2008年10月30日木曜日

軽薄な産業進化論

 野口悠紀雄の「モノづくり幻想が日本経済をダメにする」によると、産業は必然的に1次から2次、2次から3次へと進化するものである。したがって日本も、早急に2次産業依存から、3次産業に構造を変えるべきだという。この考え方は理論とはいえない単なる俗説に過ぎないが、どういうわけか一部の経済学者の間では無条件に信じられている。野口氏もその一人のようだ。
氏は3次産業へ転換する条件として、新たな産業技術の習得、とくに金融工学なるものを高く評価しているようだが、最近のサブプライム問題については、どのような見解をお持ちなのだろうか。また氏は、情報整理の達人としても有名である。その情報整理のノウハウ本は、ミリオンセラーにもなっている。しかし情報整理がうまくなっても、創造性が高まる保証はない。実際、経済学者としての氏の理論面での功績については、私は寡聞にして知るところがない。そこまでは望まないにしても、少なくとも金融工学なるものの、イカサマ性ぐらいは見抜けなかったのだろうか。
 産業の進化を論ずるならば、俗説にこだわらず視点を一新するべきだろう。たとえば1次産業、2次産業、3次産業それぞれは、その産業の枠内でも進化することができる。実際に、産業界ではそうなっている。農業も工業も、その産業内で技術革新を成し遂げ、生産性を大いに高めた。この活動がなければ近年の爆発的な人口増に伴う、膨大な食料の確保や生活必需品を、まかなうことはできなかっただろう。日本はその1次産業や2次産業で大きな貢献をしている。この活動のどこがまずいのか。時代の趨勢に遅れをとっているのか。
進化は、どの方向にも向かうことができる。馬鹿の一つ覚えみたいに、1次から2次、2次から3次という方向しかないと考えるのはあまりにも硬直した考え方だ。

2008年10月17日金曜日

中国の有毒食品

 このところ中国産の有毒食品に関するニュースが引きもきらない。はじめてクローズアップされたのは、かの天洋食品によるギョウザー事件であったが、この問題はずっと以前から潜在していた。ただし何れの場合も事実無根とする中国側の強弁と、それを深く追求しない日本側の弱腰のために、大きな問題にはならなかった。
 しかし最近の状況を見ると、もはや中国といえどもその事実を認めざるを得なくなっている。その原因を推測すると、おどろくほど根が深く範囲も広いようだ。したがって全貌を捉えるのは容易ではないが、取り敢えず思いつく諸点を挙げてみたい。
① 共産主義国家の価値観は、自由主義国家の価値観と本質的に異なる。たとえば人命尊重という  最も素朴な倫理観さえ確立していない。革命に反するものを容赦なく処刑するのは、そのためである。革命という目的のためには、手段を選ばない。ロシアの革命や中国の革命による大量殺戮は、その恐ろしさを証明している。この人命軽視の残虐性が平気で毒入り食品をつくり、他国に輸出する暴挙につながっているのではないだろうか。
② エリート集団の政府と、一般国民との乖離が著しい。この両者は、まるで近代国家と古代国家の二つに分かれて住んでいるようにも見える。現在では中国政府といえども、有毒食品については本気で取り締まろうとしている。しかし取締りの相手は別の国に住む民度の低い一般国民である。これではいくら取り締まりを強化しても際限がない。なにしろ13億人に対して、エリートの数はごくわずかに過ぎないからだ。
③ 江沢民による反日教育の成果が、いまや満開の状態である。この教育で育った世代が働き盛りとなり、大衆の意識をリードしている。彼らが日本人を憎悪する心情はただ事ではない。そのため日本人に危害を加えても、それほど良心が痛まないという。有毒食品で日本人が死んでも、本心では何とも思っていない。
④ かねて噂される国内テロの一環かもしれない。このような有毒食品事件が頻発すれば、中国の信用が失墜することは明らかだ。それを狙って、中国の国内外に散在する反政府分子が、犯行に加担することも十分に考えられる。

 このほかにも中国における有毒食品事件の原因は、いくつも考えることができる。それだけに対策も大へん面倒なことになるだろう。われわれは何時、どんな形で被害を受けることになるか分からない。恐ろしいことになったものだ。

2008年10月12日日曜日

政治家はなぜ直言できないか

 前国土交通相の中山成彬氏は、その率直な発言によって就任後わずか数日で辞任に追い込まれた。一つは成田空港反対派の長年にわたる言動を「ごね得」と評したこと。もう一つは日教組を「日本の教育の癌」と決め付け、この組織を何とか解体したいと発言したためである。当然ながら野党や日教組は大いに反発したが、与党の一部にも批判の声が上がり、遂に辞任を余儀なくされてしまった。
 しかし、この発言のどの部分に問題があるのだろうか。良識ある国民の大部分は、本音ではその正しさを認めているはずだ。それにも拘わらず表立っては、誰一人として中山発言を擁護しなかった。このようなことでは、政治家はいっさい本音を語ることはできないだろう。彼らは何を恐れて、率直な発言を控えるだろうか。考えられる理由は二つだ。
 その一つは言うまでもなく、サヨクやそのシンパによる非難や攻撃である。しかし、これは彼らのアナーキーな立場からすれば当然のことで、いまさら気にする必要もない。問題はもう一つの、「まあまあ主義」とも言うべき一般世論である。上でも述べたように、大衆の本音は中山氏の言い分を肯定している。それにも拘わらず批判するのは「ああまで言わなくても」とか「立場をわきまえず本音を言うのは馬鹿正直だ」ということらしい。果たしてそうだろうか。むしろ本音を言わない方が、間違いではないのか。
 今まで日本人の多くは、本音と建前をうまく使い分けてきた。その巧みさは往々にして、老練さや柔軟さとして評価されてきた。とくに政治家は、私的な場では本音を言い、公的な場では建前を語ることが通例だった。しかし今後の複雑な国内環境や国際環境では、そのような半端な表現では誤解と混乱をもたらすだろう。本音と建前の使い分けは、往々にして偽善や卑怯さにつながることにもなる。この傾向は、日本では近年とくに著しい。その主な原因は、多分マスコミによる言葉狩りのせいでもあろう。これでは真の意味で、言論の自由がないことになる。マスコミは言論の自由を標榜しながら、実は言論の抑圧者に成り下がっている。
 欧米の政治家にはもっと勇気と誇りがある。フランスのサルコジ大統領の例に見るように、自分の考えを隠したり飾ったりせず、率直に表明することによって国民の支持を得てきた。日本の政治家も、これからはそうなってほしい。