しではないか。国益に反するなら、外国の思惑など関係なく主張すべきである。しかしそうではない。外国の思惑に反することは、国益に反するというのである。朝日の論説にはまやかしが多いが、国益論に関しても結局はまやかしであった。

女性は強い

呉善花は、韓国における知識人やマスコミの日本非難を強く批判している。そのポイントの1は、彼らが民族主義を支える便法として反日感情を煽っていること。ポイントの2は、民族主義の論拠が弱く反日感情を利用しないと崩壊してしまうことである。この指摘の明晰さはいうまでもないが、ここで取り上げたいのは女性の強さである。同じことが曾野綾子や上坂冬子、最近では桜井よし子にもいえる。一方、男性はどうか。とくに左傾知識人や大新聞の記者に卑怯さが目立つ。戦中は軍に追従し戦後は共産主義に追従してきた。ただ、政府を批判するときだけ元気さが目立つ。しかし現在の日本では、政府を批判するのが最も安全である。言いたい放題が許される。彼らにとって韓国や中国批判はリスクがあるが、自国政府に対する批判は最もリスクが少ない。この男性知識人の怯懦こそ、今の日本の最大の問題である。ただし、女性が強いといっても、嘗ての土井たか子、田島陽子、田中真紀子、辻某などの類は願い下げにしたい。

2007年7月23日月曜日

大学でビジネスが教えられるか

私の故郷である油津はかつて大漁港として繁栄したが、それに隣接する外浦はみすぼらしかった。しかし今は違う。油津は見る影もないが、外浦の漁業は盛んだ。その理由は幾つかあるが、とくに興味を引くのは後継者だ。油津が繁栄した頃、船主達は子息を大学に入れた。そのため頭でっかちな経営者になったという。一方、外浦は船主も貧しかったので、子息を船に乗せて手伝わせた。彼らはやがて逞しい船主を兼ねる船長になり、スリムな家業的経営に徹した。そのため、幾度かの漁業不況にも耐えることができたという。現場に徹した経営者の発想や働きは機敏で的確だ。その結果、今では最も先進的な経営になっている。彼らは魚を求めて世界中に進出する。そして獲れた魚は、現地で運搬船に移し、そのまま漁を続ける。運搬船は値段のよい市場に直行する。乗組員の交替は、飛行機だ。したがって漁船はメンテナンス以外は現場に止まるので、稼働率にムダがない。また乗組員の70%は外人だ。この効率の良いシステムは、机上では発想できない。現場の知恵だ。大学で教える企業論やベンチャービジネス論を学んで、このような知恵が得られるだろうか。

安藤忠雄のアプローチ

建築家安藤忠雄のデザインが人を引きつけるのは何故か。その秘密は独特の方法論にある。彼はまず依頼主の潜在的なニーズから出発する。それが何かは、依頼主さえわからない。そのニーズは意識下にあるからだ。安藤はそれを追求し仮説に到達する。たとえば寺院建築の場合をみよう。彼は檀家の人々の潜在ニーズを、「安らぎ」というコンセプトで表現した。
次はその設計コンセプトを、どのようにデザインとして具体化するかだ。コンセプトは抽象概念だが、これを具象化しなければならない。この飛躍こそデザインの本質だ。しかし、安藤もそのプロセスを説明することはできない。結果つまりプロダクトとしての設計しか示せない。その代わり彼は、心構えを述べている。それは格闘だという。格闘の結果としてデザインが生まれるという。ボクサーとしての体験がそのアプローチを生んだのか。興味深いところだ。
いずれにしても、コンセプトから具体化への「転換」不可欠だ。しかしそのメカニズムを説明することは出来ない。この点は創造プロセスの分析で、いつも逢着する難問だ。

日本人のものづくり

言葉ですべてを表現力することはできない。したがって論理には限界がある。論理的に説明できたからといって、実態を正しく説明できるとは言えない。言葉とは違う表現の例として、形象による方法がある。それを田中正道は「国民の芸術」で詳しく説明している。また同じ趣旨をルドルフ・アルンハイムは、「視覚的思考」で力説している。
しかしデジタル思考が蔓延している現在では、言語すなわち論理が万能かのように誤解されている。近年におけるアメリカ直輸入の生産管理論も、デジタルな情報処理技術一辺倒である。しかしものづくりは、言語的な知識や意識だけではなく、肉体や感覚なども含めた全人格的な行為である。日本の生産が5Sや匠の技によって世界一の評価を得ているのはそのためである。

2007年7月22日日曜日

溶解する日本

現在の日本の状況を表すキーワードは「溶解」である。長い歴史を重ねて培った秩序は、音を立てて崩壊しつつある。溶解と混沌は似ているが本質的に違うものである。秩序がない点では、溶解と混沌は似ている。しかし混沌とは、いまから何かを生み出す胎動のぷろせすである。しかし溶解はそれとは正反対で、何かの秩序が終焉に向かうプロセスだ。つまり方向が全く違う。混沌は生誕の前触れであるが、溶解の向かうところは消滅である。社会の秩序、親子や夫婦のきずな、倫理の崩壊など全てについていえる。どうすれば、日本に再生のエネルギーをもたらすことができるだろうか。

2007年7月20日金曜日

アメリカ野球選手は経営者

アメリカ野球における一流選手の年俸は驚くほど高額である。しかし、そのうちの相当部分を、自分のスキルアップや心身強化のために費やしている。たとえば精神的な葛藤に耐えるためにカウンセラーを雇っている。あるいはベストフォームを維持するためにトレーナーを使っている。球団にもサポーティングスタフはいるが、それらとは別に自前でスタフを抱えているのである。つまり彼等の意識は、経営者である。だから商品としての自己のスキルや体力、精神力を高めるためには投資を惜しまない。

2007年7月18日水曜日

プラトンには倫理観がなかった」

倫理観とは何か。宗教のように神の存在を認めることではなく、論理的で無機質な思考でもない。敢えていえば「生かされていることへの感謝」といえないだろうか。プラトンにはその考えはなかった。彼は倫理の徳目として、勇気、節制、美の3つだけしか挙げていない。しかしそれだけでは倫理は成り立たない。彼は生産行為を蔑視していた。その理由は、生産は卑しい奴隷が行う行為だったからである。大哲学者としての思考三昧の生活が、生産活動の上に成り立っていることに気づかなかったわけだ。これは倫理的ではない。

