2007年11月24日土曜日

日本人は騒音不感症か

  人はみな感性をもっている。その基になるのは人間に共通する五感であろう。しかし個別に見ると、まったく同じ感性をもつものは一人もいない。その原因はおそらく、生まれつきの素質に加えて、生活環境の違いや文化の違いなどによるのであろう。
  一般に日本人は、自らの特徴を情緒型または感性型と考えている。たしかに半世紀前までは、その傾向が強かった。しかし近年は、その特徴も失われつつあるように感じられる。
  とくに気になるのは、音に対する感性が衰えていることだ。たとえば繁華街では、いまだに大売出しを宣伝するロードスピーカーが、音量一杯にがなりたてる。満員の通勤電車では、つり革にぶら下がっている乗客の耳元に、車掌の安全を説くアナウンスが飛び込んでくる。地方に旅行したときは、旅館の隣にあった役場の拡声器から、町中にお早うメロディーが伝えられた。睡眠中の私は、何事かと跳ね起きた。時刻はちょうど七時だった。
  欧米の都市を旅した日本人の何人かは、騒音のない静けさに感銘をうける。しかし大部分は、それも感じないらしい。つまり国民の多くが騒音に関して不感症になっているのだ。かつて日本の文化は、静謐さに特徴があった。芭蕉の「古池や蛙とびこむ水の音」などはその典型といえよう。苔むした庭園では、筧の跳ねる音を間遠に聞くことができた。
  騒音に対する不感症は感性の衰弱、さらには精神の荒廃につながるように思われてならない。何とかならないだろうか。もともと日本人の音に対する感性は優れているはずだ。それは昔に限ったことではない。現代音楽の雄、武満徹は日本人の音感を代表する作曲家であった。われわれは音に対する伝統的な感性を、もう一度呼び覚まさなければならない。

2007年11月11日日曜日

マスコミ恐るべし

  嘗て私は、かなりのアメリカ人嫌いだった。しかしアメリカで多くの誠実な人たちを知るにおよび、自分の偏見を改めざるを得なくなった。同じようなことは、中国人や韓国人についても言える。何しろこの両国が、国を挙げて日本に浴びせた悪口雑言は凄まじかった。そのため私は、いつしか中国や韓国を嫌うようになった。しかし個人的につき合う限りは、憎悪の感情をそれほど強く感じたことはない。少数ではあるが友情を感じる相手さえいたほどだ。
  それにしても、個人としては憎悪の感情がないのに、国というマスで捉えたときは、どうしてあのように極端な昂ぶりになるのだろうか。その一つとして考えられるのは政策である。明らかに中国や韓国は、政情が不安定になると国民の不満をそらすために、憎悪の対象を日本に向けさせてきた。しかしもっと恐ろしいのはマスコミである。新聞やテレビなどの媒体を通じて、二十四時間たえまなく日本憎しと喧伝されたら、たまったものではない。並みの人間なら、気がつかないうちに洗脳されてしまうだろう。
  現代社会では、マスコミの力は絶大である。それだけにこの仕事を生業にする人たちには、並外れた誠実さと謙虚さと良識の3つが望まれる。しかし実態はどうだろうか。誠実さについていえば、むしろ鼻持ちならぬ偽善しか感じられない。謙虚さについては、その対極にある傲慢そのものではないか。嘗て朝日新聞は、新聞の使命は啓蒙にあると嘯いた。つまり購読者を見下しているのである。良識についてはどうか。これも同じ朝日新聞記者の言であるが、そのモットーは反権力だという。その表れが、機械的ともいえる反政府一辺倒の論説である。そもそもマスコミは、政治権力という言葉に偏見を持ちすぎている。現代政治における権力とは、意思決定をおこなうための一機能に過ぎない。意思決定機能がなければ、如何なる組織といえども機能することはできない。この程度のことは常識であり、自明のことではないか。それを悉く否定し反対するのはナンセンスとしか言いようがない。このようなマスコミ人の幼児的な権力アレルギーは、多分ヒトラーかスターリンのような独裁者のイメージに由来するのであろう。マスコミの良識とは、この程度のものなのか。
  かくして、マスコミ特に大新聞に期待する誠実、謙虚、良識は、ことごとく裏切られるようになった。それでもマスコミは今なお健在で、立法、司法、行政に次ぐ第4の権力といわれている。しかし安部前首相を辞任に追い込んだ朝日の大キャンペーンや、今回の大連立騒ぎの裏方を務めた読売の渡辺会長、日本テレビの氏家会長などの言動をみると、マスコミはもはや第一の権力者にのし上がっているというべきだろう。

