2008年5月11日日曜日

国の責任

何か事件があると、マスコミや評論家は「国の責任」という言葉を乱用する。たとえばエイズや肝炎ビールスなどの薬害問題、アスベストによる肺癌問題、環境汚染問題など枚挙に暇がない。これら諸々の問題に対して、国は適切な対策を講じなかったというのがお定まりの論調である。当然ながら行政権が必要とされるすべての分野では、それに伴って責任が生まれる。したがって問題が発生するたびに、国の責任が問われるのは間違いではない。
 しかしよく考えてみると、国の責任とは何だろう。本来、国を構成するのは国民であり、それ以外の何者かによって国が成り立っているわけではない。したがって国の責任を追及することは、自分自身を糾弾することになるのである。つまり人ごとはない。国という抽象的な存在の責任を追及しても意味がないのだ。
 ただし現実問題として、国民の一人一人が行政のすべてにかかわることはできない。そこで分業が行われる。行政を司る役人(官僚)がそれを担当する。つまり国という抽象的な存在が行政を執行するのではなく、特定の役人個人が代行するのである。
 代行者にはそれに相当する権限と責任が生じる。この段階では、もはや「国」ではなく、代行者としての個人名が明確にされなければならない。したがってマスコミや評論家は、国の責任ではなく、役人個人の名前を挙げて責任を問わなければならない。この点を曖昧にするから、行政担当者は緊張感を失うことになるのだ。また役人は、恣意的に権限を行使することにもなる。
 最近、反日的な内容で問題になっている映画「靖国」の事例は、その典型といえるだろう。この映画の製作会社の形態は日本法人になっているが、取締役はすべて中国人である。その会社が製作したいわくつきの映画が、文部科学省の傘下にある日本芸術文化振興会の推薦によって、国から助成金を受けたのである。一部の過激な保守主義者が、その上映阻止を図ったのは、当然の成り行きだったかもしれない。もちろん良識を自認する大新聞は、その行動をヒステリックに非難している。すべては上映阻止にかかわる過激な行動だけがクローズアップされている。
 しかしこの事件を、「国の責任」という立場で捉えるとどうだろうか。自分の国を非難する映画を推奨し、それに助成金を与えるという国があるだろうか。この案件を文部科学省の上層部が知っていたら、おそらく承認しなかったに違いない。しかし実際には、このレベルの案件の採否を決定する権限は、かなり下位の担当官に与えられているだろう。つまり国の権限といっても、実際は特定の個人に与えられているのである。それが組織的に行わなければならない業務の実態である。
 一国の官僚といえども一枚岩ではない。それどころか、中にはとんでもない偏向思想の持ち主がいるかもしれない。その人物が、国という隠れ蓑によって、意図的に反国家的な決定をするかもしれない。その危険を避けるには、案件ごとに責任権限を行使した者の個人名を明らかにすべきである。漠然とした国の責任という言い方では、問題の本質はわからない。国から責任権限を与えられた特定個人の責任を明確にしなければならない。

0 件のコメント: