昨年(2010年7月)に亡くなった梅竿忠雄京大名誉教授は、実にユニークな発想の持ち主だった。その代表作「文明の生態史観」や「オタマジャクシの群れ形成の数理」「情報産業論」などエポックメーキングとなる著作は数多くある。その一方で、産業化社会では不可欠とされる組織運営の実態を観察し、ユーモラスで鋭い提案も行っている。無能レベルという概念は、その最も顕著な例の一つといえよう。これを簡単な例を用いて説明すると、以下のようになる。
軍隊は典型的な階層組織であるが、そこに大へん優れた兵士がいたとする。その能力を高く評価した上官は、彼を下士官に推挙した。この地位でも彼は能力を発揮したので、やがて小隊を束ねる士官に昇進した。しかしこの段階で問題が発生した。部下たちが彼の能力に疑問を持ち始めたのである。小隊ともなれば、それを構成する人員は100名前後になるはずである。いかに上意下達の世界といっても、その中には様々な個性が充満している。それを束ねていくのは簡単なことではない。この新米小隊長は、まずこの問題に対処できなかった。更にもう一つ。これこそ最も本質的なテーマであるが、彼は戦場の状況に応じた戦術構想を立てることができなかった。十数名の部下を使って、上官の指示を忠実に遂行する実務能力には長けていたが、それ以上のことはできなかったのだ。つまり彼の能力は下士官レベルであって、小隊長という地位は無理であった。これを無能レベルというのである。
同様の事例は、企業内でも屡々みることができる。課長まではよくできたが、次長になった途端におかしくなった。次長までは無難だったが、部長になると失速したという話だ。これらの悲喜劇はすべて無能レベルという概念で説明できる。
さて問題は、日本の政治を迷走させている菅首相の無能レベルが、どの辺りにあるかということである。分かりやすくするために、企業組織の地位で考えてみよう。率直にいって、とても社長とは考えられない。企業ではこの人物のように、パフォーマンスだけで生きている輩をゴキブリ社員という。それだけでは部長はおろか、課長にも値しないのである。野党時代には、揚げ足取りのスペシャリストとして名をはせたとしても、実践の場では何の役にも立たない。
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