嫉妬の民族性

嫉妬は、人間行動の有力なエネルギー源である。しかし民族によって発現のしかたが違う。日本では傑出したものの足を引っ張ることによって、嫉妬を解消する。閉鎖社会の横並び指向が原因であろう。逆にアメリカ人は、ライバルを越えることによって嫉妬を解消する。典型的な競争社会なのだ。たぶん開放型の社会であることが原因だろう。韓国が日本に嫉妬するのは開放性と閉鎖性の両方を具備する半島人独特の民族性だ。ただ中国が日本を嫌うのも嫉妬によるのだろうか。古くは倭国と呼んで蔑視していたのに、近年は経済や科学技術で大いに遅れをとった。そのため優越感と劣等感が一種の捩れ現象となって、嫉妬の感情を生み出しているのかもしれない。

嫉妬の民族性

嫉妬は、人間行動の有力なエネルギー源である。しかし民族によって発現のしかたが違う。日本では傑出したものの足を引っ張ることによって、嫉妬を解消する。閉鎖社会の横並び指向が原因であろう。逆にアメリカ人は、ライバルを越えることによって嫉妬を解消する。典型的な競争社会なのだ。たぶん開放型の社会であることが原因だろう。韓国が日本に嫉妬するのは開放性と閉鎖性の両方を具備する半島人独特の民族性だ。ただ中国が日本を嫌うのも嫉妬によるのだろうか。古くは倭国と呼んで蔑視していたのに、近年は経済や科学技術で大いに遅れをとった。そのため優越感と劣等感が一種の捩れ現象となって、嫉妬の感情を生み出しているのかもしれない。

プラトンと主知主義者は似ている

プラトンは哲学の始祖として尊敬されているが、手を使ったモノづくりは軽蔑した。モノつくりは奴隷の仕事だったからである。頭で考える哲学を至高のものと位置づけた。しかし、エリートの安寧が許される社会基盤そのものには考えが及ばなかった。この傲慢は現在のアナキストや主知主義者にも当てはまる。世俗を超越した言説を述べるが、その世俗に自分の安逸が支えられていることに気づいていない。

2007年7月17日火曜日

中国の歴史認識

以前、青海チベット鉄道を紹介するテレビを見た。北京からラサまでの長大な旅だ。途中には広大な山地が広がっている。最も高い地点では標高5000メートルを超えるという。しかし終点のラサはわずか40万の都市だ。途中にも大した都市はない。したがって観光客以外は、そんなに多くの乗客は期待できない。それを反映してダイヤの密度も薄い。1日あたり1往復しかない。他に数本のローカル便が1日おきに走るだけだ。景観は確かにすごいが、これではとても採算は取れない。しかし中国はそれを問題にしていない。目的は他にあるからだ。つまりこの鉄道敷設によって、チベットが中国の一部であることを内外に闡明したいのだ。チベットが中国の一部であるとする根拠はどこにあるのか。それは元の時代に領有したからだという。驚くではないか。そんな理屈が通るのだろうか。しかし中国の歴史認識ではそうなるという。この場合の歴史認識は800年前を対象にしている。しかし江沢民が日本に対して主張した歴史認識は、60年前の満州事変頃に限定している。それ以前の歴史は対象にしていない。だからこそ一方的に日本の侵略を主張できるのだ。一方では800年前を歴史を主張し、一方では60年前の歴史しか認めない。この詭弁を何とする。

中国と韓国の真意

この何年来か、日本を貶める中韓国の言説や行為にしばしば憤慨させられた。これら理不尽な嫌がらせを止めさせることはできないものか。かねてからもどかしく思っていたが、最近になってやっと対策のヒントを得ることができた。以下の3冊がそれに該当する。第1は東アジア反日トライアングル(古田博司)、第2は内なる敵をのりこえて、戦う日本へ(荒木和博)、第3は中国が世界をメチャクチャにする(鳥居民)、である。かねがね私が漠然と考えていた問題の輪郭が、これらによって明確になった。類書は数え切れないほどあるが、これほど明快に本質を衝いた論説を見たことがない。大きな収穫であった。

2007年7月16日月曜日

マスコミの偏向と捏造

朝日や毎日などの左翼偏向マスコミは、自分の主義を通すために平気で捏造記事を書く。自分たちを啓蒙者と考える傲慢さと、金儲け隠そうとする偽善とが表裏一体となっている。たとえば朝日のさんご礁への落書き事件。テレビ朝日の椿事件。これはウイクペディアにもある有名事件だ。最初に告発したのは産経の1993年10月13日の記事だ。また毎日は事実でない百人切り事件や、沖縄島民への集団自決強要事件の報道を訂正していない。これについては大江健三郎も「沖縄ノート」で記事を書いたが謝罪していない。

日本の外交はなぜ格下か

日本は中国との外交で、いつも格下のように扱われてきた。それはチャイナスクールと称する外交官僚一派が、不甲斐なかったからだ。しかしモノヅクリなど技術の面では、日本は明らかに格が上だ。
一方国内ではどうか。外交官僚は文系の代表的なエリートとして評価され、処遇されている。それに対してモノヅクリに携わる技術者や作業者は軽く扱われている。この捩れ現象はどこからくるのか。まさしく明治時代の西欧文化に対する劣等感が尾を引いている。例外を除き日本の文系学者には殆どオリジナリティがない。翻訳ないし翻案したものを恰も自分の作品のように発表してきた。この傾向はとくに政治学、経済学、経営学などの社会科学系で強くみられる。したがってこの分野の人間にとって最も大事なスキルは翻訳とくに英語能力であって、オリジナリティではない。日本の外交官僚は、その代表といえるだろう。事務処理能力は高いかもしれないが、戦略能力を期待することはできない。強かな中国外交に遅れをとるのは当然だ。

