2007年8月29日水曜日

中国が発信する情報の真偽

 中国が発信する報道は、原則として疑う必要がある。かつて朝日新聞は毛沢東の文化革命の初期に、新生中国には蝿一匹もいないと報道したが、その無邪気さをいまさらのように思い出す。それをあざ笑うように最近における中国の報道テクニックは、かなり手の込んだものになっている。古い喩えでいえば、「皮を切らせて肉を切り、肉を切らせて骨を切る」やり方だ。たとえば6月2日にNHKが放映した「激流中国」などはその典型だ。これについては、7月2日のブログ「中国の深慮遠謀」で述べた。
 先日の段ボール肉まん事件も同じパターンだ。国際的な非難が高まり、中国政府は悪徳食品会社の企業を摘発する姿勢をアピールせざるを得なくなった。そのため実態の一部を放映させたのだ。しかし今回は世界の反応を、思い通りに操作できなかった。政府が摘発に取り組む姿勢を評価するのではなく、中国製品全体への不信感が拡大したのだ。そこで慌ててヤラセ番組ということにして、事実ではないと言い出したのだ。報道担当者はとんだ災難であったろう。
 いうまでもなく、マスコミによる事実の歪曲は中国に限らない。われわれ市井の受信者は、つねに報道の内容を鵜呑みにしないよう心がける必要がある。そもそも報道の専門家といえども、実際に事実に当面することはほとんどない。多くは他の情報源から受信したものに解説や解釈を加えて報道しているに過ぎない。とくに偏った思想をもつメディアの記事は、いくらクオリティペーパーなどと気取っていても胡散臭いものである。大いに警戒しなければならない。

2007年8月28日火曜日

少子高齢化にどう対応するか

 日本は人口の減少を心配しすぎるのではないだろうか。この狭い国土に1億2000万人も住んでいるのだ。つい40年前は人口が多すぎると騒ぎ、8000万人が適正と論じた学者もいた。そもそも世界には、人口1億以上の国は11しかない。そのうち先進国はアメリカと日本の2国だけである。あとはアジア・アフリカにある6カ国と南米2国およびロシアだけだ。そんなことより、気にかけなければならないのは、いま急速に進行しつつある老齢化だ。これの対策は早急に考える必要がある。
 国内経済で言えば、高齢者市場はすでに大きく花開いている。具体的には旅行、液晶テレビなどの超高級家電、趣味・教養および老人医療などの分野だ。その消費の勢いは今後も衰えることはないだろう。むしろ問題になるのは生産面である。相対的に若年労働者の割合が低下するからだ。一般に生産を担うのは若者であるから、これは大きな問題といえる。しかし短期的には、近年の技術革新によって自動化が進んだので、それをフルに活用することができる。そして長期的には、若者のセンシティブでパワフルな労働力と、高齢者の経験と熟練を組み合わせた新しい生産システムを構築しなければならない。これこそ今後の最大の課題になるであろう。

欧米人は老いの価値を理解できない

西欧思想の普及によって、現代日本は善悪二面の影響を受けている。たとえば合理的精神は良い面の代表だ。しかし老いに関する考え方は悪い面の代表といえよう。欧米的な見方では、老いは美の反対すなわち醜である。また尊敬の対象ではなく憐れみの対象だ。生産的な存在ではなく、非生産的な存在でもある。つまり社会の厄介者である。しかし東洋的な考え方では、古来から老いは美であり、尊敬の対象であった。例えば中国の山水画をみると、往々にして中央に白髪の老人が配置されている。つまり美の構成要素になっている。日本でも枯淡の味は、ハイレベルな美的感覚として評価される。老いを尊重する東洋の思想は、西欧より奥行きが深い。

