5月29日、中国は四川大地震への救援物資の輸送に、日本の航空自衛隊の輸送機派遣を打診していた。要請を受けた政府は大急ぎで準備を始めた。しかし翌30日には、中国は手のひらを返したように断ってきた。まだ日本嫌いの国内世論が強い環境下では、まずいと判断したのだろう。
この一連のどたばた騒ぎの原因は、ひとえに中国側の複雑な事情によるものだ。それを真に受けて真面目に対応した日本政府は馬鹿をみたことになる。批判されるべきは中国である。しかし日経新聞のコメントは全く違っていた。日本政府の軽挙妄動をたしなめるものであった。このような過剰な自己反省的な記事を書く記者は、一体どのような思想の持ち主なのだろう。もし逆の立場なら、中国のマスコミは日本の変心を大いにこき下ろしたに違いない。少なくとも自分の国の判断が間違っていたとは言わないだろう。日経記者の国籍を問いたい。
2008年5月17日土曜日
嫉妬の国民性
人間行動の大きなエネルギー源は嫉妬である。ただしその発現のしかたは国によって違う。たとえば日本では傑出したものの足を引っ張ることによって、嫉妬を解消する。閉鎖社会の横並び指向が原因であろう。逆にアメリカ人は、ライバルを越えることによって嫉妬を解消する。たぶん開放型社会であるとともに、競争社会であることが原因と思われる。韓国人が日本を嫉妬するのは、「怨」という言葉で象徴される独特の国民性に由来する。これは実にわかりやすい。しかし中国が日本を嫌うのは何故か。閉鎖型で足を引っ張りたいのではないようだ。では開放型で競争を挑みたいのか。そうでもないようだ。どうもわからない。このわかりにくさが、中国の特性か。
2008年5月11日日曜日
国の責任
何か事件があると、マスコミや評論家は「国の責任」という言葉を乱用する。たとえばエイズや肝炎ビールスなどの薬害問題、アスベストによる肺癌問題、環境汚染問題など枚挙に暇がない。これら諸々の問題に対して、国は適切な対策を講じなかったというのがお定まりの論調である。当然ながら行政権が必要とされるすべての分野では、それに伴って責任が生まれる。したがって問題が発生するたびに、国の責任が問われるのは間違いではない。
しかしよく考えてみると、国の責任とは何だろう。本来、国を構成するのは国民であり、それ以外の何者かによって国が成り立っているわけではない。したがって国の責任を追及することは、自分自身を糾弾することになるのである。つまり人ごとはない。国という抽象的な存在の責任を追及しても意味がないのだ。
ただし現実問題として、国民の一人一人が行政のすべてにかかわることはできない。そこで分業が行われる。行政を司る役人(官僚)がそれを担当する。つまり国という抽象的な存在が行政を執行するのではなく、特定の役人個人が代行するのである。
代行者にはそれに相当する権限と責任が生じる。この段階では、もはや「国」ではなく、代行者としての個人名が明確にされなければならない。したがってマスコミや評論家は、国の責任ではなく、役人個人の名前を挙げて責任を問わなければならない。この点を曖昧にするから、行政担当者は緊張感を失うことになるのだ。また役人は、恣意的に権限を行使することにもなる。
最近、反日的な内容で問題になっている映画「靖国」の事例は、その典型といえるだろう。この映画の製作会社の形態は日本法人になっているが、取締役はすべて中国人である。その会社が製作したいわくつきの映画が、文部科学省の傘下にある日本芸術文化振興会の推薦によって、国から助成金を受けたのである。一部の過激な保守主義者が、その上映阻止を図ったのは、当然の成り行きだったかもしれない。もちろん良識を自認する大新聞は、その行動をヒステリックに非難している。すべては上映阻止にかかわる過激な行動だけがクローズアップされている。
しかしこの事件を、「国の責任」という立場で捉えるとどうだろうか。自分の国を非難する映画を推奨し、それに助成金を与えるという国があるだろうか。この案件を文部科学省の上層部が知っていたら、おそらく承認しなかったに違いない。しかし実際には、このレベルの案件の採否を決定する権限は、かなり下位の担当官に与えられているだろう。つまり国の権限といっても、実際は特定の個人に与えられているのである。それが組織的に行わなければならない業務の実態である。
一国の官僚といえども一枚岩ではない。それどころか、中にはとんでもない偏向思想の持ち主がいるかもしれない。その人物が、国という隠れ蓑によって、意図的に反国家的な決定をするかもしれない。その危険を避けるには、案件ごとに責任権限を行使した者の個人名を明らかにすべきである。漠然とした国の責任という言い方では、問題の本質はわからない。国から責任権限を与えられた特定個人の責任を明確にしなければならない。
