2012年8月13日月曜日

韓国に毟られる


この十数年来、韓国の対日優越感は止まるところがない。産業面では、サムソンが日本の液晶テレビをはじめとするエレクトロニクス業界を完全に制圧した。鉄鋼企業や造船企業が世界をリードした重工業界も、今ではトップの座を奪われている。スポーツではどうか。現在行われているオリンピックの戦績を見れば明らかである。それどころか韓国の対日優越感は、外交面にも顕れてきた。韓国大統領が、ついに竹島に上陸し、自国の領土であることをアピールしたのである。
このような惨状は、一体何に起因するのだろうか。その第一は日本人が持つ「お人好し」性向である。韓国や中国の産業が、現在のように活況を呈するようになったのは、殆どが日本からの技術提供である。さらに加えれば、不法コピーと剽窃である。これらすべての行為について、日本はあまりにも寛大でありすぎた。
韓国に後れをとる第二の要因は、反日日本人による過剰な反省である。近代日本に関する彼らの歴史認識は、近隣諸国に対する軍事侵略オンリーである。それ以前の西欧諸国による植民地主義による侵略は全く念頭に無い。すべては日本の軍国主義から発していると思い込んでいる。この反日日本人の勢力は極めて大きく、戦後における進歩的知識人の大部分と言ってよいだろう。彼らの自虐的な反省的論述の多くは、そのまま中国や韓国の知識人にコピーされることになった。この二国における日本憎悪、日本蔑視の思想の多くは、この辺りに論拠を求めることができる。
 この情けない風潮はマスコミや政治の分野にも浸透した。その最たるモノが、現在の民主党政権を構成する政治家である。例えば岡崎トミ子参議院議員を見てみよう。この御仁は菅内閣において特命大臣に任命され、併せて国家公安委員長を務めた。しかし嘗ての野党時代は、韓国に出張して元慰安婦関係者のデモに同行し、日本大使館に向かって非難の声を張り上げたのである。しかも現場に出向くに際しては、大使館の送迎車を使った。この破廉恥な振る舞いを、当時の進歩的マスコミは記事にしなかった。なお付言しておくが、この人物は、日本に帰化した在日韓国人である。
 かくして、お人好しで自虐的な日本の知識人は、抜け目のない中国人や韓国人の毟り行為に荷担しているのである。甘ちゃんで世間知らずの彼等は、かって週間新潮の「偏見自在」で、健筆を振るった名コラムリスト高山正之氏の著作「世界は腹黒い」を熟読玩味するべきだろう。

2012年7月4日水曜日

解散・総選挙に期待する

民主党が政権を勝ち取って以来の、この9年間はまるで悪夢であった。なにしろ最高指導者であるべき首相の座に収まったのが、稀代の愚者と、札付きの狡智者の二人であったからだ。これに従う閣僚もろくな人材がいなかった。今まで野党の立場から評論だけやってきて、それが政治と思い込んでいたのだ。しかし実務を担当させると、忽ち無能さを露呈することになった。この事態を招いた最大の戦犯は、紙面をあげて彼等を支持したマスコミだ。ただし自民党にも問題はあった。その多くが地域エゴの代弁者であったり、産業や職種別利益の擁護者に過ぎず、国全体の立場で考えることが少なかったからだ。
 それにしても。現在の民主党代議士の関心事は専ら政局であって、政策についてはそれを考える能力がない。国民の利益が第一とか、原子力発電を止めるといった程度のことを政策と思い込んでいるが、そんなものは単なるスローガンだ。いやしくも政策と言うからには、内容にもっと具体性と体系性がなければならない。更には時間表も必要だ。しかし現在の民主党代議士に、それを求めるのは無理だろう。関連する専門知識や教養が、あまりにも不足しているからだ。
 この八方ふさがりの日本の政治を、打開するにはどうしたらよいか。本質的には即効薬はないだろう。地道に政治環境を高めていくしかない。しかし現実の政治は、一日と雖も停滞することが出来ないのだから、次善の策を考えざるをえない。それは民主党と自民党の中にいる人材を引き抜いて、新しい政党を編成することである。
 幸か不幸か民主党政権のおかげで、政治家を評価する国民の鑑識力も大いに高まった。この時点で総選挙を行えば、たぶん好ましい結果が生まれるのではないだろうか。もはや無責任なマスコミのアジテーションも通用しないと思われるからだ。

田中一成 雑想の森

2012年5月23日水曜日

政治は空気枕だ


民主主義政治の難しさを説明するにはどうしたらよいだろうか。空気枕にたとえると分かりやすいと思う。政治的に解決を求められる課題や不満は限りなく多い。たとえばその一つが、政治という空気枕に強い圧力を加える。当然ながらその部分は凹むことになる。しかしその凹んだ分は、必ずほかの部分を膨らます。なにしろ空気は外に出られないのだから、枕の中を移動するだけなのだ。要するに問題や不満を解決しても、その解決そのものが新たな問題や不満を生み出すことになる。これは民主主義政治、ひいては文明社会の宿命でありダイナミズムともいえるのである。
 独裁政治ではこのような堂堂巡りはあり得ない。なにしろ独裁政治という空気枕には、不満の圧力が全くないからだ。仮にそれがあれば、圧力を行使する前に抹殺される。かくして政治は至高の権力になるのである。共産主義国家が立法、行政、司法という三権分立を否定し、ひたすら特権階級の安泰を図ろうとするのはそのためである。

2012年5月18日金曜日

自死の日本史を読んで


ずいぶん時間が掛かったが、ようやく評判の名著「自死の日本史」を読み終えた。その印象が薄れないうちに、感想文を書くことにする。
 敗戦直後から三十年ほど経ったころ、にわかに日本人論が盛んになった。主としてこれをリードしたのはいわゆる知識人で、ほとんどが贖罪的ないし自虐的な論説であった。皮肉なことに、その一方では日本の経済力は大いに高まり、ついにはGDPが世界の第2位に達していた。ジャパン・アズ・ナンバーワン(エズラー・F・フォーゲル著)が出版され、世界の話題になったのもこの頃である。しかし知識人、とくに進歩的知識人はその事実さえ否定的に受け止め、働き過ぎとかエコノミックアニマルなどと自嘲的な評論に終始していた。
 「自死の日本史」が出版されたのは、ちょうどその頃すなわち1984年であった。著者はフランス人のモーリス・パンゲである。当時、彼は東大で教鞭を執っていたが、フランス人特有の明晰さとユニークな視点で日本人を観察していた。その結果、この名著が生まれたのである。民族の特徴を捉えるには色々な方法があるが、なかでも有効なのは歴史アプローチであろう。それを更に細分化すれば、風俗の観点に立った風俗史。宗教の観点に立った宗教史。政治の観点に立った政治史などということになる。しかしパンゲの場合は、自殺のやり方という観点に立って、画期的な日本人論を展開したのである。この秀抜な着想によって、日本人の本質が見事に解き明かされている。
 そもそも自殺という行為は、キリスト教では神に対する反逆とみなされる。何故ならば人間は、創造主によってつくられたものである。したがってそれを勝手に損なうのは許しがたい罪なのである。しかし日本には、古くからそのような禁忌はなかった。そのこと自体が、西欧人にとって極めて奇異なことであったろう。ただしパンゲは、日本に於ける自死の風習を冷静に理解してくれたようだ。すなわち自殺者を神への反逆者とみなす宗教的偏見でもなく、神経症患者とみなす心理学的解釈でもない。他殺ではなく、自死という日本人独特の行為を、時代別に文化現象として捉えたのである。かくしてその論述は、日本人気質の特質のみならず、その歴史的な変遷をも説明しているのである。
 パンゲは日本人の自死の歴史を、ヤマトタケル皇子の后である弟橘姫の入水から述べはじめている。この場合の動機と行為は「献身」というべきか。
 その後の時代の移り変わりにしたがって、日本では多くの自死事件があったが、その中で特に私の目にとまった記述を、時代順(歴史的)に列挙してみよう。
  (年代)  (事  件)     (自死の形態)   (動機と目的)
  835年  空海の入滅     意志的な自己埋葬    教義の実践
 1021年  壇ノ浦で平家敗北  入水による自死     名誉の維持
 1333年  北条軍の敗北    一族の集団切腹     名誉の維持
 1336年  湊川の敗戦     楠正成兄弟の刺し違え  復讐の誓い
 16~17世紀  戦国時代      敗者の自刃     諦観とプライド    
 1703年    赤穂四十七士    名誉ある切腹    主君への忠義
   〃      曾根崎心中     手代と遊女の心中  冤罪の抗議と愛
 1877年    西南の役      西郷隆盛の自刃   自己犠牲
          乃木大将      夫妻の殉死     忠誠と至誠        
 1927年    芥川龍之介     服毒        ニヒリズム
 1944年    神風特攻隊     人間爆弾      究極の愛国心
 1970年    三島由紀夫     切腹        過剰な自意識

 上に列挙した自死の事例は、私が勝手に「自死の日本史」から選んだものだ。そのため百を越える事例に言及している著者の意図を、十分に表していないかもしれない。しかし、この一部を見るだけでも、日本人がもつ気質の特殊性は十分に窺えるのである。自死の方法は時代と共に変遷しても、自死行為を西欧のように罪悪視しない日本文化そのものは変わっていない。それどころか日本人の自死は、美意識の実践のようにさえ感じられるのだ。

2012年5月12日土曜日

ユーローは立ち直れるか


このところ新聞テレビが報じるユーロー危機については、ビジネスマンのみならず一般市民の間でも、大いに関心が高まっている。それも当然のことで、我われ日本人にとって、ヨーロッパ文明は憧れの的であり、その暮らしぶりには一種の羨望さえ感じてきたのだ。その経済がかくも脆弱とは、驚きの感を禁じ得ない。しかし冷静に考えてみると、ヨーロッパといっても一律ではなく、色々な国があるのだ。とくに産業の近代化という観点でみると、意外なほど貧弱な国が多い。具体的にユーロに加盟している国名を挙げると次のようになる。
アイルランド、イタリア、エストニア、オーストリア、オランダ、キプロス、ギリシャスペイン、スロバキア、スロベニア、ドイツ、フィンランド、フランス、ベルギー、ポルトガル、マルタ、ルクセンブルク、アンドラ、コソボ、サンマリノ、バチカン、モナコ、モンテネグロ(イギリスとスイスはユーローに加盟していない)。
以上のうち人口3000万人を越えるのは、ドイツ、フランス、イタリア、スペイン、ポーランドぐらいで、その他は殆どが1000万人程度か、それ以下の小国である。さらにこれらの中で、産業や経済の面で存在感を示すことが出来るのは、わずかにドイツとフランスだけなのだ。他はほとんどが第一次産業と第三次産業がメインであって、雇用やGDP増大に貢献する近代型の第二次産業が極めて弱い。製造業が全く無いというわけではないが、多くは小規模な企業である。保守的で、技術革新に熱心でなかったツケが回ってきたと言わざるを得ないのだ。
 ユーロ諸国がこのような貧弱な産業構造にも拘わらず、我々に強い存在感を示してきたのは何故か。理由の第一は、これらの国々が繁栄していた過去の残影と、現在の実態とを混同しているからだ。第二の理由は、この地域では国籍に拘らず個人の交流や移動が自由だったので、彼等の才能とその成果はこの地域共通の資産として認識されていることだ。例えばショパンはポーランド人であるが、活動の拠点はフランスである。またアインシュタインはドイツ生まれだが、兵役を逃れるため国籍を捨てた。その後は無国籍のまま幾つかの大学を渡り歩き、最後にとった国籍はスイスだった。つまり我々の、彼等の出自についての認識はヨーロッパ人であって、特定の国ではないのである。
 しかし現実の経済問題となると、以上二つの認識は明らかに錯覚である。第一の過去の残影については、役に立っているのは僅かに遺跡に依存する観光ビジネスだけであって、産業近代化の面ではむしろ阻害要因である。また第二の才能の共通化については、芸術や科学の分野はいざ知らず、ビジネスの分野では国別に峻別されなければならない。要するに我々が思い込んでいたユーロー圏のアドバンテイジは、現実の経済・ビジネスの分野では存在しないのである。以上の観点で眺めてみると、近いうちにユーロ圏の産業競争力が高まるとは考えられない。それどころか弱体化はいっそう進むであろう。 

