先日、竹橋の近代美術館で岡本太郎展を見た。いま、美術の世界は激動の真っ最中といわれるが、この人は既に半世紀も前から、この流れに身を投じてきた先駆者である。しかし一方では、変人扱いする人も少なくない。同行した友人もその一人だった。しかし見終わった後の感想は、全く違っていた。
岡本太郎の最大の業績は、マンネリズムに陥っていた日本の美術界に革新の熱風を吹き込んだことだろう。しかも彼の活躍の分野は、驚くほど多岐にわたっている。絵画はもちろんのこと、ブロンズやアルミ更にはセメントまでを材料にした立体もの、ついでにインダストリアルデザインまで手がけた。そのベースになっているコンセプトは、私の解釈ではシュールリアリズムのように思われる。他にも縄文文化の再発見や土俗文化への傾倒など、美術鑑賞や批評の面でも大いに創造性を発揮している。万博であれほど騒がれた太陽の塔も、彼にとってはone of them に過ぎなかった。
このように、岡本太郎によって開拓された新しい美術思想と作品は、多くの優れたフォローワーを生み出した。その好例が村上隆である。岡本と村上に共通しているのは、美術について新しいイデオロギーを主張していることだ。従来の西欧追随型の日本の美術界には、このような過激な人物はいなかった。ただひたすらアカデミズムの手法を追求するだけで、思想性に欠けていたのである。たとえば彼らは“若さ”の美は描いているが、“老い”の美は描いていない。そもそも老いには美は存在せず、醜だけしかないと思い込んでいたのではないだろうか。このような精神性の欠如のために、ありきたりの綺麗な絵だけしか描けなかったのである。
岡本太郎がこのマンネリを打破するきっかけを掴んだのは、多分ピカソとの出会いであろう。それ以来、彼の作品にはシュールリアリズムの影響がはっきりと表れている。私の考えでは、このアプローチがなければ、老いに美を見出すことはできない。しかし彼だったらそれが出来たかもしれない。ただし、このテーマには関心がなかったらしい。
もちろん岡本の絵には、問題がないわけではない。なかでも気になるのは、彼の作品でしばしば見受けられる“パターン化”である。あまり適切な例ではないかもしれないが、この部分に限れば、東郷青児の美人画と共通していないだろうか。正直言って今回の展覧会でも、展示室によっては似たようなテーマやフォルム、色彩などによって、些かうんざりさせられることがあった。勿論そのような問題があるにせよ、岡本太郎が日本の美術界に大きな刺激とヒントを与えたことは明らかである。彼の言動の奇矯さをあげつらう批評家がいることも事実だが、そんなことは作品や思想とは関係ないというべきだろう。
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