2007年7月15日日曜日

ビジネスは何によって成り立つか

ビジネスが成立する根拠については諸説がある。建前論では人類に幸福をもたらすためというだろう。しかし本音ではどうだろう。私の考えでは、ビジネスは聖人君子の考えに基づくのではなく、俗物のニーズから始まる。すなわち俗物性の容認である。容認というのはありのままを認めるということだ、そこには価値観や偏見は介入しない方がよい。俗物のニーズは、多分奇麗事ではないだろう。その結果、当然ながら違法問題と直面することになろう。エログロ、ナンセンス、ギャンブルなどはその最たるものだ。したがってその限界線を引くことが不可欠になる。逆に言えば違法でさえなければ何をしてもよいことになる。社会の木鐸を自認する大新聞でさえ、ひと皮剥くとひどいものだ。もちろんビジネスマンの中には倫理観の強いものの数は少なくない。しかし、そうでないものも数多い。かくしてビジネスは「俗物性」の容認が出発点になる。

時間生産性と期間生産性

田口玄一氏のタグチメソッドによって、従来の品質管理ではカバーできなかった問題が解決できる。ロバスト性という概念を取り入れているからだ。その適用対象は製造現場ではなく、設計開発部門である。一方、生産管理については、私は従来型の時間生産性とは違う期間生産性概念を主張している。時間生産性は単位作業に要する時間の短縮がテーマだが、期間生産性は違う。特定の工程における仕掛品の滞留時間を問題にする。つまり時間生産性と期間生産性はイコールではない。しかしまだこの考え方は十分には浸透していない。タグチメッソドのようになっていないのは残念だ。そのくせSCMは近年の最大のテーマだ。スローガンや事例は無数にある。しかし肝心の期間生産性という概念に触れる論議はまったく行われていない。

2007年7月14日土曜日

M&Aブームは経営学を破綻させる

新日鉄は世界最大の製鉄会社ミッタルからの、敵対的買収の脅威に晒された。ミッタルはフランスの製鉄会社アルセロールを、強引に買収して世界一になった。それが出来たのは、投機ファンドの資金によって株式の過半数取得に成功したからだ。それと同じやり方を新日鉄にも適用しようとしたのだ。まさに会社は株主のものという考えの極端な事例だ。今や企業の経営は、経営学が提唱してきた優れた経営理念・顧客のためによい製品やサービスを安くタイミングよく提供する・・・・・だけでは通用しなくなっている。牧歌的な経営理論そのものが土台から崩れ始め、資本の論理による弱肉強食が横行するようになった。その兆しは国内でも見受けられる。ホリエモン事件は好例だ。その他アサヒペンタックス、北越製紙、阪神電鉄などいくつも見られる。これからの経営は、奇麗事だけでは済まなくなった。まさに戦国時代というべきだろう。したがってトップには、本当の意味の戦略が求められるようになるだろう。資本、プロダクト、プロセス、顧客、株主、ライバル、社員、政府との関係、国際関係など極めて広範な項目に対応すべきだ。豪奢な役員室でふんぞり返っているだけでは済まなくなった。よきに計らえではなく、困難極まりない意思決定が求められる。真の意味で真価が問われるようになったのだ。

Web2.0は巨大な集団天才

茂木健一郎と梅田望夫の共著「フューチャリスト宣言」で、ウェブ頭脳論が語られている。脳の働きは脳細胞のネットワークで機能するが、個々の人間を一つの脳細胞に擬すると、その集合体であるインターネットウエブは、まさに巨大な脳である。その特徴の一つは、どちらも偶有性(29頁)を持っていることだという。さらに面白いのは、そのウエブの性格は国によっても相違するという。アメリカの場合は個人がリンゴのように個々が確立している。そのため集団天才になりにくかったが、Web2.0(新インターネットネットワーク)のお陰で、巨大な集団天才化が可能になった。一方日本の場合の集団天才は葡萄の房だ。個々が確立していない。全体が個を形成している。従来はそれが強みであったが、今後はどうかというのだ。一房ごとは強いが、他の房とは断絶している。だから小規模な閉鎖社会を形成してしまう。これでは規模の大きい集団天才にはなれない。然らば対策はどうか。私の意見は葡萄の一房を単位としながらも、Web2.0によって、日本独自の巨大なネット頭脳を構築することだ。

(注)集団天才=文殊の知恵というように、平凡人の集団でも夫々の知識をうまく組織化すれば天才を凌駕できる。

イカロスの墜落

ブリューゲルが描いたイカロスの墜落は不思議な作品だ。題名になっているイカロスの墜落場面そのものは、画面の片隅に小さく描かれている。うっかりすると見逃すほどである。その傍らには一人の農夫が何事もなかったように作業を続けている。この大事件にも全く関心を示していない。ブリューゲルの意図は分からないが、私は彼の人間の卑小さに対する痛烈な皮肉のように思われる。世間にどのような大事件があろうとも、大衆の殆どは当面の自分の生活しか考えない。われ関せずである。その無知とエゴと逞しさには脱帽するしかない。大衆のこの真実は彼が生きた中世どころか、21世紀の現在も全く変わらない。ブリューゲルはそれを見通していたのだろうか。

2007年7月13日金曜日

面白い夢

最近、ちょっと面白い夢を見た。わが国にも秘密警察ができて、ひそかに活動を開始した。手始めは反日的な言論をほしいままにする似非インテリへの懲罰だ。とくに目立つメンバー数名を選び、その背後からロシアから輸入した毒薬注射器で、注射する。崩れ落ちる衝撃的な場面がテレビで放映された。そして匿名の犯行声明。これを見てまずおとなしくなったのは、高級紙を自認する新聞の論説氏だ。そしてスター気取りの評論家だ。かくして日本のマスコミ界の論調は一変した。その中で頑固に信念を曲げないマスコミ人は、数えるほどしかいなくなった。なんと卑怯で臆病なことか。安全圏内であればいいたい放題だが、少しでも危険が伴えばたちまち沈黙し、時には変節する。これが反日をモットーにする似非インテリの正体だ。ということを見極めたとき、目が覚めた。ところが、これが正夢になる事件が起きた。毎日の大平記者による記事横流し騒動だ。その顛末を以下に述べる。①06年1月12日、毎日の大平記者が南青山の土地取引疑惑を報道した ②2月14日、糸川議員が議会でこの取引について質問 ③3月3日、糸川議員が関係者から脅迫をうける ④4月5日、大平記者は脅迫を受けた糸川議員を取材 ⑤その後、6月22日までの役80日間、毎日は全く報道しない ⑥6月22日、やっと毎日は糸川脅迫事件を報道した。 さて約80日も報道しなかったのは何故か。それどころか、この空白期間に大平記者は糸川議員からの取材記録を誰かに横流しした。ここまでは事実である。後は私の推定。たぶん大平記者は誰かの脅迫に負けて報道を止めたのだ。しかも取材記録をもらしたのだ。そして一連の事実がバレたので、6月22日なってしぶしぶ脅迫事件を報道したのだ。初夢で見たマスコミ人の臆病ぶりは正しかったらしい。

