2012年4月20日金曜日

政治の役割

民主主義国家を運営する基本原理は三権(立法、司法、行政)分立である。しかし中国では、三権の上位に政治を位置づけている。中国で屡々発生する不思議な出来事も、この考え方に基づくものであろう。たとえば行政の要職にある人物が汚職した場合、死刑になることがある。その根拠は概ね政治的判断である。その判断すなわち決定を下すのは誰か。昔は神の化身ともいうべき皇帝であった。現在は、いわゆる政治家である。したがって中国で政治の最上位にあるものは、“神の役割”を担うことになる。
 それにしても“神の役割”を担う政治とは何だろう。国家を統治し運営する過程では、利害、矛盾、葛藤、反目、偏見などによる混沌が日常的に発生する。単純な正義や原理で処理できるものは極めて少ない。そもそも正義とは何かという問題自体が、永遠に解決できないのだ。それにも拘わらず政治は、社会の混沌に対処しなければならない。 このように考えると政治の意義は、実際やっている個々の行為でしか説明できない。つまり政治には原理や原則などはないのだ。そうだとすると政治を最上位に位置づける中国の考え方は、むしろ説得力があるようにも思える。民主主義国家といえども政治の拠って立つ基盤、すなわち人間の営みの本質は混沌そのものになるからだ。
 混沌に対処しなければならない政治の、不思議な役割について例を挙げよう。いま日本が抱える課題の一つは地方の衰退である。この衰退を経済現象として眺めると、当然の帰結といえるであろう。地方の経済基盤は林業や農業などの第一次産業であるが、その多くがグローバル化による競争によって敗退したからである。マスコミが主張するように政治の責任ではなく、経済の問題なのだ。しかし政治の立場としては、何らかの対策を講じなければならない。そのため多額の地方交付税や補助金を、梃入れのために投入してきた。しかし経済の論理で考えると、いま論議されているのは予算の配分問題に過ぎないし、配分をうまくやっても地方経済が立ち直るとは考えられない。一種の輸血のようなものに過ぎず、抜本的な対策は第一次産業に代わる新産業の開発しかない。しかも冷静にみてその可能性も低いと考えられる。経済の立場で考えると、政治の考え方は理屈に合わない。それ故にこそ政治は、経済をも超越することになるのだろうか。

死刑5000人の国

世界犯罪統計によると2011年度において、世界の法治国で執行された死刑は五千数百件に及ぶという。そのうち日本は3件であったが、中国は5000件を越えている。この途方もない数は一体何を示すのだろうか。中国は法治国ではなくて人治国だという説明は屡々聞かされるが、それも宜なるかなと考えざるを得ない。それにしても凄まじいお国柄である。日本はこの国との国交回復以来、文化、思想、交渉、道徳、信義など、全ての点で想像を絶する相違を感じてきたが、まさに異形の国なのである。

 しかし日本としては、この異形の国が我々と同じアジアに位置するという縁だけで特別の思い入れをしてきた。日中友好を旗印に、経済や技術の面で夥しく支援してきたのである。しかしその好意にどれだけ応えてくれたか、いまさら問い直す必要もあるまい。もうこの辺りで、中国重視の政策を改めなければならない。従来のような、特別の好意で付き合うのではなくて、特別の警戒心で対応していかなければならない。
 この異形の国に、我々はなぜ特別の配慮を与えてきたのだろうか。理由ははっきりしている。一つは朝日新聞を筆頭にした4大新聞の親中キャンペーンのせいである。とくに朝日は伝統的に中国に肩入れしてきた。嘗て論説部門の責任者が、共産主義思想に被れていたからであろうか。しかし、この思想が既に時代遅れになっているのは明らかである。彼等とて、それに気付いている筈だから、理由は別のところにあるのだろう。いずれにしろ大新聞のミスリードによる弊害は大きいのだから、潔く過ちを認めてほしい。
 もう一つの原因は似非サヨクメンバーと、オポチョニストの寄せ集めに過ぎない政治家集団・民主党による中国尊重の外交姿勢である。その首領の一人である小沢氏は、2009年の暮れには140名を越える国会議員を引き連れて、胡錦濤に挨拶した。まるで中世期の朝貢を思わせる行事であった。かくして中国は、日本への横柄な態度をますます増長させている。もうこの辺りで、中国との友好関係はご破算にして、利害が相反する国としてクールに付き合うべきであろう。
 その一つが尖閣諸島問題だ。これが日本の領土であることは疑う余地がないのに、中国は近年になって俄に所有権を主張しはじめた。13億を超える民衆の多くに、文明がもたらす贅沢を教えたからには、その欲望を満たすために、海陸合わせて膨大な資源を確保しなければならないからだ。それをやらなければ、この異形の大国はいずれ大乱に見舞われるだろう。恰もローマ帝国の皇帝ネロのように、パンとサーカスによって民衆を懐柔しなければならなくなっているからだ。それが出来ないとなると、嘗ての天安門事件のように軍隊を動員せざるを得ないだろう。中国がなりふり構わず周辺の海洋資源に触手を伸ばすことになったのも、このような背景があるからである。すでにベトナムやフィリピンとの間には、紛争が持ち上がっている。日本としても相当の覚悟が必要になるだろう。なにしろ相手は、年間で5千人を超える死刑を執行する異形の国なのである。

