3月30日、野田内閣は与党内における一部の反対を押し切って、消費増税法案を国会に提出した。しかしこれで終わった訳ではない。この後は衆参両院で、与野党入り交じっての厳しい論議が待ち受けている。もし可決されなければ、野田首相は総辞職か解散かの、何れかを決断することになるだろう。私はたぶん解散に追い込まれると予想する。
バカ首相とズル首相が2代つづいたお陰で、日本の政治は大いに毀損された。この点については、おそらく国民の大部分が同感しているはずだ。ようやくバカでもなくズルでもない普通の人物が3代目の首相になったが、それも火宅ともいうべき民主党の中にあっては、真価を発揮することはできない。
この二三年の間に、日本は大きな災厄に見舞われた。一つは東日本大震災であり、もう一つは民主党政権による政治・外交の混乱である。東日本大震災は未曾有の天災だから、誰も責任を負うことはできない。しかし、その後の復興施策の遅れや稚拙さについては、明らかに民主党政治の責任である。
なぜ民主党の政治が、このようにお粗末なのか。原因ははっきりしている。この党を構成するメンバーの大部分が、評論家に過ぎないからである。評論家にもピンからキリまであるが、その共通するところはプレイの当事者ではなく、観覧席であれこれ講釈する輩である。民主党メンバーの多くがアナキスト的であったり、サヨク的であったり、或いは原理主義的であったりする。しかし殆どは〇〇的と形容されるだけで、真性のものではない。何れも依拠するのは上っ面の観念論だけで、生活現場の深層に思いを馳せる感受性がないし、対策を講じる能力もない。出来ることは見栄えのよいパフォーマンスと紋切り型のスローガンだけだ。蓮舫代議士が“仕切り”場面で見せた軽薄なやりとりは、その典型である。似たような話は辻本代議士や、小宮山代議士、千葉元代議士など、枚挙にいとまがない。
以上のように民主党政治の問題を列挙すると、それこそ紙面がいくらあっても足りない。このお粗末さは、おそらく政治史の上でも特記されるに違いない。ただ逆説的にいえば、功績が全く無いとは断言できない。来るべき総選挙において、国民が政治家を評価する眼は、極めて厳しいものになるだろう。耳障りのよい評論家風の言説には、二度と誑かされることはないだろう。民主党政治のお陰で、国民の政治意識と政治家を評価する鑑識力は大いに高まった。長期的に考えると、これは民主党政治がもたらした唯一最大の貢献と言えるだろう。
2012年3月20日火曜日
エスタブリッシュの交替
エスタブリッシュメント、すなわち権力者は時代の申し子である。たとえば明治大正時代に、この階層の主流すなわち華族に属する人達の多くは、維新の功労者やその係累であった。しかし軍事力の増強が必要になった昭和の前半になると、職業軍人が台頭し、そのリーダー達が新たな権力者になった。その一方で華族の権威は衰えた。さらに敗戦を境にして昭和の後半になると、再び権力者の交代が進んだ。いわゆる知識人の時代である。知識人の定義は前に触れたのでここでは省くが、彼等の職業はかなり広い範囲に及んでいる。一部を挙げると、御用学者、マスコミ、官僚、大企業の幹部といったところだ。もう一つ加えれば政治家であるが、これは政治がある限り必然的に生じるものだし、さらに言えば彼等を選ぶのは我々大衆なので、ここでは別扱いにしておこう。
いずれにしろ昨年の大震災によって、これらのエスタブリッシュの多くがあまりにお粗末で、その権威に値しないことを露呈してしまった。すでに動き出している新らしい時代は、もはや彼等すなわち知識人に見切りをつけ、次の権力者を求めている。しかし、それがどのようなものなのか、まだはっきりとは分からない。未来社会の要請に適合し、われわれ大衆の信頼に応えられる人物や職業とは、一体どういうものなのだろうか。
先日、友人の一人にこの質問を投げかけたところ、ヒントを2つ貰った。その一つは、何らかのかたちでインフォーメーションテクノロジーに拘わっている人だという。そう考えるようになった動機は、将棋の米長永世棋聖や、囲碁の武宮九段がコンピュータに負けたことによるらしい。しかし私は納得しなかった。良きにつけ悪しきにつけ、エスタブリッシュメントというイメージと語感には、もう少し人間くささがあるように思われるからだ。第2のヒントは、我々が想像もできない新しいビジネスを開発する者だという。たとえばアップルの創業者ジョブズのような・・・・。ただしそのビジネスがどのようなものかは、見当もつかないという。分かっていれば自分でやるよ、と彼は笑う。
