2011年5月4日水曜日

史上で稀なる首相

 管直人氏が首相の座について現在に至るまでの、言動の一つ一つを検証してみると、成る程と納得できることが一つもない。この事実は、まさに驚嘆に値する。首相といえども人間だから、一つや二つの誤りを犯すことは不思議ではない。事実、歴代の首相をみても、完全無欠な政治を行った人物はいない。
 しかし菅首相のように、やる事なす事すべてが納得できないというようなことはなかった。何故そうなのか。その根本的な理由は、この人物の人格と、政治信条の二つにおいて理解することができる。 ただし、ここでは人格については触れないことにしよう。そのいかがわしさについては、既にマスコミ辺りで十二分に話題にされているからだ。
 結論からいうと、管首相の政治理念は限りなくアナーキズムに近い。それは彼の“市民運動家”という政治活動の出自に由来する。では市民派の定義、またはそれを特徴づける本質は何か。最大のポイントは、国家という概念の欠落、あるいは国家概念そのものの否定である。そして市民派運動家が行動している内容も、基本的にアナーキズムというべきであろう(白水社クセジュ文庫:アナーキズムを参照)。その考え方を要約すれば、反秩序と反権力の思想である。ただ反秩序についてはあまりに馬鹿馬鹿しいので、ここでは反権力についてだけ述べておきたい。
 この連中が抱いている“権力”のイメージは、たとえばナチスドイツ時代の権力や、軍国主義日本時代のそれらしい。しかし現在の自由主義国家においては、そんなものは全く存在しない。現在における権力は、たんに行政上の機能に過ぎないのだ。具体例を挙げよう。税金を徴収するのは権力である。交通法規を守らせるのも権力だ。暴力を取り締まるのも権力である。現在の民主主義国家における権力とはこのような類いのもので、これを称して行政上の機能というのである。
 ところで権力の意味を拡大解釈し「反権力」をスローガンにして暴走したらどうなるか。その具体例が50年代の全共闘運動である。勝手につくりあげた権力という妄想に挑戦して、とんでもない大騒動をひきおこした。今こそ、その総括の時期であるが、当時の活動家にコメントを求めても、ほとんどは黙して語らないという。市民の常識に戻った今となっては、若気のいたりと恥じるからであろう。
 しかしながら不思議なことに例外があるのである。それが今の民主党政権の中枢メンバーである。菅首相は、まさにその一人なのだ。しかし今、ご本人は当時の行動を総括しようそのとはしない。その結果が現在の政治的迷走をもたらしているのである。国民の不幸、ここに極まれりというしかないではないか。

0 件のコメント: