2011年12月14日水曜日

日本の株価

日本の株価はあのバブル以来、低迷を続けているが、未だに回復の兆しがない。現在は8500円辺りをうろついているが、今後はどうなるのだろう。
  過去のデータを調べてみると、1989年12月には日経平均株価で38915円という最高値を付けた。しかし、今日現在(2011年12月14日)では8537円になっている。実に4.5分の一である。一方、アメリカのダウ平均株価は、同じ時期つまり1989年12月には2753ドルであったのが、2011年12月13日には12021ドルになっている。つまり4.3倍になっている。この極端な違いは何故なのか。少なくとも経済の実勢でみる限り、アメリカと日本の差がそんなにあるとは考えられない。むしろ、日本の方が優位に思われる。その一つの表れが円高ドル安という現状だ。為替相場がそれぞれの実力を、必ずしも正確には反映しないことは承知できるが、全く根拠がないとも言えまい。いずれにしても、株価と為替相場のギャップはあまりにも大きい。日本の株式市場には、何か根本的な問題があるのだろうか。経済専門家のお考えを承りたいものだ。

新・養生訓

老人は迷惑をかけましょう

老人は酒とタバコを続けましょう

老人は不潔を心がけましょう

老人は怠けましょう

老人は他人を傷つけましょう

老人は反省してはなりません

老人は他人を見下しましょう

老人は横恋慕しましょう

老人は下品に振る舞いましょう

老人はおしゃれをやめましょう

老人はいつも不機嫌になりましょう

老人は傲慢になりましょう

老人は他人を疑いましょう

老人は嘘をつきましょう

老人は他人の陰口を言いましょう

老人は頑固になりましょう

老人は感謝の心を忘れましょう

老人は責任を逃れましょう

老人は無駄遣いをしましょう

老人はけちになりましょう

老人はラッシュアワーに外出しましょう

老人は愚痴を言いましょう

老人は自慢話だけをやりましょう

老人は他人の不幸を喜びましょう

老人はペットを虐待しましょう

老人は汗臭くなりましょう

老人は列に割り込みましょう

老人は他人の成功を妬みましょう


 老人はそうやって長生きしましょう

2011年12月11日日曜日

“想定外”を批判する立場

 1000年に一度の津波被害を想定できなかったという原子力関係者の説明に対して、原発に反対してきたマスコミや評論家などの学識経験者は、それを逃げ口上であると批判している。しかし地球上で日常的に発生する数々の出来事で、1000年に一度しか発生しない事態を誰が予知できるだろうか。例えばこの人たちが守り抜こうとしている日本の平和憲法は、どの程度まで想定外の事態を念頭に置いているのだろうか。
 最近、アメリカのシンクタンク・ランド研究所は、中国との軍事衝突の可能性が、全く無いとは言い切れないと表明している。データによると、過去3400年のうち完全に平和な時代は、250年に過ぎないらしい。つまり戦争があるのが普通であって、それがないのはむしろ例外というべきなのだ。それにも拘わらず、進歩的と称する我が国の学識有識者たちは、漫然と平和憲法が維持できると考えている。念のために、その平和憲法の核心部分を取り出すと、次のようになっている。
 “・・・平和を愛する(海外)諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した・・・・・”。
 この文面に表れている他力本願の虫のよい依存心はさて措くとして、戦争状態が普通という国際関係の歴史を全く無視しているのは致命的である。1000年に一度の津波を想定しなかった原発技術者を非難しながら、その一方で日本が戦争に巻き込む確率はゼロという前提に立っている。しかし戦争の確率は、上述したように津波発生の確率と比べると格段に高い。それでも平和憲法擁護者がそれを無視して、戦争の勃発を想定外と考えているのは何故か。論理的な思考力の不足なのか、あるいは御都合主義なのか。

2011年12月10日土曜日

バカの一つ覚え・被曝量〇〇シーベルト

又もやNHKや一流を自負する大新聞などの、紋切り型のアジ報道について文句を言わなければならない。連日聞かされる、「〇〇地区における本日の被曝量が××シーベルトに達した・・・・」という例のやつだ。
 各所に配置された観測所を巡って数値を聞き込み、そのあと被災地の誰かにマイクをつきつけ、この数値をどう思いますかと尋ねて、不安や不満を表明するように誘導する。この調子で連日やられたら、日本中が放射能被曝の不安と風評に浮き足だってしまうのは当然のことだ。
 被曝量の最も大きかったのは広島や長崎である。少なくとも、今回と比べると数万倍以上になるのではないか。それでも生き残った人はいるし、その人たちは健気にも数日後から焼け跡の整理や復興に奔走した。市電の一部も3日後には動いていた。この事実を想起して、まず報道すべきは当時の被爆量だ。また最近ではチィエルノブイリ原発事故がある。このケースも比較の対象にする必要がある。その上で、ぎりぎりの安全値も示さなければならない。ぎりぎりの限界値を示さないで、漫然と数値を発表するだけでは不誠実、いや怠慢いうべきだろう。
 一説によると放射線量は数百マイクロシーベルト/時ぐらいでも問題ないという。しかし12月10日午後7時のNHKニュースによると、福島県の多いところで20ミリシーベルト程度ということで、ちょっとした事件扱いになっている。本来なら騒ぎすぎというべきだろう。しかし自治体は1ミリシーベルト以上を問題にせよと言っているので、マスコミはそれに迎合して騒ぎ立てるわけだ。内心は閉口しているかもしれない。しかし、それも自業自得というものだ。そもそも事故の初期段階で、被曝量について騒ぎすぎたからだ。そのため住民や自治体は神経過敏になっている。これもマスコミのセンセーショナリズムがもたらした因果といえるだろう。

2011年12月6日火曜日

トフラー夫妻の予言

 先だって未来学者アルビン・トフラーとハイジ・トフラー夫妻が、「今後の40年を左右する40の変化」という予測報告書を発表した。まだ詳細はわからないが、幾つかの要点がトフラー・アソシエイツのマネージングパートナーからリリースされた。私はトフラーのデビュー作である“未来の衝撃”以来“第三の波”、“パワーシフト”、“富の未来”などの代表作を読んできて、大ファンになっているので、その全貌を一日も早く知りたくてわくわくしている。ただ今は焦っても仕方がないので、その一部を垣間見るだけで我慢している。それを受け売りすると次のようになっている。

・ 今後の3年間で約80国の大統領などのトップ改選が行われる
・ その中で女性のトップが空前のペースで増える
・ 世界各地で宗教グループが政府に進出する
・ ブラジル、中国、インドなどの経済力が増大し、米国やEUは中心でなくなる
・ 非政府的組織のパワーが高まり、相対的に国家の影響力が弱まる
・ これらの組織は、財源の余裕とその行使力において国家を凌駕する
・ 世界規模の人口移動により、新しいメガ都市が生まれる
・ 先進国の人口は、本国生まれの少ない高齢者と、多数の若い移民で構 さ  れる
・ フェイスブックなどのSNSが社会全体に対して新しい巨大な影響を与える
・ 組織が不適切な行為を隠せなくなる
・ 中国は予想以上に、長期にわたって経済のパワープレイヤーとして君臨する
・ 「無用知識」が国際競争力に影響を与える・・・・無用知識とはトフラーが今回初めて提示した概念であるが、詳細はわからない。私はとくに興味をもっている。

以上の他にも30余りあるのだから、一日も早く全貌が知りたい。未来の衝撃以来、トインビーがアナウンスしてきた未来予測の大半が的中しているだけに、混迷を極めている現在の世界情勢がこれからどうなるのか、大いに参考にしたいのだ。

2011年12月3日土曜日

TPPとABCD

TPPには極めて多くの課題が含まれているので、賛否の議論が錯綜している。とくに反対意見をみると、農業関係の既得権維持にこだわる勢力、そのメンバーが保有する票を目当てにする政治家、郵政民営化反対派による国民皆保険制度崩壊への危惧アピールなど言いたい放題という感じがする。そして、その被害妄想的な意見の根拠が薄弱な点を指摘すると、情報を十分に伝えないからだと開き直る。しかし情報不足と言っても、この問題はこれから討議しようというのである。それを先取りして、某大国の陰謀などと騒ぐのはあまりにも大人げないと言いたい。しかしこの空騒ぎも、最近になってどうにか方向性が定まってきたようだ。
 前にも述べたように、TTP問題がこのように大きくなった発端は、今まで熱心でなかったアメリカが近ごろ、これに本格的に参加して自国経済の相対的な地盤沈下を、盛り返そうと考え始めたからである。それからもう一つ。十年ほど前から著しく台頭してきた中国の勢力を、本気で押さえようと考え始めたからである。欧米の強国が、後進国の際だった伸張を押さえるのは今に始まったことではない。その最大で最初のターゲットにされたのは、かつての日本である。潜在的には人種差別の意識があったのかもしれない。そのあげく、いわゆるABCD包囲網が形成された。Aはアメリカ、Bはブリティッシュすなわちイギリス、CはチャイナそしてDはダッチすなわちオランダである。このグループにアジアのチャイナが含まれているのは、当時の日支関係からみて不思議なことではない。
 この包囲網は日本にとって実に過酷なものであった。たとえば日本にとって唯一の外貨獲得の手段であったシルク製品の輸入をストップさせた。一方、石油や鉄、ゴムなどの戦略物資の殆どを売らないというのだ。その結果として日本は、成算のない戦争に踏み切らざるを得なくなったのである。
 因果は巡ると言うべきか、いまアメリカにとって目障りで台頭著しい中国が、環太平洋同盟の形成によって、再び封じ込めのターゲットになろうとしている。もちろん現代は地政学的な世界環境の変化が大きいので、嘗ての対日包囲網のように、露骨でハードなものにはなり得ないだろう。それでも中国にとっては、極めて不愉快な出来事であるし、かなりのダメージを受けることにもなるだろう。
 TPPの狙いが分かりにくいとか、被害妄想的な意識から反対を唱える勢力の論拠が、全く故なしとは言わないが、以上のような観点に立てば、少しは納得できるのではないだろうか。かねてからこのブログで言っているように、「世界は腹黒い」のである。お人好しの日本がその旗頭になる必要もないし、出来もしないが、少なくとも国益を大局的に考える限り、TPPに参加するのは正しい選択だと思う。

2011年12月1日木曜日

バカ首相とズル首相の功績

民主党が政権につき、バカ首相とズル首相が二代つづいた。そのために日本が失った国益は計り知れない。しかし反面では、御本人たちの意図とは無関係に、思わぬプラス効果を生み出している。その最たるものは、今まで眠っていた国民の政治意識を目覚めさせたことである。端的な証拠が、今回の大阪の知事と市長を選ぶダブル選挙で、「維新の会」が大勝利を収めたことである。
 従来の日本の政治は、政治家ではない政治屋が牛耳っていたので、その低調ぶりは目を被わしめるものがあった。この惨状は国政と地方政治の、どちらにも共通している。それでも国政については、何かにつけ大きな事件が多いので、国民の関心もほどほどには保持してきた。しかし地方政治については、沖縄などの特殊な例を除いては、それほど関心がもたれていない。そのため政治ボスと自治体職員のなれ合いによる、いかさま政治や行政がまかり通っていた。たとえば大阪市などでは、「市の職員による市の職員のための市政」と言われるほどの状況になっていたわけである。
 国民の政治への目覚めは、バカ首相とズル首相の言行によって、国益が著しく損なわれている実態を知ることから始まった。同時に、新たに政治の中枢に座った民主党のメンバーが、いかに無能であるかも見届けた。
 しかし彼等を選んだのは誰か。国民はそれに想いが及ぶと、忸怩たる気分に陥らざるをえない。かくして国民は一念発起した。政治家を選ぶ選挙には、真剣に考え行動しなければならない・・・・・と。今回、大阪の選挙で維新の会が圧勝したのは、その覚醒の証拠である。

2011年11月30日水曜日

日本人に自虐精神を植え付けたのは誰か

 加地伸行大阪大学名誉教授によると、論語では知識人を小人と言い、教養人を君子と称するらしい。私は知識人には真正と似非の二タイプがあると考えていたが、この分け方は間違いだった。要するに知識人はすべて小人なのである。さらに言えば、文明の成果を重視するのが知識人で、文化を重んじるのが教養人ともいえよう。

 この分かりにくさを解くには、まず文化と文明の違いを理解しなければならない。文化とは、特定の民族がもつ感性と理性のすべてを駆使して創り上げてきた歴史的な成果である。一方の文明は、理性によってのみ構築された歴史的な成果であるため、文化のすべてをカバーすることはできない。ただし文明は、自らの成果である文字によって、汎用性のある表現が可能である。そのため文明の成果は自らの文化圏を越え、異なる文化圏にまで及ぶようになった。
 日本では幕末の門戸開放によって、欧米の文明を吸収したが、それも欧米の文字を媒体にして可能になったのである。そして欧米文明の内容を知るほどに、その異質性とレベルの高さに大きなショックを受けた。かくして欧米語に堪能になることは、異文化のうちの文明を知る大切な手段となり、欧米語の翻訳者には高い評価が与えられるようになった。そのあげく日本の知的エリートの大半は、すべて翻訳技能を通じて欧米文明の追随者となった。新しい日本型知識人の誕生である。この流れは明治から現在まで続いている。
 以上の背景のもとに現代日本の知識人は、すべて欧米の語学に堪能であり、さらには欧米文明の虜になった。いわゆる語学エリート=知識人の図式が形成されたのである。但しこの段階では、まだ教養人と知識人の区別はないし、文化と文明の区分もはっきりしていない。しかもこの図式は、敗戦によって一段と強まった。結果として日本の知識人の殆どが、欧米思想に基づく欧米文明にかぶれることになった。具体的な名前を挙げると、南原繁、丸山真男、大内兵衛、都留重人など社会科学系学者の殆どが当てはまる。社会科学は理性に基づく西欧型文明の精華であるが、同じ文脈上にある法学や商学もこれに該当する。さらには西欧文学も、この系譜すなわち西欧型理性の産物である。その意味では評論家の加藤周一や、フランス文学の泰斗とされる渡辺一夫についても同列に論じることができるだろう。したがってこれらの西欧かぶれの「一流の知識人」が、敗戦を契機にして祖国である日本の全てについて、深刻な自国嫌悪の気分に犯されたのは無理もない。やがて祖国に対して、厳しい批判と反省の矢を放ち始めたのは、けっして偶然ではないのである。
 問題なのは、その自国嫌悪の言説を強引に注ぎ込まれた学生たちである。彼等は思想的には白紙の状態であったから、まるで吸い取り紙のように、何の抵抗もなく濃色の反日インクや自虐インク、更にはアナーキーインクを吸い込んだ。こうして戦後間もなくから団塊世代に至るまでの数十年間、自虐精神を植え付けられた反日知識人が大量に生み出されたのである。卒業後の彼等は、知的エリートとして政治家、産業人、教育者、官僚、マスコミなど社会のあらゆる分野で活動を開始した。しかしその実践の場では、いかなる著名な知識人の言説であっても、それが借りものの空論である場合は、インチキ性はたちまち露呈する。こうして祖国否定に染め上げる濃色のインクも、次第に色あせることになる。学生時代に洗脳された残滓を今なお引きずっている教え子の数は、たぶん少ないだろう。それでも皆無になったというわけではない。とくに祖国否定の言説を拠り所にしている職業人には、他に生活の術がない。たとえば進歩的を自称する大新聞やその他のマスコミ関係者、特定のイデオロギーを固守する原理主義政治家、教育という職業の本分を放擲して自らの地位向上と保全だけに力を注ぐ教育者などはその好例である。
 戦後の日本人に自虐精神を植え付けた西欧文明一辺倒の一流知識人は、功なり名を遂げることが出来たが、後発の二流知識人はこの先も自らの職業的命脈が尽きるまで、自虐精神を拠り所にして祖国を誹謗し続けるのだろうか。

