2011年9月6日火曜日

有本香の支那論で感じたこと

 小林よしのりと有本香の対談をまとめた「はじめての支那論」を読んだが、実に面白かった。まず中国と言わずに支那というところが面白いし、十分に説得力がある。ここではその詳細は省くが、二人が縦横に語り合っている内容はとてもユニークで、目から鱗が落ちる想いがした。
 私は以前から中国に関心があって、この種の出版物は数多く読んでいるが、どうも釈然としないところがあった。とくに学者が書いたものは分かりづらかった。引用する文献やデーターは豊富で分量が多いのが特徴的だが、大体において結論が曖昧なのだ。こういう考え方もある、ああいう議論もあるというわけで、思わず著者御自身のスタンディングポジションはどうなのですかと尋ねたくなってしまう。それに比べると小林/有本ご両人の論旨は極めて明快だ。
 学者の著書が分かりづらい理由について考えてみたが、これはいわゆる人文科学と称する分野の、学問的方法論に問題があるのではないだろうか。すなわち、内容のほとんどが文献やデータの引用であること。所説を述べるにしても、それらの解説や解釈がほとんどで、自説といえるほどのものが極めて少ない。そこで使うデータや情報も、そのほとんどは、自分の足で稼いだものではない。たまには現地に赴いてインタビューや会議に参加しているが、そこでの相手がまた学識経験者ときている。つまり現場の実生活者からは、距離があるのである。この点は小林/有本とは大きく違う。とくに有本が現場に赴き、体を張って取材した情報の迫力は抜群だ。とくに中国に限って言えば、この国が公表するデータに、どの程度の信憑性があるのか。たとえば人口13億と称するが、実際は15億とう説も根強い。GDPが世界第2位になったと騒ぎ立てるが、全く信用できない。学者がこのようなデータを基にして、切り貼り細工のように編集した論説など如何ほどの価値があるのか。
 話はかなり脱線してきたが、最近は人文科学と称する分野の衰退ぶりも目立つようになった。まず気になるのが、書店に並ぶ新刊書にめぼしいものが見当たらないことだ。しかしそれは当然のことかもしれない。そもそも人文科学とは何なのか。たとえば自然科学で用いられるアプローチを模倣して、唯物史観なるものをでっち上げたりしたが、所詮は疑似科学に過ぎなかった。そのほか経済であれ、政治であれこのアプローチによって尤もらしい論説が大いに蔓延ったが、現在ではその多くが空論と見なされている。そのため“論”作りを生業にする学者という職業も、命脈が尽きつつある。小林/有本による支那論(中国論)が、学者による中国論を越えるのは当然だといえよう。

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