2011年8月29日月曜日

第6次産業をめざせ

 日本の産業構造は、歴史の推移にしたがって大きく変化してきた。明治の初期は1次産業すなわち林業、農業、漁業が大部分を占めていたが、明治の半ばから大正にかけては第2次産業すなわち製造業が台頭し、主要産業の座を奪った。この産業の成長は長く続いたが、昭和の末期にはピークに達し、その後は途上国の追い上げや人口構造の変化などの影響を受けて、構造比におけるウエイトは低下の一途を辿っている。その一方で大きく躍進したのが、金融業、流通業、サービス業などを擁する第3次産業である。またこの時期には、第4次産業すなわちIT産業が勃興し、経営組織の変革や延いては一種の産業革命さえもたらすことになった。現在はそれをベースにした第5次産業の時代といえよう。好例がITと金融業の交配によって生み出された「マネーゲームビジネス」である。この名称は私が仮に付けたものだが、その主流は欧米系のファンド企業が行っているビジネスである。
 概観すると日本は、第1次から第4次にいたる産業構造の変革では、概ね成功を収めたといえるだろう。しかし第5次産業での成功はあまり期待できそうもない。国民性からみて、どうも適性がないように思えるからだ。しかも、この産業にはすでに破綻の兆しがみえる。もともとこの種のビジネスは、一種の虚業である。この分野では、ユダヤ系の企業が際だった才能を発揮してきたが、しょせんは泡沫ビジネスに過ぎないのだ。
 さて、問題はこれからである。第4次産業時代まで日本は、常に半歩遅れで欧米企業に追随し、最終的には同レベル乃至それを凌駕する位置を獲得してきた。しかし今や欧米諸国が第5次産業で破綻するとなれば、今後は自前で新産業を創造しなければならない。私はそれを第6次産業と名付けることにしている。然らばその内容はどういうものか。いずれこのブログで明らかにしていく心算だが、取りあえずその概念を示しておこう。
 いうまでもなく第6次産業の創出には、従来とは違う考え方とアプローチが必要である。まず考え方について言えば、文化と文明の違いを認識することから始めなければならない。通常はこの二つは明確には区別されていない。歴史学者でさえ混同している例が多い。しかし両者の違いは明らかである。簡単にいえば、文明は文化に包含される下位概念である。別の表現をすれば、文化は暗黙知であるが、文明は形式知である。したがって文化には言語化されないものも内蔵されるが、文明には言語化できるものしか含まれない。
 日本は地理上の位置に加えて、鎖国という特殊な事情があったので、独自の文化に基づいて文明を形成してきた。しかし幕末の開国によって門戸が開かれ、その結果として異質でパワフルな欧米型の文明を知った。それは軍事、産業、政治、生活、芸術などあらゆる分野に及んだ。ただし、それらは全て言語によって表せるもの、すなわち欧米文化に由来する欧米文明に属するものだけである。かくして日本の新産業は、すべて西欧文明に基盤をおく技術に依存することになった。外国語とくに英語に堪能なことが、産業界におけるエリートの条件になったのは、その余波の一つである。
 このようなアプローチは、第4次産業時代までは概ね通用するものであった。しかし上述したように、今や西欧型の文明に基づく産業のあり方が揺らぎはじめている。途上国は別として、今や欧米先進国の経済・産業を覆っているのは深刻な閉塞感である。今後はおそらく凋落の一途を辿るに違いない。日本も従来の欧米型産業パターンを踏襲する限り、同じ悩みから脱却することはできない。しかし幸いなことに、日本にはとっておきの切り札がある。いままで等閑にしてきた固有の文化をベースにして、新しい産業文明を構築し直すことである。もちろん既に自家薬籠中のものとなっている西欧型文明は十分活用しなければならない。それに加えて、固有文化に基づく文明を交配させるのである。それには、お家芸ともいえる折衷技術を、さらに洗練させなければならない。
 たとえばアニメや、ロボット、精密部品、炭素繊維などの新素材、さらには高級野菜やなど日本の技術がカバーする範囲は驚くほど広い。これらの多くは見かけ上、西欧型の技術文明そのものである。しかしその根幹のところまで遡ると、すべては日本人が持っている「匠」の心に行き着くのである。いうまでもなく匠の技術は、日本文化が生んだ日本文明の精華である。この見方に立つと、日本の第6次産業は、もはや始動しているともいえるだろう。その具体例および今後の展開については、このブログで引き続きフォローしていくつもりだ。