2007年8月27日月曜日

朝日新聞販売拡張員の犯罪

完璧主義で凝り固まった朝日新聞の口癖は、「あってはならないこと」である。その足元で8月26日、名古屋でとんでもない事件が起きた。同新聞販売店の販売拡張員を含む3名が、路上で若い女性を誘拐し、殺害したというのだ。彼らは犯罪者仲間を募る携帯電話のサイトで知り合ったが、素性が分からないようお互いに偽名を名乗っていたという。この事件は新しい犯罪の手口として大いに注目されるが、ここではそれとは別に、朝日新聞の二枚舌(ダブルスタンダード)体質について追及したい。
大新聞の販売拡張体制のひどさは周知のことである。とくに不足がちの販売拡張員を確保するには、ありとあらゆる手段が講じられる。たとえば就職の際は前歴を一切問わないし、借金があればそれを立て替えてやる。このようにして集められた人材に、いかがわしい者が紛れ込むのは当然のことだ。
なぜ、そのようにまでして販売力、さらにはシエアを高めたいのか。かつて朝日は親左翼の立場から、産業界の成長拡大路線を批判していた。とくに大企業の拡販戦略については、独占をもたらすものとして反対してきた。下請けシステムについては、弱いものいじめの象徴とように扱ってきた。しかし自らのなりふり構わぬ拡販対策については、まるで口をぬぐったような態度である。
今回の販売拡張員の犯罪については、おそらく自社の社員ではないと説明するだろう。またそのような人材を雇わざるを得ない販売店の窮状については、他人の経営に容喙しないと言い張るだろう。しかし新聞販売店の下請け体制と、大企業の下請け体制のどこに本質的な違いがあるだろうか。朝日新聞は、建前と本音を使い分ける二枚舌の偽善体質を改めなければならない。さもなければ、大変革が予想される21世紀のマスコミ業界で、生き残ることは難しいだろう。

テレビで見る戦国時代の軍議

 いまNHKで放映中の風林火山はかなり評判がよいらしいが、ここで取り上げたいのはドラマの出来栄えではない。戦国時代の会議のあり方である。この種のドラマでは、しばしば軍儀の紛糾する場面が演出されるが、大よそパターンは決まっている。すなわち重臣たちが各々の意見を述べ立てるが、やがて鋭い対立が生じ議論は膠着状態となる。首領はそれまで黙って聞いているが、この段階になってはじめて口を開く。いくつかの要点を衝く質問のあと、明確な決断を下す。
 この軍儀のやり方と、現在の経営会議のやり方を比較すると面白い。いわゆるワンマン会社では、役員が意見を言う前にトップが自分の方針をまくし立てる。いわゆる討論ではなく、方針の伝達である。一方、権限委譲が進んでいる場合はどうか。それぞれの担当責任者が方針を説明し、他のメンバーはあまり口出ししない。専門分化が極度にすすんでいることもあるが、他人の縄張りを侵したくないという配慮もある。この場合の会議は、一種の情報交換といった方がよいだろう。
 このようにして現在における経営会議の多くは、戦国時代の軍儀のように殺気が漲るようなものにはなりえない。その理由は、専門分化に由来する情報洪水のせいなのか。それとも経営があまりに複雑化したため、トップの情報処理能力と決断能力に限界が生じたのか。

2007年8月26日日曜日

イタリア青年の感想

 日本に滞在しているイタリア青年から感想を聞いた。彼は日本を信じられないほど恵まれた国だという。失業率は4%そこそこだし、消費税率も低い。とくに治安の良さは奇跡的だ。山手線の網棚に忘れ物をしたが、一巡するのを待っていたらそのまま戻ってきたという。欧州ではとても考えられないことだ。しかし不思議なことに、日本のマスコミや知識人は、日本ほどダメな国はないように騒ぎ立てる。そして大衆はそれを信じ、自分の国を愛することが出来ない。
 そこで彼は日本のために提案したいという。欧米諸国の常識ともいえる兵役は無理としても、せめて1年間、若者が後進国に出向きボランティア活動をするように義務づけたらどうか。そうすれば、日本という国がいかに素晴らしいか分かるだろう。日本人は海外旅行をしても、その国の真の姿をみることがない。したがって自分の国の価値も理解できないのではないか、と。

