2011年4月24日日曜日

東電いじめをやめよ

 原発事故が発生したとき、菅首相は東電の本社に乗り込み、同社の幹部を大声で罵倒した。重大場面で、このようなはしたない行為をやるのは、軍隊で言えばせいぜい大隊長レベルである。それを一国のトップがやってのけるとは、とても信じがたい。しかし、このはしたない現場主義?をきっかけにして、東電いじめの罵声は日本のあらゆる分野に蔓延した。それを列挙すれば、まず監督官庁である。次いでマスコミ。さらに反対派の学者。そして地方政治家とつづく。とくに4月23日夜のNHKニュース番組に登場した、福島県知事の傲慢な態度には、腹が立つより悲しみさえ感じさせられた。ひたすら頭を下げて謝罪する東電の社長を、傲然と見下ろしたままで突っ立っている。そして手にした文書をおもむろに読み上げ、「あなたはこのように苦しんでいる県民のことをどう考えているのか」と詰問する。この知事自身は、顔色もよくつやつやしていて、とても憔悴しているようにはみえない。おそらく快適な自宅で十分に睡眠をとっているに違いない。そしてマスコミの取材を意識して、執拗に責任を追及するのである。彼の念頭には、おそらく次の知事選挙があるのだろう。それが私の僻目かどうかは、いずれ明らかになるだろう。
 この事例はあまりにお粗末すぎるが、他にも似た話はいくつもある。当初はそれほどでもなかったが、今では被害住民の多くが、ひたすら東電の責任を追求するようになっている。その原因の多くは、マスコミの報道姿勢にあると考えてよいだろう。
 しかし本当のところ、責任の全てが東電にあるといえるのだろうか。それに答えるには、まず我が国が原発を導入するに至った経緯を振り返らなければならない。少なくとも東大を始めとする大学教授や専門家たちが、基本設計を描いたはずだ。それを諮問したのは、当時の政権政党であり政府である。さらに拡大すれば、国全体と言ってよいほどの大多数が賛成したのである。もちろん、このような大事業を伊達や酔狂ではじめるわけがない。日本のエネルギー消費の将来を考えた末の結論だった。つまり原発導入は、国民全体の合意で行われたのである。民主党の中には、自民党がやったことで自分たちは関係ないとうそぶく人がいる。しかし、それはないだろう。革命政権ならいざ知らず、政権を引き継ぐこと自体が、了解したことになるからだ。
 上述のように、原発そのものの導入責任は追求できないとして、次に問題になるのは原発設備の故障責任を誰に負わすかである。なにしろ1000年に一度の地震と津波である。それを見込まずに設計したといって責任を追求できるのか。さらに言えば、この分野で、東電が負うべき責任がどの程度あるのだろう。東電はたんに上述の専門家たちによって設計された設備を、忠実かつ正確に導入し運営してきただけなのだ。
 結論はたぶん、犯人捜しをしてもしようがないということであろう。大切なことは、これを教訓にして、将来は一そう高度なシステムを作ることだ。そして最高責任者は、八つ当たりしたり、かんしゃく玉を破裂させるようなことをしてはならない。その行為自体が、トップの資格なきことを証明することになるからである。

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