2011年8月3日水曜日

政治とテロ

特定の政治家に対する不満が鬱積すると、対抗手段を持たない大衆は、その人物を標的にして直接的な反撃を敢行する。それは民主や独裁といった政治の体制には関係ないし、後進国とか先進国といった区分にも関係はない。方法はいろいろあるが、なかでも過激なのがテロ行為である。日本も例外ではなくテロ事件は、明治から昭和にかけては頻発した。ただ、1960年10月に日比谷公会堂で起きた浅沼稲次郎暗殺事件の後は、小競り合い程度のもの以外は見受けなくなっている。
 ただし今は沈静化しているからといって、今後も発生しないとは断言できない。政治とは、本来複雑な利害や思惑が交錯するものであり、その対立の中には、妥協や融和が絶対に出来ない部分が存在するからである。確信犯という犯罪名が存在する事実がそれを証明している。
 政治を行う者は、この現実とリスクを十二分に知悉していなければならない。その危険にも拘わらず、使命感に燃えて自らの政治理念を実現しようとしなければならない。それを支える原動力は、おそらく「覚悟」というものであろう。この覚悟なしに、マニフェストの類いをぺらぺら喋るごときは、たんなる口舌の輩に過ぎないということになろう。
 先だって某誌で、小泉進二郎自民党代議士が、父親の小泉純一郎について語った記事を読んだ。それには「あの郵政民有化を巡る大政争において、父は刺客に狙われることを覚悟して、いつも腹に晒しを巻いていました」と書いてあった。
 宰相であれ陣笠代議士であれ、その人物の経綸がどの程度のものかは、その場限りのパフォーマンスやぺらぺら喋る内容だけでも十分窺い知ることができる。しかしテロに対する覚悟があるかどうかは分からない。

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