2012年2月7日火曜日

知識人の時代は終わった

先日、辻本清美民主党代議士が「世界」に投稿した論文を読み、その内容のレベルの低さに驚いたので、その要約をこのブログで報告した。同じ理由で失望させられた例は他にもある。たとえば仕切りと銘打った政治ショーの予算折衝において、世界一を目指すスーパーコンピュータの予算を削るため、2番ではダメですかと詰問し、担当者を絶句させた蓮舫代議士である。このほか民主党政権の要職に就いた面々の無知、失言、失策があまりにも多いので、今や国民の多くが諦めの境地である。
 しかしよく考えてみると、彼等に一票を投じたのは我々、すなわち日本の大衆(常識人)である。しからば日本人の多くは、愚かであったのか。それは断じて違う。誤ったのは、私が糾弾して止まない「知識人」に煽動されたからである。この際、はっきりしておきたいのは、煽動された方がわるいのではなく、煽動した方がわるいのである。
 では、その知識人とは何者なのか。その答えは、以前に投稿したブログ「日本人に自虐精神を植え付けたのは誰か」で明らかにしておいた。要するにマスコミ人、社会科学系の学者、教育者、官僚、評論家である。もちろん彼等のすべてとは言わない。例外はある。しかし大まかには、これらの知識人が明治維新後の日本人をダメにしてきたのである。ただし知識人というだけでは、表現があまりに曖昧なので、ここではもう少しはっきり定義しておこう。
 以前から私は独断と偏見によって、日本人の全体を、以下のように3つに分類している。
       常識人(庶民)
       教養人
       知識人
 この分類に基づき、それぞれが如何なる「資質」と「行動様式」をもっているかを比較してみて、以下のような結論を得た。
    (注1)資質とは、倫理観、専門知識、知恵のタイプを意味している。
    (注2)行動形式は、観念型(理想型)と実践型(現実型)の二つに分類。

①常識人
 (1)常識人の資質
 常識人(庶民)が持っている第1の資質とは倫理観すなわち道徳心であるが、そのレベルの高さは世界でも定評がある。具体的な内容は、かつての教育勅語に極めて簡潔に纏められているが、庶民はその項目のすべてを真面目に実践してきた。それも強制されたのではない。内容のほとんどは、日常的に既に実践されていたのである。少なくとも敗戦まではそうしてきた。
 常識人の第2の資質は専門知識だ。これは理論化はされていないが、技能のかたちで極めて高い水準に達している。しかも、それを習得する過程では、さまざまな創造性を発揮している。それができるのは、彼等庶民にとって労働はけっして忌避すべきものではなく、人生の目的そのものになるからである。
 (2)常識人の行動様式
 常識人の行動様式は、とりわけユニークである。彼等は本質的にリアリストだから、哲学や観念論には殆ど関心を示さない。関心があるのは、当面している課題をいかに処理するかという現実の解決策と、そのための行動だけである。そのため、回りくどい理屈を嫌い、直接解決するための知恵を尊重する。

②教養人
 (1)教養人の資質
 では教養人の資質はどうか。興味深いことに、彼等と常識人の資質は多くの点で共通している。まず道徳心(倫理観)については、ほとんど同じと言ってよいだろう。ただ専門知識については、その深さと汎用性において、常識人との間に相当な隔たりがある。これは抽象的かつ汎用的な知識そのものを対象にする立場と、具体的で個別的な技能を駆使する立場は違うのだから、両者が相違するのは当然のことと言うべきであろう。
 (2)教養人の行動様式
 教養人の行動様式も、基本的には常識人と同じである。何故なれば、机上で空論を述べるだけで実践が伴わなければ、真の教養人ではないからである。その意味では、かつて高見の見物スタイルで一世を風靡した評論家、加藤周一などは教養人ではない。

③知識人
 (1)知識人の資質
 知識人は、資質の基本となる道徳心そのものに疑いを持っているらしい。とくに上述した教育勅語に対しては、強烈な反対または無視の態度を示している。西欧思想の洗礼を受けた彼等にとって、日本的な徳目など、決して認めることができない。然らば西欧思想の基本となる徳目は何か。第一に特定宗教の教義(イデオロギー)を守ること。しかしその宗教が複数あるとしたら、どれが正しいのか。日本の知識人のほとんどは、その第一条件をクリアーしていない。一方で日本の神道に基づく教育勅語を否定するのだから、その思想的根拠はどこにあるのだろうか。それがない道徳心の内容とはどういうものか。たぶん道徳心そのものを否定しているのかもしれない。戦後から最近まで猖獗を極めた似非アナーキストの源は、この辺りにあるのかも知れない。
 (2)知識人の行動様式
 知識人の行動様式もまた極めてユニークである。現実を直視するのではなく、観念的な理想論を振りかざす。その観念は独特のイデオロギーを前提にして組み立てられる。そして、一旦それが出来上がったら、日常の出来事すべてを、その基準によって判断し評価する。それが嵩じて原理主義にまでエスカレートする。流石にここまで極端になるのは一部である。大部分は半端な状態で浮遊し、幻想に耽っているのである。冒頭で触れた辻本代議士や蓮舫代議士など、民主党のメンバーが構想し、スローガンとして喧伝したマニフェストなどはその典型である。このようなものを本気で考え、行動するのが知識人なのである。教養人や常識人(庶民)は知識があっても、決してこのような愚行に走らない。

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