2011年8月15日月曜日

マスコミ人の名誉回復

 日教組が日本の伝統と美徳を、滅茶苦茶に破壊したことは、今では周知のことになっている。その一つの結果が、民主党の鳩山政権や管政権による政治の荒廃である。すなわち日教組教育の洗礼を受けた世代によるものである。この偏向教育は半世紀にわたり続けられた。よほどしっかりした精神の持ち主でないと、その影響を全く受けないということはなかった。したがってその弊害は社会の隅々にまで浸透している。好例がマスコミである。
 この仕事に従事する者の大半は、自虐精神の持ち主で、さらにはアナーキーな傾向を強くもっている。そのくせステレオタイプの発想力しかない。たとえば戦後60年にもなるが、その回顧記事すべて自己反省ばかりだ。なぜ日本は、米国と戦う愚行を犯したのか・・・・といった論調で。しかし本当にそうか。なぜ米国は、日本を戦うように仕向けたのか。その陰険な魂胆を問うことも必要ではないのか。
 今やマスコミ人の怠慢と偏向は周知の事実になっているが、ここで一つ彼等の名誉を挽回するための、新しい提案をしてみたい。日教組が教育現場でやってきた今までの行状を徹底的に告発することだ。それも回りくどい論説などではない。たとえばドラマ仕立てとか、ルポルタージュ形式にする。なかにはお得意のヤラセ番組もよろしかろう。彼等に発想力がないなら、ネタ本を活用すればよい。近頃はこの種の優れた著作もかなり出回るようになった。たとえば「学校の先生が国を滅ぼす:一止羊大著」や「日狂組の教室(劇画):大和憮吉著」などはどうだろう。
 今こそマスコミは、怠慢と偏向の汚名を濯ぐために、一念発起するべきではないか。

2011年8月5日金曜日

書籍出版の不思議

 かねてから書籍出版について、不思議に思うことがあった。最近はとみに衰えたとはいいながら、未だに時代遅れのサヨク思想を鼓吹する書籍が、残っていることである。私の周辺では、この種の書籍や雑誌に関心を抱くものは皆無といってよいだろう。それにも拘わらず、本屋の店頭では柄谷行人、高橋哲哉、小森陽一、上野千鶴子・・などの著者名を見つけることができる。とくに姜尚中のごときは、いわゆるベストセラー作家のように扱われている。この人物の著作の内容の偏りと貧困さについては、以前にこのブログで触れたので今は省くが、あらためて指摘したいのは、この程度のものが何故売り上げを伸ばすかである。ちょっとした謎でもあるからだ。
 この謎を解くヒントの一つは、出版ビジネスというものの、ちっぽけな市場規模である。出版科学研究所の発表によると、2009年における販売金額は1兆9365億円であった。内訳は書籍8492億円、月刊誌8445億円、週刊誌2419億円である。これと対照的なのが、民主党代議士への献金などで話題になっているパチンコ業界の規模である。驚くなかれ、それは23兆円にも上るという。
 以上のヒントによって、サヨク偏向の書籍がよく売れる謎を解くことが出来る。すなわち支持したい書籍を23兆という大資金のごく一部で、自分たちの代弁をしてくれる著者の本を買い上げればよいのである。パチンコビジネスの大半は、在日朝鮮人と韓国人で営まれている。その豊富な資金で、気に入った書籍の販促を支援するなど、たやすいことだ。このように考えれば、姜尚中がよく売れる理由が実に分かりやすい。
 それにしても、このような一部出版業者の不甲斐なさはどうだ。まるで張り子の虎ではないか。言論の自由だの何だの、声高に喚いていても、その本音は売り上げさえ伸びたらそれでよいのである。以上の話に、新聞は含まれていない。しかしクオリーティペーパーを自認する某大新聞をみると、そのスタンスは大して変わらないようにみえる。

