2009年3月23日月曜日

新聞の読み方

 日本人の新聞の読み方は特別のものだ。一種の信仰とさえいえよう。特に一流を自負する大新聞の記事については、何の疑いもなく鵜呑みにしている。しかし記事を書く記者は神ではない。それどころか、たんなる気取り屋か、偽善者あるいは偏向思想の持ち主に過ぎない場合も少なくない。彼らは日本人特有の枠内思考に便乗している。欧米人は枠外思考つまりオープン思考だから、記事に書かれていることの他にも何かあると考える。しかし普通の日本人は、印刷された記事の範囲でしか考えない。記事そのものを疑うことも殆どない。そのため執筆者の意見を、自分の意見のように錯覚してしまうのだ。
大新聞は不遜にも日本人のこの気質を利用して、権威ぶることに成功した。おかげで読者は偏向記事でも簡単に信じてしまう。その一方で意図的に黙殺される事件もある。しかし記者が気に入らない事実を無視したり黙殺して、意図的に記事にしないのは、それ自体が偽りである。一般読者にとって書かれていないことは、事実が存在しないことと同じなのだ。もちろん世の中の総ての出来事の正確な把握や正当な評価を、新聞に期待するのは無理な注文だ。だからこそ、その限界を認めなければならない。しかし実際はその正反対だ。いわゆる一流紙は、客観性を装い偏向思想を鼓吹している。
 ただ長年にわたる新聞による世論支配の宿アも、近年におけるインターネットの普及によって、どうやら克服される見通しがついた。たとえばグーグルが提供するニュースサービスなどはその好例である。この画面では、世界中の事件が網羅されている。大事なことは、この単純な網羅である。新聞の場合は、記者が重要と考えた度合いに応じて、見出しの活字を大きくしたり小さくする。何ページにするか、ページのどの位置にするかも操作のポイントになる。かくして印刷された紙面は、記者あるいは新聞社の価値観そのものを表現することになるのだ。グーグルのニュースには、そのような操作が全く無い。記者の独断や偏見に惑わされことがない。
 ただしグーグルのニュースを享受するには、読者が自分の頭で情報の価値判断や位置づけをやらなければならない。これは自らの意見形成を、新聞に頼り切ってきた読者にとって、かなりの負担になるかもしれない。しかしマスコミとくに大新聞の世論操作に対抗するには、その程度の努力は欠かせないだろう。

2009年2月2日月曜日

大不況の原因は「飽和」だ

 リーマンブラザーズの破綻以来、世界の経済は混迷を極めている。その根拠は明らかでないが、100年来の不況とさえ言われる。いったい何故、こうなってしまったのか。少なからぬ諸説はあるが、一つとして十分な説得力を持つものはない。それでも共通している部分が全くないわけではない。それは節度を越える投機行為に走ったリーマンなどの個別企業のことをいうのではなく、強欲な欧米金融資本体制そのものに責任があるという認識である。たとえばFRB(米連邦準備制度理事会)の前議長グリーンスパンの言動をみても、それは明らかである。
 しかし現在われわれが直面しつつある大混迷の原因は、それだけに絞ることが出来るだろうか。真の原因は、もっと別のところにあると私は考える。結論を先にいうと、それは文明社会を覆いつくしている「物理的な飽和」である。
 たとえば自動車の場合、世界全体における販売台数の減少率は、前年に比べて20%から30%に及んでいる。このようなことは大戦後の数十年間、全く経験しなかったことだ。しかし、よく考えてみよう。そもそも毎年毎年5000万台~7000万台という生産が行われてきたこと自体が異常ではないだろうか。物としてみた場合、自動車の耐用年数は10年を超える。したがって地上に存在しうる台数は5000万台×10年として、実に5億台に達するのである。中にはスクラップになるものもあるが、大半は使用に耐えるはずだ。それにも拘わらず目先を変えて、あの手この手で売り込んできたのだ。飽和に達するのは当然というべきだろう。
同様の事態が、他の耐久消費財の殆どについて当てはまる。多くの場合、人間は矛盾や理不尽さをうすうす感じながら、しばらくは現状が続くだろうと考える。勿論そのこと自体、愚かなことである。しかし今回の場合は、不安の気配さえ感じなかった。飽和の惰性に中毒していたのである。それにストップをかけたのは、理性に基づく危機の予感ではなく、たんなる物理的な飽和感に過ぎない。物理的な飽和で動きがとれなくなり、やっと気がついたのだ。
飽和に麻痺していた人間の理性が完全に覚醒するには、おそらく数年以上を要するだろう。それまでは、まともな対策も考えられないだろう。なにしろ物理的な飽和である。心理的な要因に依拠する現在の経済学や販売手法が対応できるとは思えないからだ。飽和状態のモノは、タダ同様で手に入れることが出来る。大不況の気配を肌で感じている人々は、専らそれらの低価格品に群がるだろう。したがってここ数年は、新しい経済活動をもたらす需要が生まれ出ることはないだろう。