2011年11月29日火曜日

TPPにどう対応するか

 ブッシュ大統領がイラクとの戦争に踏み切ったとき、小泉首相は第一番に支持を表明した。当時のマスコミの多くは、この決断を「忠犬ポチ公」の振る舞いだと揶揄した。しかし、そのお陰で日米関係は以前にもまして良好になり、その後の複雑な国際関係において、アメリカの支持によって日本は多くの恩恵を得た。
 中世イタリアの小国フェレンティエの宰相であったマキャベリーには、次の言葉がある。「大国が行動を起こすとき、小国は即座に同調しなければならない。もし躊躇う様子を見せていたら、その大国が勝利したあと必ず報復されるであろう。また、いざというときには決して助けてくれないだろう」。
 いまTPPへの加盟問題で日本は揺れているが、アメリカがこれを提案するには二つの大きな目的がある。その1は経済の行き詰まり打破であり、その2は中国の封じ込めである。これらは、いま衰退気味のアメリカ経済を立て直すための重要なテーマである。この理由だけでも、日本がTPPに加盟する意義は大きい。しかもこの加盟は、日本自体にとっても意義のあることである。但しそれについては、ここでは省くことにする。もちろん関岡英之や東谷曉などの反対論者も数が多い。
 たしかに1984年に始まった日米構造協議などでは、アメリカのエゴが目立った。しかし状況は変化するのだ。いつまでも過去にこだわらないで、環境の変化を見極め、冷静に対処しなければならない。もちろん、それらすべてを忘れてはならない。深く重く心の中に止めた上で、対応しなければならない。それが大人として国際関係に臨む流儀であろう。いつまでも幼児っぽい原理主義では、腹黒い国が跋扈する国際社会の中で生き抜くことは難しい。

2011年11月28日月曜日

評論だけの政治家は退場せよ

今まで評論家タイプの政治家がのさばりすぎた。例えばこの2年間、民主党政権を担当してきた顔ぶれを見るとよく分かる。マニフェストなる御大層なものを掲げて選挙民の気をひき、政権を強奪した結果はどうだったのか。  民主党の面々は、野党時代に舌鋒鋭く自民党の政策や行政を追求してきた。しかし立場が変わると、その内容の貧弱さを白日の下に曝すことになった。評論家は、しょせん評論家に過ぎないのだ。揚げ足取りや、一点集中型攻撃の論理構成がいくら巧みであっても、現実の政治には何の役にも立たない。鳩山元首相は、自ら招いた普天間問題処理の行き詰まりで「この問題の複雑さと難しさをはじめて知った・・」と述懐したが、その率直さと正直さは賞賛されるべきだろうか。とんでもない話だ。鳩山氏だけではない。この程度の状況認識しか出来なかった民主党の評論家型政治家は、全員揃ってきれいさっぱり身を引くべきだろう。

2011年11月24日木曜日

原理主義政治家を排除せよ

 蕗の董から空を見るというのは、天下を微視的あるいは局地的にしか見ないやり方を揶揄する言葉だ。しかしその逆はどうだろう。つまり天から蕗の董を見るということ。それでは現実は全く見えないだろう。しかし日本では、そのやり方がまかり通る。例えば社民党の福島党首のような、原理主義者または観念論的理想主義者はその典型といえよう。この程度の甘い思想や言説に惑わされる日本人は本当にふがいない。次の選挙では、この種の政治家を根絶やしにしなければならない。さもなければ日本の将来は危うい。世界の政治はすべて現実的に動いていて、観念だけで成り立っている国は一つもない。

文学と政治

 文学的センスと政治的センスの間には、大きな隔たりがあるようだが、必ずしもそうではない。たとえばアンドレ・マルローは、政治への情熱と、文学への情熱を区別しなかった。日本でも三島由紀夫や江藤淳、大江健三郎、三浦朱門、村上龍など事例は多い。逆にドゴール、チャーチル、毛沢東など文学のセンスに恵まれた政治家の名前を挙げることもできる。日本の顕著な例は石原慎太郎だが、中曽根康弘元首相も俳人として知られている。
 文学的センスと政治的センスの間には、共通するものがあるのかもしれない。立花隆は政治家を、言語操作のプロだといったことがある。この見方も、文学と政治の共通する一つの側面を捉えたものといえるだろう。オバマとクリントンの選挙戦をみると一層その感を深くする。
しかし文学センスと政治センスは、もっと本質的な点で共通しているように思われる。あえて言えば、それは文学者あるいは政治家として、対象を認識する態度と方法ではないだろうか。文学および政治を構成するカテゴリーは、イデオロギー、テーマ、イメージ、デザイン、モチベーション、コントロール、コミュニケーション、・・・など筆紙に尽くせないほど多岐にわたる。この多様さと複雑さこそ、文学と政治の共通点である。
たとえばコミュニケーションについて考えてみよう。コミュニケーションの局面でも文学や政治では、無数ともいえる要素を考慮しなければならない。要素間には矛盾があるし、しかも時間とともに変化する。コミュニケーションを構成する要素の例として、人間を取り上げてみよう。男と女、老人と若者、善人と悪人、金持ちと貧乏人、学歴、職業・・・・このように分類していくと、おそらく際限がないだろう。しかもこの無数の要素の間および要素の内部では、必ず葛藤や争いが発生する。政治と文学は、このような取りとめもないもの、いわば混沌を対象にしなければならない。その難しさはただ事ではない。この複雑怪奇な状況に臨んで、行動の引き金になるセンサーは何か。多分それは、対象と状況を鋭敏に感じ取る能力であろう。言い換えれば認識能力である。
かくして対象や状況を鋭敏に感じとるセンス=認識能力こそ、文学と政治に共通する不可欠の能力といえるのである。かなり突飛な話だが、この仮説で文学者を評価してみたらどうだろう。例えば大江健三郎。一時はアナーキーな政治スタンスで人気を得たが、今では色あせている。とくに「沖縄ノート」では、劣弱な取材力(認識力)を露呈した。村上龍も、デビュー作の「限りなく透明に近いブルー」で示した感覚はすごかった。しかし「ハバナモード」あたりから最近のJMMにいたる政治的な発言を見ると、幾許の未熟さを感じる。そうとなれば、文学者としての認識力についても、多少の評価替えが必要になるのだろうか。

水清ければ魚棲まず

知り合いの外資系企業の駐在員(イタリア人)は、日本語の勉強を兼ねてよくテレビの時代劇を見るそうだ。その感想がなかなか面白い。たとえば水戸黄門が、なぜあんなに人気があるのか理解できないという。パターンはいつも同じで、悪代官を懲らしめるというストーリー。腑に落ちないのは、あの程度の些事が問題になることだ。賄賂を取ったり、善良なライバルを陥れたりすることのどこが悪い。わが祖国イタリアで、そんなことを一々取り上げていたら、行政どころか社会そのものが成りたたなくなる。
 その意見を聞いて直ちに連想したのは中国だ。ついでに水清くして魚棲まずということわざも思い出した。このような大らかな意見を聞くと、昨今のわが国の政治の混乱は、いかにも子供っぽく感じられる。マスコミの記者諸君は、たぶん宝塚少女歌劇のファンに違いない。政治家を論評する視点はただ一つ、“清く正しく美しく”だけなのだ。たとえば生き馬の目を抜く国際関係についての、政治家の見識や能力をどのように評価するのだろう。

2011年11月2日水曜日

韓国が日本に追いつく

 先日の新聞記事によると、韓国には「江南左派」という言葉があるそうだ。江南とはソウルの南側にある地域のことで、そこには経済的に恵まれた人達が住居を構えている。いわゆる高級住宅地族というわけだ。住民の職業は、当然ながら事業家や高級サラリーマンなどが多いが、とりわけ目立つのが評論家や学者などサヨク系の進歩的文化人だという。すなわち「江南左派」とは、この人たちのことをいうらしい。
 彼等は自分たちは、江南という高級住宅地に住んで恵まれた生活をエンジョイしながら大企業の批判や反米を主張し、その一方で北朝鮮を擁護し、保守政権の批判に熱を上げる。なぜそれが出来るかというと、彼等の著書や講演などに人気があるからだ。当然ながら高額所得をエンジョイすることになる。最近では専ら格差論に熱中しているらしい。しかし彼等が貧しい人のために具体的に何かを施すことはない。つまり典型的な「安楽椅子で葉巻を燻らす」社会主義者なのだ。
 この記事を見て思い起こすのは、数十年前からごく最近まで日本の言論界をリードしてきた進歩的文化人や知識人の人気である。論語では教養人のことを君子といい、知識人のことを小人というが、まさに正鵠を射る言葉である。現在では民主党政権が馬脚を現したこともあって、日本人の多くはサヨク系知識人の言動を信じなくなった。しかし韓国の状況をみると、そうではないらしい。日本と同じような反省をするには、あと10年はかかるように思う。

2011年10月31日月曜日

誰がわるいのか

 お人好しな国民性のせいか。日本では政策上の犯人捜しがしばしば堂々巡りになりがちである。たとえば今、産業界が苦しんでいる六重苦(異常な円高、高すぎる法人税、貿易自由化の遅れ、厳しすぎる労働規制、温室効果ガス抑制、原発反対による電力不足)の原因については、一応は民主党による政治の過ちと稚拙さにあるとされている。しかしこの論議を突きつめていくうちに、その政権を選んだのはだれかと言うことになり、それを選んだ国民自身だということで、問題がうやむやになってしまう。
 しかし、この議論の進め方は明らかに間違っている。たとえば老人が強盗に襲われたとする。その場合、老人が油断しているのが悪いというだろうか。あるいは老人が抵抗しないのが悪いと言うだろうか。すべては仕掛けた方が悪いのであって、仕掛けられた方が悪いというのは、詭弁としか言いようがない。ところが、この詭弁が政治問題ではまかり通るのである。
 2009年の選挙で民主党が大勝したが、その最大の要因はマスコミによるキャンペーンであった。その露骨な反自民報道によって民主党が大勝したのだ。それをマスコミの煽動にのった善良な国民大衆が悪いというのだろうか。

2011年10月25日火曜日

NHKの改革

NHKの次期経営計画が10月25日に議決された。その最大の目玉は、受信料の10%還元である。経営委員会がこれを強調する理由は、NHKが一般の企業よりコスト意識が低いからだという。たしかにこの指摘には一理がある。そして、この問題は日本の公益企業に共通する問題でもある。嘗ての国鉄、電電公社、日本航空などはその典型的な例といえよう。しかしNHKの問題についていえば、それだけではない。ここでは特に、そのうちの2つについて指摘しておきたい。
 その1は、NHKは公共性に反する偏向放送を行っていることである。そうなってしまった原因は、この組織全体が自らの公共的使命について誤解しているからであろう。結論からいうと、NHKが守るべき公共性の範囲は、日本の国内に止めなければならない。その範囲は、政治形態の違いを含む世界全体ではないのである。理由は言うまでもあるまい。NHKが行っている放送というメディアサービスの料金は、日本以外の国からは徴収していないからだ。
では何をもって偏向放送というか。それについては、あまりに事例が多いが、ここでは二、三の事例を挙げるに止めよう。
1989年に中国でおきた天安門事件では、「クローズアップ現代」の国谷キャスターが、この事件では市民や学生には一人の死傷者もなかったと報じた。これは明らかに中国の意向に副うものである。しかしこのようなウソ放送に対しても、公共放送のNHKには、何らのおとがめがないのである。また中国の漁船が日本の巡視船に体当たりした尖閣事件では、それに憤慨した3000人が渋谷で抗議デモを行ったが、NHKは全く報道しなかった。ロイターやCNN、BBCなど外国のメディアは挙って放送したにも拘わらずだ。
 その2は単に料金を引き下げるだけでなく、コストの内容も公表するべきである。例えばマンネリ化している韓国ドラマを延々と続けるために、年間いくら支払っているのか。また、中国政府が行っている政治キャンペーンのお先棒を担いだ番組がやたらと目につくが、これについてはどの程度の取材費を払っているのか。番組の趣旨からして、むしろ宣伝代行料として相当金額を受け取るべきだが、果たしてどうなっているか。その他アメリカ大リーグに支払っている代金や、科学番組、大型ドラマなど膨大な購入費を使っているはずだ。公共性を言うなら、それを秘密にする理由は全くない。すべてを明らかにしてほしい。これらを明らかにする一方で、NHKが自前で制作している番組がどの程度あるのか。番組のコストと、視聴率の両面で知らせてほしい。
 その他チェック項目はいくつもあるが、取りあえず上の2項目を明らかにするだけでも、公共放送を自認するNHKの問題点が検証できるだろう。さもなければ、この何年かにわたって視聴者が感じてきた欲求不満は解消できないだろう。

2011年10月24日月曜日

”失われた十年は取り戻せるか”

 バブル経済が崩壊した1990年から1999年に至る10年間、日本の経済はずっと沈滞が続いた。このような経済の特異現象は、他の経済圏でも、すでに経験済みの現象である。しかしどういうわけか、この現象はまるで日本固有の問題のように騒がれてきた。その多くは経済ジャーナリズムの論説であり、経済学者の論評であった。日本経済のこの沈滞はさらに止まることがなく、ついに2010年代のすべてから、現在まで続いている。世界経済の牽引役の一端を担う日本のこの有様を見て、いまやGセブンからも、批判の声が上がるようになった。その一方でアメリカは、日本と同じ状態になることを予見し、積極的に対策を講じてきた。たとえばITビジネスとマネーゲームビジネスへの転進である。この変革は一時的には成功したかのようにみえた。それだけに、日本経済の不甲斐なさを遺憾に思ったのであろう。世界経済沈滞の主な原因として、日本をあからさまに批判してきた。しかし今やリーマンショックを契機にして、アメリカは明らかに自信を喪失している。一方、欧州諸国の経済は、ユーローの結成から近年まで順調にみえた。しかしここに来て、明らかに破綻の兆しが表れている。
 世界における現在の産業経済を支える先進文明国は、日本とアメリカ、およびユーローの三者であるが、その何れも「それぞれの理由によって」行き詰まりの悲鳴を上げている。その一方で、それぞれの理由を克服すれば問題が解決できると考えている。
 しかし本当にそうだろうか。問題は、それぞれの固有の問題だろうか。私はそうは思わない。この3者すなわち先進文明国は、共通する問題を抱えている。その共通する問題を認識しなければ、現在の苦境を克服することはできない。ただしこの共通問題は、3者だけのことであって、途上国や後進国とは違う。この点も十分に認識しなければならない。
 三者に共通する問題とは、「過剰」である。過剰消費と過剰生産である。まず過剰消費について言えば、先進文明国ではあらゆる生活必需品、つまりコモディティが飽和状態になっている。この事実を率直に認めなければならない。もちろん例外はあるが、ここではそれには触れない。一方、生産面ではどうか。文明がもたらした生産技術の高度化によってコモディティの「生産過剰」は更に深刻である。
 一方、途上国や後進国の需給関係はどうか。ここでは今も旧式経済学の考え方が通用する。先進文明国がもたらしたあらゆるコモディティに、大いなる潜在需要が期待できる。それが顕在需要に転化する最大の要件は価格である。要するに安ければ良いのである。現在では、それが極めて容易に出来るようになっている。まず製造技術については、開発コストなしでコピーできる。しかも品質は二の次である。かくして中国や韓国などの中進国は、国を挙げてこの路線を走り始めた。あらゆる製品がコモディティ化している。この路線に、先進文明国が介入したり、対抗するのはもはや不可能である。
 以上のように現状を認識したとき、先進文明国の産業・経済は今後どうあるべきか。今こそ、経済学者や評論家が、その蘊蓄と見識を示すべきときであろう。

