韓国の英語熱は相当なものらしい。英語を第二公用語にせよという論者もいるという。お陰で日本もとばっちりを受けている。日本人の英語力は、韓国人と比べてレベルが低いと馬鹿にされている。とくに発音については、くそみそだ。日本の悪口を言えば喜ばれるお国柄だから、格好の餌食になっているわけだ。おなじ植民地になるのだったら、英国やフランスに支配されたら良かったという知識人さえいるという。
しかし日本も、こと英語コンプレックスに関しては、けっこう情けない時期があった。今でもその傾向がないわけではないが、その発端はたぶん明治の文明開化にあるらしい。長い鎖国の眠りを覚ましてくれたのは、浦賀にやってきた巨大な鋼鉄の軍艦だった。そのあと蒸気機関車をはじめとして、次々に持ち込まれた西欧の便利で珍奇な品々は、まさに驚きと憧憬の的になった。そして国をあげて、これらを作り出す西欧諸国から、できるだけ多くを学びとろうと奔走した。とくに進取の気性に富むもの達は、競って蘭語や独語、英語など欧語の習得に励んだ。
何しろ西欧から持ち込まれたものは、きらびやかな物品に限らず芸術、軍事、交通、建造物などすべてがすばらしかった。したがって興味の的が、これらを生み出した文明そのものへと広がったのは当然の成り行きである。こうして西欧型の知識体系も、急ピッチで国内に普及するようになった。この動きに最も敏感だったのは知識人や学者であった。しかも彼らが求める知識の多くは、西欧文書の翻訳から得ることができた。日本の知識人が西欧語の習得を最も重視したのはそのためである。
文明すなわち知識の内容は、形式知である。したがって言語によって伝えることができる。しかし言語で表現できないもの、すなわち文化の内容はいかに優れたものであっても、言語で伝達することはできない。それ故に暗黙知といわれるのである。軽率にも日本の知識人はこの点を見落していた。文化と文明のすべてを言語で表現できると考えた。さらに言えば、文化と文明の区別もしていなかった。それゆえ西欧に対する文明劣等感は、文化劣等感にまで及んだのである。
形式知の母体は暗黙知である。別の表現をすれば、文明の母胎は文化である。文明開化以来、日本は国を挙げて西欧文明の習得に熱中し、ついにそれと肩を並べるようになった。もはや学ぶべきものはほとんどない。対等の立場で競い合うだけのことだ。しかし知識人の多くはそれに気付かず、閉塞感に苛まされている。西欧文明の翻訳つまり模倣しかやってこなかったからである。彼らには翻訳による模倣はできても、創造はできないのだ。
韓国が英語熱にうなされている現状は、よそ事ではない。日本も同じ道を歩んできたからだ。つまり文化と文明を混同してきたのである。しかし、今や日本は文明と文化の違いに目覚めた。その契機となったのは、科学技術を中心にした西欧文明のエッセンスを、学び尽くしたことに気づいたからである。21世紀の今、西欧型文明の限界は誰の目にも明らかである。環境破壊、地球収奪型経済の破綻、破滅型兵器の独占体制崩壊など枚挙すればきりがない。この閉塞状態を破るにはどうするべきか。答えははっきりしている。西欧型文明を盲信しないで、新しい文明の開発に着手することである。その出発点は、文明の母体である文化の再確認から始まる。日本文化の研究は、いまや緊急の課題である。
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