2012年5月5日土曜日

環境の変化で”富”が変わる


 アルビン・トフラーが「富の未来」を著したのは2006年であるが、それから6年経った今、世界はその予測どおりになっている。彼が定義している“富”とは、欲求をみたせるもの、またはそれと交換できるものを所有する状態のことである。その代表例が現金であるが、それだけではない。骨董品や土地建物も然り。極端な例では第二夫人、第三夫人というように扶養する妻の人数で富を誇示する民族も存在する。その一方で、人間の富の意識は環境の変化にも呼応する。したがってその内容は多様化の一途を辿ることになる。
 しかし一方では価値を失う富もある。そうなってしまう最大の原因は、過度な普及であろう。たとえばつい最近まで、学歴は一種の富であった。ビジネスに役立つ人脈も然り。職種や大企業に属する社員という身分さえ、一種の富とみなされる時代があった。しかし最近では、この類いの富は大きく価値を失っている。もはや学歴や所属する会社といったステイタスは、富として殆ど認められない。職種についても同じことがいえる。嘗ては高評価を得ていた医者、学者、官僚などになりたくない若者が増えている。
富を象徴するものが、なぜこのように変化するのか。第一の理由は、社会環境の変化であり、第二の理由はその変化に適応しようとする人間の営みであろう。環境の変化について事例を挙げてみよう。まず身近に感じるのは、日本のモノづくり競争力の衰退である。本来、コストダウンはカイゼン技術によって、日本がもっとも得意とするものであった。しかしそれを越えるパワーが現れた。中国の低賃金労働である。カイゼンではいくら頑張ってもせいぜい数パーセントのダウンしかできない。しかし中国の賃金相場は10分の1である。つまり環境が全く違うのだ。このような環境のもとでは、日本の生産技術力という富は、大きく価値を損なうのである。
一方、共産主義というイデオロギーはどうか。ごく最近まで、これを信奉する中国人にとっては大いなる富であった。この理論と実践力を身につけると、強大な権力すなわち利益を手にすることが出来た。しかし現在では、その価値はかなり損なわれている。すなわちこの国を覆う社会環境が、露骨で利己的な拝金主義に変わってしまったからである。
以上のように環境の変化に応じて富は変化するから、新たに富を獲得するには、慎重に戦略を立てなければならない、差し当たって日本はどうすべきか。それには先ず今後における世界の動向を予測する必要があろう。実を言うと、その実態は既にフリードマンの好著「フラット化する世界」で明らかにされている。私なりに補足すれば、それは後進国の大衆に芽生えた西欧型商品への爆発的な購買意欲と、その急速な伝播であろう。この現象は一体何をもたらすか。いずれは地球資源の枯渇をもたらすだろう。砂上に楼閣を築くがごとく富を創造しながら、その一方で富を損なうことになるのだ。この深刻な矛盾をどう克服するか。日本が21世紀の勝者になる条件である。
18世紀後半から20世紀を通じては、西欧はその文明に由来する人工物によって未曾有の富を形成した。しかしその一方では、文明の本質である複写性がフラット化を生み出し、富の陳腐化をもたらしている。まさに自己矛盾というべきであろう。
一方、日本はその伝統に基づき独自の富も形成してきたが、西欧型の富の創出でも抜群の成績を上げた。しかし今後は上で述べたように、フラット化によって西欧型“富”の時代が終わる。つまり新たな“富”を形成する環境をデザインしなければならない。それができるのは、たぶん日本だけだろう。なぜならば、日本は世界のどこにもない固有の文化をもっているからだ。この固有文化に由来する富と、西欧文明に由来する富を接ぎ木することによって、途方もない富が創出できるはずだ。私はその創出プロセスに仮の名称を与えている。すなわち「第六次産業」である。その具体的なイメージは、いずれこのブログで明らかにしたい。

2012年5月3日木曜日

中国動乱の前兆か



 今週(4月25日)のニューズウイークは読み応えがあった。「不安な中国」と題して、重慶市トップであった薄煕来氏の失脚劇を分析した特集記事である。何しろ共産主義国の政治は、中国に限らずロシアや北朝鮮でもみられるように、殆ど密室で行われる。そのため予想外の事件が突然発生する。いや公表されると言うべきだろう。それ以前に事態は密やかに進行し、決着がついた後に明らかにされるのである。つまりこのような国の実態は、表面で見る限りは何も分からない。
 これに対して自由主義国家の権力争いは実に分かりやすい。そのプロセスの大部分が公開されるので、醜さや愚かさまでマスコミを通じて、白日の下に曝されるのである。そのための弊害もないわけではない。しかし共産主義国のように、政治が秘密裏に行われるのと比べると、その好ましさは比較にならない。
 薄煕来の失脚を予感させる事件も、我々はごく最近までまったく知らなかった。それまでの長期にわたる水面下の暗闘は、4月6日になって初めてその姿を現すことになった。この日、中国重慶市の王立軍副市長が、四川省成都の米総領事館を訪れて館員と面会したことを明らかにしたのである。亡命準備との見方もあるが、真相はわからない。
 しかしこの事件をきっかけに、恰も一枚岩のように見える中国の政治も、表向きはいざ知らず、裏側ではかなり際どいものだということが分かった。ニューズウイークの記者によると、今回の事件は、胡錦濤や温家宝が属する共産主義青年団派閥と、薄煕来が属する太子党派閥の争いとは言えないようだ。かねてから野心家で煙たがられていた薄煕来個人を失脚させるために、周到に準備された追放劇であったらしい。
しかし共産主義青年団派閥と太子党派閥の間には、こだわりや不快感は全く無いのだろうか。私はそうは思わない。この両派閥の政治理念と利害関係はかなり違うのである。しかしこの国では、その違いを巡る争いを公にすることは決してない。全ては密室で行われる。そして決着がつくと、勝者は高らかに自らの政治路線を称揚し、敗者に対しては恰も犯罪者のように貶めの言辞を投げつけるのである。私は薄煕来氏の失脚劇を一過性の事件とは思わない。いずれ近いうちに、中国全体を動揺させる政治闘争が始まることを予感する。



2012年4月20日金曜日

政治の役割

民主主義国家を運営する基本原理は三権(立法、司法、行政)分立である。しかし中国では、三権の上位に政治を位置づけている。中国で屡々発生する不思議な出来事も、この考え方に基づくものであろう。たとえば行政の要職にある人物が汚職した場合、死刑になることがある。その根拠は概ね政治的判断である。その判断すなわち決定を下すのは誰か。昔は神の化身ともいうべき皇帝であった。現在は、いわゆる政治家である。したがって中国で政治の最上位にあるものは、“神の役割”を担うことになる。
 それにしても“神の役割”を担う政治とは何だろう。国家を統治し運営する過程では、利害、矛盾、葛藤、反目、偏見などによる混沌が日常的に発生する。単純な正義や原理で処理できるものは極めて少ない。そもそも正義とは何かという問題自体が、永遠に解決できないのだ。それにも拘わらず政治は、社会の混沌に対処しなければならない。 このように考えると政治の意義は、実際やっている個々の行為でしか説明できない。つまり政治には原理や原則などはないのだ。そうだとすると政治を最上位に位置づける中国の考え方は、むしろ説得力があるようにも思える。民主主義国家といえども政治の拠って立つ基盤、すなわち人間の営みの本質は混沌そのものになるからだ。
 混沌に対処しなければならない政治の、不思議な役割について例を挙げよう。いま日本が抱える課題の一つは地方の衰退である。この衰退を経済現象として眺めると、当然の帰結といえるであろう。地方の経済基盤は林業や農業などの第一次産業であるが、その多くがグローバル化による競争によって敗退したからである。マスコミが主張するように政治の責任ではなく、経済の問題なのだ。しかし政治の立場としては、何らかの対策を講じなければならない。そのため多額の地方交付税や補助金を、梃入れのために投入してきた。しかし経済の論理で考えると、いま論議されているのは予算の配分問題に過ぎないし、配分をうまくやっても地方経済が立ち直るとは考えられない。一種の輸血のようなものに過ぎず、抜本的な対策は第一次産業に代わる新産業の開発しかない。しかも冷静にみてその可能性も低いと考えられる。経済の立場で考えると、政治の考え方は理屈に合わない。それ故にこそ政治は、経済をも超越することになるのだろうか。

死刑5000人の国

世界犯罪統計によると2011年度において、世界の法治国で執行された死刑は五千数百件に及ぶという。そのうち日本は3件であったが、中国は5000件を越えている。この途方もない数は一体何を示すのだろうか。中国は法治国ではなくて人治国だという説明は屡々聞かされるが、それも宜なるかなと考えざるを得ない。それにしても凄まじいお国柄である。日本はこの国との国交回復以来、文化、思想、交渉、道徳、信義など、全ての点で想像を絶する相違を感じてきたが、まさに異形の国なのである。

 しかし日本としては、この異形の国が我々と同じアジアに位置するという縁だけで特別の思い入れをしてきた。日中友好を旗印に、経済や技術の面で夥しく支援してきたのである。しかしその好意にどれだけ応えてくれたか、いまさら問い直す必要もあるまい。もうこの辺りで、中国重視の政策を改めなければならない。従来のような、特別の好意で付き合うのではなくて、特別の警戒心で対応していかなければならない。
 この異形の国に、我々はなぜ特別の配慮を与えてきたのだろうか。理由ははっきりしている。一つは朝日新聞を筆頭にした4大新聞の親中キャンペーンのせいである。とくに朝日は伝統的に中国に肩入れしてきた。嘗て論説部門の責任者が、共産主義思想に被れていたからであろうか。しかし、この思想が既に時代遅れになっているのは明らかである。彼等とて、それに気付いている筈だから、理由は別のところにあるのだろう。いずれにしろ大新聞のミスリードによる弊害は大きいのだから、潔く過ちを認めてほしい。
 もう一つの原因は似非サヨクメンバーと、オポチョニストの寄せ集めに過ぎない政治家集団・民主党による中国尊重の外交姿勢である。その首領の一人である小沢氏は、2009年の暮れには140名を越える国会議員を引き連れて、胡錦濤に挨拶した。まるで中世期の朝貢を思わせる行事であった。かくして中国は、日本への横柄な態度をますます増長させている。もうこの辺りで、中国との友好関係はご破算にして、利害が相反する国としてクールに付き合うべきであろう。
 その一つが尖閣諸島問題だ。これが日本の領土であることは疑う余地がないのに、中国は近年になって俄に所有権を主張しはじめた。13億を超える民衆の多くに、文明がもたらす贅沢を教えたからには、その欲望を満たすために、海陸合わせて膨大な資源を確保しなければならないからだ。それをやらなければ、この異形の大国はいずれ大乱に見舞われるだろう。恰もローマ帝国の皇帝ネロのように、パンとサーカスによって民衆を懐柔しなければならなくなっているからだ。それが出来ないとなると、嘗ての天安門事件のように軍隊を動員せざるを得ないだろう。中国がなりふり構わず周辺の海洋資源に触手を伸ばすことになったのも、このような背景があるからである。すでにベトナムやフィリピンとの間には、紛争が持ち上がっている。日本としても相当の覚悟が必要になるだろう。なにしろ相手は、年間で5千人を超える死刑を執行する異形の国なのである。

2012年4月7日土曜日

周遅れの国

今年の12月には、韓国の大統領選挙が行われる。なにしろ一番近い隣国のことなので、全く無関心というわけにはいかない。従来からこの国では、慰安婦問題や竹島問題など理不尽な日本非難の声が、ことある度に沸き上がってきた。現在の李大統領が就任した当初は、やや温和な関係になったと安心したが、最近では再び大統領自身が過激な日本批判をやるようになっている。どうもこの国では政治情勢がおかしくなると、ガス抜きのために日本非難をはじめるようだ。いやこの国だけではない。中国も同じだ。つまり国民の不満を逸らすために、政府主導で隣国の悪行?を囃したてて、緊張感を高めている。まだ国際政治や外交が未熟であった第二次大戦以前は、先進国の間でもこのやり方が濫用された。しかし現在の先進国では、国家間の外交関係が洗練されているので、このやり方は禁じ手になっている。中国や韓国はまだ先進国とは言えないので、未だにこのようなダサいやり方が濫用されるわけである。
  韓国政治の後進性といえば、もう一つ気になることがある。それは似非サヨクの影響力が強いということである。この国には「江南左派」といわれるグループがある。「江南」とは首都ソウルを流れる「漢江」 の南にあって、この新市街地には富裕層が住みついている。「江南左派」とは、この快適な場所に居を構えて、国民に左翼思想を吹き込んでいる知識人をいう。日本では安楽椅子の社会主義者と言われていた人達とよく似ている。実際には貧困や労働者としての経験がないのに、観念論だけでブルジョア思想を弾劾し、似非アナーキストとして現実社会の破壊を唱えている人達だ。これに同調するマスコミの論調にリードされて、今や韓国の世論は大きく革新色に傾きつつある。この図式は20年前に日本で猖獗を極めた社会動向と全く同じだ。かつて日本の世論が踊らされたサヨク化への道を、周遅れで選ぼうとしているのだ。

2012年4月2日月曜日

マッカーサー元帥の証言

今年度から東京都立高校の歴史教材に、マッカーサー元帥がアメリカ議会で行った証言を、原文のまま掲載されることになった。それには日本が連合国と戦うことになった動機は、「連合国による経済封鎖を破るためであった・・・」と明記されている。これは戦争責任に関する教育界の認識としては、画期的な変化である。従来の考え方では、太平洋戦争は軍国主義日本が周辺諸国を侵略するために仕掛けたもので、歴史に残る一大汚点とされてきたのである。この戦争責任についての誤解または曲解は、長年にわたり善良な日本人のコンプレックスを形成してきた。

 マッカーサー元帥が60年前に行ったこの証言は、アメリカで直ちに公開されていて秘密事項ではない。それが日本では、今まで知られていなかったのは何故か。すくなくとも知識人を自負するエリートであれば、その多くが現地の新聞に接しているはずだ。まして日本を代表する4大紙(朝日、読売、毎日、日経)の外信記者であれば、この証言を熟知していたに違いない。それを記事にしなかったのは、明らかに意図があったのである。
 では何を意図していたのか。終戦から現在に至る半世紀、彼等はコスモポリタニズムの信奉者として、ずっと日本の与論をミスリードしてきた。その一方で日本の庶民が愛国心に目覚めるのを妨げるために、不当な戦争に参加した国民としての、贖罪意識や自虐意識を温存させたかったのである。その偏向思想に基づくマスコミの傲慢さには憤りを禁じ得ない。
 しかし今や日本を代表する四大新聞(朝日、毎日、読売、日経)に対する信頼感は完全に失われた。彼等が積極消極の両面で行ってきた情報操作のやり口が、明らかになってきたからである。積極的な操作の際立った事例としては、朝日がやった中国文化大革命の礼賛キャンペーンや、沖縄の珊瑚礁毀損のでっち上げ記事など数え上げればきりがない。しかし、それよりも陰湿なのは消極的なやり口である。冒頭で述べたマッカーサー証言の隠蔽のように、自らのイデオロギーに反する事実はすべて記事にしない。かつてニューズウイークの記者が、朝日のコラムニストに編集方針を聞いたことがあるが、その傲慢で幼稚な返答に一驚したという。朝日のモットーは、「啓蒙と反権力」であるというのだ。そのためには手段を選ばないというのだろうか。