2011年10月16日日曜日

新聞に未来はあるか

 私の知人の多くは、いわゆる高齢者だ。すでに仕事をリタイヤーしていて、悠々自適の生活を送っている。それでもまだボケているわけではないので、好奇心は旺盛だし、知識欲だって衰えていない。しかし気になるのは、その知識のほとんどを、新聞とテレビに依存していることだ。その一人であるA君の言によると、日本の新聞は実に良くできていて、政治、経済、社会、スポーツ、芸能、文学などがバランス良く網羅されている。しかもレベルが高いという。彼は朝日と日経を購読しているが、それを精読するのに、ほとんど半日を費やしているらしい。他のメンバーも似たような意見だ。
それを聞いて私は恐ろしくなった。相当数の日本人が、その教養や思想を新聞だけに依存しているのだ。しかしそれはとても危険なことだ。まず朝日について言えば、この新聞の社説は“原理主義者”が書く反日論と自虐論だけだ。原理主義者とはある時期から思考停止した人のことだ。その連中が自らを啓蒙ジャーナリズムのエリートと思い込んでいるらしい。あの偽善者めいた、持って回った文体で、ねちねちと自分の国のことを悪し様に言う言説のいやらしさ。しかも、この新聞は狡猾で、自分の考えに副わない事実は記事にしない。これまた一種の世論操作ではないか。しかし一方では、新聞は社会の公器だから公正な報道に尽力していると嘯くのである。左寄りに徹した自分の立ち位置を基準にして、それ以外の意見はすべて右寄りと断定する。だから保守はおろか、中庸の立場さえ攻撃の標的にする。
もう一つの日経新聞についていえば、その商業主義的低俗さは群を抜いている。まずその販促キャンペーンには驚かされる。「一流のビジネスマンは日経を読む」というのが、そのキャッチコピーだ。この新聞のどこが一流なのだ。総合紙になりたいらしが、身の程知らずの、余計なことにエネルギーを使わないでほしい。本来はビジネスの専門紙なのだから、その面でのレベル向上を図るべきだ。しかしその肝心のビジネスに関する記事はどうなのか。他の一般紙と殆ど変わらない。違うのは経済関連のデータを盛りたくさん取り入れているだけだ。こんなものは、その専門機関から入手しているだけで、日経の力量でも何でもない。専門紙の記者たる所以は、日本のビジネスマンに対して、適切で高度なビジネス情報を提供すること、さらには経済に関するしっかりした研究を行って、そえに基づき専門家としての意見や論説を提供することだ。率直に言って日経にはそれが全く無い。たまに意見らしいものがあるが、その多くは借りものか、根拠のない思い込みだ。
 さいわいにして、この猛威をふるった新聞の退嬰的な振る舞いも、次第に通用しなくなってきた。はじめに述べたように旧世代は依然として新聞にこだわっているが、新世代の新聞離れは急速に進んでいる。この傾向が話題になって久しいが、その退勢が好転する気配は全く無い。それを若者の活字離れのせいにしたり、読者の不勉強のせいにしてはならない。すべての原因は新聞人自身の不勉強と、堕落にあるのである。

2011年10月10日月曜日

魅力を失った書店の売り場

 久し振りに丸善を覗いてみたが、どのコーナーにも読みたいと思う本が少ない。とくに新刊書の平置きコーナーに並んでいるもので、魅力を感じさせるものは殆どない。いま流行りの若手が書いた小説など、帯に書かれているキャッチフレーズを一瞥するだけで、うんざりさせられる。ひたすら奇を衒っているだけだ。文学の奥深い香りを感じさせるものは全くない。目を転じて経営・ビジネス書のコーナーを見ると、これはさらに寂しい。経済混迷期の今こそ新しい提案やヒントがほしいのに、経営学者や経営コンサルタントなどの専門家は何をやっているのだろう。尤も経営学ブームの先駈けとなったアメリカ型経営の退潮を見れば、やむを得ないのかもしれないが・・・。一時期は、リーマンショックなどに関連して、強欲な欧米金融業界の内幕ものが派手な装いで書棚を賑やかにしたが、今はそれも姿を消した。片や哲学・思想・政治関係では、古典ばかりが目立つ。多少は面白そうに思われるのは、民主党政治の出鱈目を糾弾している内幕ものだ。たとえば菅前首相の無能ぶりや人柄の悪さを暴いたものなどは、反面教師として読まれているのだろうか。この一角の山積みだけが、大きく凹んでいる。つまり、よく売れているらしいのだ。それにしても、読者というものは同じようなことを考えるものだ。

 出版業界では、不況の原因をインターネットや新しいメディアのせいにしているが、最大の原因は、別のところにあるのではないか。今まさに進行中の社会の激動の実態を正しく把握し、その進むべき未来像を描くために、何らかの指針を与えてくれる著作品がないのである。それは換言すれば、出版に携わる著者や編集者などの見識や能力の問題でもある。この人たちが新たに充電し直すか、新鋭メンバーと交代しない限り、これからさき出版業界が活況を呈することなど、全く期待できない。

2011年9月30日金曜日

下品な外交

人物を評価するとき、決め手になるのは品位の有無である。それを持ち合わせていない下品な相手とは、あまり深く付き合わない方がよい。これは人が生きていくために、欠かせない基本的な処世術である。同じ見方は、一国の政治においても通用する。最近の例では、管直人前首相が行った政治である。この人物の下品さよって感じさせられた不快感は、国民の脳裏に刻み込まれているが、ここでは触れないことにしよう。
 品位という見方を、さらに拡大すると国際政治すなわち外交においても通用する。好例は中国と韓国である。まず中国についていえば、この国の統治者は、国内政治に行き詰まりの気配がみえると、必ず仮想敵国を設定し、それへの憎悪をかきたてる。江沢民は「歴史認識」という奇妙な理屈を振り回して、共産主義政治の矛盾や腐敗を、大衆の注意から逸らすことに腐心した。彼のいう歴史とは、日本と中国が争った20世紀、つまり100年足らずのことで、それ以前の歴史は眼中になかった。その短期間だけを切り取って、歴史云々と騒ぎ立てるのは。まさに下品なことである。最近では胡錦濤の政治に翳りが見え始めたが、その繕いのため又もや反日キャンペーンを始めている。その内容は「日本に軍国主義が復活しつつある」というのだ。これは笑い事ではすまされない。このデッチ上げを口実にして、尖閣諸島の攻略に向かうかも知れないからだ。
 韓国の外交も下品だ。政権運営が危うくなると国民の目をそらすために、日本という仮想敵国をネタにして大衆を扇動する。前大統領の盧武鉉はそれを積極的にやった。現在の李明博大統領は知日派でもあるので、少しはましかと思ったが、やはりそうではないらしい。このところ竹島についての反日キャンペーンが激しくなったのは、従来と全く同じ構図である。下品な国に近接していて、それと付き合わなければならない日本は、本当に難儀なことだ。

2011年9月28日水曜日

上海で再び地下鉄事故発生

 盗作とコピーで急発展した中国の第二次産業も、ここにきて馬脚を現し始めた。たしかにこの十年あまりは、文房具やプラスチック製品、繊維製品などのコモディティ型製品で、世界を席巻するほどのパワーを発揮した。これらの生産は、図面と設備および単純作業に従事する低賃金労働者という3条件さえ揃えば可能になる。日本は今まで、親切にもそのうちの図面と設備の多くをこの国に提供してきた。

 しかし中国は、この程度のことで満足する国ではない。さらなる進歩と拡大を、強引に推し進めつつある。問題はその強引さの中味である。具体的に言うと、その第一は冒頭に述べたコピーと盗作。第二はソフトの省略ないし無視である。極言するとこの国には、ソフトの意義を正当に評価し理解する能力がないのではないだろうか。
 ではソフトとは何か。簡単にいうと、それには二つの意味がある。その1は、ハードとしての製品を動作させるプロセスつまりソフトウエアである。それにはアルゴリズムや制御の仕組みが必要になる。一般にこれらのソフトは、単体製品には内蔵されているので、問題が顕在化することは少ない。しかし複数の製品を組み合わせて構成するもの、すなわちシステム製品となるとそうはいかない。全体を制御する膨大なソフトが必要になる。それだけではない。そのソフトを使いこなす専門技術やメンテナンス技術も必要になる。これを習得するには綿密なカリキュラムに基づくトレーニングも欠かせない。現在の中国には、明らかにこれらが欠けている。上海で起きた地下鉄の事故は、まさにこれに該当する。先般の中国新幹線の事故と照らし合わせると、十分に納得できるだろう。
 さらにもう一つ。高速鉄道や地下鉄などの先端システムを活用するには、それを利用する側のソフトウエア、言い換えれば広義のヒューマンウエアが必要になる。これを言い換えれば民度ということになる。日本では地下鉄のダイヤは2分間隔である。こんな神業のようなことがどうして出来るか。もちろん無人の電車を走らせるなら、1分間隔でも可能だろう。しかし大量の乗客をさばいて乗せるとなるとそうはいかない。中国であれば、10分間隔でも難しかろう。なぜなれば乗客は我先にともみ合いへし合い、大混乱を惹起するからだ。それを整然と行うには、乗る側のマナーや自制心が必要だ。言い換えれば、民度の高さが必要になる。この点では、中国でハイテクノロジーシステムが定着するには、相当の年月が掛かるだろう。
 以上の2点を等閑にしたまま、コピーした高度なシステム製品を輸出すると高言するのは、認識不足も甚だしい。

2011年9月20日火曜日

暗愚な君主は奸臣に騙される

 現在の政治形態を極言すると、専制政治と民主政治の2つしかない。専制政治において、君主になるのは特定個人すなわち王様や皇帝である。一方の民主主義の場合は、国民大衆が君主といえるだろう。
 興味深いのは、政治形態が上記の何れであっても、その国の命運は、君主が賢明か否かで決まる。たとえば専政政治の例を支那の歴史で見てみよう。当時の超大国であった明は、名君とされる洪武帝や永楽帝によって大いに繁栄した。しかし武宗から世宗へと愚君が2代続き、それ以後は衰退の一途を辿った。きっかけは君主の愚昧さを奸臣につけ込まれたからである。
 民主政治が主流になっている現在はどうだろう。直近の日本の例を挙げてみよう。上の論法でいえば、この国の君主は国民である。したがって首相の立場は、国民の下僕ということになる。そのため国民大衆という主人が愚昧である場合は、奸臣すなわち首相以下の閣僚に誑かされることになる。国民にとって、奸臣と言うべき鳩山氏や菅氏を擁する民主党を選んだのは誰か。つまり愚かな君主“国民”自身ということになる。そして、それを唆したのはマスコミというわけだ。天を仰いで慨嘆したい。

2011年9月6日火曜日

有本香の支那論で感じたこと

 小林よしのりと有本香の対談をまとめた「はじめての支那論」を読んだが、実に面白かった。まず中国と言わずに支那というところが面白いし、十分に説得力がある。ここではその詳細は省くが、二人が縦横に語り合っている内容はとてもユニークで、目から鱗が落ちる想いがした。
 私は以前から中国に関心があって、この種の出版物は数多く読んでいるが、どうも釈然としないところがあった。とくに学者が書いたものは分かりづらかった。引用する文献やデーターは豊富で分量が多いのが特徴的だが、大体において結論が曖昧なのだ。こういう考え方もある、ああいう議論もあるというわけで、思わず著者御自身のスタンディングポジションはどうなのですかと尋ねたくなってしまう。それに比べると小林/有本ご両人の論旨は極めて明快だ。
 学者の著書が分かりづらい理由について考えてみたが、これはいわゆる人文科学と称する分野の、学問的方法論に問題があるのではないだろうか。すなわち、内容のほとんどが文献やデータの引用であること。所説を述べるにしても、それらの解説や解釈がほとんどで、自説といえるほどのものが極めて少ない。そこで使うデータや情報も、そのほとんどは、自分の足で稼いだものではない。たまには現地に赴いてインタビューや会議に参加しているが、そこでの相手がまた学識経験者ときている。つまり現場の実生活者からは、距離があるのである。この点は小林/有本とは大きく違う。とくに有本が現場に赴き、体を張って取材した情報の迫力は抜群だ。とくに中国に限って言えば、この国が公表するデータに、どの程度の信憑性があるのか。たとえば人口13億と称するが、実際は15億とう説も根強い。GDPが世界第2位になったと騒ぎ立てるが、全く信用できない。学者がこのようなデータを基にして、切り貼り細工のように編集した論説など如何ほどの価値があるのか。
 話はかなり脱線してきたが、最近は人文科学と称する分野の衰退ぶりも目立つようになった。まず気になるのが、書店に並ぶ新刊書にめぼしいものが見当たらないことだ。しかしそれは当然のことかもしれない。そもそも人文科学とは何なのか。たとえば自然科学で用いられるアプローチを模倣して、唯物史観なるものをでっち上げたりしたが、所詮は疑似科学に過ぎなかった。そのほか経済であれ、政治であれこのアプローチによって尤もらしい論説が大いに蔓延ったが、現在ではその多くが空論と見なされている。そのため“論”作りを生業にする学者という職業も、命脈が尽きつつある。小林/有本による支那論(中国論)が、学者による中国論を越えるのは当然だといえよう。

2011年9月2日金曜日

政治家は日本語を忘れたか


 民主党が政権を獲得して以来、わかりにくい用語が氾濫している。内容の空虚さを誤魔化すためかと勘ぐりたくなってしまう。
 まず政権発足時に大声で連呼し、それによって自民党を圧倒したのが「マニフェスト」という単語だった。しかし今となれば、その意味する内容の大半が嘘っぱちであることが判明している。その後もわかりにくい単語が氾濫している。あまりに分かりにくいので、ここでその一覧表を作っておこう。

マニフェスト      政権の政策
アジェンダ       行動計画
とくに大震災後の、官房長官による原発事故関連の説明には困惑した。例を挙げると、
ベンチレーション    排気または換気
モニタリングポスト   観測装置
トレンチ        暗渠
ホールボディカウンター 全身測定器
メルトダウン      溶解

そして最後っぺのように、菅首相による唐突なストレステストの提案だ。ストレステストとは、要するに耐久試験のことなのだ。この提案が新聞の紙面に表れたときは、意味が分からず、大きな誤解をしてしまった。国民は被曝するかも知れない不安でストレスになっているので、そのケアをするためのテストかと思ってしまった。まったく人騒がせなことだ。
 とにかく内容の貧困さを隠すために、奇妙な和製英語を使わないでほしい。語彙の豊富な日本語なのだから、その気になれば和製英語よりは、よほど的確で簡潔な表現ができるはずだ。

2011年8月29日月曜日

第6次産業をめざせ

 日本の産業構造は、歴史の推移にしたがって大きく変化してきた。明治の初期は1次産業すなわち林業、農業、漁業が大部分を占めていたが、明治の半ばから大正にかけては第2次産業すなわち製造業が台頭し、主要産業の座を奪った。この産業の成長は長く続いたが、昭和の末期にはピークに達し、その後は途上国の追い上げや人口構造の変化などの影響を受けて、構造比におけるウエイトは低下の一途を辿っている。その一方で大きく躍進したのが、金融業、流通業、サービス業などを擁する第3次産業である。またこの時期には、第4次産業すなわちIT産業が勃興し、経営組織の変革や延いては一種の産業革命さえもたらすことになった。現在はそれをベースにした第5次産業の時代といえよう。好例がITと金融業の交配によって生み出された「マネーゲームビジネス」である。この名称は私が仮に付けたものだが、その主流は欧米系のファンド企業が行っているビジネスである。
 概観すると日本は、第1次から第4次にいたる産業構造の変革では、概ね成功を収めたといえるだろう。しかし第5次産業での成功はあまり期待できそうもない。国民性からみて、どうも適性がないように思えるからだ。しかも、この産業にはすでに破綻の兆しがみえる。もともとこの種のビジネスは、一種の虚業である。この分野では、ユダヤ系の企業が際だった才能を発揮してきたが、しょせんは泡沫ビジネスに過ぎないのだ。
 さて、問題はこれからである。第4次産業時代まで日本は、常に半歩遅れで欧米企業に追随し、最終的には同レベル乃至それを凌駕する位置を獲得してきた。しかし今や欧米諸国が第5次産業で破綻するとなれば、今後は自前で新産業を創造しなければならない。私はそれを第6次産業と名付けることにしている。然らばその内容はどういうものか。いずれこのブログで明らかにしていく心算だが、取りあえずその概念を示しておこう。
 いうまでもなく第6次産業の創出には、従来とは違う考え方とアプローチが必要である。まず考え方について言えば、文化と文明の違いを認識することから始めなければならない。通常はこの二つは明確には区別されていない。歴史学者でさえ混同している例が多い。しかし両者の違いは明らかである。簡単にいえば、文明は文化に包含される下位概念である。別の表現をすれば、文化は暗黙知であるが、文明は形式知である。したがって文化には言語化されないものも内蔵されるが、文明には言語化できるものしか含まれない。
 日本は地理上の位置に加えて、鎖国という特殊な事情があったので、独自の文化に基づいて文明を形成してきた。しかし幕末の開国によって門戸が開かれ、その結果として異質でパワフルな欧米型の文明を知った。それは軍事、産業、政治、生活、芸術などあらゆる分野に及んだ。ただし、それらは全て言語によって表せるもの、すなわち欧米文化に由来する欧米文明に属するものだけである。かくして日本の新産業は、すべて西欧文明に基盤をおく技術に依存することになった。外国語とくに英語に堪能なことが、産業界におけるエリートの条件になったのは、その余波の一つである。
 このようなアプローチは、第4次産業時代までは概ね通用するものであった。しかし上述したように、今や西欧型の文明に基づく産業のあり方が揺らぎはじめている。途上国は別として、今や欧米先進国の経済・産業を覆っているのは深刻な閉塞感である。今後はおそらく凋落の一途を辿るに違いない。日本も従来の欧米型産業パターンを踏襲する限り、同じ悩みから脱却することはできない。しかし幸いなことに、日本にはとっておきの切り札がある。いままで等閑にしてきた固有の文化をベースにして、新しい産業文明を構築し直すことである。もちろん既に自家薬籠中のものとなっている西欧型文明は十分活用しなければならない。それに加えて、固有文化に基づく文明を交配させるのである。それには、お家芸ともいえる折衷技術を、さらに洗練させなければならない。
 たとえばアニメや、ロボット、精密部品、炭素繊維などの新素材、さらには高級野菜やなど日本の技術がカバーする範囲は驚くほど広い。これらの多くは見かけ上、西欧型の技術文明そのものである。しかしその根幹のところまで遡ると、すべては日本人が持っている「匠」の心に行き着くのである。いうまでもなく匠の技術は、日本文化が生んだ日本文明の精華である。この見方に立つと、日本の第6次産業は、もはや始動しているともいえるだろう。その具体例および今後の展開については、このブログで引き続きフォローしていくつもりだ。

