2012年2月23日木曜日

素人が気にする経済問題(3)

前のブログでは、後進国の追い上げによって、先進五カ国が立ち往生している状況を説明した。この閉塞感をどうやって打ち破るか。たぶん現在の経済学者からヒントを得ることはできないだろう。彼等はひたすら過去のデータに基づく解析と解釈と予測だけをやっているのであって、今後の経済のあり方をデザインすることなど、思いもよらないだろう。いったん身につけた経済理論や思い込みを、簡単には捨て去ることができないからだ。むしろ門外漢の方が、自然体で新しい時代の到来と、それへの対応を考えることができる。たとえばいま、五木寛之の新著「下山の思想」が売れているが、これなどはまさに時代の流れを把握した上での、処世のためのヒントになるだろう。これを経済問題に適用したらどうなるか。
 個体生態学の成長モデルとして、ロジスティックス曲線が知られているが、経営やマーケティングの分野でも、この考え方が応用されている。たとえばある開発製品が売り出された場合、はじめは少量しか売れないが、時間の経過とともに次第に勢いを増し、やがてピークに達する。しかしその後は売り上げは減衰し、終にはゼロになってしまう。その累計でグラフを描くとS字型になるので、Sカーブモデルと俗称されることもある。先進国の今の経済状況は、まさにSカーブにおける減衰場面に該当するのである。したがってこの状況を直視して、それにふさわしい産業・経済のあり方を構想しなければならない。具体的にいうと先進国は、まず従来の人口増、需要増というモデルがピークに達したことを認識し、穏やかに下降線を辿るための対策を考えなければならない。一例を挙げれば、日本では液晶テレビの規模縮小が進められている。
しかしもう一方では、先進国は成長盛りの後進国とは全く違う成長モデルを創成しなければならない。わたしは、それを第六次産業モデルと仮称することにしている。一次産業から始まり、二次→三次→四次→と、順調に進化してきた日本の産業構造であるが、ギャンブル型の五次産業はいち早く諦めた。いまやそれを越える産業モデルが切望されているのである。しかし日本を除く4カ国は、未だに従来型のモデルに拘泥して、新しい構想を打ち出していない。ひとり日本だけが、その可能性を持ち合わせているのである。
それでは日本の新しい国家経済イメージと、それを支える六次産業とはどういうものか。以下の8項目は、私が考えるそのアウトラインである。

① 人口規模の拡大を図らない
② 拡大する後進国とは別の道を歩む
③ 日本文化の精華を製品にする
④ 輸出立国でなく、内需立国をめざす
⑤ 保有資源の再確認と再定義を行う
⑥ 世界の富裕層をターゲットにする
⑦ 生産財と消費財の二分野でユニークさを発揮する
⑧ 文化基盤の上に文明を構築する方法論を確立する
 それでは上述のアウトラインについて、一つずつ説明を加えよう。

1 人口規模の拡大を図らない
 厚生労働省は2012年1月30日、2060年に於いて日本の人口は8674万人まで減少すると発表した。マスコミの論調では、これを国の一大ピンチとしているが、果たしてそうか。前にも述べたように先進5カ国のうちで、人口1億を超えるのはアメリカと日本だけだ。減少しても他の3国並になるだけである。もはや兵士を消耗品扱いする富国強兵の時代ではないのである。ただし65歳以上の割合が40%に達するというのは少し気になるが、これも致命的なことではない。まず高齢者の定義を65歳以上から、70歳以上に変更すればよい。昨今の老人は生活環境の改善や栄養摂取の向上によって、旧時代の老人と比べると格段に屈強である。その一方で、必要以上の延命医療を行わないことにする。植物人間になって、ただ呼吸だけやっているような生き方が、果たして幸福と言えるだろうか。2050年には世界人口は91億になるという。そうなれば100億を越えるのも間近い。地球資源の枯渇を恐れる者にとっては、まさに悪夢だ。その中にあって日本が8000万の人口に止まれることは、むしろ幸運というべきだ。あとはバランスのよい人口構成を維持すればよいのである。その場面では日本文化や思想の神髄をも、考慮に入れてよいだろう。たとえば自死の容認である。自殺を悪とみなしているのは西欧の思想、とくにキリスト教に限られる。歴史的にみて、我国にはそのような考え方はなかった。この点については難波統二が、その著「覚悟としての死生学」で明快に論じているし、古くは「自死の日本史」においても、モーリス・ハンゲが詳しく述べている。西欧思想の呪縛から解かれことにより、過剰とも思える長寿礼賛の風潮や諸施策から脱することべきだ。それにより、いずれは適正な人口構成になるのではないだろうか。

