2012年1月10日火曜日

経済学に何を求めるか

 日本には経済学(・)学(・)者はいるが、経済学者はいないといわれる。この皮肉は経済学者だけでなく、日本の社会学者全体にも当てはまる。たとえばカール・マルクスやマックス・ウエーバーの文献に詳しい学者はゴマンといるが、この分野で新理論を構築した日本の学者の名は寡聞にして知らない。
 話を経済学に戻そう。ずいぶん古い話だが思い出すのは、八幡製鉄所の稲山嘉寛副社長と、東大経済学部助教授の小宮隆太郎の二人で行われた論争である。たしか昭和30年代初期のNHKの正月番組であった。当時の八幡製鉄はライバルである富士製鉄との合併や、千葉県君津での大工場建設など、規模拡大の真っ最中だった。この動きに対する小宮助教授の批判の論旨は、極めて明快であった。日本は重工業の極みともいうべき製鉄業に大投資すべきではなく、もっと軽工業に注力すべきというのである。日本には製鉄の原料である鉄鉱石が全く存在しない。したがって、製鉄業を行うにはそれを輸入しなければならないが、その輸送コストはとても大きい。アメリカのように原料を自国で産出する国に比べると、極めて不利である。日本には鉱物資源はほとんどないのだから、それを輸入して加工する事業は、製鉄に限らず全て止めるべきである。それに比べると軽工業製品は、輸出入で必要になる輸送コストのウエイトが低い。したがって日本の産業は、すべてこの分野で発展の機会を探るべきである。国際貿易の理論に基づけば、その国の立地に基づく優位性と劣位性を考慮して、産業戦略を立てるのが常道である。これに対する稲山氏の立論は、聞いていて腹立たしいほど頑迷にみえた。彼の言い分は、製鉄というものは一国の産業にとって米作のようなもので、採算とは無関係に確立維持すべきものだという。その拠り所は、愛国心であるとまで言い切った。

私は二人の議論を聞きながら、稲山という人物は何と愚鈍なのかと思った。純粋な貿易・経済の論争において愛国心を持ち出すなど、ピンぼけもはなはだしい。それに比べ、小宮助教授の論旨の明快なこと・・・。それが当時の私の感想だった。
 それから何年経ったか。おそらく10年にもならなかっただろう。日本の製鉄業の実力は、品質、数量、コストにおいて世界一の地位を得るようになった。私は明らかに間違っていた。小手先の経済理論に惑わされたのだ。経済学は、人間の意欲や意思を考慮に入れることが出来ない。しかし経済の実態は、その人間の意思や意欲や、時には錯覚や偏見さえも、大きな要因として受け入れ、躍動するのである。

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