2011年8月15日月曜日

マスコミ人の名誉回復

 日教組が日本の伝統と美徳を、滅茶苦茶に破壊したことは、今では周知のことになっている。その一つの結果が、民主党の鳩山政権や管政権による政治の荒廃である。すなわち日教組教育の洗礼を受けた世代によるものである。この偏向教育は半世紀にわたり続けられた。よほどしっかりした精神の持ち主でないと、その影響を全く受けないということはなかった。したがってその弊害は社会の隅々にまで浸透している。好例がマスコミである。
 この仕事に従事する者の大半は、自虐精神の持ち主で、さらにはアナーキーな傾向を強くもっている。そのくせステレオタイプの発想力しかない。たとえば戦後60年にもなるが、その回顧記事すべて自己反省ばかりだ。なぜ日本は、米国と戦う愚行を犯したのか・・・・といった論調で。しかし本当にそうか。なぜ米国は、日本を戦うように仕向けたのか。その陰険な魂胆を問うことも必要ではないのか。
 今やマスコミ人の怠慢と偏向は周知の事実になっているが、ここで一つ彼等の名誉を挽回するための、新しい提案をしてみたい。日教組が教育現場でやってきた今までの行状を徹底的に告発することだ。それも回りくどい論説などではない。たとえばドラマ仕立てとか、ルポルタージュ形式にする。なかにはお得意のヤラセ番組もよろしかろう。彼等に発想力がないなら、ネタ本を活用すればよい。近頃はこの種の優れた著作もかなり出回るようになった。たとえば「学校の先生が国を滅ぼす:一止羊大著」や「日狂組の教室(劇画):大和憮吉著」などはどうだろう。
 今こそマスコミは、怠慢と偏向の汚名を濯ぐために、一念発起するべきではないか。

2011年8月5日金曜日

書籍出版の不思議

 かねてから書籍出版について、不思議に思うことがあった。最近はとみに衰えたとはいいながら、未だに時代遅れのサヨク思想を鼓吹する書籍が、残っていることである。私の周辺では、この種の書籍や雑誌に関心を抱くものは皆無といってよいだろう。それにも拘わらず、本屋の店頭では柄谷行人、高橋哲哉、小森陽一、上野千鶴子・・などの著者名を見つけることができる。とくに姜尚中のごときは、いわゆるベストセラー作家のように扱われている。この人物の著作の内容の偏りと貧困さについては、以前にこのブログで触れたので今は省くが、あらためて指摘したいのは、この程度のものが何故売り上げを伸ばすかである。ちょっとした謎でもあるからだ。
 この謎を解くヒントの一つは、出版ビジネスというものの、ちっぽけな市場規模である。出版科学研究所の発表によると、2009年における販売金額は1兆9365億円であった。内訳は書籍8492億円、月刊誌8445億円、週刊誌2419億円である。これと対照的なのが、民主党代議士への献金などで話題になっているパチンコ業界の規模である。驚くなかれ、それは23兆円にも上るという。
 以上のヒントによって、サヨク偏向の書籍がよく売れる謎を解くことが出来る。すなわち支持したい書籍を23兆という大資金のごく一部で、自分たちの代弁をしてくれる著者の本を買い上げればよいのである。パチンコビジネスの大半は、在日朝鮮人と韓国人で営まれている。その豊富な資金で、気に入った書籍の販促を支援するなど、たやすいことだ。このように考えれば、姜尚中がよく売れる理由が実に分かりやすい。
 それにしても、このような一部出版業者の不甲斐なさはどうだ。まるで張り子の虎ではないか。言論の自由だの何だの、声高に喚いていても、その本音は売り上げさえ伸びたらそれでよいのである。以上の話に、新聞は含まれていない。しかしクオリーティペーパーを自認する某大新聞をみると、そのスタンスは大して変わらないようにみえる。

2011年8月3日水曜日

政治とテロ

特定の政治家に対する不満が鬱積すると、対抗手段を持たない大衆は、その人物を標的にして直接的な反撃を敢行する。それは民主や独裁といった政治の体制には関係ないし、後進国とか先進国といった区分にも関係はない。方法はいろいろあるが、なかでも過激なのがテロ行為である。日本も例外ではなくテロ事件は、明治から昭和にかけては頻発した。ただ、1960年10月に日比谷公会堂で起きた浅沼稲次郎暗殺事件の後は、小競り合い程度のもの以外は見受けなくなっている。
 ただし今は沈静化しているからといって、今後も発生しないとは断言できない。政治とは、本来複雑な利害や思惑が交錯するものであり、その対立の中には、妥協や融和が絶対に出来ない部分が存在するからである。確信犯という犯罪名が存在する事実がそれを証明している。
 政治を行う者は、この現実とリスクを十二分に知悉していなければならない。その危険にも拘わらず、使命感に燃えて自らの政治理念を実現しようとしなければならない。それを支える原動力は、おそらく「覚悟」というものであろう。この覚悟なしに、マニフェストの類いをぺらぺら喋るごときは、たんなる口舌の輩に過ぎないということになろう。
 先だって某誌で、小泉進二郎自民党代議士が、父親の小泉純一郎について語った記事を読んだ。それには「あの郵政民有化を巡る大政争において、父は刺客に狙われることを覚悟して、いつも腹に晒しを巻いていました」と書いてあった。
 宰相であれ陣笠代議士であれ、その人物の経綸がどの程度のものかは、その場限りのパフォーマンスやぺらぺら喋る内容だけでも十分窺い知ることができる。しかしテロに対する覚悟があるかどうかは分からない。

2011年8月2日火曜日

賤業について

 職業に貴賎なしと言う一方で、実際には偏見と陋習によって、ランク付けがされてきた。ランク付けの根拠としては、宗教に基づくもの、習慣に基づくもの、たんなる流行に基づくものさえあった。ただし、その見方は必ずしも確立したものではなく、時代や環境によって大きく変化する。その見方つまり偏見や陋習によって、不当に貶められた職業は少なくないが、その一方では過当に崇められるという“貴業”もあった。その好例は、近年における政治業、マスコミ業および教育業ではないだろうか。
 ただしこれらの貴業に対する評価も、現在ではかなり様変わりしている。いや、むしろ賤業視される場合もある。たとえばマスコミ業のごときは“マスゴミ”業と揶揄されるほどだ。政治業や教育業に対する評言もそれに近いといえるだろう。
 嘗て貴業だったこれらの職業が、何故このように貶められるのか。それには、はっきりした理由があり、昔のような偏見に基づくものではないのである。結論から言うと、その原因は、これらの職業に属する大多数が、目的と手段をはき違えたからである。
 たとえばマスコミ特に大新聞の当初の目的は、大衆に正確な情報を伝えることであった。しかし現在は、そうではない。読者数を増やすことだけを目的にしている。そのくせ、公正中立を揚言している。その顕著な例がクオリティペーパーを自称する某大新聞だ。今日の読者大衆は、その偽善とペダンチックな姿勢を軽蔑するようになっている。

政治業の場合はどうか。本来は国家のために、人のためにというのが職業倫理であり目的であったが、今ではそれが怪しくなっている。家業化が問題視されるようになったのは自民党政権の時代であったが、民主党主導の時代になった現在では、さらに目的から逸脱している。すなわち票集めそのものが目的になっている。したがって政治家の政治家たる所以は、政治の専門家ではなく、票集めの専門家ということになる。まともな政治スキルが不要になったこの職業を、大衆が賤業と見なすのは当然である。
 教育業も似た状況下にある。いうまでもなく教育の本来の目的は、次世代を担う若者たちに、社会人として自立するための基礎的な精神力の涵養と知識を与え、それを実践するための技能を伝授することである。しかしこの何十年来、教育に携わる者の多くは何をしてきたか。もっぱら特定のイデオロギーに固執し、それに基づく洗脳作業に専念してきた。その結果が、今日の荒廃した教育現場の風景である。本来の教育目的を意図的に無視して、たんにイデオロギーを浸透させる手段にすり替えた。この目的と手段の転倒こそ、まさに現在における賤業の定義に符合する。
 以上によって、私はマスコミ、政治、教育の3業種を、現代の賤業というのである。

2011年7月20日水曜日

浅薄な似非アナキスト

 先日(2011年6月6日)の毎日新聞に、驚くべき記事が掲載されていた。菅首相夫人・伸子氏の発言である。
「・・・・菅の原点はゲリラ、市民ゲリラということ。それをもっと思い出してもらわなくちゃ。昔からの支持者から、それをさんざん言われる。あと少ししかないから、何かやってくれないと面白くないよって。私もそう思う」。このような考え方の人物に、我々は国政を任せてしまったのである。あきれ果てて天を仰ぐしかないのである。
 そもそも菅首相は市民運動家として政治活動をやってきた人物だから、その基本的な考え方はアナーキズムに近い。アナーキズムとは、我々が依拠する現実の社会秩序や価値観の全てを否定する思想である。したがって、自分が属する国家、歴史、倫理、家族関係などのすべてに反感をもっている。そしてつまるところは、これらの破壊こそが目的になるのである。その文脈でみると、彼が首相に就任して以来の脈絡のない非建設的な行動が、ある程度は理解できる。ただ少しずつ明らかになってきたところだが、彼はどうも本物のアナキストではないようだ。そのために破壊といっても中途半端だ。したがっていずれは、これらの支持グループにも、次第に見放されていくのではないか。
 アナキストの破壊活動は、はじめはゲリラ行為によって遂行される。しかし菅氏だけでなく、彼を取り巻く民主党政権の面々は、予算編成のシキリで見せつけた稚拙さのように、いずれも中途半端だ。その意味では、まさに似非アナキストでしかない。だからゲリラ活動も半端だ。本物のアナキストであれば、破壊の徹底度が違う。しかし菅氏にはその能力も覚悟もない。ただ社会の不満分子に迎合して、現存の何かを思いつきで否定してきただけだ。その行為だけが、まさにゲリラ活動なのだ。同じゲリラやテロといっても、この点はアラブの本格的ゲリラとは違うところだ。

2011年7月17日日曜日

けりがついた従軍慰安婦問題

長年にわたり、韓国の反日与論をかき立ててきた従軍慰安婦問題がやっと決着した。今年(2011年)4月22日のことである。それも我々一般日本人にとっては、驚くような事実に基づいてのことである。

 戦時中、韓国の女子挺身隊員として日本軍への売春を強制されたとして、過激な反日運動をリードしてきたのは、梁順任遺族会々長であるが、この人物がソウル市警察当局によって詐欺で摘発されたのだ。
 罪状によると、この遺族会の会長と幹部は、日本政府から補償金をせしめてやると言って、3万人にのぼる会員から運動費をだまし取っていたという。本来、韓国に対する太平洋戦争時における強制動員犠牲者への補償は「太平洋戦争強制動員犠牲者に対する支援法律」によって行われる。そしてその財源は、「大韓民国と日本国間の財産および請求権に関する問題解決と経済協力に関する協定」に基づき、日本が韓国に提供したものである。この実質的な賠償金によって、「日韓の戦後補償問題が完全に解決したことを確認する」と規定している。したがって、その後の補償金を巡るゴタゴタは、全く無意味なモノなのである。それにも拘わらず、いつまでもくすぶり続けてきたのは何故か。すでに明らになっているように、この問題を商売(詐欺)にしようという人物がいたからである。かつて日韓親善サッカーの試合で、日本に謝罪と補償を要求する横断幕をスタンドに掲げた事件があったが、これも実は梁順人会長率いる遺族会の仕業であった。その目的は、自分たちの詐欺行為をカムフラージするためのお芝居だったと考えられる。
 しかしこの不愉快な事実の裏には、実はもっと陰険な策謀があったのである。その首謀者はだれか。西岡力東京基督教大学教授は、長年にわたる調査の結果、その張本人を突き止めた。朝日新聞の植村隆記者である。その経緯を簡単にまとめておこう。
 1991年の8月、反日活動家の青柳敦子が渡韓し、慰安婦問題で日本を糾弾するデモを組織化する活動を開始した。この運動は今も続いている。彼女がこの活動を始めたのは、在日第三国人に洗脳されたからだとされている。それはともかく、この運動は次第に力を得て、現在まで連綿とつづいているわけである。しかし、とくにこの運動に拍車がかかったきっかけは、1991年の8月10日に朝日新聞の植村記者が書いた特ダネである。この記事のポイントは、慰安婦として日本軍に強制連行された女性が、はじめて名乗り出たというのであった。引き続き12月には、植村記者は自分が書いた記事を強調するために、さらに長文のダメ押し記事を書いた。この二つの記事は、慰安婦問題は日本の軍すなわち日本の国家犯罪として、韓国人および反日日本人が日本を糾弾する最強の論拠となった。
 この一連の論調に疑問を感じていた西岡教授は、苦心の末に「はじめて名乗り出たという女性」にインタビューを試みた。その結果得た事実は次の通りである。
 この女性は、自分の名前は金学順であることと、その当時の職業がキーセンであったことを包み隠さず語った。すなわちキーセンとして、軍の慰安所で仕事を行ったのである。彼女の証言によると、同じ慰安所には日本人もいたという。つまり日本や韓国という国籍には関係なく、プロとして仕事を行ったのである。国による連行や強制という行為は、全くなかったのである。しかし朝日新聞・植村記者の記事は、彼女がキーセン出身であることに触れていない。つまりプロとしての行為であることを意図的に隠して、強制されたと書いているのである。この歪曲こそが、韓国人や反日日本人の活動意欲をいっそう高めた。そして1992年には宮沢首相が廬泰愚大統領に謝罪し、93年7月には河野議長、さらに95年8月には村山首相と、謝罪のオンパレードになったのである。
 朝日新聞の植村隆記者が、いかなる意図のもとにこのような歪曲記事を書いたか、その真意ははかり難い。しかし少なくとも、彼の夫人が梁順任氏の娘であるという事実は、念頭に置いておかなければならない。その梁順任氏は、このブログの冒頭で述べたように今年の4月、ソウル市警察に詐欺罪で摘発された人物である。

2011年7月15日金曜日

深層心理学への疑問

 正論の8月号に「嘘つき管直人を精神分析してみれば・・・」という見出しで、心理学者の林道義氏が記事を書いている。内容は、菅首相の性癖を精神医学から見て、幼児性として特徴付け、その根拠として次の4点を挙げている。

①ウソを言って逃げる
②対決関係を避けるため重要な情報を隠す
③大言壮語し、権力を誇示する
④権力をもてあそぶ
確かにこの4点は良く当たっているので、納得できる。ただし、たったこれだけの項目で、菅首相がこれまでの政治の場面で曝してきた数々の常軌を逸した言動を説明できるだろうか。またこの4項目を総括して幼児性という概念でまとめているが、そんな底の浅いモノだろうか。基本的にもっと深くて暗い偏執的な性格が潜んでいるように思われる。