2011年8月3日水曜日

政治とテロ

特定の政治家に対する不満が鬱積すると、対抗手段を持たない大衆は、その人物を標的にして直接的な反撃を敢行する。それは民主や独裁といった政治の体制には関係ないし、後進国とか先進国といった区分にも関係はない。方法はいろいろあるが、なかでも過激なのがテロ行為である。日本も例外ではなくテロ事件は、明治から昭和にかけては頻発した。ただ、1960年10月に日比谷公会堂で起きた浅沼稲次郎暗殺事件の後は、小競り合い程度のもの以外は見受けなくなっている。
 ただし今は沈静化しているからといって、今後も発生しないとは断言できない。政治とは、本来複雑な利害や思惑が交錯するものであり、その対立の中には、妥協や融和が絶対に出来ない部分が存在するからである。確信犯という犯罪名が存在する事実がそれを証明している。
 政治を行う者は、この現実とリスクを十二分に知悉していなければならない。その危険にも拘わらず、使命感に燃えて自らの政治理念を実現しようとしなければならない。それを支える原動力は、おそらく「覚悟」というものであろう。この覚悟なしに、マニフェストの類いをぺらぺら喋るごときは、たんなる口舌の輩に過ぎないということになろう。
 先だって某誌で、小泉進二郎自民党代議士が、父親の小泉純一郎について語った記事を読んだ。それには「あの郵政民有化を巡る大政争において、父は刺客に狙われることを覚悟して、いつも腹に晒しを巻いていました」と書いてあった。
 宰相であれ陣笠代議士であれ、その人物の経綸がどの程度のものかは、その場限りのパフォーマンスやぺらぺら喋る内容だけでも十分窺い知ることができる。しかしテロに対する覚悟があるかどうかは分からない。

2011年8月2日火曜日

賤業について

 職業に貴賎なしと言う一方で、実際には偏見と陋習によって、ランク付けがされてきた。ランク付けの根拠としては、宗教に基づくもの、習慣に基づくもの、たんなる流行に基づくものさえあった。ただし、その見方は必ずしも確立したものではなく、時代や環境によって大きく変化する。その見方つまり偏見や陋習によって、不当に貶められた職業は少なくないが、その一方では過当に崇められるという“貴業”もあった。その好例は、近年における政治業、マスコミ業および教育業ではないだろうか。
 ただしこれらの貴業に対する評価も、現在ではかなり様変わりしている。いや、むしろ賤業視される場合もある。たとえばマスコミ業のごときは“マスゴミ”業と揶揄されるほどだ。政治業や教育業に対する評言もそれに近いといえるだろう。
 嘗て貴業だったこれらの職業が、何故このように貶められるのか。それには、はっきりした理由があり、昔のような偏見に基づくものではないのである。結論から言うと、その原因は、これらの職業に属する大多数が、目的と手段をはき違えたからである。
 たとえばマスコミ特に大新聞の当初の目的は、大衆に正確な情報を伝えることであった。しかし現在は、そうではない。読者数を増やすことだけを目的にしている。そのくせ、公正中立を揚言している。その顕著な例がクオリティペーパーを自称する某大新聞だ。今日の読者大衆は、その偽善とペダンチックな姿勢を軽蔑するようになっている。

政治業の場合はどうか。本来は国家のために、人のためにというのが職業倫理であり目的であったが、今ではそれが怪しくなっている。家業化が問題視されるようになったのは自民党政権の時代であったが、民主党主導の時代になった現在では、さらに目的から逸脱している。すなわち票集めそのものが目的になっている。したがって政治家の政治家たる所以は、政治の専門家ではなく、票集めの専門家ということになる。まともな政治スキルが不要になったこの職業を、大衆が賤業と見なすのは当然である。
 教育業も似た状況下にある。いうまでもなく教育の本来の目的は、次世代を担う若者たちに、社会人として自立するための基礎的な精神力の涵養と知識を与え、それを実践するための技能を伝授することである。しかしこの何十年来、教育に携わる者の多くは何をしてきたか。もっぱら特定のイデオロギーに固執し、それに基づく洗脳作業に専念してきた。その結果が、今日の荒廃した教育現場の風景である。本来の教育目的を意図的に無視して、たんにイデオロギーを浸透させる手段にすり替えた。この目的と手段の転倒こそ、まさに現在における賤業の定義に符合する。
 以上によって、私はマスコミ、政治、教育の3業種を、現代の賤業というのである。