2012年3月31日土曜日

民主政権の功績

3月30日、野田内閣は与党内における一部の反対を押し切って、消費増税法案を国会に提出した。しかしこれで終わった訳ではない。この後は衆参両院で、与野党入り交じっての厳しい論議が待ち受けている。もし可決されなければ、野田首相は総辞職か解散かの、何れかを決断することになるだろう。私はたぶん解散に追い込まれると予想する。
 バカ首相とズル首相が2代つづいたお陰で、日本の政治は大いに毀損された。この点については、おそらく国民の大部分が同感しているはずだ。ようやくバカでもなくズルでもない普通の人物が3代目の首相になったが、それも火宅ともいうべき民主党の中にあっては、真価を発揮することはできない。
 この二三年の間に、日本は大きな災厄に見舞われた。一つは東日本大震災であり、もう一つは民主党政権による政治・外交の混乱である。東日本大震災は未曾有の天災だから、誰も責任を負うことはできない。しかし、その後の復興施策の遅れや稚拙さについては、明らかに民主党政治の責任である。
 なぜ民主党の政治が、このようにお粗末なのか。原因ははっきりしている。この党を構成するメンバーの大部分が、評論家に過ぎないからである。評論家にもピンからキリまであるが、その共通するところはプレイの当事者ではなく、観覧席であれこれ講釈する輩である。民主党メンバーの多くがアナキスト的であったり、サヨク的であったり、或いは原理主義的であったりする。しかし殆どは〇〇的と形容されるだけで、真性のものではない。何れも依拠するのは上っ面の観念論だけで、生活現場の深層に思いを馳せる感受性がないし、対策を講じる能力もない。出来ることは見栄えのよいパフォーマンスと紋切り型のスローガンだけだ。蓮舫代議士が“仕切り”場面で見せた軽薄なやりとりは、その典型である。似たような話は辻本代議士や、小宮山代議士、千葉元代議士など、枚挙にいとまがない。
 以上のように民主党政治の問題を列挙すると、それこそ紙面がいくらあっても足りない。このお粗末さは、おそらく政治史の上でも特記されるに違いない。ただ逆説的にいえば、功績が全く無いとは断言できない。来るべき総選挙において、国民が政治家を評価する眼は、極めて厳しいものになるだろう。耳障りのよい評論家風の言説には、二度と誑かされることはないだろう。民主党政治のお陰で、国民の政治意識と政治家を評価する鑑識力は大いに高まった。長期的に考えると、これは民主党政治がもたらした唯一最大の貢献と言えるだろう。

2012年3月20日火曜日

エスタブリッシュの交替

エスタブリッシュメント、すなわち権力者は時代の申し子である。たとえば明治大正時代に、この階層の主流すなわち華族に属する人達の多くは、維新の功労者やその係累であった。しかし軍事力の増強が必要になった昭和の前半になると、職業軍人が台頭し、そのリーダー達が新たな権力者になった。その一方で華族の権威は衰えた。さらに敗戦を境にして昭和の後半になると、再び権力者の交代が進んだ。いわゆる知識人の時代である。知識人の定義は前に触れたのでここでは省くが、彼等の職業はかなり広い範囲に及んでいる。一部を挙げると、御用学者、マスコミ、官僚、大企業の幹部といったところだ。もう一つ加えれば政治家であるが、これは政治がある限り必然的に生じるものだし、さらに言えば彼等を選ぶのは我々大衆なので、ここでは別扱いにしておこう。
 いずれにしろ昨年の大震災によって、これらのエスタブリッシュの多くがあまりにお粗末で、その権威に値しないことを露呈してしまった。すでに動き出している新らしい時代は、もはや彼等すなわち知識人に見切りをつけ、次の権力者を求めている。しかし、それがどのようなものなのか、まだはっきりとは分からない。未来社会の要請に適合し、われわれ大衆の信頼に応えられる人物や職業とは、一体どういうものなのだろうか。
 先日、友人の一人にこの質問を投げかけたところ、ヒントを2つ貰った。その一つは、何らかのかたちでインフォーメーションテクノロジーに拘わっている人だという。そう考えるようになった動機は、将棋の米長永世棋聖や、囲碁の武宮九段がコンピュータに負けたことによるらしい。しかし私は納得しなかった。良きにつけ悪しきにつけ、エスタブリッシュメントというイメージと語感には、もう少し人間くささがあるように思われるからだ。第2のヒントは、我々が想像もできない新しいビジネスを開発する者だという。たとえばアップルの創業者ジョブズのような・・・・。ただしそのビジネスがどのようなものかは、見当もつかないという。分かっていれば自分でやるよ、と彼は笑う。

2012年3月13日火曜日

教育改革は大学から

大学生の4人に1人が「平均」の意味を理解していないという。この新聞記事を読んだときは、本当にびっくりした。原因は多分、ゆとり教育や日教組による偏向教育、家庭内の躾など、巷間で言われているあらゆる要因が重なったのだろう。従ってこれを糺すには、本来は初等教育の第一歩から中等教育、高等教育の全てについて、抜本的な改革をやらなければならない。しかし積年の弊がもたらした教育の惨状は、そんな悠長な進め方では役に立たないだろう。仮に出来るとしても、何十年掛かるか分からない。こうなってしまったからには、もはやありきたりの方法ではなく、もっと大胆な対策が必要だ。つまり上流から改革を及ぼすのではなく、下流すなわち大学を変えてしまうのだ。
 現在に於ける教育体系のゴールは、大学である。したがってゴールを変えれば、それ以下の教育システムは一変するに違いない。もちろんその過程では大混乱が生じるだろう。そのリスクを冒して現行の大学を廃するとして、その代わりに何を想定するか。
 答えは専門学校である。そのモデルは、現在の教育システムが米国から強制される以前に、既に日本にあったものである。さらに原型を辿るとドイツのマイスター制度にも行き着くであろう。専門学校の基本的な目的は、高級実務者の育成であった。この実務に即すという考え方は、本来はリアリズムの精神に通じるものだ。それが何時しか実利主義と混同され、さらにはアカデミズムをモットーにした帝国大学系の過大評価と重なって、一段下に位置づけられるようになった。しかし実際の社会生活で本当に役立ったのは、専門学校を出た実務者である。
 ではアカデミズムを標榜した旧大学では何を教えたか。文系で学名を挙げると、法学、経済学、文学、哲学であり、理系では理学、医学、工学であった。面白いことに、理系では当初から理論的な理学の他に、実務的な医学や工学を加えている。たぶん理系では、文系のような観念的なアカデミズムは成り立たなかったのだろう。しかし戦後の新制度になると、専門学校がすべて大学に昇格したので、教科の内容は極めて多様になった。なにしろ専門学校の種類が多かったからだ。例示すると、工業、商業、農業、医療、教育、薬学、芸術、語学、体育、軍事など実にきめ細かく網羅されていた。
 その一方で、アカデミズムの象徴ともいうべき哲学は姿を変え、教養学?として装いを新たにした。もはや西欧追随型の観念論が、時代遅れになったからだろう。大学型観念論の象徴とも言うべき経済学や哲学は、実社会では殆ど役に立っていない。今なお健在なのは法学のみであるが、これはもともと実学なのである。また文学はその性格からして、本来は大学で教えられるものではない。大学を出たからといって名作が書けるわけではないのだ。それにも拘わらず文学部をつくったのは、以前に私のブログで触れたように、西欧文明へのコンプレックスである。そのためフランス文学とかドイツ文学とか、当該国の名前を頭につけている。結果として、文学部で学ぶのは文学の創造ではなく、その翻訳や分析・解釈になってしまった。ただし国文学や考古学は本質的に事情が違う。その目的が他国の文明を倣うものではなく、自国の文化を研究することにあるからである。
 それでは現在の大学を解体するとして、その後どのように再編するか。私の案は次のとおりである。
① 専門領域別に新専門学校を創設する。新専門学校の種類は、上述した旧制の専門学校を参考にする。ただし社会環境や科学技術の発展を考慮し、それに適合するように種類の増減と改廃を行う。たとえば情報専門学校、文学専門学校、哲学専門学校など。
専門学校の種類を増やす一方で、大学は大幅に縮小する。たとえば哲学専門学校の卒業生は極めて少数と思われるが、大学はそこから適性者だけを受け入れる。哲学に限らず卒業後の就職を考えれば、他の専門学校からの大学希望者も自ずから数が決まる。それに対応して大学の数も決まる。そもそも専門学校での履修内容だけで、実業界のニーズには十分に耐えられるはずだ。仮に不足があるとすれば、それは実務を遂行する過程で習得できる。したがって、その上の大学に進むには何か別のミッションが必要である。大学について考えるには、それを明確にしなければならない。たんに修士や博士などの肩書き授与機関では困るのである。今やそんな肩書きが通用する時代ではない。この問題を考えるには、哲学を例にとると分かりやすい。
 金沢大学で哲学を教えている仲正昌樹教授は、その著“知識だけあるバカになるな”で次のように述べている。「常識的に正しい答えだと思っていることが、本当に正しいかどうかは分からない。それどころか本当の答えがあるかどうかさえ分からない。そんな底なし沼の状態で、自分で答えを見つけようと継続的に頑張ること」。それが大学でやることだ・・・・と。
 極めて説得力のある説明だが、私はこれに加えて次のように補足したい。
「つまり哲学者とは、“疑いの専門家”である。しかしそのような専門家を、実業界は求めるだろうか。すべてを疑う人物が組織の中で活動したら、仕事はまったく進まない。たぶん採用率はゼロだろう。しかし社会全体でみれば、疑いの専門家が存在するのは大へん有意義である。その専門家をどれだけ保有できるかは、その社会が持つ余裕とビジョンで決まるだろう。以上によって哲学専門学校の定員数も算出できるし、上位の大学で収容し得る人数も想定できる」と。
② 専門学校を主柱にするといっても、大学を全く廃止するのではない。大学には専門学校とは別のミッションが必要である。その要請はあらゆる専門分野ごとに発生する。ただし上でも述べたように、実社会で必要なスキルは全て専門学校の教育で習得できる。その上で何を求めるか。それを極めたら、人員も想定できる。上では哲学の例を取り上げたが、同じことが他の全ての分野でも検討されなければならない。それができない専門分野には大学は必要ないのである。
③ では、大学の定員はどうやって決めるか。上の例によると、哲学とは底なしの疑問の沼にどっぷり漬かることである。そうだとすると、その営みは哲学専門学校では終わらない。さらに続けるには大学が必要になる。この段階では再び適性者の選定が必要になるだろう。このようにして大学の定員も決めることができる。哲学の例と同じく、他の専門大学も定員を決めることは可能である。私の思い付きに過ぎないが、総平均すると専門学校から大学に進む学生の比率は十%程度になるのではないだろうか。卒業してもその多くが一般企業に就職できないから、別の就職口を設定しなければならない。たとえば大学や専門学校の教職や研究所である。しかし、それだけに限定することはないだろう。新概念に基づく大学卒をどれだけ収容できるかは、前にも述べたように、その国家や社会の余裕とビジョンで決まるはずである。
④ 大学の再編を上で述べたようにすると、いわゆる専門バカだらけになって、現代社会が求めるマルチ人間の育成がおろそかになると反論されるかもしれない。それには二つの面で答えることができる。
その1は、マルチ能力とマルチ知識は違うということである。たしかにインターネットが普及する以前は、博識というのは一つの才能であった。しかしインターネットが普及した現在では、知識やデータは簡単に検索できる。
その2は、マルチ能力とは何かということである。簡単にいうと、それは異質の情報を組み合わせて、新しい情報を創出する能力のことである。今のところ、その創出を保証できる方法論は存在しない。当然ながら専門家もいない。専門別のカリキュラムはあっても、創造のためのカリキュラムは存在し得ないのである。その意味で、マルチ人間に必要なマルチ能力の開発は、大学のあり方とは無関係である。

2012年3月10日土曜日

知識人と常識人

昨年の11月、このブログで「日本人に自虐精神を植え付けたのは誰か」と題して、知識人の責任を論じた。しかし、この論考には欠けている部分があった。それは知識人に対立するものとして教養人を挙げるに止まり、もう一つ重要な庶民すなわち“常識人”を挙げなかったことだ。日本人を理解するには、この常識人こそ最も重要な鍵になるだろう。
 この反省に基づいて新たに想定した日本人の分類は、知識人、教養人、常識人の3つである。まず知識人についての定義は、基本的には前回と同じだ。要点を繰り返すと、その要点は以下の4つだ。
① 西欧文明に心酔し、伝統的な日本文化や日本文明を軽視する。
② 西欧文明を理解し翻案する手段として、外国語の習得を第一義とする。
③ 新しい日本文明の創造よりは、西欧文明の理解と模倣と解釈に専念する。
④ 日本民族固有の哲学や宗教観を侮り、コスモポリタリズムを信奉する。そのため往々にして、             アナーキーな言動にはしる。
 このような知識人に対して、真のリーダーとして期待したいのは教養人である。一見したところでは知識人との違いが分からない。少なくとも知識の該博さにおいては、甲乙つけがたいからだ。しかし両者の間には本質的な違いがある。それは上の④に該当する部分だ。すなわち教養人は、民族固有の哲学や宗教観を重視し、借りもののコスモポリタリズムを信奉しない。しかもその言動は常に建設的かつ実践的で、知識人のように評論に止まることがない。
 さて本題は、日本人の圧倒的大多数を占める常識人である。とくに常識人を特徴づける知恵すなわち常識を軽んじてはならない。かつて日本の軍隊が強いのは、エリート将軍や将校でなく下士官だと言われた。またビジネス分野では、優れた企業に共通するのは中間管理職、とくに係長級の人材が揃っていることである。有名大学を出たキャリヤーと言われるグループは、優秀なものもいるが全く駄目なのもいる。つまり当たり外れが大きい。それに対して係長や下士官が押し並べて優れているのは、半端なエリートとは違って、現場で現場主義に徹した体験を重ねたからである。こうして得た体験こそが、知識と違う知恵の源泉になるのであろう。そしてこの常識人の知恵こそ、知識人の借りものに過ぎない知識を圧倒する武器になるのである。私の故郷には、農業を引き継ぐため故郷に残り、長年にわたり村長を勤めた友人がいた。若い頃は帰郷の度に彼と会ったが、そのときの話題はいつも私がリードして、共産主義の素晴らしさをまくし立てた。彼はいつも微笑して聞いていたが、別れ際には決まって「それでもアカは嫌いだ」と断言するのであった。
 形式知に基づいて理路整然と語るのは、相応の訓練をやれば難しいことではない。しかし暗黙知は、その内容がきわめて複雑で膨大である。常識人はその説明の難しさを知っているので、軽々には語らないのである。その難しい内容を理解し、敢えて説明しようとするのが教養人である。その意味では、教養人と常識人は共感できる部分が多い。