 以前にも深層心理学者が当時の小泉首相を精神分析して、その診断結果を某誌に発表したことがあった。その要点は、性的な側面からの見立てであった。その論拠は、女性関係についてのスキャンダルが全く無いことに着眼したものであった。当時、私はこの心理学者のコメントを極めて不思議なものと感じた。
 菅首相の異常性をたんに幼児性で捉えたり、小泉元首相の特異性をリピドーの見地で解釈するなど、深層心理学による診断は、いかにも深みが無いものに思われる。人間の深層心理はもっと深みのあるものではないだろうか。あまりにもお手軽なものに思えてならない。

2011年7月4日月曜日

日曜美術館の司会者

 NHKの番組には、公共放送にあるまじき偏向思想に基づくものが多い。そのため私はあまり視聴しないのだが、日曜美術館だけは大いに珍重していた。ただしそれは以前のことで、最近はすっかり遠ざかっていた。理由は、司会者として姜尚中が起用されたからだ。美術にはまったく素人であるハズの政治学者が、あのビロードの声と称される不気味な低音で、見当違いの感想を述べ立てるのを聞くと、本当にいやになる。初めてこの番組に、彼が登場したときのショックは大きかった。NHKの御都合主義は、ここまで墜ちたのか。以来、私はこの番組を一度も見たことがない。最近になって、ようやくメンバーチェンジがあったらしい。大いに喜んでいる。
 ところで、上では姜尚中のことを政治学者と述べたが、本当にそうなのだろうか。実のところこの人物の学問的背景と実績がさっぱり分からないのだ。「アジアから読む日本国憲法」、「アジアから日本を問う」、「日朝関係の克服」、「悩む力」、「マックスウエーバーと近代」、「ナショナリズム」などいくつかの分野で時代迎合的な題名をつけた書籍を出版しているが、いずれも深みのないものだ。一例として「ナショナリズム」を挙げてみよう。
 この本の内容は、タイトルとはかなり離れていて、左翼的な立場に立った一種の日本批判論に止まっている。ナショナリズムの研究は、世界各国でも行われているのだから、本来はそれらも参考にして、もっと客観性のある論説にするべきだ。またナショナリズム運動そのものは、日本よりは韓国や中国でこそ活発に行われているのだから、それらについての実証的な論考も不可欠であろう。
 その一方で、政治的なスタンスは極めて鮮明だ。たとえば北朝鮮による日本人の拉致問題に関しては、「日本が拉致問題を理由に北朝鮮を支援しないならば、国際社会から孤立する。それがいやなら経済支援をやるべきだと発言している。またある会合では次のように述べた。もし横田夫妻が横にいたら、「在日同胞は過去に日本に強制連行されたのだから、北朝鮮ばかり批判するのはおかしい」と言うつもりだと。この「在日強制連行説」は、現在では完全に事実無根であることが証明されている。それを知ってか知らないでか、何れにしろ学者とは思えない偏った言説である。
 姜尚中が在日韓国人という立場と、実質的には日本人として生活している立場を、まるでコウモリのようにうまく使い分けて、ついに言論界のスターに成り上がった才覚については、ある意味では賞賛に値する。しかし情けないのは、そのような無節操や傍若無人ぶりを容認したり、持て囃す偏向マスコミの見識のなさだ。

2011年7月1日金曜日

株価と菅首相

 菅直人氏が首相に就任して以来、何一つ功績がない。国民にもたらしてくれたのたのは、政治の混迷と、不信と諦めだけである。歴代首相の中でもこれほどひどい人物は、鳩山氏を除いて珍しい。さすがの週刊新潮もやけっぱちになって、7月7日号には「今は辞めるな菅総理!」という記事を掲載している。その論旨が面白い。いま辞められても、まだ国民は懲りないかも知れない。もっと長引けば、いくらお人好しの国民でも、ついにはサヨク型インテリ主導の政治に音を上げるだろうというわけだ。

 実は私も、菅首相にはもう少し居座ってもらいたい。その理由は、僅かだが株を持っているからだ。周知のようにこの一年あまり株価は低迷を続けている。大方の意見も、菅内閣が続く限り回復の望みはないという。私も当初は同じ考えだった。しかし、最近になって考えが変わった。それを説明したい。
 いずれは菅直人氏も辞めるだろう。チャンスはその時だ。欲求不満でジリジリしていた産業界、なかでも現実的な証券界は、一斉に快哉を叫ぶだろう。つまり株価は暴騰する。その意味で菅直人氏がもたらしたマイナスエネルギーは、プラスエネルギーに反転し、投機筋にとって一種の救世主になる可能性がある。
 このパラドックスは荒唐無稽な冗談ではない。実はちゃんとした事例があるのである。それは、かってスターリンが死去したときの、証券界の反応である。このニュースによって株価は暴落したが、サヨクや似非インテリはそれを冷笑した。その論旨は次のとおり。
 「好戦的なアメリカの対立軸として、ソ連が頑張っている。その象徴ともいうべきスターリンがいなくなれば、アメリカはますます強引に世界制覇と侵略に向かうから、軍事面での紛糾は増大する。結果として軍需は増大し、インフレを助長する。つまり株価は上昇する」というわけだ。恥ずかしながら私もその説を信じた。しかし結果はどうだったか。株価は暴落し、長期にわたる不況のきっかけとなった。つまりサヨクインテリに蔑視されてきた俗物の代表のようなカブ屋が、直感的に正しい判断をしたことになる。すなわち真に好戦的なのは、アメリカ大統領ではなくて、スターリンだということだ。
 このように株価を予測し、取引する証券人の判断は恐ろしいほど冷徹だ。その立場で考えれば、同じく「癌」であっても、「菅という癌」は使いようによっては役に立つということだ。この人物の延命策が上手くいけばいくほど、失望のために株価は低迷する。しかし辞任という結果は目に見えている。多少の時間誤差があるだけだ。そえさえ我慢できれば、株価は必ず上昇する。兜町の住人にとって、これほど分かりやすく、うまい投機チャンスはまたとないだろう。

2011年6月16日木曜日

官僚機構の改革

 経産省の中堅幹部、古賀茂明氏の著作「日本中枢の崩壊」が、いまベストセラーになっている。この人の名前は先般の参院予算委員会において、当時の仙谷官房長官から「よけいなことは言うな」と、恫喝されたことでよく知られている。

 この本を読むと、行政の中枢にいる日本の官僚たちが、いかにモラルダウンしているかがよく分かる。言うまでもなくこの問題は、今に始まったことではない。半世紀以上も前から、ことあるごとに指摘されてきたことである。そして今や、それによる国益の損壊は臨界点に達しているのだ。ただし、ここでは少し冷静に考えてみよう。官僚機構やそれに携わるメンバーについて、すべてを否定しなければならないのだろうか。また、これに代替できるやり方はないのだろうか。
 再考するについては、官僚という概念について本質的な研究を行ったマックスウェーバーの言説を想起してみたい。彼は官僚組織の本質を“階層型”として認識し、その運営の方法については“形式化”と“規則化”の二面で定義した。これら3つの特徴は、政府機関に限らない。維持と効率化をめざすあらゆる大組織が備えているものである。さらにこれらの組織体は、経験によって多くの原則を確立した。主なものを列挙すると次の4つである。
・ 権限委譲の原則
・ 階層化の原則
・ 専門化の原則
・ 文書化(標準化)の原則

 行政もこれらの原則に基づいて行われるが、その実績記録の長期間にわたる蓄積は、気が遠くなるほどの膨大で特殊な知識体系となった。ただしこれらは、第三者にとって法規条文のジャングルである。このジャングルは部外者を疎外し、専門家つまり官僚の独占物となる。しかしそのジャングル構築の意思決定者は、政治家であって官僚ではない。彼等はそれを執行するだけである。したがって条文を執行する官僚の行為を批判するのは、誤りでもあるのである。この膨大な知識ジャングルに無知な民主党の某代議士が、シキリと称して予算編成に容喙し、見当違いの官僚いじめで顰蹙をかったのは、その典型といえるだろう。
 官僚機構の改革がいかに困難であるかは、直近のわずかな例を見ても明らかである。だからといって、改革が不可能とか不要であると考えてはならない。沈滞気味の日本を再び蘇らせるには、改革はどうしても必要なのだ。問題は、その大事業をどのようにして進めるか、つまりトータルデザインと展開の方法論である。
 たしかに一部官僚の腐敗問題も看過すべきではないが、それの浄化だけでは本質的な解決にはならない。パーキンソンの法則にもあるように、もともと人間が構築する組織には自らを堕落させる要素が、宿命的に内蔵されているのである。したがってそれの浄化作業は、永遠に避けることはできない。そのためここでは、それとは全く別の対策を提案したいのである。
 官僚制度の致命的欠陥は、上で述べた官僚機構を運営する4つの原則そのものに内在している。すなわち権限委譲、階層化、専門化、文書化(標準化)を改めなければ、抜本的な改革は出来ない。しかし、そのようなやり方が果たして可能だろうか。もちろん現時点では無理だ。そうであれば、そのやり方を新たに創造するしか術はないのである。
 そもそも4原則を貫く基本的な考え方とは何か。それはタテワリ思考の一語に尽きる。そしてその前提は、対応すべき社会環境に変化がないという認識である。したがって4原則を作り替えるには、前提を否定してタテワリ思考の対極にあるヨコワリ思考を、取り入れなければならない。そのようなことが可能だろうか。もちろん可能だ。産業界では既にやっていることなのだ。常に環境の変化にさらされるビジネスの世界では、間断なく創造的破壊に挑戦しなければ生き残ることができない。したがっていったん定着した組織体制も、その陳腐化が意識されるようになると、なんの執着もなくスクラップ&ビルドを断行するのである。
 いまこそヨコワリ思考に基づいて、日本の官僚機構を再編成しなければならない。その試案を提案しよう。それには先ず現在の政府組織を俯瞰してみよう。それは以下の省庁で構成されている。
内閣官房、内閣法制局、人事院、内閣府、総務省、法務省、外務省、財務 省 、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省、防衛省
 この体制をタテ思考というならば、ヨコ思考とはどういうものか。それは環境変化に応じるために、プロジェクトを編成することである。たとえば災害復興プロジェクト、人口減対策プロジェクト、円高是正プロジェクト、千島四島奪還プロジェクトといったようなテーマである。これらの大課題に対しては、従来型のタテワリ行政手法や組織ではとても歯が立たない。もちろん従来型の知識ジャングルのデータベースから、事例や解答を検索することもできない。
 要するに新たな創造活動によってしか対応できないのだ。そうだとすれば、方策は一つしかない。柔軟で創造力のある人材を、各所からピックアップしてプロジェクトチームを編成し、それに対策立案を委ねることだ。ヨコ思考による再編成とは、このやり方をいうのである。この組織の形態を、産業界ではマトリックス型と称している。このブログのフォーマットでは、マトリックス組織を図示できないので、敢えて文章によってそのイメージを説明しよう。
 まず碁盤のようにタテとヨコに直線を引く。そして横軸の最上欄に、省庁名を一つずつ列挙する。次に縦軸の最右欄に、プロジェクト名を順次記入する。次に省庁名とプロジェクト名が交差する部分に、当該プロジェクトに適した人名を記入する。
 この作業は文章で書けば簡単だが、実際は大変な作業である。何しろ対象にする官僚の数は膨大な数になる。しかも、そのメンバーをプロジェクトに当てはめるについては、適任者を選択しなければならない。ただし、その選択については、プロジェクトの目的と内容も熟知していなければならない。この大仕事を進めることが出来るのは誰か。たぶん個人では不可能だろう。したがってここでもまた、プロジェクトチームの編成が必要になる。この仕事のための新しい専門家も生まれるだろう。またその専門家を抱える専門組織やビジネスも生まれるだろう。この際限のない営為を、堂々巡りと断じて諦めるのは簡単だ。しかし諦めたら、官僚機構の矛盾は永遠に解決できないことになる。
 マックスウェーバーは官僚機構の本質を見事に解明したが、その改革案を提示しなかった。現代に生きる我々も、その問題点はよく分かっているが、これらを抜本的に改革するシステムを考案するには至っていない。事務処理の効率化、綱紀の粛正、天下りの抑制、エリート意識から公僕意識への転換など、さまざまな改善が試みられてきたが、いずれも官僚機構がもつ本質的な問題の解決にはならない。そのため、ここでは一つの試案としてマトリックス組織方式を提案する。この大仕事をドンキホーテに成り果てないで、チャレンジし続けるにはどうすればよいか。課題はいくつもあるが、特に重要なのは次の2点であろう。
① 機構改革プロジェクトの形成を、ルーティン化すること。
官僚機構が関与するテーマは、経済、教育、外交、治安など国民生活のあらゆる分野に及び、その内容も経験したものだけではなく、未経験のものも含まれる。当然ながら安定時代には経験案件のウエイトが高いが、近年のような激動の時代には、未経験案件のウエイトが高くなる。したがって官僚機構が長期間にわたって蓄積した膨大な知識データベースでも、対応しきれないことが多くなる。それに対応するには、新たな経験知識を形成するしかない。しかもその頻度が高いとなれば、その作業を本格化ないし日常化しなければならない。もはや定常業務の片手間では不可能になるからだ。かくして官僚機構の知識ベースのリニューアルプロジェクトは、ルーチン化されることになる。

② 組織原理を単一型でなく複合型にすること。
比喩的にいえば、組織メンバー全員に第一住所と第二住所の二つを与える。まず第一住所に在住するときは、膨大な従来型の知識ベースを基にして業務を行う。仕事の内容は、原則として従来やってきたのと同じである。一方、第二住所に移された時は、第一住所とは全く違うプロジェクト業務を行う。仕事の内容は、上で説明したとおりである。
 以上のように官僚機構を階層型と機動型の組み合わせにして、組織構成員をその二つに所属させること。そしてその実践の中から、澱のようのように溜まっている積年の弊を浄化し、未解決のまま放置されてきた課題を、新しい発想や方法で解決していくこと。この営為こそが、いま多くの批判を受けて閉塞状態になっている官僚組織を、新時代に適合させる最も有効な方法と考える。

2011年6月3日金曜日

介護機器エンジニアリングの怠慢

 日本がつくる工業製品の多くは、その性能と品質において、世界のトップレベルだと言われている。しかし中には例外もある。とくに独占的な環境のおかげで、ほとんど競争がない業界ではその傾向が強い。好例が介護機器関連業界である。その代表ともいえる介護用ベッドを挙げてみよう。
 老妻が多系統萎縮症という難病に罹ったため、私は4年半ほどその介護に専念した。典型的な老老介護である。本人は24時間、ベッドに横臥したままで、一挙手一投足にも難渋していた。たとえば食事は、三食すべてベッドの上で済ませなければならないので、その度にベッドの角度を60度前後に調節する必要がある。水平姿勢のままでは、食物の嚥下がやりにくいからだ。そのため介護用ベッドは、背もたれに相当する位置を、電動方式で60度前後の角度に折り曲がるように設計されている。
 排便の場合は、介助作業はさらに複雑になる。まず病人をベッドから降ろす介助を容易にするため、床面からの高さを調節しなければならない。つぎに病人を抱えて、便器に座らせる。排便が終われば、再び本人を抱えてベッドに戻す必要がある。この場合の作業手順は、ベッドから降ろす場合と逆順になるわけだ。いずれにしろ抱き上げたり、抱き降ろしたりする作業は、老齢者にとってかなりの負担になる。しかも私の場合は、その頻度が多かった。一日を通して7~8回にもなり、しかも深夜が多かった。
 この過酷な介助作業をサポートするために、ベッドメーカーと雖も全く工夫しなかったわけではない。その一つはベッド高さ調節の電動化であり、もう一つは背もたれ角度調節の電動化である。しかし最も負担の大きいベッドからの抱き降ろしと、抱き上げ作業をサポートする機能の電動化は全く実現していない。それをやるには、ベッドを手前の斜め方向に捻らせなければならない。この動作を機械がやってくれたら、介護作業はどんなに楽になるだろう。一般的な日本の機械メーカーにとって、この程度のメカニズムを作ることは、大して難しいことではないだろう。しかし介護用ベッドのメーカーには、それを開発する能力がないらしい。もともとベッドメーカーは家具屋とか箱屋といわれているように、複雑な動きの機械を設計することが不得意なのだ。そのため介護用ベッドを作り始めて何年にもなるが、介護を助ける技術開発は殆ど進んでいない。目立つのはベッドを豪華に見せるためのデザインだけである。機械技術の面では、怠慢としか言いようがないのである。
 このような技術の停滞が続いている主な原因を、列挙すると以下のようになる。その1は介護用ベッドの業界が一種のガラパゴス状態になっていて、機械業界からの参入がほとんど無いからだ。その理由は上で述べたように、介護用ベッドが家具と見なされているからだ。その2は、消費者つまり介護をやっている人たちが、積極的に不満を表明しないからだ。そして3つ目は、介護用品を扱う業界の特殊な事情である。介護用品の購入資金は、ほとんど介護保険で賄われ、しかもレンタル方式になっている。加えて支払い事務を代行するのは、ケアマネージャーである。その費用は、究極のところは介護者の負担になるのだが、以上3つの理由によって、それが極めて見えくい。その結果として、性能とコストについて誰も関心を払わないのである。介護用ベッドの業界は、まさに管理の真空地帯になっているのである。この状態に管理当局が気付かない限り、介護用ベッドの品質とコストは永遠に改善されないだろう。結果として老老介護の当事者は、これからも苦労を強いられることになるのである。

