2011年5月22日日曜日

generalityとspecialty

 アメリカの元大統領カーター氏は大変な教養人で、その該博な知識は51分野に及ぶといわれた。しかし重大な問題がおきたときに、その深い教養を生かすことが出来なかった。問題を解決するには、その本質を洞察して対策の“優先順序”をつける必要があるが、彼はそれができなかったらしい。そのため知識はあっても、generalityが欠けていると批判されたのである。ただし辞書でgeneralityを引いても、そのようには訳されていない。たんに一般論や概論となっているだけである。しかし私としては、この批判がgeneralityという言葉の本質をついているように思われるのである。
 東日本大震災における菅首相の言動は、generalityの欠如、すなわち優先順序を付ける能力がない見本のようなものだ。いきなりヘリコプターで現地を視察し、原子炉への海水注入を中断させたからだ。彼は大学で原子力関連技術を学んだというが、今回はそれをひけらかす絶好の見せ場にしたわけだ。しかしそのパフォーマンスが、問題の早期解決にどれだけ障害になったか、徐々に明らかになりつつある。
 この事例を見てspecialtyが役に立たないとは言わない。そうではなくて、御本人はspecialtyがないことを証明したのだ。大学を出て既に何年になるのか。そのキャリアーの大半は市民運動のアジテーターとして、政治活動をやってきたのだから、ご自慢のspecialtyなど既に陳腐化している。それをひけらかす無神経さに驚かされるのだ。
 この人物のSpecialtyは論外として、generalityはどうなのだろう。これこそ政治家として最も大事な資質といえよう。たとえば首相の座についた最初の発言を思い出してみよう。そのころ円高が目立ちはじめていたが、たしか92円前後だったと思う。それを彼は思わせぶりに、96円あたりが妥当だと宣ったのだ。しかし現在にいたるまで、そういう相場は、ただの一度も実現していない。また全く見当違いの場面で、“乗数効果”という経済用語を口走り、専門家の失笑を買った。これではgeneralityの前提になる一般教養にも欠けていることになる。もちろんカーター氏の例のように知識があっても、それだけではgeneralityの本質とはほど遠い。しかし菅首相の場合は、generalityの本質どころか、その前提さえ欠けているらしいのだ。
 Generalityとspecialtyの、その何れも怪しい人物が現在の地位に上りつめたのは何故か。野党時代の揚げ足取りに特化したスキルとパフォーマンスに、国民の多くが幻惑されたからであろう。我々は一日も早く、この悪夢から目覚めなければならない。

2011年5月17日火曜日

パロディ“日本経済を再強化する方法”

 2010年8月17日、中国のGDPは日本を抜いて世界二位となった。その勢いはさらに加速し、両国のギャップはいっそう増大するだろう。悔しいではないか!そこで私は熟慮の末、迷首相である菅直人氏に、起死再生の一大政策を提案したい。
 それには先ず、中国の強みになっている最大の要因を分析すること。次にその分析によって得たエッセンスを、マスコミを通じて国民に納得させることだ。かつて朝日新聞が毛沢東の文化大革命を礼賛し、それを国民に喧伝したあのやり方によって・・・・。
 まず分析で得た結論から言うと、中国経済大躍進の決め手は、国内に奴隷制度を導入したことである。かつてはアメリカも、奴隷制度によって経済の基盤を築いた。同じ人間でありながら、肌の色が黒いというだけで、タダにちかい低賃金で牛馬のようにこき使った。そのおかげでアメリカの農業は大発展を遂げ、現在の強大国に発展する基盤をつくり上げたのだ。
 中国は、今まさにその奴隷制度を模倣している。しかもそれを、同じ肌の色とDNAをもつ国民に対してやっているのだ。具体的にいうと、都市族と農村族の区別である。この二つの区別は、戸籍によって行われる。そのため農村籍の労働者は、都市籍の労働者より数分の一から数十分の一の賃金で働かされるのである。残念ながら日本の経済学者は、この中国経済躍進の鍵について、ほとんど言及していない。やむを得ず、経済学に素人の私が発言せざるを得ないのだ。
 さて問題は、如何にして低下傾向にある日本のGDPを、再び上向きに転換させるかである。すでに米中二つの経済大国の事例で示したわけだが、日本もその奴隷制度を模倣したらどうだろうか。たとえば23年度の予算で23.5兆円が計上されている地方交付税を全廃する。さらに中国に学んで、地方政府から税金を徴収する。中央政府が徴収している金額は全く分からないので何ともいえないが、相当の金額だろうと想像する。その多くの部分は軍備に使われているはずだが、汚職用の賄賂にも流れているかもしれない。いずれにしろ、日本がこれを併用したら23.5兆円をはるかに越える財政余裕が生じる筈である。それだけではない。地方経済を振興させるためにやってきた一切の施策や財政支出も止めてしまう。その結果として地方の経済は疲弊し、都市部と農漁村部との格差は救いがたいほど大きくなるだろう。その一方で、地方出身者の都市部への移動を徹底的に禁止する。
 しかし、いくら厳しく禁止しても農村から都市部への密移動は止まらない。そのかわりスネに傷をもつ移住労働者は、極度の低賃金で働かざるを得なくなる。このようにして、低賃金化の条件は中国と似たようなものになるのである。これだけでも、日本の競争力は格段と高まるはずだ。
 さらに日本経済には、もう一つの秘密兵器がある。それは出身地のいかに関わらず、日本の労働者に共通する特徴である。すなわち、どんな仕事に対しても真面目に取り組む労働の姿勢である。その結果、日本で作られる製品の品質レベルは、例外なく高くて信頼できる。かくして世界でも類のない高品質・低価格の製品が、輸出できるようになる。品質と価格の両面で差をつけるその競争力は、中国の製品を本質的に凌駕するだろう。そして日本のGDP成長率は、再び世界を驚かすことになるだろう。