2012年3月3日土曜日

複式簿記を使わない日本の財政システム

石原東京都知事は、東京都の財政が健全な理由として、複式簿記の適用を強調している。まさに卓見だと思う。彼がそう言えるのは、一橋大学の出身であるからだ。一橋大学の元を辿ると、旧制の東京高等商業学校である。当時、官立の高等商業は全国で十数校あったが、そこでの教育の目的は、産業・ビジネスの実務を教えることであった。このほか専門学校は工業技術の実務を教える高等工業学校、農業の実務を教える高等農林学校など産業別に数種類あって、日本の経済を支える中堅人材の育成に大いに役だった。
 一方、その上位に位置づけられた帝国大学はどうであったか。発端の話に戻れば、経済・ビジネスに関する実務は全く教えなかった。この領域でかろうじて関連があるのは経済学部であろうか。ただし、ここでは複式簿記は教えない。それでも卒業後は、いっぱしの財務官僚として実務に携わるようになっていた。
 現在、日本の国家財政や地方財政の分野で引き起こされる問題の多くは、実はこの複式簿記を適用しないシステムに起因している。驚くべきことに、日本の財政を支える基本システムは単式簿記なのである。単式簿記とは、現金の出入りだけを記録する大福帳システムである。周知のことと思うが、念のためにその問題点を挙げておこう。
① 現金の出納記録しか出来ない。
② 従って現金の授受を伴わない借り貸しの処理や、その繰り越しは別処理になる。
③ 資産の減価償却を処理できない。そのため固定資産はすべて当会計年度の費用になる。
④ したがって正確な固定資産管理ができない。国有財産の正確な金額評価ができない。
⑤ 繰り越し処理ができない単年度方式になるため、期末には未消化予算を無理に浪費。
⑥ 年度を越える長期プロジェクトは、財政予算システムでカバーできない。
⑦ そのため長期にわたる国家プロジェクトの立案が難しい。発想が短期的になる。

 何故このような不合理なシステムがまかり通っているのか。不思議に思われるかも知れないが、前述したように理由は極めて単純である。帝国大学の法学部や経済学部を出て大蔵省に採用されたエリート官僚が、複式簿記を知らないからである。そのため実務を知らない素人でも理解できる単式簿記を採用したのである。一方の複式簿記というのは、中世のベネチュア王国時代に開発された会計手法であるが、極めて合理的な会計手法で、ずいぶん古くから世界標準になっている。その完璧さはピタゴラスの定理に匹敵するとさえ言われている。そのため現在では一般の企業はもちろん、財政面でも主要国の殆どが使っている。これを用いない日本の財政システムは、例外といえるだろう。エリート官僚がこれを使わない理由は前述したが、果たしてそんなことで済むのだろうか。

2012年2月26日日曜日

素人が気にする経済問題(5)

6 世界の富裕層をターゲットにする


 今まで先進国と後進国という分け方で論じてきたが、全く別の分け方もある。所得や所有財産の程度による分け方、即ち富裕層と貧困層という分け方である。この区分は先進国と後進国の何れにも適用できる。たとえば中国の場合は、1%の富裕層が国民所得の40.4%を占有している。したがって贅沢市場戦略では、この国からも1300万人を、極上の顧客として選べることになる。中国の他にも、インド、アラブ諸国、豪州、中南米など富裕層は世界中に分布している。前に先進5ケ国の人口は6,6億と述べたが、このような後進国の富裕層をターゲットに加えると、日本が狙うマーケットの規模は更に拡大する。この市場では、粗悪で安価なコモディティ製品は全く問題にならないだろう。
 富裕層の購買意欲を刺激する商品とはどういうものか。最近のことだが、私はそれを考えるヒントになる格好の書籍を見つけた。書名は「琥珀の眼の兎」。その内容は、大富豪のユダヤ系一家で代々受け継がれてきた「根付け」にまつわる物語である。周知のように、根付けは日本人が昔から愛用していたものだ。すなわち煙草入れ、矢立て、印籠、小型の皮製鞄などを、紐で帯から吊るし持ち歩くときに用いた留め具のことである。今では製作国の日本以上に、国外で骨董収集品として高く評価されている。
 前に日本の伝統産品が、先進国の好事家から持て囃されている事情を述べたが、根付けもその一つの例に過ぎない。この動向にいっそう拍車を掛けるべく、関係者たちは積極的に対策を講じはじめた。たとえば伝統的工芸品産業振興協会では、この分野で活動しているメンバーに、日本伝統工芸士として登録することを推奨している。現在では正会員数は4400名を越えているが、高度な技能をもつ職人の数はもっと多いはずだ。この人達は資格や肩書きとは無関係に、人知れずひたすら自己の持つ技能の研鑽に努めている。潜在化しているその数を数え上げれば、おそらく数万人に上るのではないだろうか。それだけではない。頂点にいる職人の技を支える補助的な仕事や、関連する業務まで数えたら、その周辺のビジネスはいっそう拡大するだろう。
 このほか既に定評のある高級カメラや、パソコンなどの情報機器、ファインケミカル技術を駆使した化粧品など、最先端技術を駆使したハイテク製品については、今後も引き続き高級市場で人気をほしいままにするだろう。イタリアから来た私の知人は、秋葉原に毎週出掛けるそうだ。この街全体が先端技術製品や部品の発信基地なので、眼が離せないからだという。

7 生産財と消費財の二分野でユニークさを発揮する

 世界でも定評のあるのが日本の生産財技術と製品であるが、これに肩を並べるのがドイツである。ドイツはマイスターの国、日本は匠の国。職人の技能を大切にする点ではよく似ている。もともとドイツは日本にとって、工作機械や製鋼設備、車両などいわゆる重厚長大製品をつくる技術のお師匠さんであった。それが何時しか、現在のような拮抗する関係になったのである。そうなり得た理由は幾つかあるが、特記すべきは日本のバランスのよいモノヅクリ環境とシステムであろう。
 具体的にいうと、品質(Q)、コスト(C)、納期(D)の3大要件が揃っているのである。まず品質については、日独それぞれ得意分野と不得意分野があって、一概に優劣はつけがたい。コストはどうか。これも品質と同じ理由で、差をつけるのは難しい。とくに最近のように為替レートが大きく変わる状況下では、一概に長短を論じることはできない。
 しかし納期の正確さについては、明らかに日本が勝っている。その理由は2つある。その1は、製品をつくる職場の気質である。私は嘗てドイツの工場を訪れたとき、作業者の真摯な作業態度に感銘を受けが、そのあとのミーティングで、現場の責任者に質問した。「納期を守るために、どんな対策を講じていますか」。彼はよどみなく答えた。「完成したときが納期です」。予想外の返事であった。日本では、製品を期日どうりに届けるのが至上命令になっているからだ。その2は、納期どおり作るためのシステムが完備しているからである。専門的なるので詳細は省くが、その名称を「製番管理システム」という。このようなシステムが確立していないドイツやユーローでは、生産財の開発製造ではしばしば問題が発生する。たとえば独仏で共同開発した巨大航空機(エアバス)は納品が3年も遅れたため、ANAをはじめ世界の航空会社に大きな迷惑を掛けた。
 いずれにしろドイツと日本は、ローテクとか重厚長大製品といわれる生産財の生産にかけては、今後も世界のトップを走り続けるだろう。しかし高級消費財の生産については、日本は明らかに優位に立っている。その実態は前項の「世界の富裕層をターゲットにする」で述べた通りである。つまり日本は、生産財と消費財の二分野でユニークさを発揮することができるのである。

2012年2月24日金曜日

素人が気にする経済問題(4)

4 輸出立国でなく、内需立国をめざす

 日本のGDPに占める貿易依存の割合は、以下のデータが示すようにかなり低く、わずか0.7%に過ぎない。
              GDP(A)      輸出額        輸入額      純輸出     純輸出/A
米      14,270.000      994,700    1.445.000   -450.300    -3.2%
独        3.235.000   1.187.000       931.300   255.700      7.9%
仏        2.635,000      456.800       532.200    -75.400     -2.9%
英        2.198.000      351.300       473.600  -122.300     -5.6%
日        5.049.000      526.300       490.600      35.700      0.7%
                (2009年度 単位$1,000.000)
 したがって、本来は円高や円安に一喜一憂する必要はないのである。その意味で現在の円高は、日本が持っている経済力の強さが、正当に評価されているとも言えるのである。たとえば失業率が5%程度に止まっているのは、その証左であろう。この値は他の先進4カ国にとって、まさに垂涎の的といえよう。
 これから先も、日本は輸出の増加にそれほど努力する必要はない。上では日本文化の精髄を輸出せよと述べたが、それは貿易収支の向上を図るものではなくて、別の目的のためである。つまり文化国家としての存在感と、優位性を高めるのに意義があるからである。日本にとっての貿易収支は、経済的な意味での死活問題ではない。文化先進国ないし文化大国としての存在感を高めることを第一義にすべきである。そのためにも、高度な内需の振興にこそ力を入れるべきであろう。

5 保有資源の再確認と再定義を行う
 従来の日本は、鉱物資源(石油を含む)に恵まれない国とされてきた。さらに近年は、食糧自給率の低さも問題になっていた。しかし最近になって、幾つかの好ましい条件が整い、むしろ恵まれた国になりつつある。
 たとえば石油に代わるエネルギー資源として、最近クローズアップされているのがメタンハイドレートである。この物質はメタンと氷が高圧下で結合したもので、日本領の深海域に大量に埋蔵されている。従来はこれを放置していたが、最近の深海掘削技術の進歩によって、採取が可能になった。既に試掘も開始されている。また東京大学大学院教授の湯原哲夫教授によると、中国が戦略資源として出し惜しみしているレアアースやレアメタルは、日本の排他的水域に豊かにあることが分かっている。これも最近に於ける深海資源の採掘技術の進歩により、利用できる可能性が高まった。
 食料の場合はどうか。農水省が示したデータ(カロリーベース総合食料自給率)によると、日本の食料自給率は41%で、先進他国に比べると危機的な水準だという。この危機的という刺激的な惹句は、マスコミがつけ加えたものだ。しかし嘗ての戦争のように、貿易が完全に途絶え、食料輸入ができなくなることはあり得ない。仮にそうなっても、対策はいくらでもある。そのヒントとして、自給率計算に用いられている次の数式を分析してみよう。
    カロリーベース総合食料自給率=国産供給カロリー÷全供給カロリー

 はじめに知っておきたいのは、カロリーベース総合食料自給率という概念は、農水省が勝手に捻り出したものであって、世界的に認知されているわけではない。そのため口さがない連中からは、農水省がその存在理由を誇示するために、意図的にでっち上げた概念だと言われている。
 問題の第一は、国産供給カロリーの内容である。この数値は政策によって大きく変えることができる。現在は飽食の時代なので、生産者の殆どが、高級野菜や高級魚など少量生産型を志向している。もし緊急事態になれば、あの大戦時のように芋や麦などを大量生産すればよい。また魚介類も高級魚にこだわらず、雑魚の大量漁獲に励めばよい。要するに食糧事情の緊急度に合わせて、カロリー量を増やすためのプロダクトミックスを計画すればよいのである。現在は、その必要がないというだけのことだ。
 次の問題は、全供給カロリーの内容である。簡単にいえば、上記の国産供給カロリーに輸入分を加えたものだ。これも又、緊急度や必要度に合わせて自由に操作できる。緊急時には、高カロリー食品の輸入にストップをかければよい。
 資源の定義をさらに拡大すれば、日本は世界でも最も恵まれた国の一つと言えるだろう。それをもたらすのが、地理的な条件に基づく自然環境である。たとえば、世界有数の降雨量に由来する上質の水がその一つだ。水こそ、ユーラシア大陸に立地する多くの大国が、その強大さにも拘わらず、アキレス腱として悩んでいる不足資源である。
  このほか、大量の降雨量に由来する豊かな森林や、太平洋とオホーツク海および日本海の三つに囲まれた環境は、世界に類のないほど多種多彩な生物を育んだ。因みに海の生物は、種類が世界一で約34000にのぼるという。また陸地の植物の種類は6000以上になり、これまた世界一である。先に述べた鉱物資源だけでなく、水資源、生物資源など、日本は資源大国というべきであろう。

2012年2月23日木曜日

素人が気にする経済問題(3)

