人はみな感性をもっている。その基になるのは人間に共通する五感であろう。しかし個別に見ると、まったく同じ感性をもつものは一人もいない。その原因はおそらく、生まれつきの素質に加えて、生活環境の違いや文化の違いなどによるのであろう。
一般に日本人は、自らの特徴を情緒型または感性型と考えている。たしかに半世紀前までは、その傾向が強かった。しかし近年は、その特徴も失われつつあるように感じられる。
とくに気になるのは、音に対する感性が衰えていることだ。たとえば繁華街では、いまだに大売出しを宣伝するロードスピーカーが、音量一杯にがなりたてる。満員の通勤電車では、つり革にぶら下がっている乗客の耳元に、車掌の安全を説くアナウンスが飛び込んでくる。地方に旅行したときは、旅館の隣にあった役場の拡声器から、町中にお早うメロディーが伝えられた。睡眠中の私は、何事かと跳ね起きた。時刻はちょうど七時だった。
欧米の都市を旅した日本人の何人かは、騒音のない静けさに感銘をうける。しかし大部分は、それも感じないらしい。つまり国民の多くが騒音に関して不感症になっているのだ。かつて日本の文化は、静謐さに特徴があった。芭蕉の「古池や蛙とびこむ水の音」などはその典型といえよう。苔むした庭園では、筧の跳ねる音を間遠に聞くことができた。
騒音に対する不感症は感性の衰弱、さらには精神の荒廃につながるように思われてならない。何とかならないだろうか。もともと日本人の音に対する感性は優れているはずだ。それは昔に限ったことではない。現代音楽の雄、武満徹は日本人の音感を代表する作曲家であった。われわれは音に対する伝統的な感性を、もう一度呼び覚まさなければならない。
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