2007年9月27日木曜日

行動とは人に会うことだ

  行動といえば、なんとなく体を動かすことのように思ってしまう。しかし、それは間違いだ。行動とは人に会うことだ。
  人に会えば、必ず何かが生まれる。もちろん漠然と会うだけではダメだ。相手との意義あるコミュニケーションが成立しなければならない。では意義あるコミュニケーション何か。共通する問題意識や目的意識を相互作用によって形成することだ。
  したがって人に会うことは、緊張と消耗が伴う。事前の準備も欠かせない。つまりエネルギーが必要だ。エネルギーを使うと言ってもラジオ体操をやるわけではない。エネルギーの質が違うが、この行為こそ行動といえるのだ。

マスコミ人の堕落

  現在はあらゆる分野で、職業倫理の堕落が進行している。この現象は政治家、教育者、医者など知識人と目される階層で多く見られる。
  とくにひどいのはマスコミ人だ。以前は、この職業に従事するものは、しっかりした志をもち、一種の警世家の風格があった。しかし今は違う。もっぱらマッチポンプ式のアジテーターに成り下がっている。マスコミ人の多くは、高給を食むたんなる売文屋に成り下がっているが、テレビはとくにひどい。
  しかもこのマスコミ人は、現在では第4の権力者どころか第1の権力者なのだ。なにしろ大多数の大衆は定見を持たないので、左右いずれにも揺れ動く。その連中をアジって売上げを伸ばそうとする。この害毒を阻止するすべはないのだろうか。

ゲッペルスの演説

今回の参院選で感じたが、最近の政治家は、一様に演説が下手になっている。魂が揺さぶられるような名演説を聞いたことがない。政治に対する国民の関心が薄いのは、このあたりにも理由があるのではないだろうか。
いつだったかNHKの番組で、「プロパガンダの天才・ゲッペルス」を見たことがある。彼はナチスの指導者として、演説の天才といわた人物だ。そのイデオロギーは別にして、演説の技術としてみると学ぶべきところが多々あるように思われる。
その特徴は、理性ではなく感情に訴える点にある。しゃべり方は単調ではない。一節ごとに区切り、聴衆が反芻する時間を与える。つまり、間の持ち方がうまい。そのタイミングの取り方は、まさに神技といえるだろう。押して引く、押して引くというリズムが心地よい。聴衆は何時の間にか催眠状態になってしまう。
しかし最近の政治演説は、感情よりは理性に訴えるようになっている。また揚げ足取りをおそれるために、優等生的かつ総花的な項目網羅主義に陥っている。これでは面白くないのも当然だろう。

2007年9月26日水曜日

中国と韓国の違い

  この数十年来、中国と韓国は日本に対し非難を続けてきた。その内容には共通するところも多かったが、最近になって両者の違いがはっきりしてきた。簡単に言うと、文化の成熟度の違いだ。
  中国は他国を非難するにしても、基本的には政治的な意図が隠されている。そこには一種の理性があるので、コントロールが利く。最近のように手の平を返したように、日本に接近し始めたのはその表われだ。以前は国内統一のために反日アジが必要だった。しかし先進国化しなければならない現在では、技術援助などを受けるために、日本との友好が不可欠だ。そうと決まれば手の平を返したようになる。 
  韓国はどうか。理性より先に感情が先だ。そのため理性によるコントロールが利かない。この特徴は文化の成熟度であり、国民性だろう。経済的に先進国に近づいたといっても、文化の面では未だ幼稚と言わざるを得ない。