前のブログでは、後進国の追い上げによって、先進五カ国が立ち往生している状況を説明した。この閉塞感をどうやって打ち破るか。たぶん現在の経済学者からヒントを得ることはできないだろう。彼等はひたすら過去のデータに基づく解析と解釈と予測だけをやっているのであって、今後の経済のあり方をデザインすることなど、思いもよらないだろう。いったん身につけた経済理論や思い込みを、簡単には捨て去ることができないからだ。むしろ門外漢の方が、自然体で新しい時代の到来と、それへの対応を考えることができる。たとえばいま、五木寛之の新著「下山の思想」が売れているが、これなどはまさに時代の流れを把握した上での、処世のためのヒントになるだろう。これを経済問題に適用したらどうなるか。
 個体生態学の成長モデルとして、ロジスティックス曲線が知られているが、経営やマーケティングの分野でも、この考え方が応用されている。たとえばある開発製品が売り出された場合、はじめは少量しか売れないが、時間の経過とともに次第に勢いを増し、やがてピークに達する。しかしその後は売り上げは減衰し、終にはゼロになってしまう。その累計でグラフを描くとS字型になるので、Sカーブモデルと俗称されることもある。先進国の今の経済状況は、まさにSカーブにおける減衰場面に該当するのである。したがってこの状況を直視して、それにふさわしい産業・経済のあり方を構想しなければならない。具体的にいうと先進国は、まず従来の人口増、需要増というモデルがピークに達したことを認識し、穏やかに下降線を辿るための対策を考えなければならない。一例を挙げれば、日本では液晶テレビの規模縮小が進められている。
しかしもう一方では、先進国は成長盛りの後進国とは全く違う成長モデルを創成しなければならない。わたしは、それを第六次産業モデルと仮称することにしている。一次産業から始まり、二次→三次→四次→と、順調に進化してきた日本の産業構造であるが、ギャンブル型の五次産業はいち早く諦めた。いまやそれを越える産業モデルが切望されているのである。しかし日本を除く4カ国は、未だに従来型のモデルに拘泥して、新しい構想を打ち出していない。ひとり日本だけが、その可能性を持ち合わせているのである。
それでは日本の新しい国家経済イメージと、それを支える六次産業とはどういうものか。以下の8項目は、私が考えるそのアウトラインである。

① 人口規模の拡大を図らない
② 拡大する後進国とは別の道を歩む
③ 日本文化の精華を製品にする
④ 輸出立国でなく、内需立国をめざす
⑤ 保有資源の再確認と再定義を行う
⑥ 世界の富裕層をターゲットにする
⑦ 生産財と消費財の二分野でユニークさを発揮する
⑧ 文化基盤の上に文明を構築する方法論を確立する
 それでは上述のアウトラインについて、一つずつ説明を加えよう。

1 人口規模の拡大を図らない
 厚生労働省は2012年1月30日、2060年に於いて日本の人口は8674万人まで減少すると発表した。マスコミの論調では、これを国の一大ピンチとしているが、果たしてそうか。前にも述べたように先進5カ国のうちで、人口1億を超えるのはアメリカと日本だけだ。減少しても他の3国並になるだけである。もはや兵士を消耗品扱いする富国強兵の時代ではないのである。ただし65歳以上の割合が40%に達するというのは少し気になるが、これも致命的なことではない。まず高齢者の定義を65歳以上から、70歳以上に変更すればよい。昨今の老人は生活環境の改善や栄養摂取の向上によって、旧時代の老人と比べると格段に屈強である。その一方で、必要以上の延命医療を行わないことにする。植物人間になって、ただ呼吸だけやっているような生き方が、果たして幸福と言えるだろうか。2050年には世界人口は91億になるという。そうなれば100億を越えるのも間近い。地球資源の枯渇を恐れる者にとっては、まさに悪夢だ。その中にあって日本が8000万の人口に止まれることは、むしろ幸運というべきだ。あとはバランスのよい人口構成を維持すればよいのである。その場面では日本文化や思想の神髄をも、考慮に入れてよいだろう。たとえば自死の容認である。自殺を悪とみなしているのは西欧の思想、とくにキリスト教に限られる。歴史的にみて、我国にはそのような考え方はなかった。この点については難波統二が、その著「覚悟としての死生学」で明快に論じているし、古くは「自死の日本史」においても、モーリス・ハンゲが詳しく述べている。西欧思想の呪縛から解かれことにより、過剰とも思える長寿礼賛の風潮や諸施策から脱することべきだ。それにより、いずれは適正な人口構成になるのではないだろうか。

2 拡大する後進国と別の道を歩む
 今や先進国と後進国を問わず世界のほとんどが、コモディティ製品の大量生産と大量消費に没頭し、その優劣を巡って悲喜こもごもの争いを続けている。人口爆発の環境の下では、それもやむを得ないかもしれない。しかし日本は、そのような過当競争に身を投じる必要はない。全くちがう道を探ればよいのである。いや、その道は既に見いだされている。産業のガラパゴス化と揶揄する向きもあるが、これこそ他国が追随できない日本独特の分野である。例えば工場プラント、超精密工作機械、原子力発電設備、最先端医療機器、超精密検査機器、超高速鉄道(運行ソフトを含む)、産業ロボット、炭素繊維などの高性能素材、など枚挙にいとまがない。後進国は日本からこれらを輸入し、それを使ってコモデティ型製品の大量生産競争に参戦しているのである。この点で観ると、日本はすでに彼等とは全く別の道を歩んでいると言えよう。

3 日本文化の精華を商品にする
 生産財の分野では、日本はかなり以前から最も信頼できる供給者として、後進国から高い評価を受けている。しかし今後は消費財の分野でも、他の追随を許さないユニークな道を選ぶことになるだろう。既に日本文化に根ざす製品は、それが伝統的なものである場合は、各国の知識階級や富裕階層の垂涎の的になっている。その一方で今風のものが、ハードとソフトの両面で、庶民や若者の間で大人気になっている。
 まず伝統産品の例として、いまヨーロッパでブームになっている盆栽を取り上げてみよう。以下はJETROが平成21年に於いて行った 欧州地域における 盆栽輸出可能性調査から抜粋したものである。
「日本の伝統産品として位置づけられている盆栽は、柔道や空手が世界中に広まってスポーツ愛好家が拡大しているのと同様に、今やわが国の伝統品としてだけでなく広く海外にも愛好者が存在している。貿易統計上では、アジア諸国向け輸出が第1位であるが庭木などの種類が多いといわれている。一方EUでは、40年前からイタリア、ベルギー、オランダ等で根強い需要がある。現地人指導者による盆栽教室の開講、愛好家クラブで活発な展示会開催など、大きなファンを獲得している・・・・」。
 嘗て梨花女子大の李教授がその著「縮み志向の日本人」において、日本人の“内”に向かう発想傾向を、盆栽などを例にとって象徴的に論じたことがある。李教授の議論は皮肉ではあるが、相応の説得力があった。しかし国内ではそれに自虐的な知識人が過剰に便乗し、日本ダメ論の論拠にしたのである。幸いにして現在では、そのような迷論は全く姿を消し、海外の高い評価を素直に受け止めるようになっている。なお李教授の論に敢えて付言するならば、日本文化の特徴は「縮み」よりも「洗練:リファイン」とするべきだろう。
 盆栽の例にみるように、近年になって日本の伝統産品は、にわかに世界の各国から高い評価を受けるようになった。和菓子、京料理、寿司、刀剣、漆器、陶器、文房具、ガラス製品、高級食材(米、牛肉、野菜など)、化粧品、家具、皮革製品、インテリア用品、生活雑貨、伝統織物など、それこそ枚挙にいとまがない。
 これらの商品を手がけるのは殆どが大企業でなくて、中小企業か零細な職人企業である。したがって独力で海外向けのマーケティングを展開するのは難しい。今こそ国全体として支援する体制が望まれる。例えば現地に共同の店舗を設置するに際しては、国や地方自治体などの資金援助、または協同組合などの編成が必要になるだろう。付言するが、このような職人型企業の資産は、従業員のスキルそのものが資産である。そのスキルは経験が長いほど向上する。70才どころか、80を越えても貢献できる。
 一方、今風の日本文化をバックにした、若者や子供市場の開拓はどうか。実はこの分野こそ、すでに進出済みと言えるのである。欧米に於けるマンガやアニメの普及ぶりは、今さら説明の必要もあるまい。また任天堂などが開拓したゲーム市場は、スマートフォン対応のゲームソフト市場に繋がり、今後も一層の拡大が期待される。かくして「日本文化の精華を商品にする」活動そのものが、六次産業を創成する原動力になるであろう。

この後は次のブログ  ―素人が気にする経済問題(4)―  に続ける

4 輸出立国でなく、内需立国をめざす
5 保有資源の再確認と再定義を行う
6 世界の富裕層をターゲットにする
7 生産財と消費財の二分野でユニークさを発揮する
8 文化基盤の上に文明を構築する方法論を確立する

2012年2月12日日曜日

素人が気にする経済問題(2)

前回のブログ「素人が気にする経済問題」で、残しておいたのは以下の3つである。その後、いろいろ考えて一応の答えを出しておいた。正しいかどうかは分からない。皆さんの御意見を承りたい。
     1)偏りがなくなればどうなるか
 わずか9%ほどの人口で、世界におけるGDPの44%をカバーしている先進国の生産面でのアドバンテージは、急速に失われつつある。きっかけは、中国の経済開放政策であった。早くも世界の工場といわれるようになったこの国を、先進各国は競って供給拠点として利用するようになった。たとえば日本の消費者は、中国製文房具のほとんどを、100円で手に入れることができる。アメリカの場合は、もっと徹底している。こうして多くの先進国は、高度な技術を要する製品以外は、ほとんど生産を止めてしまった。しかし、その高級製品も次第に浸食されつつある。この動きは中国だけに止まらず、インドや東南アジア、南米など多くの後進国に広がった。こうして、価格破壊を伴う生産拠点は世界的な規模で拡大し、これらの国の労働者の多くに雇用機会を与えるようになった。彼等の所得水準はまだ低いといっても、従来と比べたら大幅に向上している。しかも彼等が消費する商品の価格は安い。かくして後進国に於ける生産と消費は飛躍的に増大している。今ではインド、東南アジアさらにはアフリカに於いてさえ、テレビ、エアコン、冷蔵庫などの電化製品は市場に氾濫している。それどころかパソコンや自動車などの高度製品さえ、安値で数多く市場に出回っている。
 この状態は、今まで先進国に偏っていた生産や消費を、世界的に平均化することになるから、基本的には好ましいことである。しかし一方では深刻な問題も孕んでいる。地球資源の急激な浪費とそれによる枯渇である。今や資源としての植物、動物、鉱物などの総量は急速に枯渇しつつある。消費のスピードが生産のスピードを越えはじめたからである。世界人口は2050年には91億人に達するという。この時期になると、世界に於ける先進国の人口比率は5%程度になり、GDPの比率は20%以下になるだろう。
     2)先進国の経済はどうなるか
 このままでは先進国の経済は成り立たなくなる。各国は抜本的な産業・経済戦略をうち立てなければなるまい。
 その第1はアメリカである。
この国が仕掛けた経済グローバル化の弊害は、まるでブーメランのように自らの産業構造を直撃した。工業製品の多くが競争力を失い、それを作る工場労働者は仕事を失った。そのため失業率は10%を越えた。オバマ政権は、回復をはかるため再び製造業の活性化に努力している。たとえば対策の一つとして、若年労働者を増やすために移民を増やしている。そのため3億人を越える人口になったが、それがプラスになるか否かは分からない。
 第2はドイツである。
ドイツと日本の産業構造はよく似ている。たとえば製造業の比率は、どちらも同じように20%前後を維持してきた。工業技術の水準も高く、機能や精度の高い機械製品には定評がある。経済運営も堅実で、いまではユーローを支える屋台骨になっている。ただ本稿のテーマである後進国の追い上げと、それに伴う世界経済の平準化が到来したらどうなるだろう。いくら超高性能のマザーマシンを開発しても、それを購入して模倣して安く作り、コモディティ製品を大量に生産する後進国のやり方に対抗できるだろうか。
 第3はイギリスである。
イギリスとアメリカの経済思想をみると、類似点が多い。本質的に両国はアングロサクソンの気質を備えているからであろう。たしかにアメリカは移民の国だから、民族的にはイギリスとは違う。しかし少なくとも政治・経済の中枢的な権力を握っているのは、この血統に属する人たちである。スポーツだけではなく、政治、経済のルールやスタンダード作りは常にこの人たちだった。とくに近年における国際金融のルール作りでは、瞠目するほどの活動ぶりであった。ニューヨークと並んで、ロンドンシティは今なお世界金融ビジネスの中心である。しかしこの分野を除くと、イギリスの産業は実に寂しい。今後の産業・ビジネスステージに於いて、この国に期待できるものは少ない。
 第4はフランスである。
この国の産業構造は一風変わっている。芸術・文化の国として、我が国には多くの心酔者がいるが、意外な側面も持っている。まず武器輸出国としては、世界第三位である。輸出先はアラブ首長国連邦、ブラジル、ギリシャ、インド、パキスタン、台湾、シンガポールなど極めて広範に及んでいる。宇宙航空産業のウエイトも高い。その代表作がエアバスである。軍用航空機の輸出も多い。ただハイテク産業面でやや出遅れの感があり、第二次産業の面では、ややバランスが欠けているという自覚があるようだ。それを挽回するために、新産業技術の開発力強化をめざす政策を強化している。一方、農業では欧州一の産出国である。この特徴をどう生かすかは、今後の課題になるだろう。ただ後進国の擡頭による、世界経済の勢力関係の変化については、上述の3国と同じくあまり気にしていないようだ。とくに昨今のようにユーロの危機となっては、世界人口70億時代を見据えた産業戦略どころではないのかも知れない。
     3)日本はどうすべきか
では日本はどうか。GDPが中国に抜かれて3位になったが、そんなことは問題にする必要はない。本質的な問題は、工業生産面で後進国の追い上げに直面している状況に、どう対応するかである。上の「偏りがなくなればどうなるか」でも述べたように、生産・消費に関する世界の分業体制は大きく変化したのである。周知のように現在における産業構造は、以下の5つに分類されている。
① 第一次産業・・・農林漁業
② 第二次産業・・・製造業
③ 第三次産業・・・金融業、物流業、商流業
④ 第四次産業・・・IT産業
⑤ 第五次産業・・・ファイナンス(投機)産業