企業は生命体

清水博博士はその著作「生命を捉えなおす」で、生命を「動的秩序をみずから創出するもの」と定義している。この定義によれば、企業も一種の生命体といえる。動的秩序を創出するには、生命体は自らを維持するための代謝機能を備えなければならない。企業の場合のそれは、生産活動に該当する。外部から材料、エネルギー、情報を入力し、プロセスを経てプロダクトを出力するからである。
ただし生産を行うには、「意志」が必要だ。もちろん意志だけでは生産できない。意思の他にも数え切れないほどの要件が必要になる。たとえば、認識能力。これには環境認識と自己認識が含まれる。認識に基づく予測能力も欠かせない。デザイン能力や組織力、計画能力、さらにはコントロール能力も不可欠だ。しかも生産活動には常にリスクが伴う。つまり生き残るには幸運も必要だ。生産活動に必要な要件がすべて揃っていても、成功を保証することは出来ないからだ。はっきりしているのは、ただ一つ。意志のない経営は必ず破綻するということだ。良質で強固な意志があり、生産活動(代謝機能)に必要な要件を全て備え、しかも幸運に恵まれたとき企業は成功する。
ただし企業は生き物である以上、そのメカニズムは複雑だ。トップといえどもすべてを知って、コントロールすることはできない。この点も生命体としての人間によく似ている。近年における最先端の生命科学といえども、人体すべてのメカニズムを解明することはできないからだ。現在の医療専門家にできるのは、広義の対症療法と健康法だけだ。企業経営を研究する経営学の立場もまったく同じといえよう。企業経営に対応する自らの能力を過大評価せず、せいぜい対症療法か健康法の範疇に止まっていることを自覚するべきだろう。

2007年8月25日土曜日

メイド・イン・チャイナに人気がある!

先進国の間では、中国製品は”安かろう悪かろう”の代名詞になっている。しかし、ところ変われば人の考えも変わるものだ。知り合いのイタリア人によると、ナポリではその中国製品の偽モノがよく売れるそうだ。偽モノというのは、イタリアで作った製品に”メイド・イン・チャイナ”と打刻したものをいう。つまりナポリでは”メイド・イン・チャイナ”とは、リーズナブル価格の代名詞なのだ。粗悪品という評価は全く欠落している。この傾向はアフリカや中央アジアにも共通しているらしい。中国という膨大な生産人口が作り出す粗悪品は、先進国で嫌われても何ら痛痒を感じないらしい。

不公平について

 誰が言い出したのか、格差が大きな社会問題になっている。その背景は、おそらく多くの人が公平に処遇されていない、つまり不公平の被害を受けていると感じているからだろう。では不公平とは何だろう。
一般に不公平は、地位や富の分配の面で強く意識される。報酬は能力に比例しない。正直者は損をする。地方交付税によって、地方は都会から搾取している・・・といった具合だ。
A君は同窓会の嫌われ者だが、県会副議長の娘と結婚したおかげで地元政界のボスになっている。B君は典型的なゴキブリ社員だが、上司に気に入られて出世コースを歩み、かつての同僚たちを押さえつけている。
しかしこれらの不公平は、報酬や地位の面だけからみた評価に過ぎない。別の見方、たとえば才能や徳性について言えば、A君やB君は、天から不公平な扱いを受けている。その一方で才能豊かな人は、地位や収入は恵まれなくても才能の神から偏愛されていることになる。かくして不公平そのものは避けがたいというべきだ。地位や富の不公平だけをあげつらうのは、それこそ不公平というべきだろう。

百科事典の役割は終わった

 ITの発達によって、社会のあらゆる分野で大変動が起きている。百科事典も例外ではない。インターネットに蓄積されたデータベースや、グーグルなどの検索技術によって殆ど使う必要がなくなった。しかも変化の内容は、たんなる情報の内容や検索技術だけではなく、知識のあり方そのものに及んでいる。百科事典の陳腐化は、その象徴的といえよう。
まず百科事典では関連する文献や、情報の出所を明示しない。だからより詳しく調べることができない。次に項目が極度に限定されている。たとえば平凡社の世界百科事典には、「日本文化」という項目がない。その理由は「日本文化」という概念定義が学問的に確立していないからだ。しかし日本料理、日本映画、日本画などの項目はある。この場合は概念がはっきりしていることになる。
一方グーグルでは「日本文化」でも検索できるし、関連文献も数多くあらわれる。つまり定義が確立していなくても、その用語が流通していれば検索することができる。これは情報を求めるものにとって極めて便利だ。現在のように情報が高速大量に作り出される時代は、いちいち概念や用語の定義が確立するまで待つことができないからだ。
かくしてアカデミックな研究者は別として、実務の世界に生きる情報利用者は、タイムラグのある百科事典から離れ、インターネットが提供する情報検索システムに依存することになった。もちろんインターネットで得られる情報は玉石が混淆している。したがって情報収集や利用に際しては高度な判断力が必要だ。