いずれにしろ昨年の大震災によって、これらのエスタブリッシュの多くがあまりにお粗末で、その権威に値しないことを露呈してしまった。すでに動き出している新らしい時代は、もはや彼等すなわち知識人に見切りをつけ、次の権力者を求めている。しかし、それがどのようなものなのか、まだはっきりとは分からない。未来社会の要請に適合し、われわれ大衆の信頼に応えられる人物や職業とは、一体どういうものなのだろうか。
先日、友人の一人にこの質問を投げかけたところ、ヒントを2つ貰った。その一つは、何らかのかたちでインフォーメーションテクノロジーに拘わっている人だという。そう考えるようになった動機は、将棋の米長永世棋聖や、囲碁の武宮九段がコンピュータに負けたことによるらしい。しかし私は納得しなかった。良きにつけ悪しきにつけ、エスタブリッシュメントというイメージと語感には、もう少し人間くささがあるように思われるからだ。第2のヒントは、我々が想像もできない新しいビジネスを開発する者だという。たとえばアップルの創業者ジョブズのような・・・・。ただしそのビジネスがどのようなものかは、見当もつかないという。分かっていれば自分でやるよ、と彼は笑う。
2012年3月13日火曜日
教育改革は大学から
大学生の4人に1人が「平均」の意味を理解していないという。この新聞記事を読んだときは、本当にびっくりした。原因は多分、ゆとり教育や日教組による偏向教育、家庭内の躾など、巷間で言われているあらゆる要因が重なったのだろう。従ってこれを糺すには、本来は初等教育の第一歩から中等教育、高等教育の全てについて、抜本的な改革をやらなければならない。しかし積年の弊がもたらした教育の惨状は、そんな悠長な進め方では役に立たないだろう。仮に出来るとしても、何十年掛かるか分からない。こうなってしまったからには、もはやありきたりの方法ではなく、もっと大胆な対策が必要だ。つまり上流から改革を及ぼすのではなく、下流すなわち大学を変えてしまうのだ。
現在に於ける教育体系のゴールは、大学である。したがってゴールを変えれば、それ以下の教育システムは一変するに違いない。もちろんその過程では大混乱が生じるだろう。そのリスクを冒して現行の大学を廃するとして、その代わりに何を想定するか。
答えは専門学校である。そのモデルは、現在の教育システムが米国から強制される以前に、既に日本にあったものである。さらに原型を辿るとドイツのマイスター制度にも行き着くであろう。専門学校の基本的な目的は、高級実務者の育成であった。この実務に即すという考え方は、本来はリアリズムの精神に通じるものだ。それが何時しか実利主義と混同され、さらにはアカデミズムをモットーにした帝国大学系の過大評価と重なって、一段下に位置づけられるようになった。しかし実際の社会生活で本当に役立ったのは、専門学校を出た実務者である。
ではアカデミズムを標榜した旧大学では何を教えたか。文系で学名を挙げると、法学、経済学、文学、哲学であり、理系では理学、医学、工学であった。面白いことに、理系では当初から理論的な理学の他に、実務的な医学や工学を加えている。たぶん理系では、文系のような観念的なアカデミズムは成り立たなかったのだろう。しかし戦後の新制度になると、専門学校がすべて大学に昇格したので、教科の内容は極めて多様になった。なにしろ専門学校の種類が多かったからだ。例示すると、工業、商業、農業、医療、教育、薬学、芸術、語学、体育、軍事など実にきめ細かく網羅されていた。
その一方で、アカデミズムの象徴ともいうべき哲学は姿を変え、教養学?として装いを新たにした。もはや西欧追随型の観念論が、時代遅れになったからだろう。大学型観念論の象徴とも言うべき経済学や哲学は、実社会では殆ど役に立っていない。今なお健在なのは法学のみであるが、これはもともと実学なのである。また文学はその性格からして、本来は大学で教えられるものではない。大学を出たからといって名作が書けるわけではないのだ。それにも拘わらず文学部をつくったのは、以前に私のブログで触れたように、西欧文明へのコンプレックスである。そのためフランス文学とかドイツ文学とか、当該国の名前を頭につけている。結果として、文学部で学ぶのは文学の創造ではなく、その翻訳や分析・解釈になってしまった。ただし国文学や考古学は本質的に事情が違う。その目的が他国の文明を倣うものではなく、自国の文化を研究することにあるからである。