2009年1月1日木曜日

大不況が長期化する要因は何か

 昨年の9月、リーマン・ブラザーズが破綻したのをきっかけに、金融危機が一気に深刻化した。日経平均は10月末に7162円90銭に下落し、26年ぶりの安値に沈んだ。その後やや戻したが、結局12月30日の大納会では、8859円で終わり、昨年と比べて42%の下落となった。この株式・金融市場の不況の影響は実体経済にも及び、いまや世界経済全体が100年来の長期的な不況に陥りつつあると懸念されている。この原因のすべては、欧米とくにアメリカ金融資本の強欲な振る舞いのせいにされているが、果たしてそうだろうか。私は第一の要因は“飽和”であり、第二の要因は“格差”だと考えている。
 まず飽和について言えば、文明先進国の生産と消費の関係は、いまや極端なアンバランスになっている。例えば自動車の販売は一挙に30~40%も落ち込んだが、ある意味で当然のことである。いま世界中の自動車メーカーが2年間ないし3年間一斉に製造を停止しても、耐用年数を考えればドライバー達は全く痛痒を感じないだろう。メーカーはそれでも無駄に生産を続けていたのだ。同様のことは、衣類や、住居についてもいえる。食料だって決して不足していない。日本だけは自給率40%以下というので騒いでいるが、無駄と飽食を自制したらかなり向上する。まして休耕地などを再生させたら、どうなるだろう。更にアメリカその他の農業国の潜在生産力を考えれば、世界の潜在充足率は大幅にアップする。つまり文明国は、いまや生産力において飽和しているのだ。したがって世界経済の基調は、基本的に不況モードといえるのである。ここにきて、それが顕在化したに過ぎない。
 もう一つの不況原因は格差である。ただしその意味は、日本国内で取り沙汰されている生半可なものではない。先進国と途上国の格差である。これは換言すれば文化の違いとも言えよう。確かに途上国では、モノが不足している。しかしモノを手に入れるにはお金が必要だ。途上国にはそれが無い。したがって文明国で生産しても、それを購入することができない。このギャップを埋めるお金を稼ぐには、途上国も先進国の文明を取り入れて、近代的生産を行う必要がある。つまり文明の格差を取り除かなければならない。しかしそれは多分不可能だろう。何故なれば、文明は文化の下で育まれるからである。幸か不幸か、日本や中国の文化は西欧の文明を受け入れることができた。しかしアフリカやアラブの文化は、西欧の文明を受け入れないだろう。しかしそれができなければ、途上国には資金の循環をもたらす生産と消費のプロセスが成立しない。現在、かろうじて途上国と文明国の間に交流が見られるのは、地下資源の売買だけである。厳密に言ってこれは西欧型文明の生産・消費の循環サイクルとはいえない。私が格差という意味は、このようなギャップのことである。かくして二つの文明は融合することが無い。したがって先進国型(西欧型)の飽和は、途上国型文化圏への進出によって活路を見出すことができないのである。
 飽和による不況と、文化格差による対策の無効性。この二つの要因によって、いま先進国が直面している不況を、短期間で克服するのはかなり困難であろう。