2007年7月12日木曜日

回転率主義の反省

かつて鈴木博文氏がセブンイレブンで導入した単品把握手法はマーケティングに革命をもたらした。革新的なバーコードシステムのテクノロジーもあって、売れ行き商品データの即時把握が可能になり、正確無比な品揃えができるようになった。情報は生産者などの供給側に即時に提示され、スピーディな対応を促すようになった。その影響は生産、供給、製品開発などすべての分野に及んだ。この動向はマーケティングのあり方を一変させた。陳列された商品は、わずか1~2週間で命運が決まる。ただし、このスピードはプラスだけではなく、マイナスももたらした。たとえば書籍のように、本来はその評価に時間をかけるべきものも短期間で評価させられる。このため商品は、すべて短期間で認められるように工夫が凝らされる。目に付くような派手な表題とか装丁などはその例である。しかし最近ではこの極端な回転率主義にも陰りが見受けられる。あたらしいアプローチが求められている。

反日キャンペーンの裏側

嘗て中国系アメリカ人のアイリス・チャンが書いた「レイプオブ南京」や、最近の映画「南京大虐殺」など、アメリカでは一定のサイクルで大規模な反日キャンペーンが行われる。これらを見ると、アメリカの反日勢力はかなり強大であるように錯覚させられる。しかし騒いでいるのは本流の白人ではなく、中国系のアメリカ人である。つまり実態は中国本土の意向と連動した宣伝活動である。そもそも中国系のアメリカ人は半端な数ではない。700万人もいる。これは明らかに政治勢力である。アメリカのマスコミでは、時々驚くような反日キャンペーンが打たれるが、その裏側には多分彼らが策動しているのだ。

2007年7月11日水曜日

ルール違反やマナー無視にどう対処するか

心ない人のルール違反やとマナーのない行為には耐え難い想いがする。しかしそれを一々気にしていたらとても身が持たない。平然と受け流すに限るが、それにはコツが必要だ。たとえば確率論で考えることだ。ある不快な行為で迷惑したとき、それをやる人は何パーセントかと考える。1万分の1や1000分の1と見積もれば、地震や洪水などの自然現象のように、避けられない例外と考える。100分の1ならマスコミなどの世論に訴える。10分の1と見積もれば、相手に不快であることを伝える。先日、食堂で食事していたら年配の婦人から「ぐずぐずしないで早く終わらせなさい」と言われた。一瞬むっとしたが、このような人物は100分の1にも満たない例外だろう。だから反論せず無視することにした。では電車の中でお化粧する人を見たらどうか。その比率は何パーセントぐらいだろうか。

大新聞の矛盾

日本の大新聞のモットーは反権力と啓蒙である。しかし反権力についていえば、現代社会ではマスコミこそ権力の頂点にある。たとえば再販防止法の適用除外を勝ち取っている。なぜマスコミだけが独占禁止法の適用からまぬかれるのか。それは社会の公器という大義名分を振りかざすからだ。当然それには反論もある。しかしマスコミは業界を結集して自らの正当性をキャンペーンするので、どうにもならない。まさに法の上にある権力だ。そのくせ、国家政府に対しては、ことあるごとに権力の濫用を攻撃する。法の下における平等を主張する。この矛盾はどこから来るのか。もはやマスコミの主張は矛盾ではなく、特権意識に基づく特権階級としての主張ではないか。なお、マスコミ内部には、別の意味での矛盾もある。それは経営者と従業員との間の軋轢だ。端的に言えば下克上の関係だ。たとえば朝日とNHKの争いだ。どちらの会社でも経営者は、左傾した従業員の暴走に手を焼いているが、それを押さえることができない。

石原知事の複式簿記論

石原知事は国や地方自治体の財務管理を単式簿記から複式簿記に変えるべきと主張し、実行に移した。まさに卓見である。そもそも単式簿記は現金の出入りしかきろくできない大福帳である。これを複雑な財政運営に使うのは間違っている。長年にわたり財政学者はそれを指摘しなかったが、見識を疑わざるを得ない。もちろんこの方式では、国の財産も正確には管理できない。とくに資産の把握ができない。単年度に限った予算であれば、これでも何とか処理できる。しかし長期的な財政戦略が必要な昨今、単年度主義そのものが問題になっている。しかしそれを改めようとしても、単式簿記では処理できないだろう。複式簿記であれば、当然ながら貸借対照表に産と負債が表示される。しかし単式簿記で運営されている現状ではそれができない。すなわち日本の国家財産は貸借対照表で記録されていないので真実の姿が不明なのだ。たとえば減価償却という概念を導入できない。そのため長期間使用する固定資産であっても、すべて1年限りの経費になってしまう。したがって膨大な固定資産があっても、それを正確に把握できない。近年、国債などの国の借金だけが問題になっているが、複式簿記であれば借方欄に資産が計上されているはずだ。その資産金額と借金の対比で、本当の赤字がわかる。今はそれができないのだ。健全財政論は単年度だけで議論しても意味がない。