2007年8月24日金曜日

朝鮮半島の将来

韓国の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領は、民族主義者であると同時に国家主義者でもあるらしい。彼が南北統合に熱心なのは、この二つの思想に基づいている。しかし南北分離以来すでに60年を経過した。その間には両者による凄惨な戦争もあったし、政治や経済の面では決定的なギャップが生じている。たんに感傷的な民族意識に期待して、この壁を取り払うのはあまりにもリスクが大きい。むしろ統合した後の、同族間の激しい相克も予想される。そうなればまさにバルカン半島のような事態になるだろう。もう一つの国家主義によって期待される国威発揚も見通しは暗い。北鮮は言うに及ばず韓国といえども、いま世界に向かって主張できる文化面の功績はあまりにも少ない。たしかに近年の経済発展は著しいが、その元を問えば、多くが日本の模倣である。かくして今やこの国では、日中サンドウイッチ論が囁かれている。両大国の挟間にあって、アイデンティティが失われるという危機感である。これもまた例によって、日本統治のせいにする論議に発展するかもしれない。しかし日本の韓国統治はわずか35年に過ぎない。歴史で言えばほんの一瞬の出来事だ。その程度のことで失われるアイデンティティなどは、本来はなかったも同然である。朝鮮半島の将来は、盧武鉉流の民族主義や国家主義にとらわれる限り見通しは暗い。

2007年8月23日木曜日

日本は外国の悪口を言ったことがない

 嘗てフランスのドゴール大統領は池田首相をトランジスタ商人と皮肉り、後の女性首相はことごとに日本の悪口を述べ立てた。オランダの高官は日本の住宅をウサギ小屋と揶揄し、中国の李鵬首相は豪州を訪れたとき、21世紀末には日本という国は消滅しているだろうと演説した。
 戦後60年になるが、日本はいかなる外国にも、こんな失礼なことをいったことはない。前非を悔いた日本は今や世界一の紳士国である。しかし中国や韓国などは未だに半世紀以上も前のことを取り上げて非難の材料にする。どうして日本は反論しないのか。こうなるともはや紳士どころではなく、たんなる臆病者に過ぎないのではないか。それどころか朝日などは、外国からの悪口に便乗して、自虐的な論調に拍車を掛けてきた。つまり日本は、外国の悪口は言わない代わりに、自分の国の悪口をいう不思議な国なのである。

スペシャリティとゼネラリティ

あらゆる生き物は生存に必要な機能をもっている。人間も例外ではない。視覚、嗅覚、触覚、聴覚にはじまり、筋力、走力、コミュニケーション力など極めて多様かつ多彩だ。しかし人間が持つ機能の一つ一つは、それほど優れたものではない。たとえば聴覚や嗅覚は犬と比べると遙かに劣る。馬や豹と比べると、走るスピードは比べようがないほど遅い。しかし個体として生存するために必要な環境適応力は、他の生き物に比べて最も優れているといえるだろう。では、その適応能力の源泉は何だろうか。多分それは、個々の機能の性能ではなく、それらを組み合わせた総合力である。別の言い方をすれば、スペシャリティではなくゼネラリティによるのである。特定の環境や固定した条件下では、スペシャリティは抜群の効果を発揮する。しかし複雑な環境や変化する時代においては、ゼネラリティこそ生き残りの決め手になるだろう。