産経とマイクロソフトの提携

  Cネットが発信した9月27日付けのレポートによると、新聞より早く速報(スクープ)をウエブに出すために、産経グループとマイクロソフト社が提携したという。インターネット時代に即した事業展開というべきだろう。その決断を称えよう。
  今や世界の情報伝達は、すべてリアルタイムシステムでカバーできるようになっている。それにも拘わらず日本の大新聞のビジネスモデルは、未だに紙媒体の印刷と配達システムに依存している。その長年にわたる既得の基盤があまりに恵まれていたので、思い切った革新ができないのだ。そのため本来はニュースの速報が使命であり、インターネットでリアルタイム送信ができるにも拘わらず、それをやらない。従来型の新聞が売れなくなるのを恐れるからだ。
  もはや大新聞は、ニュースを速報する本来の使命を忘れている。ただ紙媒体に依存する現在の儲けの仕組みを維持したいだけだ。情けないではないか。早くニュースを知りたい顧客のニーズを無視して、わざと直ぐには知らせない。もっぱら自分の既得権を守ろうとしている。新聞は社会の公器とは、かねてから大手新聞が自賛してきたスローガンではなかったのか。

2007年9月25日火曜日

ひ弱な日本人

  今年(2007年)の7月上旬、中国で売られているブランド飲料水の50%がニセモノだったことが暴露された。しかし実態はそんな生易しいものではなく、おそらく90%以上が不正品だろう。いまさら中国製品について驚くほどのことでもない。おそらくその他の製品についても、同じような問題を抱えているに違いない。この国はあらゆる面で闇社会なのだ。
  私が恐ろしく思うのは、そんなことではなく、日本人のひ弱さなのだ。このような飲料水や食品で生活したら、大半は健康を損なうだろう。しかし中国人は平気だ。あらゆる面で非衛生な環境で生活しているので、抵抗力が強大になっている。
  グローバル化は今後も止まることはないだろう。そうだとすれば、日本人はまるで無菌室のような国内の環境から出て行かざるを得ない。果たして耐えられるだろうか。

2007年9月24日月曜日

知識より知恵だ

 今は情報の時代といわれる。しかしいくら情報があっても、それを使いこなす知恵がなければ猫に小判だ。したがって情報の時代とは、知恵の時代でもあるのだ。その知恵とは何か。明快な定義があるわけではないが、われわれが日常的に認めている知恵の例を挙げたら、おおよその見当がつく。

 暗記しない知恵、五感の知恵、パターン化する知恵、分けて考える知恵、たとえ話の知恵、問題をつくる知恵、目的をつくる知恵、自己暗示にかける知恵、先取りの知恵、複眼の知恵、枠を取り払う知恵、カンに頼る知恵、悲観的に考えない知恵、省く知恵、疑う知恵、逆を考える知恵、こだわりの知恵、目的と手段をつかい分ける知恵、巨視的能力と微視的能力、結びつける知恵、ヨコ展開の知恵、人を動かす知恵、動機づけ能力、模倣の知恵、 箇条書きの知恵、打てば響く知恵、情報を集める知恵、 図で表す知恵、対話中にヒントをもらう知恵、関連づける知恵、質問する知恵、ただ乗りの知恵、想像する知恵、矛盾を気にしない知恵、好奇心を働かす知恵、感情移入の知恵、自己暗示の知恵、嘘をつく知恵、吝嗇の知恵、忘れる知恵、お世辞をいう知恵、悪事の知恵その他

2007年9月22日土曜日

天網恢恢にして洩らさず

  マスコミは小泉元首相や石原知事の政治手法を、ポピュリズムによる世論操作といって非難してきた。そもそもポピュリズムという表現の裏には、大衆蔑視の思想が隠されている。つまり大衆は浅はかだから、世論操作に騙されるという考え方である。失礼な話ではないか。その思い上がりがあったから、左傾マスコミは中国の文革を支持したり北朝鮮を賛美する記事を書きまくって、意図的に日本の世論をミスリードしたのだ。
  このような大衆蔑視に立脚した政治思想は、左傾マスコミだけでなく、一部の学識経験者の間でも根強い。その論拠は、概ね次のようだ。
  前提は人間の知性には個人差があるという事実である。その個人差にも拘わらず、民主主義では政治への参画権を平等に与えている。人権が平等であるのは当然としても、政治への参画権を等しくする必要があるだろうか。政治には知性、見識、倫理観、責任感などが不可欠だが、それを大衆全員が等しくもっているとは考えられない。その意味で、構成員の全員に対し、投票権を均一平等に与える民主主義がベストとはいえない。ただ、これに勝る方法が見当たらないので採用しているだけだと。
  この説には、納得させられる部分がないわけではない。しかし、今までの長い政治の歴史をみると、大衆によるミスリードは一時的なもので、結局はまともな方向に落ち着いている。つまり統計学で言う大数の原則が見事に作用しているのだ。時間軸と平面軸を広くとった統計論的な世界では、ちゃんと自然の摂理に叶うようになっている。これを天網恢々にして洩らさずというのだろう。