2007年7月10日火曜日

日本のビジネス流儀は変わったか

2007年の春から秋にかけて、4年ぶりにコンサルティングをやった。そこで感じたこと。第1は、私の専門分野(生産管理)では殆ど進歩がみられない。いまだにMRPが幅を利かせている。同じことは会計学や戦略論、マーケティングでも見られる。つまり経営学の理論分野では未だにアメリカ追随から脱していない。おそらく実務経験のない日本の経営学者としては、翻訳の権威に頼るしかないのだろう。第2の感想は、ビジネスツールやリテラシーが大きく変わったことだ。パソコン、インターネット、モバイルなどのスキルなしではやっていけない。旧世代のホワイトカラーが復帰したら目を白黒するだろう。ただし製造現場の熟練技術はまったく影響を受けない。第3の感想は、コミュニケーションスタイルが変わったことだ。簡単にいえば、従来の情緒型から論理型になった。これについては、生々しい体験がある。オークションでプリンターインクを入手したときのトラブルだ。私の勘違いで10円少なく支払った。その際の相手の文句の言い方は凄まじかった。しかしもとを正せば、相手の説明に誤解をまねく要素があった。その点を鋭く衝いた。これに対しては、相手の反応は驚くほど素直で、結局は謝罪した。つまり異常なほど論理にこだわるということだ。情緒型は日本独特で、論理型は世界共通だというが、日本の若い世代が担うビジネスにはすでにその傾向が見受けられる。

デザインの基本は関係付け

断片的な知識はいくらあっても、そのままでは何の意味もない。これらの断片を目的と関係付たとき、はじめて生かすことができる。これは創造思考の本質でもある。ただし一般的には関連付けといえば、論理的な側面だけで捉えられている。そして論理的な関連付けは、殆ど言語だけに頼っている。しかしそれは誤りだ。非言語的な感性によっても関連付けを行うことができる。その典型が絵画だ。論理思考で描くときは、対象と空間の関連は、いわゆるL字空間すなわち物理学の空間である。しかし絵画での関連付けはそれにとどまらない。たとえばトランペットと指揮者を描く例を考えよう。論理型では両者の配置はL字空間すなわち物理法則にしたがって描かれる。しかしトランペットと指揮者の間に暗闇を配置したり、水の流れを描くこともできる。この場合のトランペットと指揮者の関係づけはL字空間すなわち論理ではなく、感性による関係づけである。絵画では、それが可能なのだ。それどころではない。戦略計画や、新発見のアイデアでもこのような論理に拘束されない関係付けが行われる。デザインの分野では、このような論理だけではない感性すべてを含めた関連付けが、極く普通に行われている。

政治能力とは何か

中国人の政治力は傑出している。そのため日本は外交において、翻弄されている。このような日本人が得意でない政治力とはどういうものか。政治力を構成する要素を挙げたら狡猾さ、詭弁を操る言語能力、先見力、戦略力、冷徹な判断力、煽動力、リーダーシップなど際限がない。技術や、語学などのように学校で教えることはできまい。したがって学歴とは関係ない。この不思議な才能は生来のものか。そして、それを磨くにはどのような環境と経験と訓練が必要か。少なくとも我々が考える一般教養とは全く別もののようだ。あえてヒントを求めるならば、マキャベリーズの思想ではないか。ただ、このような才能が邪悪な目的で使われ、常識や道徳を失するかたちで一人歩きした場合、どういう弊害が生じるだろうか。権謀術策の国・中国の将来について大いに関心が持たされる。

2007年7月8日日曜日

シリコンバレーの日本人

シリコンバレーには世界中から野心家が集まり、数々の成功物語を作り出す。中でもインド系と中国系は元気だ。その中で目立つのは、日本人の元気がないことだ。そもそもシリコンバレーのスポンサーは、多くの場合日本の大企業だ。それをしっかり利用すればよいはずだ。しかし、それにもあまり積極的でない。この地で仕事をしてきた長岡泰彦氏によると、日本があまりに恵まれた国だからという。皮肉ではく、真実そうだという。失敗しても帰国できるし、再び仕事も出来る。このようなアドバンテイジがあるのに、元気がないのはなぜだろう。日本人の美徳である慎み深さは、シリコンバレーでは通用しないのか。

日本型経営は逆風時に

昨年、中国に進出している日本企業から依頼されて、コンサルティングを行った。提案は受け入れられなかったが、この失敗は中国で事業展開をやる上での、大きな教訓になるだろう。私の提案を受け入れなかったのは、形式的には日本の経営トップであったが、実際は現地の実質的な責任者である中国人工場長である。確かに彼の上には日本人の総経理がいる。しかし工場長が難色を示せば、何事も強行できないだろう。この工場の労使関係はとても円滑で、友好経営の模範とされている。しかし、その実はこの工場長の言いなりになっているのではないか。だからといって彼は腹黒い人間ではない。むしろ性格は真面目というべきだろう。ただし自分ができることしかやらない。したがって日本本社は、思い切った革新を強要できないのだ。相互理解を尊重する、日本型経営の限界というべきだろう。しかし欧米企業の経営は違う。彼らの経営スタイルは゛統治型”だ。したがって相互理解といった悠長なことは考えない。この厳しさの故に、多少の摩擦はあっても経営を骨抜きにされることはない。日本の方式は、経営が順調なときはよいが、変革が必要な危機には対応しにくい。中国に進出した日本企業の、お人よし経営が危ぶまれる。

2007年7月5日木曜日

完璧主義は日本人の特徴か

モノヅクリで発揮される日本の技術は傑出している。世界で重宝される高品質、高精度を誇る製品を思い浮かべるときりがない。これは古来から職人や匠の技として引き継がれてきたものだ。その源泉は求道的な完璧主義である。しかしこの完璧守備にも落とし穴がある。とくに文系の人間がこれに陥ると、どうしょうもない袋小路に入りこんでしまう。官僚で言えば瑣末な条文主義になる。マスコミも減点主義に終始する。たとえば失業率5%を問題にする。しかし西欧では10%が普通だ。途上国に至っては論外だ。また格差を問題にする。しかし日本ほど格差のない国は少ない。いったい何を基準にして問題にするのか。おそらく0を目指せというのだろう。完璧主義の典型的な弊害である。ただし同じ完璧主義といっても、技術系のそれにはリアリズム(現場主義)が背景にある。しかし文系の場合は、感覚的かつ情緒的なので度し難い。