2007年11月10日土曜日

民主党は分裂すべきだ

  民主党の小沢党首が辞任を表明したあと直ちに撤回した事件は、空騒ぎが好きなマスコミを大いに喜ばせた。しかしこのような政局がらみのすったもんだは、大まじめに論議するだけの価値があるのだろうか。彼がいなくなると党は分裂するから、何とか宥めすかして居残ってもらおうという民主党の意向は、滑稽としかいいようがない。
  そもそも民主党には、分裂の危機などはないのだ。何故ならば、政策的には結党のはじめからバラバラだった。旧社会党の残党と自民党から離脱したメンバーは、水と油ともいうべきイデオロギーの違いに目をつぶってきた。たんに数あわせだけで結びついている。まじめに考えれば、これは野合というべきもので政治家の堕落だ。
  国民の多くはこの国の現状と将来について、真剣に心配している。だからこそ政党が主張する理念やポリシーにについては、大きな関心をもっている。しかし今まで国会で行ってきた民主党の政策論議は、極めて貧弱な内容だ。たとえばスキャンダルの追求、揚げ足とり、国際情勢を無視した憲法の解釈論といったものばかりだ。たしかにこのような枝葉末節の論議に止まる限り、党がもっているイデオロギーの矛盾に触れる必要はない。つまり党は分裂の危機にさらされることはない。
  このように考えると、民主党は明らかに目的と手段を取り違えている。本来、政党の目的は、その理念に基づいて国民のためになる政策を立案実践することのはずである。しかし民主党は結党以来、根幹となる理念を明らかにすることはなかった。それを明らかにすると、野合集団はたちまち分裂するからである。つまりこの政党の目的は、党の維持そのものだったのだ。
  政治の本質的な目的をもたない民社党は解党すべきだ。その意味で、今回の小沢騒動は絶好の機会だった。しかし姑息なやり方でその機会を失った。いずれこの付けは、致命的なかたちで払わされることになるだろう。

2007年11月4日日曜日

本が売れない

  いま出版業界は危機状態にあるという。年間5億冊も出荷しながら、その38%は返本されるらしい。その一方で種類は増えているので、一題目あたりの冊数は少なくなっている。そのため量産効果が出ないので、コストアップにもつながる。かくして多くの出版業者は赤字経営を余儀なくされている。このままでは日本の文化は衰退してしまう。何故このように本離れが進んでしまったのか。大いに気になるので、その原因を考えてみた。
  第一は、本来は主要な顧客であった若い読者の本離れが進んでいる.その一方で彼らの情報源は、もっぱらテレビに偏っている。
  第二は内容の斬新性がなくなっている。たとえば私の専門は経営管理だが、この十年来、魅力的なコンセプトや革新的なテクノロジーにお目にかかったことがない。目立つのは内容の薄いトピックスばかりだ。最近では企業買収や三角合併の解説書が多かったが、それもITがらみと同じように、今では下火になっている。原因の一つは、出版人がサラリーマン化して出版という仕事に情熱を失ったからではないだろうか。新しい著者やテーマを発掘しようという気迫がない。ちょっとでも売れ行きのよい本を見ると、すぐそれを真似て同じような企画をする。リスクを恐れるあまり、柳の下で二匹目の泥鰌をねらうだけだ。
  第三は日本の社会全体が、一種の弛緩ともいうべき精神状態になっている。たとえば中高年といわれる世代には、いわゆる燃え尽き症候群の気分が横溢している。また若者たちは一種のペシミズムに冒されている。このような時代環境のもとでは、知的好奇心が高まるはずがない。読書の原動力は知的好奇心だが、その知的好奇心は読書によっていっそう加速される。この好循環が失われてしまったのだ。

2007年11月1日木曜日

評論家は楽だ

  以前のことだが、ある専門雑誌のコラム欄を担当したことがある。期間は1年である。それまでにも著作の経験はしていたが、いずれも専門家向けの実務書であった。したがって他人の仕事や考え方を、評論するようなものではなかった。
  件のコラムを担当したのは、学者が3名、ルポライターが2名、それに私を加えた合計6名である。編集長の希望としては、当時の産業振興策や大企業の経営について、辛口の評論を行うことであった。
  連載が始まると、他の執筆者の筆致はとても軽快にみえた。ひたすら難渋したのは私だけだった。どうしたらもっと手際よく書くことができるか。大いに悩んだ結果、やっと原因がわかった。私は実務家の仕事と、評論家の仕事を混同していたらしい。
  簡単に言うと、実務家の仕事は問題の発見と解決がワンセットになっている。したがって解決できないことが分かっている問題を、問題といってはならない。問題だけを言い立てる実務家は軽蔑される。しかし評論の仕事は、問題の発見または提起だけで済むのである。
  評論家と実務家の違いに気づいた後は、コラムの執筆がとても楽になった。問題は無数にある。それを取り上げるだけでよいのだ。それこそ快刀乱麻、言いたい放題だ。だからといって間違っているわけではない。私はいつの間にか、正義の騎士のような気分に浸っていたのである。