2007年9月21日金曜日

カンデンスキーに惹かれる

  カンデンスキーの抽象画は、なぜ多くの人を惹きつけるのだろうか。その理由を説明するには、彼の代表作コンポジションⅦが最も適しているように思われる。この絵は混沌と時間をテーマにしているといわれるし、終末と復活を象徴しているともいわれる。
  私の解釈では、それはすなわち“生”の様相を表現しているのではないだろうか。つまり“生”とは、ビッグバンから始まって反エントロピーに向かい、結局はエントロピーに戻るものなのだ。私はおこがましくも、兼ねがね考えている「思考ミキサー」というイメージが、このコンポジションⅦに似ているように思われてならない。

2007年9月19日水曜日

地に墜ちた新聞の品位

  今回の参院選挙では、朝日新聞の安部たたきキャンペーンが凄まじかった。さすがに同業の新聞社からも顰蹙をかっている。発端は2005年1月、朝日が安部幹事長(当時)がNHKの番組に干渉したという虚偽の記事を書いたことだ。安部氏とNHKはこれに反論し、朝日は大いに恥をかいた。おそらくそれを根に持っていたのだろう。江戸の仇を長崎でとばかり、朝日は社を挙げて安部氏のあら捜しや揚げ足とりの記事を書きまくった。もはや中立と公正を標榜するクオリーティペーパーとしての、誇りや自制心をかなぐり捨てたらしい。この陰湿さは、まさにインテリやくざそのものではないか。
  折りしも今月19日付けのニューズウイーク誌に、元デイリーテレグラフ社の記者コリン・ジョイス氏による「東京特派員の告白」が掲載された。以前からジャーナリズムの胡散臭さには気づいてはいたが、その疑いを確信に変えさせる内容だった。
  要するに洋の東西を問わず、新聞社は部数が増えさえすればよいのだ。そのためには手段を選ばない。アジ、偽善、変節、虚偽、威嚇、迎合・・・まさに悪徳のデパートのようなものだ。社会の木鐸などというスローガンは、一体誰がいうことなのだろうか。いまや新聞・ジャーナリズムは、自滅の道をまっしぐらに進んでいるように思われる。

2007年9月18日火曜日

人権主義と中国の苛立ち

  欧米や日本など民主主義先進国の人権主義は、中国にとって厄介な棘のようなものだ。そもそも途上国には、無知な大衆の数が圧倒的に多い。彼らは生きるためには、野生的な行動も辞さないだろう。いざとなれば文明国のようなルールなど通用しない。それどころか、群集心理がいつ暴発するかわからない。
  このような野性的な大衆をどのようにしてコントロールするか。極端な例でいえば、鰯のような大群の生存バランスは、基本的に統計論の法則にしたがっている。その大群は鰹や鰤に食い荒らされるが、それでも一定の歩留まりは保証されている。そのおかげで、いくら蚕食されても絶滅はしない。
  中国の政治理念も基本的には同じかもしれない。嘗ての文化大革命では1000万人が殺されたというし、最近では交通事故の死者は膨大な数に上るらしいが殆ど気にもかけない。この程度のロスを問題にしないのが伝統的な政治姿勢だし、間違っていたとも思っていないようだ。しかし最近では、この本音をあからさまにできなくなっている。中国はたぶん苛立っているだろう。民主主義国の人権主義は、中国にとって一種の嫌がらせのように感じられるのではないだろうか。

