アルビン・トフラーが「富の未来」を著したのは2006年であるが、それから6年経った今、世界はその予測どおりになっている。彼が定義している“富”とは、欲求をみたせるもの、またはそれと交換できるものを所有する状態のことである。その代表例が現金であるが、それだけではない。骨董品や土地建物も然り。極端な例では第二夫人、第三夫人というように扶養する妻の人数で富を誇示する民族も存在する。その一方で、人間の富の意識は環境の変化にも呼応する。したがってその内容は多様化の一途を辿ることになる。
しかし一方では価値を失う富もある。そうなってしまう最大の原因は、過度な普及であろう。たとえばつい最近まで、学歴は一種の富であった。ビジネスに役立つ人脈も然り。職種や大企業に属する社員という身分さえ、一種の富とみなされる時代があった。しかし最近では、この類いの富は大きく価値を失っている。もはや学歴や所属する会社といったステイタスは、富として殆ど認められない。職種についても同じことがいえる。嘗ては高評価を得ていた医者、学者、官僚などになりたくない若者が増えている。
富を象徴するものが、なぜこのように変化するのか。第一の理由は、社会環境の変化であり、第二の理由はその変化に適応しようとする人間の営みであろう。環境の変化について事例を挙げてみよう。まず身近に感じるのは、日本のモノづくり競争力の衰退である。本来、コストダウンはカイゼン技術によって、日本がもっとも得意とするものであった。しかしそれを越えるパワーが現れた。中国の低賃金労働である。カイゼンではいくら頑張ってもせいぜい数パーセントのダウンしかできない。しかし中国の賃金相場は10分の1である。つまり環境が全く違うのだ。このような環境のもとでは、日本の生産技術力という富は、大きく価値を損なうのである。
一方、共産主義というイデオロギーはどうか。ごく最近まで、これを信奉する中国人にとっては大いなる富であった。この理論と実践力を身につけると、強大な権力すなわち利益を手にすることが出来た。しかし現在では、その価値はかなり損なわれている。すなわちこの国を覆う社会環境が、露骨で利己的な拝金主義に変わってしまったからである。
以上のように環境の変化に応じて富は変化するから、新たに富を獲得するには、慎重に戦略を立てなければならない、差し当たって日本はどうすべきか。それには先ず今後における世界の動向を予測する必要があろう。実を言うと、その実態は既にフリードマンの好著「フラット化する世界」で明らかにされている。私なりに補足すれば、それは後進国の大衆に芽生えた西欧型商品への爆発的な購買意欲と、その急速な伝播であろう。この現象は一体何をもたらすか。いずれは地球資源の枯渇をもたらすだろう。砂上に楼閣を築くがごとく富を創造しながら、その一方で富を損なうことになるのだ。この深刻な矛盾をどう克服するか。日本が21世紀の勝者になる条件である。
18世紀後半から20世紀を通じては、西欧はその文明に由来する人工物によって未曾有の富を形成した。しかしその一方では、文明の本質である複写性がフラット化を生み出し、富の陳腐化をもたらしている。まさに自己矛盾というべきであろう。
一方、日本はその伝統に基づき独自の富も形成してきたが、西欧型の富の創出でも抜群の成績を上げた。しかし今後は上で述べたように、フラット化によって西欧型“富”の時代が終わる。つまり新たな“富”を形成する環境をデザインしなければならない。それができるのは、たぶん日本だけだろう。なぜならば、日本は世界のどこにもない固有の文化をもっているからだ。この固有文化に由来する富と、西欧文明に由来する富を接ぎ木することによって、途方もない富が創出できるはずだ。私はその創出プロセスに仮の名称を与えている。すなわち「第六次産業」である。その具体的なイメージは、いずれこのブログで明らかにしたい。
0 件のコメント:
コメントを投稿