貴簡を戴きながら、返事が遅れたことをお詫びします。病床に伏す貴兄の心情は察するにあまりあります。お互い年をとり、軽々な言葉のみの慰めなど無意味なことと感じます。
小生は家内が難病に冒されて以来、毎日を忙しく、しかし虚ろに過ごしています。朝、昼、晩の台所仕事は言うに及ばず、深夜は排尿介助のため1度か2度は起きなければなりません。そのため慢性的な睡眠不足で、思考力や判断力の著しい衰えを感じます。その他の家事や介護にかかわる諸々の雑務は、全く経験がなかっただけに、右往左往するばかりです。しかし病人の立場で考えれば、この程度の苦労など、なきに等しいかもしれません。些細なことでも、手助けする度に、彼女が「ごめんね」と呟く言葉には、身が切られる思いがします。
小生は、今更ながら「生きる目的」について想いをめぐらせています。そして漠然ながら一つの考えに到達しました。すなわち生きる目的とは、存在証明願望を満たすことではないかということです。この考え方の契機になったのは、父が死の2週間前に小生宛に送ってくれた手紙です。それは不思議な形式と内容のものでした。それでも当時は、一応は遺言書として受け止めていました。しかし今になって考えれば、一介の大工として貧しくしがない一生を終えようとする老人が、渾身の力を込めて書き綴った存在証明書であったと思うのです。金釘流のたどたどしい文字で書かれた手紙の大意は以下のようでした。
自分が貧しい農家の次男であったこと。幼いとき父を失い、母は子供3人を抱えて途方に暮れたこと。親戚の口利きで養子にやられそうになったこと。貰われ先のことが気になったので、ひそかに丘に登りその家を遠望したこと。しかし土壇場になって兄が泣き喚いて反対し、養子話は立ち消えになったこと。以下このような話が、延々と便箋で10枚近くも続きました。
父の死後も小生は、この手紙のことを時々思い出していました。不器用に生き、自分のことをほとんど語らなかった人が、なぜあのような手紙をくれたのか。最近になって小生は、ようやく一つの仮設に到達しました。つまり存在証明願望という考え方です。それを貴兄にお話したい。
ヒトの出生は、他の動物と同じように自分の意思に基づくものではありません。しかし成長に伴い、知能は異常に発達します。とくに自意識の自覚は、ヒトの人間たる所以を決定づけることになります。かくして死にいたるまでの活動期は、自己の知能と意識を意志的に制御することによって生きることになります。しかし活動期が過ぎると、人間も他の動物と同じように死ななければなりません。しかもその死は、出生のときと同じように意思に基づくわけではありません。このように人間の意思は、出生や死亡の前後には全く機能しないのです。この点は活動期とは本質的に異なります。
このように考えれば、生きることとは、制御できない出生と死亡の間の仮初めの出来事に過ぎないのです。したがって生きる目的などと、大げさに考えるほどのことではないかもしれません。事実、いかなる壮大な目的を描き、それを達成したとしても、死後には空しさだけが残るのです。歴史上の評価も、あるときは高くても、あるときは一変します。つまり移ろいやすいのです。かくして普遍的な生きる目的は何か。そもそも、そのようなものが存在するのか。この何年か、小生はこの疑問に取り憑かれてきました。そして最近になり、やっと結論を出しました。存在証明願望を充たすことが生きる目的だと。なぜそのように考えるのか、説明しましょう。
人間のひとり一人は必ず死にます。それどころかビッグバン以来エントロピーを増大しつづける銀河系そのものが、何億年後には消滅するでしょう。人間は無意識ながら本能的に、その運命を知っています。少なくとも小生はそう信じています。その無常感に浸りながらも人間がやっておきたいのは、何億年という銀河系の寿命とは比べることもできない短い生涯であっても、とにかく生きたという事実を証明することではないでしょうか。すなわち存在証明願望です。この願望は個人ごとに、いろいろなかたちで表れます。ある人は財産を残すことで、存在したことを証明しようとするでしょう。ある人は地位と権力で、存在したことを証明するでしょう。しかし多くの人は、その願望があっても証明するための手だてがありません。小生の父などは、その典型です。そのため小生宛に、あのような稚拙な手紙を書いたのだと思います。
人を思いやることができるのは、相手がこの存在証明願望を持っていることを知っているからだと思います。その最も端的な例が家族愛でしょう。それに次ぐものが友情でしょうか。どんなに世間で疎まれる人間であっても、家族は許し庇ってくれます。友人の場合も同じです。何故ならば、家族や友人は本人の存在を無条件に肯定してくれるからです。言い換えれば、存在証明願望を充たしてくれるからです。
いま人生の終末期にある小生にとって、貴重な喜びの一つとなっているのは何か。それは、ほかならぬ貴兄が小生の存在を認めてくれることです。小生もまた生きている限り、けっして貴兄の存在を忘れることはないでしょう。