イスラムの教義

  イスラムの教義は難解というが、事情に詳しい人によると極めて分かりやすく、5つの戒律に集約されるという。すなわち、1)イスラム教徒であることを宣言すること。2)1日5回の礼拝をすること。3)一生に一度メッカに詣でること。4)断食すること。5)貧しい人に喜捨すること。である。
  そして最も基本的な原理は、絶対の唯一神の下で万民が平等であり、誰もが神と対話できるということ。これらを信じて行動すれば、死後の幸福は保障されるというのである。これを見る限り哲学的な教義は何もない。極めて実務的で、むしろ生活指導ともいえるのである。だからこそ、無教養で極貧にあえぐ大半のアラブ人の心を掌握できるのだろう。

結晶性知能と流動性知能

 老人を特徴づける知能のことを、専門用語で結晶性知能というらしいが、私はクローズ型と言い換えて理解している。経験に基づいて思考の枠組を固めながら、内容を内向きに深化させる傾向があるからだ。このため老人の思考は、ものごとの抽象化や概念化さらには原理化に向かうように感じられる。
 これに対し若者を特徴づける知能は、流動性知能といわれる。私はこれもオープン型と言い換えて理解している。この場合は新しい知識を積極的に吸収して、思考の枠組みを拡大する傾向がある。そのため新しい発見も多いが、不安定で論理を飛躍させる傾向もあるという。
 もちろん全ての老人と若者の知能を、このような単純な類型で捉えることはできない。しかし老人は保守的で若者は革新的という通説とは、一脈通じる点があるようにも思われる。

2007年9月17日月曜日

晴耕雨読というライフスタイル

 かつて晴耕雨読は、魅力的なライフスタイルであった。しかし現在では、殆どの人がその生活を望ましいとは考えていない。なぜだろうか。今の日本でこのライフスタイルを選ぶことは、それほど難しいことではない。普通の老人であれば、年金や幾ばくの蓄えがあるので、飢える心配はないからだ。
 しかし100年前に晴耕雨読が出来る人は、恵まれた一部の人だけだった。今はそれが出来るのに、やりたくないのはなぜだろうか。たぶん読書より楽しく面白い事柄がたくさんあるからだろう。たとえば旅行、テレビ、ゴルフなど枚挙にいとまがない。 
 その一方で読書そのものの魅力が、低下している。読書の魅力が薄れた理由の第1は出版物が多いわりに、魅力的な内容をもつものが少ない。第2は、社会の変化が激しく、内容がそれに追随できなくなっている。つまり書籍という情報形式は、スピードと映像の時代にそぐわなくなっている。この二つは、いずれも時代環境の変化がもたらしたものである。かくして晴耕雨読は、今では時代遅れのライフスタイルになってしまった。

2007年9月16日日曜日

経済の本質

経済の本質は、つまるところ自然環境の破壊と収奪の効率化である。その原点が地下資源の採掘だ。本来はタダなのに、利用者が価値を認めるので値段が付けられる。たまたまその産地を保有するものが第1所得者になる。さらにその転売過程や、加工過程でも付加価値が得られる。ただしその付加価値も需要と供給で決まる架空のものだ。そのための資金の供給と需要は、別系列の付加価値形成過程から生まれる。本来はタダの自然産物に、まるで寄生植物のように付加価値を付与するプロセスが発生するからだ。まさに花見酒の経済である。この観点でいうと、モノの生産だけに価値があるという見方は間違っている。対象は何であれ、お金の支払いがあればすべてGDPのアップに貢献するのである。
こうなると近代人が営む経済活動は虚構といった方がよいかもしれない。経済学はその虚構の上に立っているに過ぎない。近代社会の経済は、自然の収奪によって成りたっている。いずれ自然が破壊尽くされたら破綻する。しかし経済学はその限界を自覚していない。それどころか、「合理的に行動する経済人」という現実離れした前提条件に立脚している。かくして経済学は虚構であり、知的な遊びに過ぎないのである。

2007年9月15日土曜日

プロの定義

茂木健一郎氏はプロフェッショナルについて、「自分のやっていることに快楽を感じること」と定義している。この表現は簡潔だが本質を衝いている。自分の仕事に対し、求道的な態度で臨む人は、この定義にぴったり当てはまる。日本で多く見られる職人魂の権化のような人は、その絶好のモデルといえよう。彼らはその仕事に熱中すればするほど、脳内の快楽物質(ドーバミン)が湧き出るらしい。