 今まで上で述べてきたのは、この5分類のうち第四次産業までは、いずれ後進国に追いつかれるということであった。そして従来の日本は、第4次産業時代までは常に半歩遅れで欧米企業に追随し、最終的には同レベル乃至それを凌駕する位置を獲得してきた。しかし今や欧米諸国が第5次産業で破綻したとなれば、今後は自前で新産業を創造しなければならない。私はそれを第6次産業と名付けることにしている。然らばその内容はどういうものか。
 いうまでもなく第6次産業の創出には、従来とは違う考え方とアプローチが必要である。まず考え方について言えば、文化と文明の違いを認識することから始めなければならない。通常はこの二つは明確には区別されていない。歴史学者でさえ混同している例が多い。しかし両者の違いは明らかである。簡単にいえば、文明は文化に包含される下位概念である。別の表現をすれば、文化は暗黙知であるが、文明は形式知である。したがって文化には言語化されないものも内蔵されるが、文明には言語化できるものしか含まれない。
 日本は地理上の位置に加えて、鎖国という特殊な事情があったので、独自の文化に基づいて文明を形成してきた。しかし幕末の開国によって門戸が開かれ、その結果として異質でパワフルな欧米型の文明を知った。それは軍事、産業、政治、生活、芸術などあらゆる分野に及んだ。ただし、それらは全て言語によって表せるもの、すなわち欧米文化に由来する欧米文明に属するものだけである。かくして日本の新産業は、すべて西欧文明に基盤をおく技術に依存することになった。
 このような西欧文明追随型のアプローチは、第4次産業時代までは概ね通用するものであった。しかし上述したように、今や西欧型の文明に基づく産業のあり方が揺らぎはじめている。途上国は別として、欧米先進国の経済・産業を覆っているのは深刻な閉塞感である。今後はおそらく凋落の一途を辿るに違いない。日本も従来の欧米型産業パターンを踏襲する限り、同じ悩みから脱却することはできない。しかし幸いなことに、日本にはとっておきの切り札がある。いままで等閑にしてきた固有の文化をベースにして、新しい産業文明を構築し直すことである。もちろん既に自家薬籠中のものとなっている西欧型文明は十分活用しなければならない。それに加えて、固有文化に基づく文明を交配させるのである。それには、お家芸ともいえる折衷技術を、さらに洗練させなければならない。
 たとえばアニメや、ロボット、精密部品、炭素繊維などの新素材、さらには高級野菜や盆栽など日本の文化と文明に基づく技術でカバーできる範囲は驚くほど広い。これらの多くは見かけ上、西欧型の技術文明そのものである。しかしその根幹のところまで遡ると、多くは日本人が持っている「匠」の心に行き着くのである。いうまでもなく匠の技術は、日本文化が生んだ日本文明の精華である。この見方に立つと、日本の第6次産業は、もはや始動しているともいえるだろう。その具体例および今後の展開については、このブログで引き続きフォローしていくつもりだ。

2012年2月8日水曜日

素人が気にする経済問題(1)

1) 何が経済問題か
 経済について、学者、エコノミスト、経済記者などが論じるキーワードは、何故あのように画一的なのだろう。いわくGDP成長率、いわく為替相場、いわく失業率、いわく株価、そして最近では格差と富の配分率!
 いわゆる経済専門家はこれらの限られた数値だけで、その上がり下がりを予測したり、結果を分析したりしている。しかし的中することは殆どない。だからといって非難されることがないし、本人達もそれを謝罪したり弁解することもない、発言はすべてその場限りのことで、だれも気に掛けない。
 経済学について私は全くの素人だが、それでも生活を営んでいるわけだから、これらの言説について、関心がないわけではない。むしろ人並み以上に気に掛けている。しかし繰り言になるが、知りたいこと、教えてほしいことへの回答がほとんど得られないのだ。全くいらいらしてしまう。
 では何が知りたいのか具体的に説明しよう。たとえば昨年、世界の人口は70億を超えたという。この途方もない事態は、我々の将来にどんな影響をもたらすのだろうか。地球規模で考えるのはあまりに大きすぎるので、取り敢えず日本への影響について考えてみたい。
 それには、まず先進国と後進国(途上国も含む)の人口分布とGDPを知りたい。国連の定義によると、一人当たりの国民所得3万ドル以上が先進国である。これに該当するのは上から順に、ルクセンブルグ、ノルウエー、カタール、スイス、アラブ首長国連邦、デンマーク、オーストラリア、スウェーデン、オランダ、アメリカ、カナダ、アイルランド、オーストラリア、フィンランド、シンガポール、ベルギー、日本、フランス、ドイツ、アイスランド、クエート、イギリス、イタリア、ニュージランド、香港、スペインの26カ国である。次に、その26カ国の総人口およびGDP年間総額を知りたい。調べた結果は次の通りであった。
    (国 名)    (GDP/人/ドル) (総人口:万人) (GDP:兆ドル)
   1)ルクセンブルグ    10万9千       50       0.05
 2)ノルウエー          8万4千      500       0.42
 3)カタール             7万4千      170       0.13
 4)スイス               6万8千      300       0.48
 5)アラブ首長国連邦     5万8千      600       0.35
 6)デンマーク           5万6千      600       0.34
 7)オーストラリア        5万6千     2200       1.20
 8)スエーデン          4万9千      900       0.40
 9)オランダ             4万7千     1700       0.80
10)アイルランド          4万6千      400       0.19       
11)アメリカ              4万6千    31000      14.30
12)カナダ               4万6千     3400       1.56
13)オーストリア         4万5千     2200       1.00
14)フィンランド           4万4千     5300       0.23
15)シンガポール        4万3千      500       0.21
16)ベルギー           4万3千     1100       0.47 
17)日本               4万3千    12600       5.50 
18)フランス             4万2千     6300       2.60
19)ドイツ               4万1千     8200       3.40
20)アイスランド          3万9千      300       0.02
21)クエート             3万7千      270       0.10
22)イギリス             3万6千     6200       2.20
23)イタリア              3万4千     6100       2.10
24)ニュージランド        3万2千      400       0.17
25)香港               3万2千      700       0.24
26)スペイン            3万1千     4600       1.42

 以上のデータを見て、先ず気になることは第1位のルクセンブルグの人口が僅か50万人に過ぎないことだ。人口1億人を超える国と、50万人に過ぎない国のデータを同列に並べて論じる意味はないと思う。私はこの考え方に基づき、概ね2000万人以上の国を対象にして考えることにした。このフィルターにかけると、該当する国は11カ国である。なお補足すると、上表で1億人を越える国はアメリカと日本の2国しかない。
 もう一つのフィルターは年間のGDP総額で、これが2兆ドルを越える国を経済大国と考える。データによると該当するのは6国である。

 以上の2条件、すなわち人口条件とGDP条件に加えて、一人当たり年間国民所得3万ドル以上という基本条件をクリアーできる経済大国はアメリカ、日本、ドイツ、フランス、イギリス、イタリアの6カ国しかない。さらにイタリアは今や財政危機にあるので、これを除外すると5カ国になってしまう。この5カ国の人口は6.63億人である。そして、それが世界人口に占める割合は、6.63億人÷70億人によって計算できる。値はわずか9.5%だ。一方、5カ国のGDPが全世界のGDPに占める割合は、28.0兆ドル(14.3+5.5+3.4+2.6+2.2)÷63.0兆ドルによって計算できる。答えは44%である。つまり10%に満たない人数で、全世界におけるGDPの44%を支えていることになる。ただしこの極端な偏りは、いまに始まったことではない。おそらく19世紀後半から始まっていることで、もっと偏りがひどい時代もあった。それに比べると現在は、偏りが急速に緩和されつつある。実は、その緩和に進む早さこそが、これからの大きな問題になるのである。 

2) 偏りが急速に緩和される理由は何か
 結論からいうと、世界におけるGDPの偏在緩和、つまり平準化をもたらす要因は2つある。その第一は中国およびアジア諸国の生産力増大であり、第二はそれに誘発される後進国の需要増加である。ここでいう後進国とは、アジアだけでなくアフリカも含まれる。
 この動きの発端は中国の経済自由化と、それを活用しようとするアメリカの政策から始まった。しかも、その規模は予想以上に拡大した。なにしろ中国は人口13億という、桁外れの低賃金に裏打ちされた生産力である。しかも知的所有権など、平然と盗み取るお国柄である。そのためアメリカの産業、とくに第2次産業はミイラ取りがミイラとなる仕儀となった。結果としてコモディティ製品(日用雑貨)の殆どが中国に依存せざるを得なくなっている。低価格の中国製品は、さらに欧州市場を席巻し、ついには日本にも浸透した。今では、中国は世界の工場と言われている。この勢いとやり方は他のアジア諸国にも波及している。インドやベトナムがその好例である。
 生産力が高まると、それと平行して労働者の雇用機会は増大する。そのため平均所得の水準も向上する。今や後進国では、このような好循環プロセスが普通になってきた。ちょうど日本が敗戦の混乱から立ち上がり、次第に景気がよくなり始めた時期の状況とよく似ている。その後のいわゆる史上稀な日本の高度成長は、半世紀近くも続いた。しかし現在の経済環境と技術環境を考えると、これらの後進国の平均所得が年間3万ドルを越えるのは、20年を待たずして達成できるだろう。つまり世界の国別所得格差は、予想以上に早く縮まると考えられる。

 この後は、たぶん以下のような疑問が生じるはずだ。

     3)偏りがなくなればどうなるか

     4)先進国の経済はどうなるか
           アメリカ
           ドイツ
             フランス
           イギリス
           日本

     5)日本どうすべきか

 以上の3項目については、未だ十分には考えを纏めていないので、今日はこの辺りで筆を止めておく。諸賢兄の御意見や御見解をぜひお伺いしたい。

2012年2月7日火曜日

知識人の時代は終わった

先日、辻本清美民主党代議士が「世界」に投稿した論文を読み、その内容のレベルの低さに驚いたので、その要約をこのブログで報告した。同じ理由で失望させられた例は他にもある。たとえば仕切りと銘打った政治ショーの予算折衝において、世界一を目指すスーパーコンピュータの予算を削るため、2番ではダメですかと詰問し、担当者を絶句させた蓮舫代議士である。このほか民主党政権の要職に就いた面々の無知、失言、失策があまりにも多いので、今や国民の多くが諦めの境地である。
 しかしよく考えてみると、彼等に一票を投じたのは我々、すなわち日本の大衆(常識人)である。しからば日本人の多くは、愚かであったのか。それは断じて違う。誤ったのは、私が糾弾して止まない「知識人」に煽動されたからである。この際、はっきりしておきたいのは、煽動された方がわるいのではなく、煽動した方がわるいのである。
 では、その知識人とは何者なのか。その答えは、以前に投稿したブログ「日本人に自虐精神を植え付けたのは誰か」で明らかにしておいた。要するにマスコミ人、社会科学系の学者、教育者、官僚、評論家である。もちろん彼等のすべてとは言わない。例外はある。しかし大まかには、これらの知識人が明治維新後の日本人をダメにしてきたのである。ただし知識人というだけでは、表現があまりに曖昧なので、ここではもう少しはっきり定義しておこう。
 以前から私は独断と偏見によって、日本人の全体を、以下のように3つに分類している。
       常識人(庶民)
       教養人
       知識人
 この分類に基づき、それぞれが如何なる「資質」と「行動様式」をもっているかを比較してみて、以下のような結論を得た。
    (注1)資質とは、倫理観、専門知識、知恵のタイプを意味している。
    (注2)行動形式は、観念型(理想型)と実践型(現実型)の二つに分類。

①常識人
 (1)常識人の資質
 常識人(庶民)が持っている第1の資質とは倫理観すなわち道徳心であるが、そのレベルの高さは世界でも定評がある。具体的な内容は、かつての教育勅語に極めて簡潔に纏められているが、庶民はその項目のすべてを真面目に実践してきた。それも強制されたのではない。内容のほとんどは、日常的に既に実践されていたのである。少なくとも敗戦まではそうしてきた。
 常識人の第2の資質は専門知識だ。これは理論化はされていないが、技能のかたちで極めて高い水準に達している。しかも、それを習得する過程では、さまざまな創造性を発揮している。それができるのは、彼等庶民にとって労働はけっして忌避すべきものではなく、人生の目的そのものになるからである。
 (2)常識人の行動様式
 常識人の行動様式は、とりわけユニークである。彼等は本質的にリアリストだから、哲学や観念論には殆ど関心を示さない。関心があるのは、当面している課題をいかに処理するかという現実の解決策と、そのための行動だけである。そのため、回りくどい理屈を嫌い、直接解決するための知恵を尊重する。

②教養人
 (1)教養人の資質
 では教養人の資質はどうか。興味深いことに、彼等と常識人の資質は多くの点で共通している。まず道徳心(倫理観)については、ほとんど同じと言ってよいだろう。ただ専門知識については、その深さと汎用性において、常識人との間に相当な隔たりがある。これは抽象的かつ汎用的な知識そのものを対象にする立場と、具体的で個別的な技能を駆使する立場は違うのだから、両者が相違するのは当然のことと言うべきであろう。
 (2)教養人の行動様式
 教養人の行動様式も、基本的には常識人と同じである。何故なれば、机上で空論を述べるだけで実践が伴わなければ、真の教養人ではないからである。その意味では、かつて高見の見物スタイルで一世を風靡した評論家、加藤周一などは教養人ではない。