2011年5月22日日曜日

generalityとspecialty

 アメリカの元大統領カーター氏は大変な教養人で、その該博な知識は51分野に及ぶといわれた。しかし重大な問題がおきたときに、その深い教養を生かすことが出来なかった。問題を解決するには、その本質を洞察して対策の“優先順序”をつける必要があるが、彼はそれができなかったらしい。そのため知識はあっても、generalityが欠けていると批判されたのである。ただし辞書でgeneralityを引いても、そのようには訳されていない。たんに一般論や概論となっているだけである。しかし私としては、この批判がgeneralityという言葉の本質をついているように思われるのである。
 東日本大震災における菅首相の言動は、generalityの欠如、すなわち優先順序を付ける能力がない見本のようなものだ。いきなりヘリコプターで現地を視察し、原子炉への海水注入を中断させたからだ。彼は大学で原子力関連技術を学んだというが、今回はそれをひけらかす絶好の見せ場にしたわけだ。しかしそのパフォーマンスが、問題の早期解決にどれだけ障害になったか、徐々に明らかになりつつある。
 この事例を見てspecialtyが役に立たないとは言わない。そうではなくて、御本人はspecialtyがないことを証明したのだ。大学を出て既に何年になるのか。そのキャリアーの大半は市民運動のアジテーターとして、政治活動をやってきたのだから、ご自慢のspecialtyなど既に陳腐化している。それをひけらかす無神経さに驚かされるのだ。
 この人物のSpecialtyは論外として、generalityはどうなのだろう。これこそ政治家として最も大事な資質といえよう。たとえば首相の座についた最初の発言を思い出してみよう。そのころ円高が目立ちはじめていたが、たしか92円前後だったと思う。それを彼は思わせぶりに、96円あたりが妥当だと宣ったのだ。しかし現在にいたるまで、そういう相場は、ただの一度も実現していない。また全く見当違いの場面で、“乗数効果”という経済用語を口走り、専門家の失笑を買った。これではgeneralityの前提になる一般教養にも欠けていることになる。もちろんカーター氏の例のように知識があっても、それだけではgeneralityの本質とはほど遠い。しかし菅首相の場合は、generalityの本質どころか、その前提さえ欠けているらしいのだ。
 Generalityとspecialtyの、その何れも怪しい人物が現在の地位に上りつめたのは何故か。野党時代の揚げ足取りに特化したスキルとパフォーマンスに、国民の多くが幻惑されたからであろう。我々は一日も早く、この悪夢から目覚めなければならない。

2011年5月17日火曜日

パロディ“日本経済を再強化する方法”

 2010年8月17日、中国のGDPは日本を抜いて世界二位となった。その勢いはさらに加速し、両国のギャップはいっそう増大するだろう。悔しいではないか!そこで私は熟慮の末、迷首相である菅直人氏に、起死再生の一大政策を提案したい。
 それには先ず、中国の強みになっている最大の要因を分析すること。次にその分析によって得たエッセンスを、マスコミを通じて国民に納得させることだ。かつて朝日新聞が毛沢東の文化大革命を礼賛し、それを国民に喧伝したあのやり方によって・・・・。
 まず分析で得た結論から言うと、中国経済大躍進の決め手は、国内に奴隷制度を導入したことである。かつてはアメリカも、奴隷制度によって経済の基盤を築いた。同じ人間でありながら、肌の色が黒いというだけで、タダにちかい低賃金で牛馬のようにこき使った。そのおかげでアメリカの農業は大発展を遂げ、現在の強大国に発展する基盤をつくり上げたのだ。
 中国は、今まさにその奴隷制度を模倣している。しかもそれを、同じ肌の色とDNAをもつ国民に対してやっているのだ。具体的にいうと、都市族と農村族の区別である。この二つの区別は、戸籍によって行われる。そのため農村籍の労働者は、都市籍の労働者より数分の一から数十分の一の賃金で働かされるのである。残念ながら日本の経済学者は、この中国経済躍進の鍵について、ほとんど言及していない。やむを得ず、経済学に素人の私が発言せざるを得ないのだ。
 さて問題は、如何にして低下傾向にある日本のGDPを、再び上向きに転換させるかである。すでに米中二つの経済大国の事例で示したわけだが、日本もその奴隷制度を模倣したらどうだろうか。たとえば23年度の予算で23.5兆円が計上されている地方交付税を全廃する。さらに中国に学んで、地方政府から税金を徴収する。中央政府が徴収している金額は全く分からないので何ともいえないが、相当の金額だろうと想像する。その多くの部分は軍備に使われているはずだが、汚職用の賄賂にも流れているかもしれない。いずれにしろ、日本がこれを併用したら23.5兆円をはるかに越える財政余裕が生じる筈である。それだけではない。地方経済を振興させるためにやってきた一切の施策や財政支出も止めてしまう。その結果として地方の経済は疲弊し、都市部と農漁村部との格差は救いがたいほど大きくなるだろう。その一方で、地方出身者の都市部への移動を徹底的に禁止する。
 しかし、いくら厳しく禁止しても農村から都市部への密移動は止まらない。そのかわりスネに傷をもつ移住労働者は、極度の低賃金で働かざるを得なくなる。このようにして、低賃金化の条件は中国と似たようなものになるのである。これだけでも、日本の競争力は格段と高まるはずだ。
 さらに日本経済には、もう一つの秘密兵器がある。それは出身地のいかに関わらず、日本の労働者に共通する特徴である。すなわち、どんな仕事に対しても真面目に取り組む労働の姿勢である。その結果、日本で作られる製品の品質レベルは、例外なく高くて信頼できる。かくして世界でも類のない高品質・低価格の製品が、輸出できるようになる。品質と価格の両面で差をつけるその競争力は、中国の製品を本質的に凌駕するだろう。そして日本のGDP成長率は、再び世界を驚かすことになるだろう。

2011年5月10日火曜日

岡本太郎展をみて

 先日、竹橋の近代美術館で岡本太郎展を見た。いま、美術の世界は激動の真っ最中といわれるが、この人は既に半世紀も前から、この流れに身を投じてきた先駆者である。しかし一方では、変人扱いする人も少なくない。同行した友人もその一人だった。しかし見終わった後の感想は、全く違っていた。
 岡本太郎の最大の業績は、マンネリズムに陥っていた日本の美術界に革新の熱風を吹き込んだことだろう。しかも彼の活躍の分野は、驚くほど多岐にわたっている。絵画はもちろんのこと、ブロンズやアルミ更にはセメントまでを材料にした立体もの、ついでにインダストリアルデザインまで手がけた。そのベースになっているコンセプトは、私の解釈ではシュールリアリズムのように思われる。他にも縄文文化の再発見や土俗文化への傾倒など、美術鑑賞や批評の面でも大いに創造性を発揮している。万博であれほど騒がれた太陽の塔も、彼にとってはone of them に過ぎなかった。
 このように、岡本太郎によって開拓された新しい美術思想と作品は、多くの優れたフォローワーを生み出した。その好例が村上隆である。岡本と村上に共通しているのは、美術について新しいイデオロギーを主張していることだ。従来の西欧追随型の日本の美術界には、このような過激な人物はいなかった。ただひたすらアカデミズムの手法を追求するだけで、思想性に欠けていたのである。たとえば彼らは“若さ”の美は描いているが、“老い”の美は描いていない。そもそも老いには美は存在せず、醜だけしかないと思い込んでいたのではないだろうか。このような精神性の欠如のために、ありきたりの綺麗な絵だけしか描けなかったのである。
 岡本太郎がこのマンネリを打破するきっかけを掴んだのは、多分ピカソとの出会いであろう。それ以来、彼の作品にはシュールリアリズムの影響がはっきりと表れている。私の考えでは、このアプローチがなければ、老いに美を見出すことはできない。しかし彼だったらそれが出来たかもしれない。ただし、このテーマには関心がなかったらしい。
もちろん岡本の絵には、問題がないわけではない。なかでも気になるのは、彼の作品でしばしば見受けられる“パターン化”である。あまり適切な例ではないかもしれないが、この部分に限れば、東郷青児の美人画と共通していないだろうか。正直言って今回の展覧会でも、展示室によっては似たようなテーマやフォルム、色彩などによって、些かうんざりさせられることがあった。勿論そのような問題があるにせよ、岡本太郎が日本の美術界に大きな刺激とヒントを与えたことは明らかである。彼の言動の奇矯さをあげつらう批評家がいることも事実だが、そんなことは作品や思想とは関係ないというべきだろう。

 

2011年5月4日水曜日

史上で稀なる首相

 管直人氏が首相の座について現在に至るまでの、言動の一つ一つを検証してみると、成る程と納得できることが一つもない。この事実は、まさに驚嘆に値する。首相といえども人間だから、一つや二つの誤りを犯すことは不思議ではない。事実、歴代の首相をみても、完全無欠な政治を行った人物はいない。
 しかし菅首相のように、やる事なす事すべてが納得できないというようなことはなかった。何故そうなのか。その根本的な理由は、この人物の人格と、政治信条の二つにおいて理解することができる。 ただし、ここでは人格については触れないことにしよう。そのいかがわしさについては、既にマスコミ辺りで十二分に話題にされているからだ。
 結論からいうと、管首相の政治理念は限りなくアナーキズムに近い。それは彼の“市民運動家”という政治活動の出自に由来する。では市民派の定義、またはそれを特徴づける本質は何か。最大のポイントは、国家という概念の欠落、あるいは国家概念そのものの否定である。そして市民派運動家が行動している内容も、基本的にアナーキズムというべきであろう(白水社クセジュ文庫:アナーキズムを参照)。その考え方を要約すれば、反秩序と反権力の思想である。ただ反秩序についてはあまりに馬鹿馬鹿しいので、ここでは反権力についてだけ述べておきたい。
 この連中が抱いている“権力”のイメージは、たとえばナチスドイツ時代の権力や、軍国主義日本時代のそれらしい。しかし現在の自由主義国家においては、そんなものは全く存在しない。現在における権力は、たんに行政上の機能に過ぎないのだ。具体例を挙げよう。税金を徴収するのは権力である。交通法規を守らせるのも権力だ。暴力を取り締まるのも権力である。現在の民主主義国家における権力とはこのような類いのもので、これを称して行政上の機能というのである。
 ところで権力の意味を拡大解釈し「反権力」をスローガンにして暴走したらどうなるか。その具体例が50年代の全共闘運動である。勝手につくりあげた権力という妄想に挑戦して、とんでもない大騒動をひきおこした。今こそ、その総括の時期であるが、当時の活動家にコメントを求めても、ほとんどは黙して語らないという。市民の常識に戻った今となっては、若気のいたりと恥じるからであろう。
 しかしながら不思議なことに例外があるのである。それが今の民主党政権の中枢メンバーである。菅首相は、まさにその一人なのだ。しかし今、ご本人は当時の行動を総括しようそのとはしない。その結果が現在の政治的迷走をもたらしているのである。国民の不幸、ここに極まれりというしかないではないか。

2011年4月26日火曜日

評論家という職業

 かつてテレビが一般家庭に普及し始めた60年代前半に、評論家の大宅壮一は一億総白痴化と評した。その表現にならって近頃のテレビを観ると、一億総評論家の感じがする。どの時事番組を見ても、アナウンサー、政治家、芸能タレントが入り混じって好き勝手な意見を言い合っている。
 しかし本来の評論はこのような居酒屋談義でなく、もっと専門的で責任あるものでなければならない。事実そうなっているわけで、政治評論家、文芸評論家、科学評論家、経営評論家など数え上げればきりがない。評論という仕事は、今では職業として確立しているのである。それどころか評論という職業は、現代社会をリードする花形とさえ目されている。ただし評論家は自戒しなければならない。評論はあくまで評論であって、その“冠”に専門分野の何かを付けても、“冠”そのものではないのである。たとえば政治という冠を付けたら“政治”評論家になるが、政治家とは違う。経営という冠を付けたら“経営”評論家になるが、経営者とは違う。立花隆は文芸評論家として著名だが、彼に小説が書けるとは思えない。それにも拘わらず世間は、評論家がその冠について有能であると考えている。それどころか評論家自身が錯覚をおこすのである。
 錯覚がもたらす悲喜劇は、いま現在我々の身近なところで進行中である。すなわち民主党政権による政治である。この政党が野党時代に一貫してやっていた政治活動は、評論家そのものであった。政治という冠と、評論家という職業の違いを峻別するには、高度な知性と謙虚さが必要だ。彼らはその何れをも持ち合わせていなかったといえるだろう。ただしいま民主党が行っている政治についての“政治”評論は、ここでは紙幅が足りないので別の機会に譲ることにしよう。
 以上のような問題を内在させている限り、評論の意義はかなり危ういものになる。それを克服し確固とした職業ジャンルを創り上げるにはどうすべきか。ここで思い切った提案をしてみたい。すなわち評論のための新しい方法論の開発である。併せて名称の変更もやるべきだ。たとえば“政治”評論を改め、“評論”政治とする。“経営”評論ではなく“評論”政治とする。もちろん“文芸”評論は“評論”文芸になる。つまりテーマは何であれ、冠はすべて“評論”で統一する。こうすることによって、従来は専門分野に寄生していた評論は、それ自体が独自の知識ジャンルを構成することになる。具体的にその方法論がどんなものになるか、いまは何も言えない。しかし昔の誰かが言ったではないか。必要は発明の母であると・・・。

2011年4月24日日曜日

東電いじめをやめよ

 原発事故が発生したとき、菅首相は東電の本社に乗り込み、同社の幹部を大声で罵倒した。重大場面で、このようなはしたない行為をやるのは、軍隊で言えばせいぜい大隊長レベルである。それを一国のトップがやってのけるとは、とても信じがたい。しかし、このはしたない現場主義?をきっかけにして、東電いじめの罵声は日本のあらゆる分野に蔓延した。それを列挙すれば、まず監督官庁である。次いでマスコミ。さらに反対派の学者。そして地方政治家とつづく。とくに4月23日夜のNHKニュース番組に登場した、福島県知事の傲慢な態度には、腹が立つより悲しみさえ感じさせられた。ひたすら頭を下げて謝罪する東電の社長を、傲然と見下ろしたままで突っ立っている。そして手にした文書をおもむろに読み上げ、「あなたはこのように苦しんでいる県民のことをどう考えているのか」と詰問する。この知事自身は、顔色もよくつやつやしていて、とても憔悴しているようにはみえない。おそらく快適な自宅で十分に睡眠をとっているに違いない。そしてマスコミの取材を意識して、執拗に責任を追及するのである。彼の念頭には、おそらく次の知事選挙があるのだろう。それが私の僻目かどうかは、いずれ明らかになるだろう。
 この事例はあまりにお粗末すぎるが、他にも似た話はいくつもある。当初はそれほどでもなかったが、今では被害住民の多くが、ひたすら東電の責任を追求するようになっている。その原因の多くは、マスコミの報道姿勢にあると考えてよいだろう。
 しかし本当のところ、責任の全てが東電にあるといえるのだろうか。それに答えるには、まず我が国が原発を導入するに至った経緯を振り返らなければならない。少なくとも東大を始めとする大学教授や専門家たちが、基本設計を描いたはずだ。それを諮問したのは、当時の政権政党であり政府である。さらに拡大すれば、国全体と言ってよいほどの大多数が賛成したのである。もちろん、このような大事業を伊達や酔狂ではじめるわけがない。日本のエネルギー消費の将来を考えた末の結論だった。つまり原発導入は、国民全体の合意で行われたのである。民主党の中には、自民党がやったことで自分たちは関係ないとうそぶく人がいる。しかし、それはないだろう。革命政権ならいざ知らず、政権を引き継ぐこと自体が、了解したことになるからだ。
 上述のように、原発そのものの導入責任は追求できないとして、次に問題になるのは原発設備の故障責任を誰に負わすかである。なにしろ1000年に一度の地震と津波である。それを見込まずに設計したといって責任を追求できるのか。さらに言えば、この分野で、東電が負うべき責任がどの程度あるのだろう。東電はたんに上述の専門家たちによって設計された設備を、忠実かつ正確に導入し運営してきただけなのだ。
 結論はたぶん、犯人捜しをしてもしようがないということであろう。大切なことは、これを教訓にして、将来は一そう高度なシステムを作ることだ。そして最高責任者は、八つ当たりしたり、かんしゃく玉を破裂させるようなことをしてはならない。その行為自体が、トップの資格なきことを証明することになるからである。