政治とは何か

 民主主義国家を運営する基本原理は三権(立法、司法、行政)の分立である。しかし中国では、三権の上位に政治がある。われわれが理解できない不思議な出来事も、この考え方に基づくものであろう。たとえば行政の要職にある人物が汚職した場合、死刑になることがある。その根拠は概ね政治的判断である。その判断すなわち決定を下すのは誰か。昔は神の化身ともいうべき皇帝であった。現在は、いわゆる政治家である。したがって中国で政治の最上位にあるものは、“神の役割”を担うことになる。
 それにしても“神の役割”を担う政治とは何だろう。国家を運営する過程では、利害、矛盾、葛藤、反目、偏見などによる混沌が日常的に発生する。単純な正義や原理で処理できるものは極めて少ない。そもそも正義とは何かという問題自体が、永遠に解決できないのだ。それにも拘わらず政治は、社会の混沌に対処しなければならない。
 このように考えると政治とは、実際やっている個々の行為でしか説明できない。つまり政治には原理や原則などはないのだ。そうだとすると政治を最上位に位置づける中国の考え方は、むしろ説得力があるようにも思える。民主主義国家といえども政治の拠って立つ基盤、すなわち人間の営みの本質は混沌そのものになるからだ。
 混沌に対処しなければならない政治の、不思議な役割について例を挙げよう。いま日本が抱える課題の一つは地方の衰退である。この衰退を経済現象として眺めると、当然の帰結といえるであろう。地方の経済基盤は林業や農業などの第一次産業であるが、その多くがグローバル化による競争によって敗退したからである。マスコミが主張するように政治の責任ではなく、経済の問題なのだ。しかし政治の立場としては、何らかの対策を講じなければならない。そのため地方交付税14兆円と補助金19兆円併せて33兆円を、梃入れのために投入している。それによって地方を活性化しようとするからだ。
しかし経済の論理で考えると、いま論議されているのは予算の配分問題に過ぎないし、配分をうまくやっても地方経済が立ち直るとは考えられない。一種の輸血のようなものに過ぎず、抜本的な対策は第一次産業に代わる新産業の開発しかない。しかも冷静にみてその可能性は低いと考えられる。経済の立場で考えると、政治の考え方は理屈に合わない。それ故にこそ政治は、経済をも超越することになるのだろうか。

2007年9月14日金曜日

森毅先生の人生論

森毅先生の人生忠臣蔵説はとてもユニークだ。歌舞伎の忠臣蔵は12段階あるが、人生も同じだとおっしゃった。
一般に自然現象は指数関数で説明できるが、人の一生も自然現象だから、同じ考え方が適用できるという。
すなわち人生の1段階は、1の2乗で0歳から1歳まで。2段階は2の2乗で4歳まで。3段階は3の2乗で9歳まで。4段階は4の2乗で16まで。同様にして5段階は25まで。6段階は36まで。7段階は49。8段階は64。9段階は81。10段階は100。11段階は121ということになる。生物学的にそれ以上は無理。
人生の最盛期は7段階。そして9段階に入ると人間は自由になるという。周囲を見ても、まさにそのとおり。この段階区分は面白いほど説得力がある。
なお森先生は、老人には大きな責任があると付け加えられた。それは若者に老齢化することへの期待を持たせることだといわれる。先生流の表現では、「老人になると、ええことあるでえ。」といえるようにすべきという。