知識情報処理の新テーマ

 パソコンOSの陣取り合戦が、マイクロソフト製Windowsの圧勝に終わったのは約10年前のことだ。そして現在、インターネット検索の市場で圧倒的なシェアを誇るのはグーグルである。膨大な情報を検索するツールとして、このソフトは信じられないほどの威力を発揮する。洪水のような情報に翻弄される現代人にとっては、まさに救いの神といえるだろう。
 Windowsを知識情報処理のインフラとするならば、グーグルはそれを使って知識情報検索を行う人のための極めて性能のよいツールである。何しろ世界中に張り巡らされたウェブの、30億に及ぶサイトに瞬時にアクセスして、関連する情報をくまなく検索できるのだ。かくして知識情報処理に関する課題は概ね解決できたのだろうか。そうではない。むしろ更に大きな課題が明らかになってきたのである。
 そもそも我々が、知識情報を検索するのは何らかの目的があるからだ。検索すること自体は目的ではない。課題に関連する情報を検索収集し、それを材料にして新しい情報を創造したり、評価判断して意思決定するのが目的である。つまり知識情報処理のプロセスは、情報の蓄積や検索だけではなく、それを原料にして新情報を生み出すプロセスも必要である。これこそが知識情報処理の最終的な目的である。
 かくして我々は、知識情報処理技術の本質的なテーマを発見した。21世紀はマイクロソフトやグーグルが築いた技術をベースにして、この新らしい課題に挑戦しなければならない。このテーマを解決する知識情報処理技術は、従来とは全く違うアプローチが必要だろう。比喩的にいえば、従来の技術は物理学的発想に基づいていた。しかし新しい知識情報処理技術は化学的発想を参考にしなければならない。情報の物理的処理とは、単位情報を検索したり分類集積したりするが、単位情報そのものを変質させることはない。しかし情報の化学的処理とは、単位情報の組み合わせによって化学反応を促し、元の情報を変質させなければならない。つまり新情報を創造することになるのである。

2007年8月21日火曜日

気になるコミュニケーション

 40年ほど前、ニューヨークのマグローヒル書店で買い物をした。ついでに広大な売り場を散策したが、その一角でうず高く積み上げられている書籍群があった。案内ボードにはコミュニケーション関連と書かれていた。帰国後も大へん気になったので、日本の書店でも同種の書籍を探してみた。しかしほんの僅かしか見つけることができなかった。
 そして現在、一時に比べて下火になったとはいえ、日本の大書店にはコミュニケーション関連本が溢れている。理由は明らかだ。日本もどうやらアメリカと同じように、今までの融和社会から隔絶社会に変わったらしいのだ。たとえば世代ギャップ、地域ギャップ、意識ギャップ、所得ギャップ、学歴ギャップなど枚挙に暇がない。勿論このようなギャップは以前からあった。しかし底流に日本人としての融和の精神があったので、ギャップによる対立はそれほど鋭いものではなかった。今は、その底流がなくなっている。
 融和社会のコミュニケーションは暗黙裡に行われるが、隔絶社会のそれは意識的に行われなければならない。言い換えれば、技術として身に付けなければならない。かくして現在の日本では、コミュニケーションに関する話題は尽きることがない。

2007年8月20日月曜日

何を信じるか

 8月10日付けの産経新聞によると、北朝鮮は昨年10月の核実験直後、アメリカにメッセージを送り「朝米関係を正常化し韓国以上に親密な米国のパートナーになる」と伝えたらしい。そういえば今年の1月にはベルリンで、ヒル米国務次官補と金北朝鮮外務次官が二人だけで会合し、我々には不可解ないくつかの取り決めをした。マカオにおける資金凍結の解除、段階的な核放棄の容認、さらにはヒル次官補による日露を除く4カ国会議の提案などである。
 このような今年1月以来の米朝間の動きは、我々にとって極めてわかりにくい。各国の水面下外交は、一体どのように行われているのか。若しかしたら昨年10月以来、日本ではまったく見当違いの論議と対策を講じてきたのかもしれない。前例はある。かつてニクソンは日本の頭越しに中国と国交を開いてショックを与えた。要するに我々はアジア戦略で、二度にわたりアメリカにコケにされたのだ。
 しかし冷静に考えれば、国際関係とは本来そういうものなのだ。すべての国にとって、最優先すべきは国益である。反日日本人や左傾マスコミのように「国益」をタブー視するのは、ナンセンスとしか言いようがない。
 それにしてもこの10ヶ月の北鮮問題に関する政治家、官僚、学者、マスコミ、評論家などの論議はまったく無意味だった。空しさの限りというべきだ。しかしわれわれ庶民が得ることのできる情報といえば、マスコミの報道しかない。それが間違っていたのだ。とくに、したり顔で語る高級紙!の論説委員や評論家の言説は、事実とは関係のないノイズかゴミクズ情報にすぎなかったのだ。
国際社会は、表面的な外交関係とは全く違う水面下の交渉で動いているらしい。残念ながら、その実態を知る手立ては全くない。それを知る唯一の手掛かりは、すべての国が国益を求めているという事実だけである。我々はその真理を手掛かりに、複雑な国際関係を自分で判断するしかない。