③知識人
 (1)知識人の資質
 知識人は、資質の基本となる道徳心そのものに疑いを持っているらしい。とくに上述した教育勅語に対しては、強烈な反対または無視の態度を示している。西欧思想の洗礼を受けた彼等にとって、日本的な徳目など、決して認めることができない。然らば西欧思想の基本となる徳目は何か。第一に特定宗教の教義(イデオロギー)を守ること。しかしその宗教が複数あるとしたら、どれが正しいのか。日本の知識人のほとんどは、その第一条件をクリアーしていない。一方で日本の神道に基づく教育勅語を否定するのだから、その思想的根拠はどこにあるのだろうか。それがない道徳心の内容とはどういうものか。たぶん道徳心そのものを否定しているのかもしれない。戦後から最近まで猖獗を極めた似非アナーキストの源は、この辺りにあるのかも知れない。
 (2)知識人の行動様式
 知識人の行動様式もまた極めてユニークである。現実を直視するのではなく、観念的な理想論を振りかざす。その観念は独特のイデオロギーを前提にして組み立てられる。そして、一旦それが出来上がったら、日常の出来事すべてを、その基準によって判断し評価する。それが嵩じて原理主義にまでエスカレートする。流石にここまで極端になるのは一部である。大部分は半端な状態で浮遊し、幻想に耽っているのである。冒頭で触れた辻本代議士や蓮舫代議士など、民主党のメンバーが構想し、スローガンとして喧伝したマニフェストなどはその典型である。このようなものを本気で考え、行動するのが知識人なのである。教養人や常識人(庶民)は知識があっても、決してこのような愚行に走らない。

2012年2月6日月曜日

階層がない日本

優しい一家に飼われている犬は、自分が犬とは思っていない。家族の一員つまり人間と思っているらしい。その人間の社会は、西欧流にいえば、上中下の三つの階層に分かれているが、日本人の多くは中流意識をもっている。軽率にもマスコミや評論家は、それを甘い幻想だと揶揄してきた。とくにサヨク思想に犯された知識人は、大衆の多くに階層意識がなく、中流という幻想に酔い痴れているとして、軽蔑したり慨嘆したりした。しかし、そのような考え方は明らかに間違っている。むしろ外国人の方が、日本人の本質をよく理解していた。たとえば、明治の半ばに来日したアメリカの女性教育者アリス・マベル・ベーコンは次のように言っている。
 「どうして日本人は、安物をこれほどまでに美しく作れるのでしょうか。日本では、多くの品物が美しいから使われるのではなく、たんに安いから使われるのです。たとえば紺と白でデザインされた手拭いを、人夫や車夫が使用するのは、安いという理由だけです。決して美しいものとし認められていません。しかし私からみると、とても見事なデザインだと思います。買い手がその美しさを全く問題にしないのに、職人は何故こんな美しい手拭いを作り続けるのでしょうか。私の結論は次の通りです。
 日本の職人は本能的に美意識を持っているので、金銭的にペイするかどうかに関心がないのです。美しく作らざるを得ないのです。それは手拭いだけではありません。庶民が使う安物の陶器を見ても、高価な物と同じように美しく装飾が施されています。こうした作り手の美意識と使用者の美意識が、日本人の民度の高さにどのように作用しているかは分かりません。しかし、現在欧米で進められているような、貧しい人たちの美意識を啓発する運動などは、日本では全く必要ないでしょう。」
 美的センスに限って言えば、欧米にも優れた工芸職人が数多く存在する。しかし彼等を上述の階層区分に当てはめれば、その多くが下層に位置づけられる。これは手に汗して労働することを蔑んだ、プラトン以来の西欧の伝統であろう。
 しかし日本は違う。労働すなわち体を動かす仕事を価値ある行為と考える。反対に、机上で空論に耽る仕事は馬鹿にされてきた。そのため日常的に労働を行う一般庶民は、自らの仕事を大切にし、よき成果が得られるように陰日向なく努力する。いわゆる職人は、その典型である。さきにアリス・マベル・ベーコンの言を引用したように、日本人が階層のない国を作ってきた原因の一つは、すべての国民が勤勉で、共通の審美眼をもち、美を求め続けてきたからであろう。

2012年1月31日火曜日

賞味期限の怪

 先年から孤老になったため、台所仕事をやるようになった。とくに料理などは、ほとんど経験したことがないので戸惑うことが多い。例えば、野菜や魚などの生鮮材料に貼付されている「賞味期限」という表示である。文字通りに解釈すると、それを食べる全ての人が“おいしい”と感じることができる締め切りの日ということのようだ。
 しかしこの定義は変だと思う。何となれば、美味しいと感じる味覚は人それぞれであって、一律に決められないはずだ。賞味期限と表示された月日をもって、全ての人が画一的に、美味か否かを感じ取ることができるだろうか。
 実は、このようなナンセンスな表示を普及させたのは、大手の某流通業者だという噂がある。この業者は経営戦略として、競合他社に対し物流システムの面で、圧倒的な差をつけようと考えた。そのため物流システムの合理化を行い、産地での収穫から店頭に陳列するまでの時間を、大幅に短縮したのである。そして、そのシステムにのせた商品すべてに生産日と賞味期限を表示したのである。案の定、消費者は賞味期限が明示してある商品を選ぶようになった。この様子を見たライバル企業が、同じようなシステムを導入するようになったのは当然の成り行きである。
 このようにして賞味期限という表示は、いまでは生鮮食料品業界の基本的な慣行になっている。しかし既に述べたように、賞味期限という表示には、基本的に納得しがたいものがある。では、何も表示しなかったらどうか。これに対しては、腐敗品の横行が恐ろしいので、腐敗期限の表示はどうかという意見がある。しかし、これもまた賛成しがたい考え方である。腐敗という現象は、その商品の置き場所や温度管理など、さまざまな条件によって生じるので、一律には期日がきめられない。最も正確な方法は、購買者の手に渡る時点で、測定機器でチェックすることである。しかし、そんなことは実際には出来ないだろう。
 賞味期限や腐敗期限といった考え方が、全くなかった時代はどうやっていたか。購買者が自ら、臭いを嗅いだり眼で見たりして判断していた。それで十分だったのである。現在のように自分で判断することなく、すべてを表示に頼るのは確かに便利ではある。しかし、せっかく持っている五感の能力を使わないというのは、本当に好ましいことなのだろうか。

辻本清美が世界に投稿!

 先日、久し振りに雑誌「世界」2月号を購読した。嘗て一世を風靡した岩波書店発行のサヨク誌だが、今や廃刊の危機に直面しているらしい。目次を見て先ず驚いたのは、20年前とほとんど変わらない項目と、訴求のキャッチフレーズだ。主なものをピックアップすると次のようになっている。 ・ 民主主義の尊厳を救え
・ なぜ政治が機能しないのか
・ 政治不信のゆくえ
・ 原発再稼働は危険だ
・ 脱原発世界会議
・ 中国民間との対話
・ 教育のチカラ
・ 沖縄という窓
・ その他
 以上のほか、とくに興味をひいたのは「辻本清美民主党代議士」が投稿した“今こそ政治の質を変える時”である。野党時代の彼女が、小泉首相に向かってひっきりなしに「総理!総理!」と些細な質問を連発し、議事進行を妨げた言動については、今も多くの人の記憶に残っているはずだ。またピースボートに所属していた時代に、カンボジアでの自衛隊のPKO活動を視察して、物議を醸した発言も有名である。道路工事などの復興活動でヘトヘトの自衛官に向かって胸ポケットを指差し、「あんた!!そこにコンドーム持っているでしょう!!」。
 この奇矯な人物も、サヨクが政権を獲得して以来、副大臣など幾つもの政府高官職を歴任してきたが、その経験から“今こそ政治の質を変える時”と考えたらしいのだ。しからばその論旨たるや如何。わかりにくい文章だったので、解読するのに苦労したが、要約すると次のようになっていた。
1)なぜ期待に応えられないか
 私(辻本)が目指したのはスローガンや要求型ではなく、市民自ら対策を示して動き、解決を模索していくNPO型の市民運動でした。そして政治を行う側にも、この新しい運動の受け皿となる人材が必要だと考え、自ら国政に参加しました。しかし自民党主導の政治環境では、この考え方は受け入れられませんでした。
2)自民党政権の功罪
 長年続いた自民党の政治には、功もあり罪もあります。特に罪について言えば、①アジアとの付き合いの拙さ ②日米関係の拙さ。普天間問題はそのツケが回ったと考えるべき ③原発問題。とくに除染については手抜きをやってきた ④自民党には世襲政治家が多い
等々であります。それでも高度成長時代には何とかやってこられた。しかし今後は新しい政治理念が必要になります。そのため鳩山氏が首相に就任したのは極めて有意義でした。ただ惜しむらくは、彼には正しい理念があったのに、強かさとしぶとさが欠けていた。
3)政権維持にかける執念の欠如
 民主党の理念を実現するには政権を安定させる必要があります。しかし現実には衆参のねじれ問題があります。しかも与党内には考え方の不統一があります。沖縄の飛行場問題もその一つです。私は鳩山総理に、辺野古への移設に拘ったら失脚すると直言しました。しかし鳩山さんは考えを変えませんでした。もし政権維持に執念を持つならば、初志に反しても私の意見を聞くべきだったと思います。政権維持が本来の目的ではありませが、維持できなければ、やりたい政治が出来ません。地方に行くと未だに自民党の支持者が目立ちます。その点、よほど執念をもたないと政権維持は出来ないでしょう。
4)お任せ民主主義を越えて
 このテーマについては、菅さんに触れなければならないでしょう。菅さんと同じく私も小政党の出身なので、彼の考え方がよく分かります。そのため言いにくいことも直言しましたし、彼と仙谷さんとの関係が円滑になるよう、気配りもしました。そのほか私は、被災地で働くボランティアが働きやすくなるようにしたり、官邸の風通しがよくなるように努力しました。また菅さんの欠けている部分を出来るだけ補おうとしました。 この風通しの問題について、自民党はどうやっているか。親分子分の関係で育っていますから、意思の疎通については、打てば響くようになっています。しかし小党出身の私たちは、親分子分の関係がなく、いきなり大臣になったり、政審会長になったりします。そのため旧弊に縛られない大胆な発想が可能です。その反面、部下やサポートしてくれる人たちへの配慮に欠けることもありました。菅さんは一人でやってきた人ですから、その点が目立ったのです。
 さて問題はこれからです。鳩山さんも菅さんもいなくなって、三代目の首相になりました。私はこれからも粘り強く政治の質を高めるために努力していきたいと考えています。いままで主張してきたような、「新しい公共」や「社会的包摂」といったスローガンや要求型の闘争ではなく、実践型でやっていきたいと思います。その一方で国民が自分たちの責任を自覚して、自ら挑戦するようにリードし、そのための基盤を作るべきと考えます。

以上を読んで、皆さんはどう思いますか。標題とは全く違うことが9ページにわたってくだくだと書いてあるので、要約するのにずいぶん苦労した。そのくせ肝心なことは抜けている。例えば沖縄問題が混乱した最大の原因は、鳩山氏が「最低でも基地を沖縄の県外に移動させる」と約束したことだった。しかし、彼女はそれには全く触れていない。
私はこの辻本という人物の思考能力と文章力の貧困さに驚嘆した。これで、よくぞ政府の要職を歴任してきもたのだ。聞きたいのは、今まさに問題になっている民主党の政治そのものなのに、自民党の批判や自分の考え方だけをくどくど書いている。これこそ私が非難して止まない幼児型サヨクの実態であり、実力なのだと確信した。

2012年1月24日火曜日

日本のサヨク

結論を先に言うと、日本のサヨクは特殊だ。世界のサヨクとは全く異質のものだ。何故そうなったかは後述するとして、サヨク先進国での語源は次の通りだ。
           団体:the left又は the left wing
          個人:a leftist又は a left-winger
いずれもたんなる議会における座席の配置から生まれた呼称に過ぎなかった。それが何時しか特殊な意味を持ち始めたのは、その位置に座席をとる人たちが、特定の思想に偏っていたからである。この点までは日本の場合もよく似ている。しかし、日本のサヨクが、現在の特殊な思想傾向にいたる背景や内容は、世界のそれとは大いに異なっている。その最大の原因は、日本の“知識人”といわれる人たちに由来する。
 しからば日本の知識人には、どのような特徴があるのか。それについては2011年11月30日に、このブログ(雑想の森)の「日本人に自虐精神を植え付けたのは誰か」で触れておいたが、その内容を繰り返すと次のようになる。