2007年9月11日火曜日

水清ければ魚棲まず

 知り合いの外資系企業の駐在員(イタリア人)は、日本語の勉強を兼ねてよくテレビの時代劇を見るそうだ。その感想がなかなか面白い。たとえば水戸黄門が、なぜあんなに人気があるのか理解できないという。パターンはいつも同じで、悪代官を懲らしめるというストーリー。
 腑に落ちないのは、あの程度の些事が問題になることだ。賄賂を取ったり、善良なライバルを陥れたりすることのどこが悪い。わが祖国イタリアで、そんなことを一々取り上げていたら、行政どころか社会そのものが成りたたなくなる。
 その意見を聞いて直ちに連想したのは中国だ。ついでに水清くして魚棲まずということわざも思い出した。このような大らかな意見を聞くと、昨今のわが国の政治の混乱は、いかにも子供っぽく感じられる。マスコミの記者諸君は、たぶん宝塚少女歌劇の熱烈ファンに違いない。政治家を論評する視点はただ一つ、“清く正しく美しく”だけなのだ。たとえば生き馬の目を抜く国際関係についての、政治家の見識や能力をどのように評価するのだろう。

2007年9月10日月曜日

安直な質問

 ITが進歩したおかげで、知的生産がとても便利になった。とくにGOOGLによって、世界中のサイトから膨大なデータや情報を即座に検索できる。もちろん情報検索だけで、知的生産ができるわけではない。コンセプトの創生やアイデアの発想はまったく別次元の話になるからだ。
 アイデアを発想するには幾つかのキーがあるが、なかでも重要なのは「質問」だ。成功したアイデアマンの殆どが、“それは何故か”を連発する習性がある。もちろん質問さえすればよいというわけではない。まず何らかの仮説をもち、その正しさを検証するために質問しなければならない。いやしくもプロであれば、仮設のない無意味な質問は恥である。
 しかし、世の中にはけっこう愚問が多い。よく聞かされるのが、テレビのインタービューだ。かってあるインタビュアーは、黒沢明監督に、「あなたにとって映画とは何ですか」と質問した。黒澤は激怒して言った。半世紀以上も掛けたライフワークを、そんなに安直に答えられるか、と。
 スポーツ記者はしばしばホームランを打った選手に「ホームランを打った感想は?」と聞くが、これもまた同類の愚問だ。

マンションの灯

  宇宙の中の
  地球は小さい
  地球の中の
  東京は狭い
  その東京に
  マンションは
  いくつあるのか
  マンションには
  窓がいくつあるのか
  夕暮れには
  窓の一つ一つに
  灯がともる
  喜びも悲しみも
  みんなそれぞれ
  おたがい
  何も知らないままに

2007年9月9日日曜日

国の責任(2)

 先ほど、国の責任という表現の曖昧さについて述べたが、別の見地からもこの問題を考えてみたい。
 多くの場合、実際に責任を問われるのは国の行政権が関わった場合だ。その担当者がお役人つまり官僚ということになる。したがって国の責任を追求したら、究極は責任権限の委譲ルールに基づき、その問題を直接担当した「お役人個人」の判断や意思決定に還元される。官僚とは、そのような重責を負う仕事なのだ。それ故にこそ一般大衆は官僚を評価するのであって、意味もない権威やステイタスに頭を下げるのではない。
 国の責任という曖昧な表現では、この個人としての官僚の責任を明確にできない。そこで提案するが、問題を処理したときは必ず担当部局と個人名を明示するようにしたらどうだろう。そうすれば、問題を担当する官僚の真剣度は、今まで以上に高まるに違いない。更にいえば、国の責任はすべて首相の責任といった世論操作や、短絡思考を抑えることもできるだろう。

国の責任(1)

 昨日(9月7日)、薬害C型肝炎訴訟の裁判で、仙台地裁は国に責任はないという判決を下した。この一連の裁判は全国で5回行われたが、国の責任を認めないのは今回が初めてだという。これら諸判決の是非については、ここでは触れないことにする。
 気になるのは、相変わらずの「国の責任」という表現である。そもそも国の責任とは、どういうことなのだろう。マスコミは何かにつけ、国の責任は重いと言い立てるが、この表現を濫用しすぎるのではないだろうか。
 国とは、それ自体が独立して存在しているわけではない。国民一人ひとりによって構成されている。したがって国の責任は、結局のところ国民個人の責任に還元される。反日日本人は、しばしば国を誹謗したり貶めたりするが、それはすなわち天に唾するものではないだろうか。