地方政治の堕落

政治の地方分権化という大きな流れの中で、岐阜、和歌山、福島などで知事汚職事件が相次いだ。宮崎も例外ではなかった。そしてあのお騒がせマンの東国原が立候補し、当選した。迂闊にも私は、彼もまた前の横山大阪知事と同類の人物とみなしていた。しかし間違っていたようだ。宮崎の知人の話を聞き、自分の認識不足を思い知った。一部の利権亡者は別として、宮崎県民の多くは従来型の県政のあり方にうんざりしていたのだ。私の勝手な見解では、従来型の県政は4つの利権グループに牛耳られている。すなわち、①知事を頂点にして行政を担当する地方高級官僚、②政治を家業にしている県議員、③行政の現場実務を担当する職員組合(教職員も含まれる)、④そして道路や砂防工事に携わる建設業者だ。実はもう一つ、県政に関係ないはずなのに深く関与している一部の国会議員。彼らには国から補助金をせしめるという大きな役割がある。この4つないし5つのグループが県政を堕落させてきた。それぞれのグループを結びつけるのは、一にかかって金銭的な利権だ。たとえば職員組合。彼らは自治労に属するので、本来は左翼系だ。しかし知事選挙では保革に関係なく、現職知事を支持する。なぜか。給与などの利権交渉を有利にしたいからだ。そのため宮崎県の一般就業者の平均給料より30%以上の高給を貰っている。その職員の多くは県議員などの有力者の縁故で就職している。今回の東国原知事の誕生は、おとなしい宮崎県民の積年の不満がついに爆発したのだと思う。まさに快挙というべきだろう。それにしても憂うべきは堕落した地方の政治勢力だ。それは単に家業化した政治屋だけでなく、それを含む5つのグループだ。しかし人数にしたら一部に過ぎない。それにも拘わらず大多数の善良でおとなしい県民は、この連中にコケにされてきた。大いに奮起すべきだと思う。

2007年7月3日火曜日

マンションのコミュニティ

最近になって私が住むマンションでは、コミュニティの意識が高まってきた。新築入居22年目のことである。当初は住民同士がエレベーターで出会っても目礼さえしなかった。それもそのはずで、多くの人はわずらわしい近所付き合いから脱却するためにマンション生活を選んだからだ。今になって風向きが変わったのはなぜか。簡単にいえば、本来の人間の生活本能を取り戻したのだ。なぜか。22年の間に老人から幼児までの各世代が、満遍なく分布するようになったからだ。言い換えれば人生のフルコースが揃った。かくして本来の人間性に基づくコミュニティが生まれたのだ。入居時はそうでなかった。働き盛りの壮年者だけで、それこそミニ団塊を形成していたのだ。私はかねてから現代都市生活を代表するマンションで新しいコミュニティスタイルが発生するはずと考えていた。しかし何のことはない。日本のどこでも見られた伝統的なコミュニティのパターンが再現されたに過ぎないのだ。この半世紀において、日本は農村から都市へ一種の民族大移動が起きた。それによって農村のコミュニティは衰退し、一方の都市ではコミュニティが形成されるに必要な熟成時間が足りなかった。そして今、ようやく必要条件である世代のフルコース化が生じつつあるのだ。もちろん嘗ての農村に比べれば、その成熟度は低い。何しろ歴史が違う。片方は数百年で、マンションは2~30年だ。しかし農村のコミュイティは自然発生だが、マンションのそれは意図的だ。このてんがコミュニティ形成の速度と内容を大きく変えるだろう。

反日日本人の言う通りにしたらどうか

いわゆるサヨクや反日日本人の主張や、彼らが心の母国と考えている中国や北鮮の言い分を全部受け入れて、新しい国づくりをやったらどうなるか、シミュレーションしたらどうだろう。たとえば北鮮の賠償要求3兆円を全部払う。原子力発電を全廃する。慰安婦問題を中国や韓国の言うとおりに聞き入れて慰謝料を払う。軍事力を全廃する。尖閣諸島や竹島の領有権を中韓国に譲る。日本が主張する領海権を撤回する。在日の権利主張を全部受け入れる。100万人殺したという南京事件を全面的に認める。膨大な遺棄毒ガスの修復を全部認める。そのほか彼らが主張する全ての項目をリストアップして、それを受け入れるのだ。そうした後、日本に残された資産を基にして、何年かけていかなる国を構築するのか。どこかの左翼系シンクタンクか左翼系論客に委託して、やってもらいたい。もちろんそうなったときの国民生活の予想もやるのだ。たとえばサヨクが問題にする失業率、老人保健のレベル、平和国家としての独立性など全てだ。これはグッドアイデアと思う。個々の言いがかりに一々反論していては、彼らが目指しているものの全体がつかめない。上記のようにアプローチしたら、彼らの矛盾あるいは真に目指しているものが鮮明になるはずだ。多分それは、日本の滅亡そのものだと思うが・・・・・。

格差社会の議論

マスコミが騒ぎ立てる問題提起にはいい加減なものが多い。格差問題もその一つだ。そもそも、これはサヨク学者が言い出したことだが、それをマスコミがあじり、日本中がそれに乗ってしまった。その代表が民主党首の小沢氏だ。国会での代表質問の際、日本社会の格差は世界一とやってしまった。さすがに恥ずかしくなったのか、その後は表現を変えている。最近のデータではアメリカのホームレスは75万人という。それに対して日本は2万5千人だ。実に30分の1だ。また貧富の差を表す指標としてジニ係数が使われるが、それによると日本は0.38だ。中国の場合は0.49である。この指数が0のときは所得格差は全くないことになる。そして1に近づくほど格差ありということになる。一般に0.5が危険水域になる。したがって中国社会の格差は限界に来ているということだ。そのほかロシヤ、アラブ、インド(たとえばカースト制)東南アジアなど世界中を眺めたらどうだろう。日本はむしろ格差のない国というべきだ。政治家やサヨクはもっと勉強しなければならない。