2011年5月10日火曜日

岡本太郎展をみて

 先日、竹橋の近代美術館で岡本太郎展を見た。いま、美術の世界は激動の真っ最中といわれるが、この人は既に半世紀も前から、この流れに身を投じてきた先駆者である。しかし一方では、変人扱いする人も少なくない。同行した友人もその一人だった。しかし見終わった後の感想は、全く違っていた。
 岡本太郎の最大の業績は、マンネリズムに陥っていた日本の美術界に革新の熱風を吹き込んだことだろう。しかも彼の活躍の分野は、驚くほど多岐にわたっている。絵画はもちろんのこと、ブロンズやアルミ更にはセメントまでを材料にした立体もの、ついでにインダストリアルデザインまで手がけた。そのベースになっているコンセプトは、私の解釈ではシュールリアリズムのように思われる。他にも縄文文化の再発見や土俗文化への傾倒など、美術鑑賞や批評の面でも大いに創造性を発揮している。万博であれほど騒がれた太陽の塔も、彼にとってはone of them に過ぎなかった。
 このように、岡本太郎によって開拓された新しい美術思想と作品は、多くの優れたフォローワーを生み出した。その好例が村上隆である。岡本と村上に共通しているのは、美術について新しいイデオロギーを主張していることだ。従来の西欧追随型の日本の美術界には、このような過激な人物はいなかった。ただひたすらアカデミズムの手法を追求するだけで、思想性に欠けていたのである。たとえば彼らは“若さ”の美は描いているが、“老い”の美は描いていない。そもそも老いには美は存在せず、醜だけしかないと思い込んでいたのではないだろうか。このような精神性の欠如のために、ありきたりの綺麗な絵だけしか描けなかったのである。
 岡本太郎がこのマンネリを打破するきっかけを掴んだのは、多分ピカソとの出会いであろう。それ以来、彼の作品にはシュールリアリズムの影響がはっきりと表れている。私の考えでは、このアプローチがなければ、老いに美を見出すことはできない。しかし彼だったらそれが出来たかもしれない。ただし、このテーマには関心がなかったらしい。
もちろん岡本の絵には、問題がないわけではない。なかでも気になるのは、彼の作品でしばしば見受けられる“パターン化”である。あまり適切な例ではないかもしれないが、この部分に限れば、東郷青児の美人画と共通していないだろうか。正直言って今回の展覧会でも、展示室によっては似たようなテーマやフォルム、色彩などによって、些かうんざりさせられることがあった。勿論そのような問題があるにせよ、岡本太郎が日本の美術界に大きな刺激とヒントを与えたことは明らかである。彼の言動の奇矯さをあげつらう批評家がいることも事実だが、そんなことは作品や思想とは関係ないというべきだろう。

 

2011年5月4日水曜日

史上で稀なる首相

 管直人氏が首相の座について現在に至るまでの、言動の一つ一つを検証してみると、成る程と納得できることが一つもない。この事実は、まさに驚嘆に値する。首相といえども人間だから、一つや二つの誤りを犯すことは不思議ではない。事実、歴代の首相をみても、完全無欠な政治を行った人物はいない。
 しかし菅首相のように、やる事なす事すべてが納得できないというようなことはなかった。何故そうなのか。その根本的な理由は、この人物の人格と、政治信条の二つにおいて理解することができる。 ただし、ここでは人格については触れないことにしよう。そのいかがわしさについては、既にマスコミ辺りで十二分に話題にされているからだ。
 結論からいうと、管首相の政治理念は限りなくアナーキズムに近い。それは彼の“市民運動家”という政治活動の出自に由来する。では市民派の定義、またはそれを特徴づける本質は何か。最大のポイントは、国家という概念の欠落、あるいは国家概念そのものの否定である。そして市民派運動家が行動している内容も、基本的にアナーキズムというべきであろう(白水社クセジュ文庫:アナーキズムを参照)。その考え方を要約すれば、反秩序と反権力の思想である。ただ反秩序についてはあまりに馬鹿馬鹿しいので、ここでは反権力についてだけ述べておきたい。
 この連中が抱いている“権力”のイメージは、たとえばナチスドイツ時代の権力や、軍国主義日本時代のそれらしい。しかし現在の自由主義国家においては、そんなものは全く存在しない。現在における権力は、たんに行政上の機能に過ぎないのだ。具体例を挙げよう。税金を徴収するのは権力である。交通法規を守らせるのも権力だ。暴力を取り締まるのも権力である。現在の民主主義国家における権力とはこのような類いのもので、これを称して行政上の機能というのである。
 ところで権力の意味を拡大解釈し「反権力」をスローガンにして暴走したらどうなるか。その具体例が50年代の全共闘運動である。勝手につくりあげた権力という妄想に挑戦して、とんでもない大騒動をひきおこした。今こそ、その総括の時期であるが、当時の活動家にコメントを求めても、ほとんどは黙して語らないという。市民の常識に戻った今となっては、若気のいたりと恥じるからであろう。
 しかしながら不思議なことに例外があるのである。それが今の民主党政権の中枢メンバーである。菅首相は、まさにその一人なのだ。しかし今、ご本人は当時の行動を総括しようそのとはしない。その結果が現在の政治的迷走をもたらしているのである。国民の不幸、ここに極まれりというしかないではないか。