2012年1月9日月曜日

新聞をどう読むか

日本の大新聞には個性がないといわれる。しかし子細に読むと、必ずしもそうではない。むしろ個性がありすぎるぐらいだ。個性がないのは記事を書く記者である。彼等は独立不偏のジャーナリストを気取っているが、実は社の方針に従う一介のサラリーマンに過ぎない。したがって何かの事件についての記事、とくに論評については、その論旨は読む前から大凡の見当がつく。記事に署名があるか否かは、気にする必要もない。欧米の新聞と大きく違うところだ。
 では新聞社そのものの個性はどういうものか。日本を代表するとされている4紙、すなわち朝日、読売、日経、毎日について見てみよう。都合の良いことに、各紙とも紙面のカテゴリー区分が同じ、すなわち国際、経済、社会、政治、文化となっているので比較しやすい。
 まず朝日について言えば、最も特徴を出しているのは「国際」欄である。その記事を読むと、この新聞の国籍を問いたくなるほどだ。事例は多々あるが、最近における竹島の領有問題に関する見解や、尖閣諸島事件に対する態度を想起するだけで十分だろう。とても日本国籍の新聞とは思えない。尤もこのスタイルの根っこは古くて深い。名ジャーナリストの誉れ高き笠信太郎以来の伝統だろうか。彼が主張していたのはコスモポリタニズムであるが、この思想こそが愛国心を否定し続ける朝日新聞の編集方針になっているのである。
 次に日経について言えば、まさに「経済」の専門紙を自負しているらしい。しかし私はそのようには評価しない。この新聞は、たんなる経済界の情報紙に過ぎない。その時々の経済トピックスを取り上げて、尤もらしく解説したり、アジッたりするだけのことだ。どこに、経済問題に関する見識があるというのだろうか。反証の事例はいくつもあるが、ここではそのうちの一つだけを挙げてみよう。つい最近まで日経は、バブル崩壊後の90年代前半以降、日本のGDP成長率が一向に好転しない状況を批判して、“失われた十年”、さらには“失われた二十年”と称して、経済政策や経済活動の不甲斐なさを揶揄してきた。その一方でアメリカの好調ぶりを囃し続けた。しかしリーマンショックによって、アメリカ経済の好調が偽りであることが明らかになると、それ以後は手の平を返すように、「失われた〇〇年」という言葉を紙面から消し去った。途上国に比べて経済成長率が低いのは、先進国すべてに共通していることであって日本固有の問題ではない。いやしくも経済専門紙であるならば、この点にこそ焦点を当てて論評するべきであろう。
 読売についていえば、いかにも大衆紙らしく政治欄や経済欄は平凡で、最も精彩を放っているのは「文化・スポーツ」欄であろう。何しろそのために球団一つを所有するほど熱を入れている。いわば自作自演の記事づくりにもなっている。ここまで徹底すると、他紙のように、社会の木鐸という気取りがないので、むしろ好感さえ持てるのである。ただし今回の読売球団の清武代表と、渡辺会長の争いはお粗末だった。渡辺氏は政界にも影響力を及ぼすボスである。しかし実像は時代のリーダーを装いながら、旧態依然たるものである。彼等マスコミが揶揄して止まない産業界の、トップマネジメントの保守性の、さらにその上をいく旧弊ぶりである。このワンマンにひれ伏すサラリーマン集団に過ぎない読売新聞は、まさに似非ジャーナリストの巣窟というべきか。
 毎日新聞については、取り上げる価値もあるまい。この十年来、やらかしてきた数々の誤報や歪曲記事などを、一々取り上げる必要もあるまい。要するに、この新聞の命脈は、すでに尽きているのである。
 産経新聞は発行部数から言って5位、つまり大手新聞の番外にすぎない。しかし堕落した大新聞と比べて、もっとも注目に値するのではないだろうか。今後における新聞の、生き残りの方向を示唆しているように思われる。
 産経の個性を最もよく表しているのは「政治欄」である。この新聞が報じる政治記事の特徴を一言でいうならば、徹底したリアリズムである。偏った思想や、現実無視の理想論にとらわれることなく、透徹した現実感覚で事件を観察し記事にしている。このスタンスは、複雑極まりない政治を対象にする場合、大へんな威力を発揮する。たとえば朝日新聞は嘗て中国の文化大革命報道において、路上には蠅が一匹もいないといった類いの、拭うことのできない虚偽報道を何年も続けた。これほど極端でなくても、当時は読売、毎日、日経などの他紙にも、似たような記事が少なくなかった。しかし産経には、そのような熱にうなされた記事は一つもなかった。その冷静さの所以は、巷間で批判される右傾思想ではなく、リアリズムに徹した編集方針にあると思われる。

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