2008年11月28日金曜日

現代芸術はきわものだ

 先日(2008年10月末)横浜トリエンナーレを見に行った。会場を新港ピア、赤レンガ倉庫、三渓園など数ヶ所に設定した大掛かりな催しだった。しかし折角の期待にも拘わらず、内容は惨憺たるモノだった。印象に残ったのは中谷芙二子の作品ぐらいで、他は論ずるに値しないものばかり。横浜まで出向いてまる一日を費やしたのに、時間とエネルギーの空費が悔やまれる。
 しかし収穫が全くなかったわけではない。長年にわたって疑問を持ちながら、理解しようとしてきた努力の馬鹿馬鹿しさに気付いたからだ。今度こそきっぱり現代芸術というまがい物に付き合うのをやめる決心が付いた。
 そもそも現代芸術は、既成のブルジョア的価値観念を打ち壊そうという、前衛的な考え方から生まれた。しかしコミュニズムの崩壊によって思想的な根拠を失い、今ではひたすら奇をてらう観念論に堕している。その結果、鏡の破片を並べたり、ガラクタを天井から吊るして、それに思わせぶりな表題をつけたりする。そして解釈は観客に任せるという。いかにも傲慢に見えるが、その独りよがりはむしろ滑稽というべきだろう。
 現代芸術を標榜するアーティスト?たちは、額縁で飾られた名画を、よそ行きの格好付けスタイルと批判したり、森羅万象は常に動いているのに静止の瞬間だけを描いていると文句をいう。しかしよそ行きのどこが悪い。また動きがなくてもよいではないか。万物はうつろいいくものだからこそ、瞬間の美を捉えてカンバスの上に止める意味があるのだ。
 折りよく9月30日から国立西洋美術館で、ヴイルヘルム・ハンマースホイの展覧会が開かれた。早速見に行ったが、静寂の一瞬を切り取った詩情とも言うべき美しさに息をのんだ。彼の作品については、改めて別稿で述べたい。