2011年4月23日土曜日

日本の原発風評を広めるのは誰か

 4月の初め頃から、東日本大震災に関する風評被害が、世界中に広がりはじめた。国際感覚の鈍い菅政権もようやく気にするようになり、4月16日の国際通貨金融委員会に出席した野田財務相は、各国に対し「科学的事実に基づいた冷静な対応をするよう」求めたという。しかし、その後も一部の国では日本からの輸入品について、放射線量について問題がないという証明を要求している。なかでも声高に問題提起しているのは中国で、とくに農産物と一部の工業製品をターゲットにしている。例によって問題認識の甘い菅政権は、その原因を正確な情報が不足しているためと判断し、実態を正確に伝えることで解決すると考えているらしい。
 しかし強かな相手は、そんなことで納得するはずがない。この日本の不幸を千載一遇のチャンスと捉えて、攻撃の手を強めてくるに違いない。その理由は2つある。第1は、嘗て毒入り餃子事件や、農薬汚染農産物事件で恥をかかされた意趣返しである。あの事件以来、中国の農産物に対する不信感は、国外どころか国内にさえ浸透した。その一方で日本の農産物に対する信頼は高まり、輸入量は大幅に増大しつつあった。この傾向がさらに強まることは、中国農業の根幹さえ揺るがすことになる。いずれ何らかの措置がとられると予想されていた矢先に、今回の大災害である。まさに天佑と考えたに違いない。この国のやり方として、風評を利用するのはごく当たり前のことであろう。
 風評をたてたりそれに便乗する理由の第2は、日本の工業部品に対抗する中国の産業戦略に端を発している。途上国や中進国が当面の政治体制を維持するには、国民の所得や生活水準を高めなければならない。文明生活の快適さを知ったこの国の人々は、ますますその欲望の度合いを強めるだろう。それを懐柔するには何としてもGDPを増やさなければならない。たしかにこの国のGDPは今や世界第2であるが、国民一人当たりでいうと日本の10分の1にも達しない。この格差を縮めるには、工業化を進めるのが最も妥当な戦略である。現時点における中国の成功も、まさにこの戦略のたまものである。しかし問題はこれからである。工業化を達成したと言っても、それはまだ中レベル以下のものであって、それ以上の高レベル製品をつくるまでには至っていない。かくして中国の工業化戦略は、以下のように日本を標的にした2本の柱で再構成されることになるだろう。

その1 中レベル製品の市場を、完全に日本から奪うこと。それには汚染部品の風評を流すことが極めて有効である。

その2 いま中国に進出し、高レベル製品を作っている日本企業を、風評によって倒産に追い込む。そのあと安値で設備と技術を買収する。

以上のように原発事故にかかわる風評は、極めて意図的なものであることに気付かなければならない。親中国を標榜してきた民主党政権も、今回の事件によって目が覚めたのではないだろうか。

2011年4月16日土曜日

いそいで復興のシナリオを描け

 一ヶ月ほど前(2011年3月11日)に発生した東日本大震災の被害の全貌は、とてもとらえにくい。地震、津波、原発事故、そしてそれに伴う放射能汚染という途方もない複合災害になってしまったからだ。とくに原発事故関連に関しては、そのトラブルが未だに進行中である。いろいろな対策が講じられてはいるが、素人目にはまるでモグラ叩きのように見える。事故発生以来すでに1ヶ月を越えるというのに、次々と新しい問題が発生する。そのためにシーベルト、ベクレル、シーピーエムといった専門的な数値がやたらに発表されるが、その意味するところが分かりづらい。政府は、ここらで一般国民にも分かりやすい説明をする必要があると思う。菅首相は原子力工学に詳しいのが自慢のようだが、なぜそうしないのだろう。あまりにじれったいので、首相のために我々が何を知りたいかを、3つに分けて整理して差し上げよう。
 要点の第一は放射能の数値はどうであれ、それをどれだけ浴びたらいけないのか。継続的な被浴に問題があるというなら、その期間。たとえば一日何時間で、何週間とか。また食物として摂取する量に問題があるならば、その種類別の数値。細かい条件別に、これらのデータを一覧表にして配布してほしい。
 要点の第二は過去における災害データの収集だ。広島に原爆を投下されたのだから、日本には放射能被害に関する知見が十分にあるはずだ。当時、広島には永遠に人間が住めないとまで言われた。また夥しい数の死傷者が出たが、その一方で生き延びた人もいた。それを可能にした条件は何だったのか。そもそも被爆地周辺のシーベルト数値は、福島の場合と比較してどの程度の差になるのか。さらに言えばアメリカやロシアのデータや情報は入手できないのか。たとえばアメリカは、広島のデータを持ちかえっていて日本以上に蓄積しているはずだ。さらにその後も、マリアナ諸島やネバダ砂漠で実験している。最近ではスリーマイル島の事故経験もある。一方のロシアも、チェルノブイリのデータを十分持っている。アメリカやロシアは、日本政府の対応を批判するだけでなく、これらの経験に基づく対策を教えてくれるよう要求すべきだ。
 要点の第三は復興の見通しと、その大まかなスケジュールだ。日本には壮大な復興の歴史がある。1945年に敗戦を迎えたが、その時点での全国に及ぶ戦禍は、筆紙に尽くしがたいものだった。今回の状況とは比較にならない。それでも3年後、つまり1948年頃には何とか復興の兆しを見ることができた。さらに1950年から1954年にかけては、後に復興期と言われるほど産業全体が軌道に乗り始めた。その後は多少の曲折はあっが、1990年までは一貫して安定成長の路線を走ってきた。大まかに言って、あれほどのダメージを受けながら、わずか3年ほどの短期間に産業および経済再建の目途をつけたのだ。政府はこの実績から教訓を学び、今後の見通しを明確かつ早急に示さなければならない。

2011年4月14日木曜日

経済学者はなぜ発言しないのか

 東日本大震災は、その規模の大きさにおいて、日本の歴史始まって以来の出来事といわねばならない。その被害の範囲と大きさは人命、財産、交通、生活などのあらゆる分野に及んでいて、それを回復するために要する時間や費用などは見当がつかないほどである。しかしこのまま有効な対策を講じないで無為に時を過ごせば、日本の国力は著しく劣化するだろう。また国際的な地位も低下するだろう。素人政治家の集団に過ぎない民主党内閣では、とてもこの難局を乗り切ることはできまい。
 今後の見通しとして、とくに重要になるのは経済の復興だろう。現状を見ると、たとえば日本の主力である自動車産業や電気機器の工場では、部品供給の齟齬のため生産は大幅に減退している。この状況をどのようにして打開するか。差し当たっては電力の供給力を回復させたり、工場の補修や機械の修理など、現場でのハード面の回復に尽力するのは当然だ。しかしそれと平行して、マクロ経済の面から今後の産業・金融政策をどのように展開するかは極めて重要だ。ただしアマチュアー政治家の集団に過ぎない現在の民主党政権にそれを期待するのは無理だろう。かくしたその道の学識経験者の提言が極めて重要になる。具体的に言えば、経済学者こそこのテーマについて有効な提言を行わなければならない。
 しかし今のところ経済学者からの、それに関する発言は殆どない。その一方で産経の経済コラムなどでは、かなり大胆な提案をしている。たとえば保有するアメリカ国債を担保にした、日銀引き受けによる100兆円の復興国債の発行である。この大災害の復興には、5兆円や10兆円の投入ではとても間尺に合わないだろう。その意味では、このような大胆な発想が必要なのだ。最近では経済学の権威も地に落ちた感があるが、今こそ復権のチャンスではないか。ケインズがどうのマルクスがどうのいった文献研究ではなく、この難局に役立つクリエイティブな理論や実践的な提言をやってもらいたい。

2011年4月13日水曜日

軽薄な産業進化論

 野口悠紀雄の著作「モノづくり幻想が日本経済をダメにする」によると、産業は必然的に1次から2次、2次から3次へと進化するものである。したがって日本も、早急に2次産業依存から、3次産業に構造を変えるべきだという。この考え方は理論とはいえない単なる俗説に過ぎないが、どういうわけか一部の経済学者の間では無条件に信じられている。野口氏もその一人のようだ。
 氏は3次産業へ転換する条件として、新たな産業技術の習得、とくに金融工学なるものを高く評価しているようだが、先般のサブプライム問題やでリバティヴ問題については、どのような見解をお持ちなのだろうか。また氏は、情報整理の達人としても有名である。その情報整理のノウハウ本は、ミリオンセラーにもなっている。しかし情報整理がうまくなっても、創造性が高まる保証はない。実際、経済学者としての氏の理論面での功績については、私は寡聞にして知るところがない。そこまでは望まないにしても、少なくとも金融工学なるものの、イカサマ性ぐらいは見抜けなかったのだろうか。
 産業の進化を論ずるならば、俗説にこだわらず視点を一新するべきだろう。たとえば1次産業、2次産業、3次産業それぞれは、その産業の枠内でも進化することができる。実際に、産業界ではそうなっている。農業も工業も、その産業内で技術革新を成し遂げ、生産性を大いに高めた。この活動がなければ近年の爆発的な人口増に伴う、膨大な食料の確保や生活必需品を、まかなうことはできなかっただろう。日本はその1次産業や2次産業で大きな貢献をしている。この活動のどこがまずいのか。時代の趨勢に遅れをとっているのか。
 進化は、どの方向にも向かうことができる。馬鹿の一つ覚えみたいに、1次から2次、2次から3次という方向しかないと考えるのはあまりにも硬直した考え方だ。

2011年4月11日月曜日

なぜ新聞を賤業というか

 すでに大方の記憶にはないかもしれないが、2007年の参院選挙では、朝日新聞のなりふり構わぬ安部たたきキャンペーンが凄まじかった。さすがに同業の新聞社からも顰蹙をかったほどだ。発端は2005年1月、朝日が安部幹事長(当時)がNHKの番組に干渉したという虚偽の記事を書いたことだ。安部氏とNHKはこれに反論し、朝日は大いに恥をかいた。おそらくそれを根にもっていたのだろう。江戸の仇は長崎でとばかり、朝日は社を挙げて安部氏のあら捜しや揚げ足とりの記事を書きまくった。もはや中立と公正を標榜するクオリーティペーパーとしての、誇りや自制心をかなぐり捨てたらしい。この陰湿さは、まさにインテリやくざそのものだった。
 おりしも同年9月19日付けのニューズウイーク誌に、英国高級新聞デイリーテレグラフ社の元記者コリン・ジョイス氏が書いた「東京特派員の告白」が掲載された。私は以前から新聞ジャーナリズムの胡散臭さには気づいていたが、その疑いを確信に変えさせる内容だった。記事の要点は次の通りだ。
 彼は新米記者として着任以来、何とかして日本の現状を正確かつ公平に記事にしようと心がけたという。しかし本社の方針は決まっていて、英国の一般読者が日本についてもっている固定観念にマッチし、すんなり受け入れやすいように書くこと。さらには面白さと奇妙さを強調すること。このガイドラインにマッチしない記事は全てボツにされた。具体例を挙げると以下のようなものだ。
・ 日本人の行動がステレオタイプであるこの強調
・ 第2次大戦中の芳しくないエピソード
・ 日本人がロボットに抱く特殊な感情(たとえばロボットに名前をつける)
・ お尻を自動的に洗浄する最新式の便器
・ 満員電車で蠢くチカン
・ その他
 紳士の国を代表する新聞でさえこの程度だ。要するに洋の東西を問わず、新聞社は部数が増えさえすればよいのかもしれない。そのためには手段を選ばない。アジ、偽善、変節、虚偽、威嚇、迎合・・・まさに悪徳のデパートのようなものだ。社会の木鐸などというスローガンは、一体誰のいうことなのだろうか。いまや新聞・ジャーナリズムは、自滅の道をまっしぐらに進んでいるように思われる。

2011年4月8日金曜日

なにも知らない素人は政治主導ゴッコをやめよ

 枝野官房長官が毎日やっている災害状況報告をやめてほしい。長々くどくどとしゃべり続けるわりには、聞く方にとって何の参考にもならない。私などはこの長官がテレビ画面に現れた途端に、パチンとスイッチを切ることにしている。要するに専門家からの受け売りを、伝声管のように読み上げるだけだ。ときたま注釈らしき説明がつくが、たんなるトートポロジー(同語反復)に過ぎない。
 何故にこのような面倒な手順を踏まなければならないのか。こたえははっきりしている。民主党は政治主導をスローガンにしてきたので、それに拘っているのだろう。しかし国民としては、民主党の面子など関係ない。要するに的確な情報と判断、それに基づく政府の覚悟と方針を聞きたいだけだ。災害発生以来、国民はそれに値するメッセージを聞いたことがない。それを持っていない半可通な素人のお話は、まさに政治主導というお遊びにしか見えないのだ。
 本当に深刻な問題は、別のところにあると思う。最高責任者やそれに続く閣僚や政府高官には、確固とした方針を立てる能力がないのではないか。たとえばフランス大統領のサルコジのような・・・・。今のようにパフォーマンスだけで、無能をごまかしてもらっては困るのだ。
このように国民が慨嘆している間にも、事態は悪化の一途を辿り、ついに我が祖国・日本は破局を迎えるかもしれない。野党時代に揚げ足取りだけに専念していた政党を、あからさまに支援したマスコミの無責任さや、それに乗せられた我々国民の軽率さが、このような悲惨な付けとなって回ってきたのだろうか。

風吹けば桶屋がもうかる

会議などで、理路整然と自分の考えを説明する人がいる。人前で話すのが不得意なものにとってはとても羨ましい。では理路整然とは、どういうことか。一般には、論理的であることだとされている。そこで少し突っ込んで、論理的とはどういうことかと、某大学教授に尋ねてみた。さすがに彼は言下に答えた。原因と結果のつながりや、目的と手段の連鎖を直線的に示すことであると。それを聞いて私は、落語の「風吹けば桶屋がもうかる」という話を思い出した。大筋は次の通りだ。「風がふく→土埃がたつ→それが目に入って盲人がふえる→盲人は三味線で生計を立てる→三味線には猫の皮が張られる→そのため猫の数が減る→猫が減るとネズミが増える→ネズミは桶を囓る→桶の需要が増える→桶屋が儲かる」
 たしかにこのストーリーには、因果関係の連鎖がある。しかし何か変だ。その理由は何だろう。その答えを一先ず保留することにして、ここで俄に朝日新聞の社説でしばしば見受ける語り口を思い出した。それは ・・・〇〇に通じる・・・ という文章である。以下にその例を示そう。

① 監視カメラに反対した朝日の社説
治安のよさで定評がある日本といえども、時には強盗が銀行やコンビニに押し入ることがある。また新宿の歌舞伎町では、通行人が路上で財布を強奪される事件もあった。これらの暴力を防止したり捜査に役立たせるために、警視庁は要所に監視カメラの設置を計画した。ただし、その画面には一般の人も記録される。つまり市民の多くが、その行動を当局に監視されることになる。これによって個人のプライバシーは侵害される。そして究極のところ個人の自由が束縛される。すなわち監視カメラの設置は、個人の自由の束縛に通じる・・・・・。
現在では監視カメラの設置は常識になっているが、朝日はまったく知らん顔で、その主張が間違っていたことには全く触れていない。

