2007年10月21日日曜日

漢詩は演歌である

  日本はユーラシア大陸の東の果てから、さらに海を隔てた僻地に位置する島国である。そのため古来から文明の後進国として、近隣諸国とくに中国から多くを学んできた。この動きは遣唐使の時代から、明治の初期にいたるまで連綿として続いた。日本で漢詩がもてはやされたのもその一環である。当時、漢詩をたしなむことは知識人の資格条件でもあった。恰も大正以後において、英語を理解することが新しい知識人の資格条件のように誤解されたのとよく似ている。
  しかし漢詩そのものに、それほど価値があるのだろうか。私はほんの一部しか読んでいないが、率直にいってその内容が深遠なものとは思えない。思想性や哲学を感じることができないのだ。あえて分類すれば、花鳥風月を描写したものと、別離の哀しさ、そして世に容れられない拗ね者の恨み節がほとんどである。まあいえば気取った演歌のようなものではないか。 
  もちろん漢詩には独特の魅力がある。私はそれを、2つ挙げることができる。第1は視覚的な効果である。無味乾燥なローマ字ではなくて、漢字すなわち象形文字の配列は、それ自体が一種の絵といえるだろう。第2は、音楽的な効果である。漢詩を口ずさむと、心地よいリズムに乗ることができる。この2つと上で述べた演歌的な感情を組み合わせて、漢詩は極めてポピュラーな人気を得ることができたのであろう。その意味で漢詩は、当時のハイカラミーハー族にとっては、一種のエンターテインメントになっていたのである。

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