2012年3月10日土曜日

知識人と常識人

昨年の11月、このブログで「日本人に自虐精神を植え付けたのは誰か」と題して、知識人の責任を論じた。しかし、この論考には欠けている部分があった。それは知識人に対立するものとして教養人を挙げるに止まり、もう一つ重要な庶民すなわち“常識人”を挙げなかったことだ。日本人を理解するには、この常識人こそ最も重要な鍵になるだろう。
 この反省に基づいて新たに想定した日本人の分類は、知識人、教養人、常識人の3つである。まず知識人についての定義は、基本的には前回と同じだ。要点を繰り返すと、その要点は以下の4つだ。
① 西欧文明に心酔し、伝統的な日本文化や日本文明を軽視する。
② 西欧文明を理解し翻案する手段として、外国語の習得を第一義とする。
③ 新しい日本文明の創造よりは、西欧文明の理解と模倣と解釈に専念する。
④ 日本民族固有の哲学や宗教観を侮り、コスモポリタリズムを信奉する。そのため往々にして、             アナーキーな言動にはしる。
 このような知識人に対して、真のリーダーとして期待したいのは教養人である。一見したところでは知識人との違いが分からない。少なくとも知識の該博さにおいては、甲乙つけがたいからだ。しかし両者の間には本質的な違いがある。それは上の④に該当する部分だ。すなわち教養人は、民族固有の哲学や宗教観を重視し、借りもののコスモポリタリズムを信奉しない。しかもその言動は常に建設的かつ実践的で、知識人のように評論に止まることがない。
 さて本題は、日本人の圧倒的大多数を占める常識人である。とくに常識人を特徴づける知恵すなわち常識を軽んじてはならない。かつて日本の軍隊が強いのは、エリート将軍や将校でなく下士官だと言われた。またビジネス分野では、優れた企業に共通するのは中間管理職、とくに係長級の人材が揃っていることである。有名大学を出たキャリヤーと言われるグループは、優秀なものもいるが全く駄目なのもいる。つまり当たり外れが大きい。それに対して係長や下士官が押し並べて優れているのは、半端なエリートとは違って、現場で現場主義に徹した体験を重ねたからである。こうして得た体験こそが、知識と違う知恵の源泉になるのであろう。そしてこの常識人の知恵こそ、知識人の借りものに過ぎない知識を圧倒する武器になるのである。私の故郷には、農業を引き継ぐため故郷に残り、長年にわたり村長を勤めた友人がいた。若い頃は帰郷の度に彼と会ったが、そのときの話題はいつも私がリードして、共産主義の素晴らしさをまくし立てた。彼はいつも微笑して聞いていたが、別れ際には決まって「それでもアカは嫌いだ」と断言するのであった。
 形式知に基づいて理路整然と語るのは、相応の訓練をやれば難しいことではない。しかし暗黙知は、その内容がきわめて複雑で膨大である。常識人はその説明の難しさを知っているので、軽々には語らないのである。その難しい内容を理解し、敢えて説明しようとするのが教養人である。その意味では、教養人と常識人は共感できる部分が多い。

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