② 住民基本台帳カード(住基カード)に反対した朝日の社説
住基カードが一枚あれば、身分証明書、年金手帳、健康保健証、運転免許証、パスポート、納税証明書、各種許認可の申請など、個人が公民として必要になる書類の申請や作成が、一カ所で集中的にできる。逆にこれがなければ、上述の書類に関係するあらゆる役所に出向かなければならない。但しこのような各種のデータを一元的にまとめるには、国民一人一人のIDコードが必要になる。
しかし当時の朝日は、社説でこの計画に猛反対した。例によってその論拠は、IDコードは国民のプライバシーを犯すことに通じる・・・・。その論理を図式化すると次のようになる。

IDデータを作成する→データの悪用を企むものがいる(100分の1)→データを盗む技術を持つ者がいる(100分の1)→データを盗まれる人がいる(100分の1)→悪用価値のあるデータ(100分の1)→データを盗まれてプライバシーが傷つく(100分の1)

以上のステップごとに示した数値は、私が見積もった仮の値で、かなり少なめである。
 監視カメラの話と住基カードの話に共通するのは、因果関係の連鎖はあるけれども、連鎖が発生する確率に触れていないことだ。桶屋の例で言えば、埃が立って盲人の目に入る確率は何%だろう。また三味線で生計を立てる確率は何%か。仮にそれぞれの確率10分の1としても、連鎖の数が10であれば、最終段階で発生する確率は0.1の10乗分の1、つまり十億分の一に過ぎない。具体的な計算は次のようになる。 

0.1×0.1×0.1×0.1×0.1×0.1×0.1×0.1×0.1×0.1=0.0000000001

また住基カードについて計算すると、各段階の発生確率が100分の1と仮定したから

   0.01×0.01×0.01×0.01×0.01=0.0000000001

つまり百億分の1の発生確率になるのである。~に通じる~とか、論理的に語ることのいかがわしさは明らかである。我々はマスコミが画策する与論操作の論理には、十分注意しなければならない。

2011年4月5日火曜日

グレイのパワー

 日常的に生じる社会現象は、3つの領域に分類できるかもしれない。第1は白の領域、第2は黒の領域、そして第3はその中間の灰色すなわちグレイの領域だ。仮に色相の帯として考えると、左端の真黒から少しずつ右に移動するにつれ、黒の色合いは次第に薄まって、濃灰色に変わっていく。さらに右に移動を続けると、その灰色はいっそう薄まり、最後に右端に至ると真白になってしまう。本来ならば、この連続する色相の帯を区切ることはできないだろう。しかし私は、あえて3つに区切ることにしている。そしてもう一つ加えているのは、この3領域が占める面積、すなわち分布である。具体的には、黒と白はそれぞれ5%で、灰色は90%になると考える。この値に科学的な根拠は全くない。私が経験で得てきたものである。この独断と偏見にみちた尺度で、社会現象を眺めてみると、案外うまく説明できるのである。
 たとえば採決で決めなければならないときは、当然ながら二つの立場、すなわち賛成者と反対者が出現する。ただし当初から、自分の立場を鋭く主張するものは数が少ない。その他の大多数は、曖昧な表情を保っている。しかし時間の経過とともに、その表情は次第に変わる。そして最後に採決の時がきたら、ほとんど全員が明確に意思を表明する。グレイゾーンに属する大多数のパワーが始動した瞬間である。
 グレイゾーンを動かすために、白と黒の両側から、いろいろな働きかけが行われる。政治やマーケティングの分野では、とくにこの策動が激しい。マスコミなどはその下品さによって、20世紀が生んだ賤業といわれるほどだ。しかし策動がどうであれ、最後の決め手は、グレイゾーン集団が潜在的にもっている価値観、倫理観、学習能力そして文化である。この点において日本は、世界でも最も高い水準にあるのではないだろうか。日下公人氏は、50年も前からこの見地に基づき日本の将来を予言し続けているが、ことごとく的中している。日下氏が一貫して主張しているのは、日本人が持っている数々の美徳であり、これを大いなる資源とみなしている。従来の国際競争の場で優位を決めるのは地下資源であったが、これからは文化資源が決め手になるとも書いている。そしてそれを保有しているのは、観念的な舶来知識を珍重する知識人ではなく、実生活に根ざした知恵を備えた庶民であり、この点において日本は世界でもダントツの資源国だと述べている。
 21世紀の国際競争における国力の差は日下氏の言うとおりだとして、グレイゾーンを構成する各国の庶民のレベル、つまり上述した価値観や倫理観で比べてみよう。たとえば中国の一般大衆、アメリカの一般大衆、アフリカの一般大衆、これらを眺めるだけで、もはや説明の必要はないだろう。大災害は世界の各所で発生するが、そのたびに必ず耳にするのは、大衆の略奪であり暴動である。しかし日本の場合は明らかに違う。この認識は、今では世界の常識だといえよう。東日本大震災で行動した被害者たちの、冷静な振る舞いについては、ニューヨークタイムズ、ガーディアン、ウオールストリート・ジャーナルなど欧米の主要紙はこぞって賞賛している。
 日本のグレイゾーンのレベルを量る身近な例をもう一つ挙げてみよう。それは政党に対する支持率の推移だ。具体例として、2009年8月に行われた衆議院の選挙を示そう。その結果、自民党は予想外の大敗を喫し、民主党はこれまた望外の大量議席を獲得した。この結果について与論すなわち庶民は、政治家不在で政治屋しかいない自民党を拒否しただけだと表現した。その一方で、未知数の民主党を試してみたいと述べている。当時としては、この判断は極めて妥当と言うべきではないだろうか。これより既に数年前、総裁選に出馬した小泉純一郎氏が、内部からぶっ壊すと宣言せざるをえないほど自民党は腐っていたのだから。
 それでは、試されている民主党はどうか。その体たらくは周知の通りだ。その反映すなわち支持率の推移をみても明らかである。今回のような非常事態が発生しなければ、間違いなく解散総選挙になっていただろう。今やグレイゾーンすなわち庶民を構成する大部分は、来るべき裁断の日を待ちわびている。その日を境に、迷走を続けている日本の政治も、再び正道に戻ることが確信できる。

2011年4月3日日曜日

無能レベル

 昨年(2010年7月)に亡くなった梅竿忠雄京大名誉教授は、実にユニークな発想の持ち主だった。その代表作「文明の生態史観」や「オタマジャクシの群れ形成の数理」「情報産業論」などエポックメーキングとなる著作は数多くある。その一方で、産業化社会では不可欠とされる組織運営の実態を観察し、ユーモラスで鋭い提案も行っている。無能レベルという概念は、その最も顕著な例の一つといえよう。これを簡単な例を用いて説明すると、以下のようになる。
 軍隊は典型的な階層組織であるが、そこに大へん優れた兵士がいたとする。その能力を高く評価した上官は、彼を下士官に推挙した。この地位でも彼は能力を発揮したので、やがて小隊を束ねる士官に昇進した。しかしこの段階で問題が発生した。部下たちが彼の能力に疑問を持ち始めたのである。小隊ともなれば、それを構成する人員は100名前後になるはずである。いかに上意下達の世界といっても、その中には様々な個性が充満している。それを束ねていくのは簡単なことではない。この新米小隊長は、まずこの問題に対処できなかった。更にもう一つ。これこそ最も本質的なテーマであるが、彼は戦場の状況に応じた戦術構想を立てることができなかった。十数名の部下を使って、上官の指示を忠実に遂行する実務能力には長けていたが、それ以上のことはできなかったのだ。つまり彼の能力は下士官レベルであって、小隊長という地位は無理であった。これを無能レベルというのである。
 同様の事例は、企業内でも屡々みることができる。課長まではよくできたが、次長になった途端におかしくなった。次長までは無難だったが、部長になると失速したという話だ。これらの悲喜劇はすべて無能レベルという概念で説明できる。
 さて問題は、日本の政治を迷走させている菅首相の無能レベルが、どの辺りにあるかということである。分かりやすくするために、企業組織の地位で考えてみよう。率直にいって、とても社長とは考えられない。企業ではこの人物のように、パフォーマンスだけで生きている輩をゴキブリ社員という。それだけでは部長はおろか、課長にも値しないのである。野党時代には、揚げ足取りのスペシャリストとして名をはせたとしても、実践の場では何の役にも立たない。

2011年4月2日土曜日

サルコジ大統領と菅首相の違い

 3月31日、フランスのサルコジ大統領が震災慰問のために訪日した。官邸を空っぽにして、総指揮者としての役割をすっぽかし、ヘリコプターで原発の事故現地に赴いた菅首相の、ちまちましたパフォーマンス的言動と比べて、そのスケールの大きい行動力に感嘆する。
フランスでは発電量の80%を原発に依存している。だからこれが否定されるような事態になれば、産業政策の根幹に関わる重大事に発展するのである。しかし同じユーロー加盟国であっても、ドイツは原発の導入に消極的だった。最近になってメルケル首相の努力で、ようやくやる気になっていたのに、折悪しくも今回の事故だ。おかげでドイツ南西部バーデン・ビュルテンベルク州では、27日にあった州議会選挙で連立与党が敗北し、環境政党・緑の党が躍進することになった。その結果をみてメルケル首相も、「福島原発の大事故を巡る議論が敗因となったのは明らかだ」と述べざるを得なかった。かくしてフランス大統領の来日は、まさに国のエネルギー政策の成否に関わると判断した、果敢な政治戦略的行動なのである。
そもそも日本とフランスは、原発の発電量において世界の3位と2位をしめるのだが、今回のような非常事態が発生すると、産業を守ろうとする政府と、そうでない政府の違いがはっきりあらわれる。サルコジ大統領にはフランス一の原発企業のトップも同行し、あらゆる援助を惜しまないと明言してくれた。
 しかし我が国の首相は、まず東電を罵倒し、そのあとヘリコプターで現地を視察するというパフォーマンスを演じてみせた。このアクシデントを政治的に利用しようとする思惑が見え見えだった。サルコジとは、動機もやり方も全く違うのだ。そもそも菅首相が市民党を自称していた野党時代は、原発には反対していたはずだ。彼の当時の主張は、大切なのは消費的な市民生活だけであって、それを保証するための企業の産業活動には極めて冷淡で、ときには否定的でさえあった。しかし評論家ではなく、政治の当事者となった今となっては、産業振興の重みに気づいたというのだろうか。

2011年3月28日月曜日

マスコミの発想力はあまりに貧困だ

 「週刊誌ウオッチング」というコラムで、花田紀凱氏は面白いコメントをやっている。3月31日付の週刊新潮と週刊文春は、いずれも大震災特集を組んでいるが、その内容は大きく違っているという。私もこの二冊を併読していたので、氏の論評に100%賛成したい。要約すると、文春の論調はひたすら東電の責任を追及している。そしてタイトルは大きく、社長は雲隠れとか自殺説があると、なっている。おそらく読者は社長自殺説に興味をもって、この雑誌を買うだろう。しかし本文を読むと、デマに惑わされるなとなっている。買ってもらうためには、どうしても東電を悪者にしたいのか、それともガキのごとき浅薄な正義感にかきたてられたのか。一方の新潮は、さすがにプロであり大人である。その見出しは「暴走原発の現場に止まった人々の死闘」とか「放射能よりこわい流言飛語」、あるいは「首相官邸の機能不全」や「粛々と任務を遂行する人々」となっている。この記事では、東電を糾弾するものは全くなくて、むしろ東電の現場担当者の奮闘ぶりが報告されている。花田氏は二誌を比較した上で、きわめて辛辣なコメントを与えている。文春はアマであり、新潮はプロであると・・・・。
 ところで私は全く別の見地で、プロを自認するマスコミの記者連中にコメントしたい。原発の恐ろしさや、専門機関が発表する細かい数値データをコピーするだけでなく、もっとわかりやすい説明ができないものか。たとえば広島で被爆した人たちの状況はどうだったのか。無防備な人たちが意図的に狙い撃ちされたわけだが、それでも生き残った人がいた。そのあたりを比較しながら説明すれば、もっと分かりやすいと思う。さらには当時のアメリカ大統領の残虐性もあぶり出すことができるのではないだろうか。朝日新聞や社民党がやってきた観念的なアンチアメリカキャンペーンよりは、もっと効果的で建設的な与論が形成されるのではないだろうか。

“愚の骨頂”内閣

 民主党が政権の座について以来、国民の一人として私は、ただの一日も平穏な気分に浸ることができない。このブログでも、鳩山内閣が外交面でやらかした数々の失策について批判する余裕がない。後を継いだ菅首相が、いま現在進行中の東北関東大災害に対して、極度の無能ぶりを露呈しているからだ。この人物がトップでいる限り、日本の将来は真っ暗である。なぜ私は、かくも激しく不安と焦慮に駆られるのか。

トップに位置する人物を選ぶ最も重要な基準は、「問題を複雑かつ多角的に捉えたのち、決定と行動を単純化する」能力の有無である。これに対して、最も避けなければならないのは、「問題を単純に捉えて行動するため、対策と行動を複雑にしてしまう資質?である。菅首相の場合は、まさにこれに該当する。
たとえば大地震発生の報に接すると、現場視察と称して超多忙な現地に赴き、関係者を激励したり叱責したりした。そんなことが何かの役に立つと思うのだろうか。たんなるパフォーマンスに過ぎないことは、誰の目にも明らかなのに・・・。
その間、政府の司令塔はがら空きで、総合的な管理と指揮は全く不在になってしまった。その後、事態の進展とともに問題はどんどん複雑化する。つまり単純に考えて行動したので、彌縫策を次々と発令せざるを得なくなったのだ。いわく被災者生活支援特別対策本部、原子力災害対策本部、電力需給緊急対策本部、節電啓発担当大臣の任命、震災ボランティア担当の首相補佐官任命等々めまぐるしい限りだ。しかしそれぞれの新設部門の業務は、お互いが重複したり既存部門との関連が不明確で、現場では訳がわからないと悲鳴を上げている。
その一方で、従来からある最も重要な中央防災会議は一度も開いていない。菅首相は。この会議の存在自体を知らないらしい。この会議のメンバーは、首相と全閣僚、日銀総裁、日本赤十字社社長、そのた専門家や有識者で構成されている。上述した急ごしらえの素人集団とは専門度が違う。しかもその配下にはそれぞれの専門組織があり問題処理能力は高い。これをすっ飛ばして、右往左往する素人集団に大げさな肩書きをつけるだけで、問題が解決できると思っているのだろうか。“愚の骨頂”内閣による日本の不幸は、まさに拍車をかけつつある。

2011年3月10日木曜日

デフレの正体

 もう何年も続いている日本経済のデフレ傾向について、諸説が交錯しているが、その中でかなり目を引くのが藻谷浩介氏による「デフレの正体」論である。本書によるとデフレの原因は、人口構成にしめる高齢者の割合が高まったからだという。すなわち富裕層のかなりの部分を占める高齢者は、お金を貯め込んだままで、あまり消費に使ってくれない。つまりストックされたままなので、フローが活性化しないのだ。この状態を打破する一つの方法は、お金を富裕高齢者から若者へ移転させることだ。それを促進させるには、大幅な減税を保証する生前贈与の制度化が有効だと主張している。一般に高齢者に比べると、若い世代の方が消費意欲が旺盛だから、面白い提案だと思う。 ただ、これだけ冷え切った消費意欲の減退を回復させるには、それだけでは不十分だ。さらに強力なテコ入れ策はないものか。私はあると思う。それには従来型マーケティングの考え方を変えることだ。具体的にいうと、販売ターゲットを若者から高齢者に変えることだ。そして彼らにとって魅力的な商品を開発することだ。今のところこの視点で眺めてみると、あまりの貧弱さ画一さに驚かされる。高齢者といっても人それぞれである。趣味、経歴、資力、体力など、その違いは限りがない。それらのセグメントについてきめ細かく商品を開発していけば、需要は必ず喚起できる。 ユニクロは若者対象のマスプロ方式による安価モノで成功した。そのアンチテーゼとして、高齢社対象の多種少量生産による高価モノで頑張る企業がどうして出現しないのだろう。