2007年7月2日月曜日

社会科学系エリートの時代は終わった

日本の心ある人たちは、嘗てアメリカが提案してきた「日米構造協議」と「年次改革要望書」は、致命的なダメージを与えるものと直感した。関岡英之が著した「拒否できない日本」は、まさにそのアメリカの戦略的な意図を解明した労作である。日本は太平洋戦争で、アメリカに完膚ないほど痛みつけられた。それにも拘わらず不死鳥のように蘇った。特に経済面ではアメリカを脅かすほどになった。誇り高きアメリカはそれを許せない。クリントンのごときは、経済もまた戦争と捉え、本格的に対日戦略を考えるようになった。しかしいくら叩いても日本は強い。アメリカは日本の強さを徹底的に分析した。そして遂に日本の強さの本質を発見した。一言でいうとそれは文化である。かくしてアメリカは日本の文化そのものを破壊する決心をする。日米構造協議や年次改革要望書の内容は、まさにそのための具体的なプログラムであった。この話は、私が考えるテーマ「日本は文明に弱く、文化に強い」と共通する部分がある。このようなアメリカの戦略に気付かないのが、エリートとされる文系学者や官僚、バンカー、マスコミ人である。彼等の多くは社会科学系に属する。その特徴は欧米で開発された学説を直輸入する点にある。単なる翻訳で、独創性は全くない。それが日本をミスリードした原因である。その一方で、リアルにものを考える理科系人間や、実務人間は、翻訳文明とは全く別に日本の文化を支えてきた。これからはその底力を発揮するだろう。

極左と極右の共通点

日本ではマルキシズムなどの左翼革新主義は、今では時代遅れになっている。それに代わり保守主義の勢いが強い。しかし保守主義といっても、一枚岩ではない。たとえば西部遷氏など、小泉前首相の実績を保守主義から逸脱したと批判する。アメリカに肩入れしすぎたというのだ。彼のような純粋保守主義者と、極左主義者には一種の共通点がある。つまり原理主義ということだ。原理については決して妥協を許さない。「原理」を書いた柄谷行人などはその代表だ。しかし現実の社会は、純粋な理論で動いてはいない。そもそも現実の社会を抽象化した理論で理解しようというのがおかしい。塩野七生はマキャベリーを高く評価しているが、その最大の理由は彼がリアリストであるからだ。原理主義者には理念があっても、現実がない。つまり空理空論だ。それに比べて、小泉前首相はきわめて現実的な政治家だった。

2007年7月1日日曜日

秩序の核

イラクの内乱は固有の国民性によるものではない。秩序の核を失うと、どんな国でも同じような状態になるだろう。たとえば中国も、北京の騒乱の処理がまずいと危なかった。アナーキズムがいかに危険なものかは、政治家なら誰でも知っている。では秩序の核とは何か。恐怖、憎悪、幻想、理念、信仰などさまざまだ。日本の天皇という核は、その中でも特に優れたものだ。アメリカの対日戦略は、すべてこの核をいかに操作するかで練られている。

信念ある政治家の台頭

2~3年前、岡本行夫が主催する新現役ネットの、「教育を考える」という部会に参加した。日教組が牛耳る教育の現状に危機感を感じたからだ。メンバーの大半は真面目な人達で、いつも真剣に議論をやっていた。しかししばらくして、全員が無力感で悩まされることになった。こんな議論を重ねても、社会に何の影響も与えることができない。要するに犬の遠吠えだし、お互いに傷を舐めあうだけではないかと。やがて一人去り二人去り、この部会は消滅した。しかし安部さんが首相になって以来、教育問題はこの政権の基本的なテーマとなって、精力的に取り組まれている。まことに喜ばしいことだ。私は今更ながら政治の力を見直している。進歩的とされるマスコミや評論家の政治論は、相変わらず枝葉末節な揚げ足取りか、偏った固定概念に留まって矮小である。しかし小泉旋風以来、心ある政治家は右顧左眄することなく、信念を明確に表白するようになった。大いに慶賀したい。

新聞のダブルスタンダード

日本の大手新聞社がダブルスタンダードを許されるのは如何なる根拠によるのか。河内孝氏の著作「新聞社」で明らかなように、販売現場のあくどさや独禁法に抵触する行為は今や歴然としている。それにもかかわらず紙面では正義の騎士気取りで、自分の国の政治や外交、さらには歴史にまで批判の矢を放て糾弾しつづける。要するに経営と記事は別物というわけだ。しかし、たとえば産業界で不祥事があった場合、新聞の追求はその責任部門だけに止まるだろうか。社長の退任や倒産にまで追い詰めてきた。その論法でいけば、新聞販売の不祥事は会社全体に及ぶべきである。編集と営業は別といった逃避は出来ないはずだ。

下克上経営の時代は終わる

NHKと朝日新聞の争いは決着がつかないままで終わった。とくに朝日は、ピンチを何とか切り抜けたので、ほっとしているだろう。しかしどちらも内部管理の観点で見ると、大きな問題をはらんだままだ。すなわち下克上の経営が行われているのだ。NHKにしろ朝日にしろ、問題の発端は現場が経営陣の意向に背いたことにある。なぜそういうことが起きるか。それは経営陣と現場サイドが一体になっていないからだ。例の朝日の記者にしろ、NHKの長井プロデューサーにしろ、この世代のマスコミ人には全共闘くずれの反日日本人が多い。それが今では現場の中堅メンバーになっている。一方経営サイドは、信念のない能吏型が多い。つまり体を張って経営をやるという気迫にかける。かくして今回のような事件がおきるのだ。このような下克上型の経営の例は多い。かつての国鉄や日産自動車、現在の日本航空などいくつも挙げられる。経営トップ層に信念がなく、現場が破壊的な反日日本人に牛耳られている企業では、必ずこのような下克上ともいうべき事態になる。しかも従来は概ね現場側が勝利していた。経営者が負けるのは事業自得だが、問題は顧客に迷惑を及ぼすことだ。最近になって、ようやく改善の気配が見える。経営者には外資ファンドの脅威が迫っているし、現場に対しては反日日本人への批判ムードが高まってきたからだ

