かつてテレビが一般家庭に普及し始めた60年代前半に、評論家の大宅壮一は一億総白痴化と評した。その表現にならって近頃のテレビを観ると、一億総評論家の感じがする。どの時事番組を見ても、アナウンサー、政治家、芸能タレントが入り混じって好き勝手な意見を言い合っている。
しかし本来の評論はこのような居酒屋談義でなく、もっと専門的で責任あるものでなければならない。事実そうなっているわけで、政治評論家、文芸評論家、科学評論家、経営評論家など数え上げればきりがない。評論という仕事は、今では職業として確立しているのである。それどころか評論という職業は、現代社会をリードする花形とさえ目されている。ただし評論家は自戒しなければならない。評論はあくまで評論であって、その“冠”に専門分野の何かを付けても、“冠”そのものではないのである。たとえば政治という冠を付けたら“政治”評論家になるが、政治家とは違う。経営という冠を付けたら“経営”評論家になるが、経営者とは違う。立花隆は文芸評論家として著名だが、彼に小説が書けるとは思えない。それにも拘わらず世間は、評論家がその冠について有能であると考えている。それどころか評論家自身が錯覚をおこすのである。
錯覚がもたらす悲喜劇は、いま現在我々の身近なところで進行中である。すなわち民主党政権による政治である。この政党が野党時代に一貫してやっていた政治活動は、評論家そのものであった。政治という冠と、評論家という職業の違いを峻別するには、高度な知性と謙虚さが必要だ。彼らはその何れをも持ち合わせていなかったといえるだろう。ただしいま民主党が行っている政治についての“政治”評論は、ここでは紙幅が足りないので別の機会に譲ることにしよう。
以上のような問題を内在させている限り、評論の意義はかなり危ういものになる。それを克服し確固とした職業ジャンルを創り上げるにはどうすべきか。ここで思い切った提案をしてみたい。すなわち評論のための新しい方法論の開発である。併せて名称の変更もやるべきだ。たとえば“政治”評論を改め、“評論”政治とする。“経営”評論ではなく“評論”政治とする。もちろん“文芸”評論は“評論”文芸になる。つまりテーマは何であれ、冠はすべて“評論”で統一する。こうすることによって、従来は専門分野に寄生していた評論は、それ自体が独自の知識ジャンルを構成することになる。具体的にその方法論がどんなものになるか、いまは何も言えない。しかし昔の誰かが言ったではないか。必要は発明の母であると・・・。
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