2012年4月7日土曜日

周遅れの国

今年の12月には、韓国の大統領選挙が行われる。なにしろ一番近い隣国のことなので、全く無関心というわけにはいかない。従来からこの国では、慰安婦問題や竹島問題など理不尽な日本非難の声が、ことある度に沸き上がってきた。現在の李大統領が就任した当初は、やや温和な関係になったと安心したが、最近では再び大統領自身が過激な日本批判をやるようになっている。どうもこの国では政治情勢がおかしくなると、ガス抜きのために日本非難をはじめるようだ。いやこの国だけではない。中国も同じだ。つまり国民の不満を逸らすために、政府主導で隣国の悪行?を囃したてて、緊張感を高めている。まだ国際政治や外交が未熟であった第二次大戦以前は、先進国の間でもこのやり方が濫用された。しかし現在の先進国では、国家間の外交関係が洗練されているので、このやり方は禁じ手になっている。中国や韓国はまだ先進国とは言えないので、未だにこのようなダサいやり方が濫用されるわけである。
  韓国政治の後進性といえば、もう一つ気になることがある。それは似非サヨクの影響力が強いということである。この国には「江南左派」といわれるグループがある。「江南」とは首都ソウルを流れる「漢江」 の南にあって、この新市街地には富裕層が住みついている。「江南左派」とは、この快適な場所に居を構えて、国民に左翼思想を吹き込んでいる知識人をいう。日本では安楽椅子の社会主義者と言われていた人達とよく似ている。実際には貧困や労働者としての経験がないのに、観念論だけでブルジョア思想を弾劾し、似非アナーキストとして現実社会の破壊を唱えている人達だ。これに同調するマスコミの論調にリードされて、今や韓国の世論は大きく革新色に傾きつつある。この図式は20年前に日本で猖獗を極めた社会動向と全く同じだ。かつて日本の世論が踊らされたサヨク化への道を、周遅れで選ぼうとしているのだ。

2012年4月2日月曜日

マッカーサー元帥の証言

今年度から東京都立高校の歴史教材に、マッカーサー元帥がアメリカ議会で行った証言を、原文のまま掲載されることになった。それには日本が連合国と戦うことになった動機は、「連合国による経済封鎖を破るためであった・・・」と明記されている。これは戦争責任に関する教育界の認識としては、画期的な変化である。従来の考え方では、太平洋戦争は軍国主義日本が周辺諸国を侵略するために仕掛けたもので、歴史に残る一大汚点とされてきたのである。この戦争責任についての誤解または曲解は、長年にわたり善良な日本人のコンプレックスを形成してきた。

 マッカーサー元帥が60年前に行ったこの証言は、アメリカで直ちに公開されていて秘密事項ではない。それが日本では、今まで知られていなかったのは何故か。すくなくとも知識人を自負するエリートであれば、その多くが現地の新聞に接しているはずだ。まして日本を代表する4大紙(朝日、読売、毎日、日経)の外信記者であれば、この証言を熟知していたに違いない。それを記事にしなかったのは、明らかに意図があったのである。
 では何を意図していたのか。終戦から現在に至る半世紀、彼等はコスモポリタニズムの信奉者として、ずっと日本の与論をミスリードしてきた。その一方で日本の庶民が愛国心に目覚めるのを妨げるために、不当な戦争に参加した国民としての、贖罪意識や自虐意識を温存させたかったのである。その偏向思想に基づくマスコミの傲慢さには憤りを禁じ得ない。
 しかし今や日本を代表する四大新聞(朝日、毎日、読売、日経)に対する信頼感は完全に失われた。彼等が積極消極の両面で行ってきた情報操作のやり口が、明らかになってきたからである。積極的な操作の際立った事例としては、朝日がやった中国文化大革命の礼賛キャンペーンや、沖縄の珊瑚礁毀損のでっち上げ記事など数え上げればきりがない。しかし、それよりも陰湿なのは消極的なやり口である。冒頭で述べたマッカーサー証言の隠蔽のように、自らのイデオロギーに反する事実はすべて記事にしない。かつてニューズウイークの記者が、朝日のコラムニストに編集方針を聞いたことがあるが、その傲慢で幼稚な返答に一驚したという。朝日のモットーは、「啓蒙と反権力」であるというのだ。そのためには手段を選ばないというのだろうか。