しかしよく考えてみると、国の責任とは何だろう。本来、国を構成するのは国民であり、それ以外の何者かによって国が成り立っているわけではない。したがって国の責任を追及することは、自分自身を糾弾することになるのである。つまり人ごとはない。国という抽象的な存在の責任を追及しても意味がないのだ。
ただし現実問題として、国民の一人一人が行政のすべてにかかわることはできない。そこで分業が行われる。行政を司る役人(官僚)がそれを担当する。つまり国という抽象的な存在が行政を執行するのではなく、特定の役人個人が代行するのである。
代行者にはそれに相当する権限と責任が生じる。この段階では、もはや「国」ではなく、代行者としての個人名が明確にされなければならない。したがってマスコミや評論家は、国の責任ではなく、役人個人の名前を挙げて責任を問わなければならない。この点を曖昧にするから、行政担当者は緊張感を失うことになるのだ。また役人は、恣意的に権限を行使することにもなる。
最近、反日的な内容で問題になっている映画「靖国」の事例は、その典型といえるだろう。この映画の製作会社の形態は日本法人になっているが、取締役はすべて中国人である。その会社が製作したいわくつきの映画が、文部科学省の傘下にある日本芸術文化振興会の推薦によって、国から助成金を受けたのである。一部の過激な保守主義者が、その上映阻止を図ったのは、当然の成り行きだったかもしれない。もちろん良識を自認する大新聞は、その行動をヒステリックに非難している。すべては上映阻止にかかわる過激な行動だけがクローズアップされている。
しかしこの事件を、「国の責任」という立場で捉えるとどうだろうか。自分の国を非難する映画を推奨し、それに助成金を与えるという国があるだろうか。この案件を文部科学省の上層部が知っていたら、おそらく承認しなかったに違いない。しかし実際には、このレベルの案件の採否を決定する権限は、かなり下位の担当官に与えられているだろう。つまり国の権限といっても、実際は特定の個人に与えられているのである。それが組織的に行わなければならない業務の実態である。
一国の官僚といえども一枚岩ではない。それどころか、中にはとんでもない偏向思想の持ち主がいるかもしれない。その人物が、国という隠れ蓑によって、意図的に反国家的な決定をするかもしれない。その危険を避けるには、案件ごとに責任権限を行使した者の個人名を明らかにすべきである。漠然とした国の責任という言い方では、問題の本質はわからない。国から責任権限を与えられた特定個人の責任を明確にしなければならない。
2008年5月4日日曜日
中国は異形の国
桜井よしこの表現を借りると、中国は「異形の国」である。この国が惹き起こす数々の事件や問題を想起すると、まさにぴったり当てはまる。たとえば5月2日の産経新聞は、次のように報じている。
“中国「童工」市場 ”
中国広東省東莞市の電子工場などで、四川省涼山彜族自治州の農村からだまされて連れて来られた子供が強制労働に従事させられていたことが、広東省地元紙・南方都市報の調査報道で明らかになった。同紙の28日付以降の一連の報道によると、広東省一帯には、「童工」と呼ばれる未成年労働者の大規模な市場があり、この5年にわたり数百人が売られてきたという。多くが9歳から16歳の未成年。時間給3・8元以下と同市規定の最低賃金下回る賃金で、月360時間もの長時間労働を強制され、賃金の3分の2は仲買人らに搾取されていた。食事も数日に1回しか与えられず、少女だと仲買人らにレイプされたり、逃げた少年が殺害されたケースもあったという。
報道をうけて東莞市警察は捜査に乗りだし、2日までに100人以上の子供たちを救出。売買にかかわった15人の容疑者を拘束しているという。中国では昨年6月、山西省臨汾市洪洞県のレンガ工場で大規模な未成年強制労働事件が発覚。これまでひた隠しにされてきた「世界の工場」の違法労働力市場の実態が明らかになってきている。このような事件は、他の文明国ではありえないことだ。しかし驚くべきことに、新興大国を自負する中国では現実に起きている事件なのだ。
いまや中国は、経済や軍事の面では一流国になったと自負している。さらに文化の面でも、一流国の仲間入りをしたいらしい。北京オリンピックの開催と成功に、あれほどこだわるのもそのためである。たしかに着々と実績を積み上げているその実績は、認めなければなるまい。
しかし、その一方でこの国に対する抜きがたい不信感と違和感は、何に由来するのだろうか。たとえば最近の生々しい記憶では、毒入りギョウザ事件がある。上で転載した強制労働事件も中国なら、あっても不思議ではない。また年間を通じては、何万件にも及ぶ高級役人による汚職事件がある。その一方で産業界では、平気で外国のブランド品をコピーし、これで大もうけしている。
これらの先進国の常識を覆す奇怪な事件のすべてに、中国政府が関与しているわけではないし、奨励しているわけでもあるまい。むしろ最近では、その防止にかなり努力してことも認めなければならない。それにも拘らずこのような問題を根絶できないのは、国民を統率する能力がないのだろうか。
どうもそうではないらしい。少なくとも政治と外交の面では、恐ろしいほど徹底した統率が行われている。ありとあらゆる反政府的思想や行動は、完全に封殺されている。その数々を述べるのは省くが、たとえば法輪功グループに対する弾圧などは、とても先進国では考えられない。外交もそうだ。日本攻撃のために取り上げてきた靖国神社参拝への非難攻撃の激しさはどうだ。また尖閣諸島周辺では、日本の領海内にある場所で勝手に油田の採掘を行っている。要するに政治や外交における国論の統率は鉄壁ともいえるのだ。しかしそれ以外の経済、道徳、文化などについては全くの後進国なのである。このアンバランスは、他の文明大国では全く見ることができない。中国が、異形の国と揶揄される所以であろう。
“中国「童工」市場 ”
中国広東省東莞市の電子工場などで、四川省涼山彜族自治州の農村からだまされて連れて来られた子供が強制労働に従事させられていたことが、広東省地元紙・南方都市報の調査報道で明らかになった。同紙の28日付以降の一連の報道によると、広東省一帯には、「童工」と呼ばれる未成年労働者の大規模な市場があり、この5年にわたり数百人が売られてきたという。多くが9歳から16歳の未成年。時間給3・8元以下と同市規定の最低賃金下回る賃金で、月360時間もの長時間労働を強制され、賃金の3分の2は仲買人らに搾取されていた。食事も数日に1回しか与えられず、少女だと仲買人らにレイプされたり、逃げた少年が殺害されたケースもあったという。
報道をうけて東莞市警察は捜査に乗りだし、2日までに100人以上の子供たちを救出。売買にかかわった15人の容疑者を拘束しているという。中国では昨年6月、山西省臨汾市洪洞県のレンガ工場で大規模な未成年強制労働事件が発覚。これまでひた隠しにされてきた「世界の工場」の違法労働力市場の実態が明らかになってきている。このような事件は、他の文明国ではありえないことだ。しかし驚くべきことに、新興大国を自負する中国では現実に起きている事件なのだ。
いまや中国は、経済や軍事の面では一流国になったと自負している。さらに文化の面でも、一流国の仲間入りをしたいらしい。北京オリンピックの開催と成功に、あれほどこだわるのもそのためである。たしかに着々と実績を積み上げているその実績は、認めなければなるまい。
しかし、その一方でこの国に対する抜きがたい不信感と違和感は、何に由来するのだろうか。たとえば最近の生々しい記憶では、毒入りギョウザ事件がある。上で転載した強制労働事件も中国なら、あっても不思議ではない。また年間を通じては、何万件にも及ぶ高級役人による汚職事件がある。その一方で産業界では、平気で外国のブランド品をコピーし、これで大もうけしている。
これらの先進国の常識を覆す奇怪な事件のすべてに、中国政府が関与しているわけではないし、奨励しているわけでもあるまい。むしろ最近では、その防止にかなり努力してことも認めなければならない。それにも拘らずこのような問題を根絶できないのは、国民を統率する能力がないのだろうか。
どうもそうではないらしい。少なくとも政治と外交の面では、恐ろしいほど徹底した統率が行われている。ありとあらゆる反政府的思想や行動は、完全に封殺されている。その数々を述べるのは省くが、たとえば法輪功グループに対する弾圧などは、とても先進国では考えられない。外交もそうだ。日本攻撃のために取り上げてきた靖国神社参拝への非難攻撃の激しさはどうだ。また尖閣諸島周辺では、日本の領海内にある場所で勝手に油田の採掘を行っている。要するに政治や外交における国論の統率は鉄壁ともいえるのだ。しかしそれ以外の経済、道徳、文化などについては全くの後進国なのである。このアンバランスは、他の文明大国では全く見ることができない。中国が、異形の国と揶揄される所以であろう。
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