 加地伸行大阪大学名誉教授によると、論語では知識人を小人と言い、教養人を君子と称するらしい。私は知識人には真正と似非の二タイプがあると考えていたが、この分け方は間違いだった。要するに知識人はすべて小人なのである。さらに言えば、文明の成果を重視するのが知識人で、文化を重んじるのが教養人ともいえよう。
 この分かりにくさを解くには、まず文化と文明の違いを理解しなければならない。文化とは、特定の民族がもつ感性と理性のすべてを駆使して創り上げてきた歴史的な成果の全てである。一方の文明は、理性によってのみ構築された成果であるから、文化のすべてをカバーすることはできない。ただし文明は、自らの成果である文字と文章およびその翻訳によって、自らの文化圏を越え、異なる文化圏にまで及ぶようになった。
 日本では幕末の門戸開放によって、欧米の文明を吸収したが、それも欧米の文字を媒体にして可能になったのである。そして欧米文明の内容を知るほどに、その異質性とレベルの高さに大きなショックを受けた。かくして欧米語に堪能になることは、異文化のうちの文明を知る大切な手段となり、欧米語の翻訳者には高い評価が与えられるようになった。そのあげく日本の知的エリートの大半は、すべて翻訳技能を通じて欧米文明の追随者となった。新しい日本型知識人の誕生である。この流れは明治から現在まで続いている。
 以上の背景のもとに現代日本の知識人は、すべて欧米の語学に堪能であり、さらには欧米文明の虜になった。いわゆる語学エリート=知識人の図式が形成されたのである。但しこの段階では、まだ教養人と知識人の区別はないし、文化と文明の区分もはっきりしていない。しかもこの図式は、敗戦によって一段と強まった。結果として日本の知識人の殆どが、欧米思想に基づく欧米文明にかぶれることになった。具体的な名前を挙げると、南原繁、丸山真男、大内兵衛、都留重人など社会科学系学者の殆どが当てはまる。社会科学は理性に基づく西欧型文明の精華であるが、同じ文脈上にある法学や商学もこれに該当する。さらには西欧文学も、この系譜すなわち西欧型理性の産物である。その意味では評論家の加藤周一や、フランス文学の泰斗とされる渡辺一夫についても同列に論じることができるだろう。したがってこれらの西欧かぶれの「一流!の知識人」が、敗戦を契機にして祖国である日本の全てについて、深刻な自国嫌悪の気分に犯されたのは無理もない。やがて祖国に対して、厳しい批判と反省の矢を放ち始めたのは、けっして偶然ではないのである。
 問題なのは、その自国嫌悪の言説を強引に注ぎ込まれた学生たちである。彼等は思想的には白紙の状態であったから、まるで吸い取り紙のように、何の抵抗もなく濃色の反日インクや自虐インク、更にはアナーキーインクを吸い込んだ。こうして戦後間もなくから団塊世代に至るまでの数十年間、自虐精神を植え付けられた反日知識人が大量に生み出されたのである。卒業後の彼等は、知的エリートとして政治家、産業人、教育者、官僚、マスコミなど社会のあらゆる分野で活動を開始した。しかしその実践の場では、いかなる著名な知識人の言説であっても、それが借りものの空論である場合は、インチキ性はたちまち露呈する。こうして祖国否定に染め上げる濃色のインクも、次第に色あせることになる。学生時代に洗脳された残滓を今なお引きずっている教え子の数は、たぶん少ないだろう。それでも絶滅したわけではない。とくに祖国否定の言説を拠り所にしている職業人には、他に生活の術がない。たとえば進歩的を自称する大新聞やその他のマスコミ関係者、特定のイデオロギーを固守する原理主義政治家、教育という職業の本分を放擲して自らの地位向上と保全だけに力を注ぐ教育者などはその好例である。
 戦後の日本人に自虐精神を植え付けた西欧文明一辺倒の一流知識人は、功なり名を遂げることが出来たが、後発の二流知識人はこの先も自らの職業的命脈が尽きるまで、自虐精神を拠り所にして祖国を誹謗し続けるのだろうか

  さて、この特殊な環境で育った日本の知識人の多くが、現在も知的職業といわれる仕事に就いたままである。列挙すると学者、評論家、高級官僚、教育者、マスコミ業、労組職員などである。もちろん彼等の中には、それぞれの職業の現場において、次第に現実に目覚める者がないわけではない。しかし、それ以外の多くは、リアリズムとは無縁の思考と行動のままである。この実態こそが、日本のサヨクが特殊扱いされる所以である。

2012年1月17日火曜日

年賀状が減った

一昨年から今年にかけて旧友からの年賀状が激減した。亡くなったり施設に入居したり理由はいろいろあるが、一番多いのは、何となく音信が途絶えるケースだ。その一方で、若干ではあるが、新しく友人リストに加わった名前もある。その結果を加減すると、かなりの減少である。最繁期に比べると、おそらく四分の一程度になっているだろう。来年あたりからは十数名程度にしたい。
 年賀状の数を減らそうと思うようになった動機の第一は、友人について考えを改めたからである。まず第一に幼友達である。この数年、私はかなり頻繁に故郷を訪れて彼等と会ってきたが、率直に言って話が弾むことはあまりなかった。それもその筈で、遊学や就職で彼の地を離れて以来、60年以上も経っているのだ。
第二は青春時代である。学校の寮などで生活を共にしたのがその始まりで、かなり濃密な友人関係ができた。また就職後の職場でも、仕事の関係で新しい知己を得ることが出来た。さらに年を経ると、社会生活のいろんな場面で、新たに親交を結ぶようになった人もいる。
 しかし年月が経ったいま振り返ってみると、諺にあるようにまさに「去る者は日々に疎し」の感が強い。それはたんに距離や会う頻度などの物理的な状況を言うのではない。むしろそれを超越した人間としての共感の度合いである。
 いまや高齢者となり、余命に限りあることを自覚するようになったからには、本音の感性と心境で付き合える友人を選びたい。それ以上のことに、なけなしのエネルギーを費やしたくない。いやなものは嫌、すきなものは好きで通したい。義理の付き合いや、惰性の付き合いをやめよう。そう決心したとき、名簿に残す友人の数は驚くほど少なくなってしまったのである。

“想定外”という言葉を恣意的に使い分けるな

1000年に一度の津波被害を想定できなかったという原子力関係者の説明に対して、原発に反対してきたマスコミや評論家などの学識経験者は、それを逃げ口上であると批判している。しかし地球上で日常的に発生する数々の出来事で、1000年に一度しか発生しない事態を誰が予知できるだろうか。例えばこの人たちが守り抜こうとしている日本の平和憲法は、どの程度まで想定外の事態を念頭に置いているのだろうか。

 最近、アメリカのシンクタンク・ランド研究所は、中国との軍事衝突の可能性が、全く無いとは言い切れないと表明している。データによると、過去3400年のうち完全に平和な時代は、250年に過ぎないらしい。つまり戦争があるのが普通であって、それがないのはむしろ例外というべきなのだ。それにも拘わらず、進歩的と称する我が国の学識有識者たちは、漫然と平和憲法が維持できると考えている。念のために、その平和憲法の核心部分を取り出すと、次のようになっている。
 “・・・平和を愛する(海外)諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した・・・・・”。
 この文面に表れている他力本願の虫のよい依存心はさて措くとして、戦争状態が普通という国際関係の歴史を全く無視しているのは致命的である。1000年に一度の津波を想定しなかった原発技術者を非難しながら、その一方で日本が戦争に巻き込む確率はゼロという前提に立っている。しかし戦争の確率は、上述したように津波発生の確率と比べると格段に高い。それでも平和憲法擁護者がそれを無視して、戦争の勃発を想定外と考えているのは何故か。論理的な思考力の不足なのか、あるいは御都合主義なのか。

2012年1月10日火曜日

経済学に何を求めるか

 日本には経済学(・)学(・)者はいるが、経済学者はいないといわれる。この皮肉は経済学者だけでなく、日本の社会学者全体にも当てはまる。たとえばカール・マルクスやマックス・ウエーバーの文献に詳しい学者はゴマンといるが、この分野で新理論を構築した日本の学者の名は寡聞にして知らない。
 話を経済学に戻そう。ずいぶん古い話だが思い出すのは、八幡製鉄所の稲山嘉寛副社長と、東大経済学部助教授の小宮隆太郎の二人で行われた論争である。たしか昭和30年代初期のNHKの正月番組であった。当時の八幡製鉄はライバルである富士製鉄との合併や、千葉県君津での大工場建設など、規模拡大の真っ最中だった。この動きに対する小宮助教授の批判の論旨は、極めて明快であった。日本は重工業の極みともいうべき製鉄業に大投資すべきではなく、もっと軽工業に注力すべきというのである。日本には製鉄の原料である鉄鉱石が全く存在しない。したがって、製鉄業を行うにはそれを輸入しなければならないが、その輸送コストはとても大きい。アメリカのように原料を自国で産出する国に比べると、極めて不利である。日本には鉱物資源はほとんどないのだから、それを輸入して加工する事業は、製鉄に限らず全て止めるべきである。それに比べると軽工業製品は、輸出入で必要になる輸送コストのウエイトが低い。したがって日本の産業は、すべてこの分野で発展の機会を探るべきである。国際貿易の理論に基づけば、その国の立地に基づく優位性と劣位性を考慮して、産業戦略を立てるのが常道である。これに対する稲山氏の立論は、聞いていて腹立たしいほど頑迷にみえた。彼の言い分は、製鉄というものは一国の産業にとって米作のようなもので、採算とは無関係に確立維持すべきものだという。その拠り所は、愛国心であるとまで言い切った。

私は二人の議論を聞きながら、稲山という人物は何と愚鈍なのかと思った。純粋な貿易・経済の論争において愛国心を持ち出すなど、ピンぼけもはなはだしい。それに比べ、小宮助教授の論旨の明快なこと・・・。それが当時の私の感想だった。
 それから何年経ったか。おそらく10年にもならなかっただろう。日本の製鉄業の実力は、品質、数量、コストにおいて世界一の地位を得るようになった。私は明らかに間違っていた。小手先の経済理論に惑わされたのだ。経済学は、人間の意欲や意思を考慮に入れることが出来ない。しかし経済の実態は、その人間の意思や意欲や、時には錯覚や偏見さえも、大きな要因として受け入れ、躍動するのである。

2012年1月9日月曜日

新聞をどう読むか

日本の大新聞には個性がないといわれる。しかし子細に読むと、必ずしもそうではない。むしろ個性がありすぎるぐらいだ。個性がないのは記事を書く記者である。彼等は独立不偏のジャーナリストを気取っているが、実は社の方針に従う一介のサラリーマンに過ぎない。したがって何かの事件についての記事、とくに論評については、その論旨は読む前から大凡の見当がつく。記事に署名があるか否かは、気にする必要もない。欧米の新聞と大きく違うところだ。
 では新聞社そのものの個性はどういうものか。日本を代表するとされている4紙、すなわち朝日、読売、日経、毎日について見てみよう。都合の良いことに、各紙とも紙面のカテゴリー区分が同じ、すなわち国際、経済、社会、政治、文化となっているので比較しやすい。
 まず朝日について言えば、最も特徴を出しているのは「国際」欄である。その記事を読むと、この新聞の国籍を問いたくなるほどだ。事例は多々あるが、最近における竹島の領有問題に関する見解や、尖閣諸島事件に対する態度を想起するだけで十分だろう。とても日本国籍の新聞とは思えない。尤もこのスタイルの根っこは古くて深い。名ジャーナリストの誉れ高き笠信太郎以来の伝統だろうか。彼が主張していたのはコスモポリタニズムであるが、この思想こそが愛国心を否定し続ける朝日新聞の編集方針になっているのである。
 次に日経について言えば、まさに「経済」の専門紙を自負しているらしい。しかし私はそのようには評価しない。この新聞は、たんなる経済界の情報紙に過ぎない。その時々の経済トピックスを取り上げて、尤もらしく解説したり、アジッたりするだけのことだ。どこに、経済問題に関する見識があるというのだろうか。反証の事例はいくつもあるが、ここではそのうちの一つだけを挙げてみよう。つい最近まで日経は、バブル崩壊後の90年代前半以降、日本のGDP成長率が一向に好転しない状況を批判して、“失われた十年”、さらには“失われた二十年”と称して、経済政策や経済活動の不甲斐なさを揶揄してきた。その一方でアメリカの好調ぶりを囃し続けた。しかしリーマンショックによって、アメリカ経済の好調が偽りであることが明らかになると、それ以後は手の平を返すように、「失われた〇〇年」という言葉を紙面から消し去った。途上国に比べて経済成長率が低いのは、先進国すべてに共通していることであって日本固有の問題ではない。いやしくも経済専門紙であるならば、この点にこそ焦点を当てて論評するべきであろう。
 読売についていえば、いかにも大衆紙らしく政治欄や経済欄は平凡で、最も精彩を放っているのは「文化・スポーツ」欄であろう。何しろそのために球団一つを所有するほど熱を入れている。いわば自作自演の記事づくりにもなっている。ここまで徹底すると、他紙のように、社会の木鐸という気取りがないので、むしろ好感さえ持てるのである。ただし今回の読売球団の清武代表と、渡辺会長の争いはお粗末だった。渡辺氏は政界にも影響力を及ぼすボスである。しかし実像は時代のリーダーを装いながら、旧態依然たるものである。彼等マスコミが揶揄して止まない産業界の、トップマネジメントの保守性の、さらにその上をいく旧弊ぶりである。このワンマンにひれ伏すサラリーマン集団に過ぎない読売新聞は、まさに似非ジャーナリストの巣窟というべきか。
 毎日新聞については、取り上げる価値もあるまい。この十年来、やらかしてきた数々の誤報や歪曲記事などを、一々取り上げる必要もあるまい。要するに、この新聞の命脈は、すでに尽きているのである。
 産経新聞は発行部数から言って5位、つまり大手新聞の番外にすぎない。しかし堕落した大新聞と比べて、もっとも注目に値するのではないだろうか。今後における新聞の、生き残りの方向を示唆しているように思われる。
 産経の個性を最もよく表しているのは「政治欄」である。この新聞が報じる政治記事の特徴を一言でいうならば、徹底したリアリズムである。偏った思想や、現実無視の理想論にとらわれることなく、透徹した現実感覚で事件を観察し記事にしている。このスタンスは、複雑極まりない政治を対象にする場合、大へんな威力を発揮する。たとえば朝日新聞は嘗て中国の文化大革命報道において、路上には蠅が一匹もいないといった類いの、拭うことのできない虚偽報道を何年も続けた。これほど極端でなくても、当時は読売、毎日、日経などの他紙にも、似たような記事が少なくなかった。しかし産経には、そのような熱にうなされた記事は一つもなかった。その冷静さの所以は、巷間で批判される右傾思想ではなく、リアリズムに徹した編集方針にあると思われる。