2007年9月8日土曜日

完璧主義は育児にも弊害

  昨年だったと思うが国立女性教育会館が、子供の教育に関する国際比較調査を行い、結果を発表した。それによると日本の親のしつけは、他国に比べて極端に甘いという。たとえば日常の挨拶、食事の行儀、体の清潔さ、後かたづけなどの項目につき、5歳では一人で出来ないのが8割という。
  親の甘さの原因については、親自身が育児を教わったり、自分でやった経験がすくなく、ほとんどが育児書に頼っているからだという。
  しかし、この見解は、もう一つの問題を見逃している。育児書に頼ると言うことは、正解をリスク無しに得ようとするからではないか。育児には、とにかく自分で試行錯誤する蛮勇が必要だ。それを避けたいために、育児書に頼る。その根元は、完璧主義に毒された新日本人の臆病さにあるのではないか。

2007年9月6日木曜日

中国の歴史認識

 以前に青海チベット鉄道を紹介するテレビを見たことがある。北京からラサまでの長大な旅を取材したものだ。途中には広大な山地が広がっている。最も高い地点では標高5000メートルを超えるという。
しかし終点のラサは、人口わずか40万の中都市だ。途中にも大した都市はない。したがって観光客以外は、それほど多くの乗客を期待することはできないだろう。それを反映してダイヤの密度も薄い。1日あたり1往復しかない。他には数本のローカル便が1日おきに走るだけである。景観は確かにすごいが、これではとても採算は取れないだろう。
だが中国はそれを問題にしていない。目的は他にあるからだ。つまりこの鉄道敷設によって、チベットが中国の一部であることを内外に闡明したいのだ。
それにしてもチベットが、中国の一部であるという根拠はどこにあるのだろうか。彼らの主張によると、元の時代に領有したからだという。驚くではないか。そんないい加減な理屈が通るのだろうか。
それでも中国の歴史認識では、そうなるという。この場合の歴史認識は800年前を対象にしているらしい。しかし江沢民が日本に対して強制した歴史認識は、60年前の満州事変頃に限定している。それ以前の歴史は全く無視している。だからこそ一方的に日本の侵略を主張できるのだ。一方では800年前の歴史を主張し、一方では60年前の歴史しか認めない。この詭弁を何とする。

2007年9月5日水曜日

自殺について

 オランダやフランスでは安楽死を法的に認めているが、日本はまだそうなっていない。しかし将来は、この問題に真剣に取り組まなければならなくなるだろう。それどころか、従来はタブーになっていた自殺についても、選択肢の一つとして認めてもよいのではないか。自殺がなぜいけないのか、今や真剣に考える時期がきているように思われる。
 人間の人間たる所以は、意志に基づいて行動することだ。そうだとしたら“死”を、自分の意志で選んでも不思議なことではない。人間は出生を自分では選べない。この時点では未だ意思がないからだ。(芥川はそれをテーマにした短編を書いた)。つまり人間ではない。しかし意思が確立したのちは、人間として自分の死を決めてもよいのではないだろうか。
 PPK(ピンピンコロリ)が理想だという俗説があるが、これはごく普通の人間の本音でもあろう。問題はコロリを意味するK、すなわち死だ。これを受け身で待つ限り、そんなにうまくことが運ぶ保証はない。しかし自分の意思で行えば、確実にできる。

格差社会論とパワーパラドックス

 竹中半蔵氏が財務大臣の頃、面白い意見を述べたことがある。日本には政治的弱者が、強者に転換するパワーパラドックスが存在するというのである。その結果、日本には規制や保護に守られた産業が増えすぎて、競争政策が貫けないというのである。まったくその通りで、日本には弱者が強者に変身して幅を利かしている場合が多い。その原因は、多分日本が国を挙げて偽善社会になっているである。多分その元凶は、左翼政党とそれを支持するマスコミのセンチメンタリズムであろう。