2 拡大する後進国と別の道を歩む
 今や先進国と後進国を問わず世界のほとんどが、コモディティ製品の大量生産と大量消費に没頭し、その優劣を巡って悲喜こもごもの争いを続けている。人口爆発の環境の下では、それもやむを得ないかもしれない。しかし日本は、そのような過当競争に身を投じる必要はない。全くちがう道を探ればよいのである。いや、その道は既に見いだされている。産業のガラパゴス化と揶揄する向きもあるが、これこそ他国が追随できない日本独特の分野である。例えば工場プラント、超精密工作機械、原子力発電設備、最先端医療機器、超精密検査機器、超高速鉄道(運行ソフトを含む)、産業ロボット、炭素繊維などの高性能素材、など枚挙にいとまがない。後進国は日本からこれらを輸入し、それを使ってコモデティ型製品の大量生産競争に参戦しているのである。この点で観ると、日本はすでに彼等とは全く別の道を歩んでいると言えよう。

3 日本文化の精華を商品にする
 生産財の分野では、日本はかなり以前から最も信頼できる供給者として、後進国から高い評価を受けている。しかし今後は消費財の分野でも、他の追随を許さないユニークな道を選ぶことになるだろう。既に日本文化に根ざす製品は、それが伝統的なものである場合は、各国の知識階級や富裕階層の垂涎の的になっている。その一方で今風のものが、ハードとソフトの両面で、庶民や若者の間で大人気になっている。
 まず伝統産品の例として、いまヨーロッパでブームになっている盆栽を取り上げてみよう。以下はJETROが平成21年に於いて行った 欧州地域における 盆栽輸出可能性調査から抜粋したものである。
「日本の伝統産品として位置づけられている盆栽は、柔道や空手が世界中に広まってスポーツ愛好家が拡大しているのと同様に、今やわが国の伝統品としてだけでなく広く海外にも愛好者が存在している。貿易統計上では、アジア諸国向け輸出が第1位であるが庭木などの種類が多いといわれている。一方EUでは、40年前からイタリア、ベルギー、オランダ等で根強い需要がある。現地人指導者による盆栽教室の開講、愛好家クラブで活発な展示会開催など、大きなファンを獲得している・・・・」。
 嘗て梨花女子大の李教授がその著「縮み志向の日本人」において、日本人の“内”に向かう発想傾向を、盆栽などを例にとって象徴的に論じたことがある。李教授の議論は皮肉ではあるが、相応の説得力があった。しかし国内ではそれに自虐的な知識人が過剰に便乗し、日本ダメ論の論拠にしたのである。幸いにして現在では、そのような迷論は全く姿を消し、海外の高い評価を素直に受け止めるようになっている。なお李教授の論に敢えて付言するならば、日本文化の特徴は「縮み」よりも「洗練:リファイン」とするべきだろう。
 盆栽の例にみるように、近年になって日本の伝統産品は、にわかに世界の各国から高い評価を受けるようになった。和菓子、京料理、寿司、刀剣、漆器、陶器、文房具、ガラス製品、高級食材(米、牛肉、野菜など)、化粧品、家具、皮革製品、インテリア用品、生活雑貨、伝統織物など、それこそ枚挙にいとまがない。
 これらの商品を手がけるのは殆どが大企業でなくて、中小企業か零細な職人企業である。したがって独力で海外向けのマーケティングを展開するのは難しい。今こそ国全体として支援する体制が望まれる。例えば現地に共同の店舗を設置するに際しては、国や地方自治体などの資金援助、または協同組合などの編成が必要になるだろう。付言するが、このような職人型企業の資産は、従業員のスキルそのものが資産である。そのスキルは経験が長いほど向上する。70才どころか、80を越えても貢献できる。
 一方、今風の日本文化をバックにした、若者や子供市場の開拓はどうか。実はこの分野こそ、すでに進出済みと言えるのである。欧米に於けるマンガやアニメの普及ぶりは、今さら説明の必要もあるまい。また任天堂などが開拓したゲーム市場は、スマートフォン対応のゲームソフト市場に繋がり、今後も一層の拡大が期待される。かくして「日本文化の精華を商品にする」活動そのものが、六次産業を創成する原動力になるであろう。

この後は次のブログ  ―素人が気にする経済問題(4)―  に続ける

4 輸出立国でなく、内需立国をめざす
5 保有資源の再確認と再定義を行う
6 世界の富裕層をターゲットにする
7 生産財と消費財の二分野でユニークさを発揮する
8 文化基盤の上に文明を構築する方法論を確立する

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