罷り通る論点のすり替え

社会保険庁のミスによって年金記録紛失事件が起きた。野党はこれを政争の具として利用し、政府を追及している。マスコミもセンセイショナルに取り上げたので、国民は政府不信に傾き始めた。せっかく浸透しつつあった安部首相による「美しい国づくり」運動も危うくなっている。たとえばテレビ局の取材に応じたある主婦は「美しい国なんて叫んでいないで、足元をしっかりやるべきだ」と答えていた。全く見当はずれの意見だが、大方はたぶん納得しただろう。その誤りを一言で指摘するフレーズはないのか。じっくり時間をかけたら説明することは出来る。片方は国の理念の問題だし、片方は事務当局のミスに過ぎない。これを同列に論じるのは、全くナンセンスだ。しかし、そう述べた婦人は正しいと信じているし、周囲はその言葉に同感する。尊敬の念さえ持つ。政治とは、このような馬鹿馬鹿しさの上に成り立っているのか

情報・知識の環境は一変した

この30年来、心ある知識人は専門分化が著しい現代文明の状況を眺めて、誰も全貌を理解し得ない時代が来たと慨嘆した。専門が専門を生み、その細分化は止まることがない。そのため隣接する部門であっても、たちまち他国に踏み込んだように理解できないくなっていた。もはやゼネラリストは存在しないのか。だとすれば知識全体のバランスは誰が、どうやって図るのか。まさにカオスの時代が到来したと嘆いた。その頃から私も同じ問題意識で悩まされていた。しかし21世紀のはじめ、遂に人類は新しい知識環境への到達を実感するにいたった。ウエブツーワールド時代の到来だ。従来のツリー型知識の構造は、人間がつくったもので絶対のものではない。それが今日までの進化による情報集積の結果、ついにカバーしきれなくなったのだ。しかし人間は、この閉塞を打ち破るテクノロジーを開発した。ウエブ2.0である。これによって地球全体の情報が瞬時に検索できるようになった。そして個人の頭脳が、地球全体の頭脳とリンクしたのだ。その波及効果は大きい。たとえば大学は知識情報のメッカとしての存在の意味を失っている。
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会社は誰のものか

城山三郎が亡くなった。彼のデビュー作となった「総会屋錦城」を、共感をもって読んだことを思い出す。その後私は経営コンサルタントという職業についたが、経営者の実態を見るにつけ会社は誰のものかという疑問を持ち始めた。とくに不快だったのは経営者による企業の私物化であった。彼らの思い上がりを抑止するには、錦城のような総会屋は必要悪とさえ考えた。法的に言えば答えは簡単で、会社は株主のものだ。しかし当時は株式所有の大衆化によって、個人株主はその自覚がなかった。大株主として陰の実権を握っていたのは資金を貸している銀行と、株式の持ち合い関係にある企業だった。その後ろ楯によって経営を委託された番頭に過ぎない経営者(特に社長)は権力をほしいままにした。大株主とは合い見たがいの関係だったので、よほどの失態がない限り干渉を受けることはなかったからだ。トップ交代は禅譲か役員会内部のクーデターに限られた。関電事件や三越事件、松阪屋はその代表例だ。私見では会社は株主、従業員、経営者の三者のものと考える。川俣社長時代の日産は組合との馴れ合い経営で有名だ。この場合は、コケにされたのは三者のうちの零細株主だけということになる。このような奇妙な日本的経営の権力構造は、最近になって覆された。そして株主の権力が圧倒的に強まった。原因は株式相互持合いの禁止、銀行の貸し出し率の低下などだ。一方で機関投資家の台頭により株主の権力は肥大化した。形式論的にいえば正常な姿だ。しかし実際には不具合が多い。株主の多くは目先の値上がりだけを期待するので、経営者に短期利益の追求だけを求める。企業や事業の長期的な発展には関心がない。マックスウエーバーが論じた資本家の精神などは全く期待できない。ここでもまた、大きな弊害が生じている。

中国の深慮遠謀

中国人の発言を額面どおりに信じることはできない。それは個人レベルでも国レベルでも同じだ。彼らは腹に一物あっても、それを直接的には表現しないで間接的に表現する。だからその真意を注意深く読み取らなければならない。先日NHKで2日にわたり放映された特集番組「激流中国」も、そのつもりで読み解く必要がある。1日目は「格差社会の壁」で、2日目は「雑誌編集部」であったが、どちらも本来なら外国のテレビに取材されたくないはずのテーマだ。それを何故許したのか。まず「格差社会の壁」については次のように読み取ることが出来る。中国における経済勝者と敗者の差は、今では内外周知のことだ。隠せないので取材を許した。政府はむしろそれをあからさまにする事で、困難な和諧社会実現の正当化をアピールしようとしている。多分これからは腐敗官僚や不徳商人の粛清を始めるだろう。次の「雑誌編集部」は、マスコミの取材に対する妨害の実態を映したものだ。これもよく知られていることだから、今更隠しても無駄だ。そこでいっそのこと取材を認めた。では真の狙いは何か。それは言いなりにならない地方政権を押さえ込むことである。中央政府は地方政府のコントロールに手を焼いてきたが、今や決着をつけるべきときがきたと判断した。今回の番組では、自由な報道を妨害するのは地方政権だという印象を与えることが出来た。つまり報道の不自由を取材させる名目で、悪いのは地方政権というアピールをしたのだ。今後は地方政権に対する締め付けが積極的になるだろう。それをやりやすくするための前準備だったのだ。

2007年6月29日金曜日

中国と韓国の違い

この数十年来、中国と韓国は日本に対し非難を続けてきた。その内容には共通するところも多かったが、最近になって両者の違いがはっきりしてきた。簡単に言うと、文化の成熟度の違いだ。中国は他国を非難するにしても、基本的には政治的な意図が隠されている。そこには一種の理性があるので、コントロールが利く。最近のように手の平を返したように、日本に接近し始めたのはその表われだ。以前は国内統一のために反日アジが必要だった。しかし先進国化しようとする現在では、技術援助などを受けるために、日本との友好が不可欠だ。そうと決まれば手の平を返したようになる。韓国はどうか。理性より先に感情が走る。そのためコントロールが利かない。この違いは文化の成熟度であり、国民性だ。経済的に先進国といっても、文化の面では未だ幼稚と言わざるを得ない。