2007年9月4日火曜日

服部家の没落

 ゴードン・チャンはその著作で、WTO加盟によって中国の経済構造は大きく変化するが、それをきっかけにして崩壊すると予言した。その真偽はともかく、産業構造の変化が社会経済に及ぼす影響はかりしれない。たとえば私の故郷は、かって名木飫肥杉の産出で栄えた。その要となった服部家と川越家の繁栄は、すでに江戸時代の中期から始まっていたという。その豪邸の面影は、今でも少年時代の私の記憶に残っている。
 しかし1990年代の初頭30年ぶりに帰郷したとき、川越家の邸宅は跡形もなく荒れ果てた更地になっていた。かろうじて服部家の建物は残っていたが、既に人手に渡っていた。300年近くも続いた名家が、たった30年の間に姿を消したのである。明治維新や敗戦という激動期にも生き残った強靱な事業が、あっけなく崩壊した。この短い期間に起きた経済構造の変動が、如何に過酷なものであったかを思い知らされたのである。

2007年9月2日日曜日

世代ギャップについて

 老人による「今どきの若者は困ったものだ」という慨嘆は昔からあった。しかし今、われわれが目の当りにする世代ギャップは、それらとは本質的に違うように思う。具体的にいうと、おおよそ30歳以下の新世代とそれ以上の世代の断絶である。断絶の様相は3つの側面でみることができる。その1は意識、その2はテクノロジー、その3は言語である。
 まず意識ギャップであるが、これは認識ギャップと言い換えることもできる。新世代の意識は、顕在と潜在の両面でペシミズムに染まっているようだ。これに対して旧世代の意識はオプティミズムといえるだろう。この違いは各々の成長過程で体験した時代環境によるものだ。近代において日本が選んだ道は、明治、大正および昭和の末期まで、ひたすら勃興、成長、復興という上り坂であった。この時代に生きた人たちが積極的かつ楽観的なのは当然であろう。しかし新世代すなわち昭和末期以降に生まれ育った世代の時代環境を、色彩で喩えるならば灰色としか言いようがない。学校で教わる歴史は、日本がいかに近隣諸国に迷惑をかけたかを強調し、国民としての誇りや自信を持たせるものではなかった。地球規模では環境汚染が深刻化し、一種の終末論が重くのしかかる。社会経済の主要部分は殆どシステム化され、フロンティアの開拓余地は限られているため、何もやれないという閉塞感にさいなまされる。途中ではバブルの崩壊もあった。このように何一つ明るい話題がなかった世代の心情を想うとき、旧世代は傷ましさを感じざるを得ないだろう。
 第2のテクノロジーギャップは、ITの進歩普及に伴って極めて顕著になった。インターネットやモバイルは、従来型のヨミカキソロバン型のビジネスリテラシーを全く無用の長物にした。そのため旧世代と新世代の間には、ビジネススキルの連続性がなくなっている。旧世代のスキルを引き継いでも役に立たないので、新世代はそれを自分で開発し習得しなければならない。銀行業務などはその典型だ。
 第3のギャップは言語ギャップだ。旧世代にとって、新世代の言葉使いは外国語の翻訳のように聞こえることがある。例として、パソコンのヘルプデスクに電話したときの質疑応答を再現してみよう。

 クライアント:「もしもし、〇〇についての操作を教えてください」
 ヘルプデスク:「承知しました。それでは△△のアイコンをクリックしていただいてよろしいでしょうか。」
 クライアント:「はい」
 ヘルプデスク:「次に××のアイコンをクリックしていただいてよろしいでしょうか。」

旧世代としては、この「していただいてよろしいでしょうか」の部分は、「して下さい」で十分だと思うだろう。このような奇異な言葉使いは、ITに関連するマニュアルの多くが翻訳ものに由来するからである。極言すれば、たかだかIT関連の用語法に過ぎなかったものが、いまや日本語そのものを変えつつある。その主役はIT機器を体の一部のように使いこなしている新世代なのである。
このようにして新世代と旧世代の間には、今まで経験したこともないギャップが生じている。旧世代はそれを非難したり嘆いたりしても意味がない。ギャップの存在をありのまま認め、何とか折り合いをつけていくしかないだろう。それには自の考えを理解させようというのではなく、まず相手の考えを理解しようとする努力が必要だろう。