それでは現在の大学を解体するとして、その後どのように再編するか。私の案は次のとおりである。
① 専門領域別に新専門学校を創設する。新専門学校の種類は、上述した旧制の専門学校を参考にする。ただし社会環境や科学技術の発展を考慮し、それに適合するように種類の増減と改廃を行う。たとえば情報専門学校、文学専門学校、哲学専門学校など。
専門学校の種類を増やす一方で、大学は大幅に縮小する。たとえば哲学専門学校の卒業生は極めて少数と思われるが、大学はそこから適性者だけを受け入れる。哲学に限らず卒業後の就職を考えれば、他の専門学校からの大学希望者も自ずから数が決まる。それに対応して大学の数も決まる。そもそも専門学校での履修内容だけで、実業界のニーズには十分に耐えられるはずだ。仮に不足があるとすれば、それは実務を遂行する過程で習得できる。したがって、その上の大学に進むには何か別のミッションが必要である。大学について考えるには、それを明確にしなければならない。たんに修士や博士などの肩書き授与機関では困るのである。今やそんな肩書きが通用する時代ではない。この問題を考えるには、哲学を例にとると分かりやすい。
金沢大学で哲学を教えている仲正昌樹教授は、その著“知識だけあるバカになるな”で次のように述べている。「常識的に正しい答えだと思っていることが、本当に正しいかどうかは分からない。それどころか本当の答えがあるかどうかさえ分からない。そんな底なし沼の状態で、自分で答えを見つけようと継続的に頑張ること」。それが大学でやることだ・・・・と。
極めて説得力のある説明だが、私はこれに加えて次のように補足したい。
「つまり哲学者とは、“疑いの専門家”である。しかしそのような専門家を、実業界は求めるだろうか。すべてを疑う人物が組織の中で活動したら、仕事はまったく進まない。たぶん採用率はゼロだろう。しかし社会全体でみれば、疑いの専門家が存在するのは大へん有意義である。その専門家をどれだけ保有できるかは、その社会が持つ余裕とビジョンで決まるだろう。以上によって哲学専門学校の定員数も算出できるし、上位の大学で収容し得る人数も想定できる」と。
② 専門学校を主柱にするといっても、大学を全く廃止するのではない。大学には専門学校とは別のミッションが必要である。その要請はあらゆる専門分野ごとに発生する。ただし上でも述べたように、実社会で必要なスキルは全て専門学校の教育で習得できる。その上で何を求めるか。それを極めたら、人員も想定できる。上では哲学の例を取り上げたが、同じことが他の全ての分野でも検討されなければならない。それができない専門分野には大学は必要ないのである。
③ では、大学の定員はどうやって決めるか。上の例によると、哲学とは底なしの疑問の沼にどっぷり漬かることである。そうだとすると、その営みは哲学専門学校では終わらない。さらに続けるには大学が必要になる。この段階では再び適性者の選定が必要になるだろう。このようにして大学の定員も決めることができる。哲学の例と同じく、他の専門大学も定員を決めることは可能である。私の思い付きに過ぎないが、総平均すると専門学校から大学に進む学生の比率は十%程度になるのではないだろうか。卒業してもその多くが一般企業に就職できないから、別の就職口を設定しなければならない。たとえば大学や専門学校の教職や研究所である。しかし、それだけに限定することはないだろう。新概念に基づく大学卒をどれだけ収容できるかは、前にも述べたように、その国家や社会の余裕とビジョンで決まるはずである。
④ 大学の再編を上で述べたようにすると、いわゆる専門バカだらけになって、現代社会が求めるマルチ人間の育成がおろそかになると反論されるかもしれない。それには二つの面で答えることができる。
その1は、マルチ能力とマルチ知識は違うということである。たしかにインターネットが普及する以前は、博識というのは一つの才能であった。しかしインターネットが普及した現在では、知識やデータは簡単に検索できる。
その2は、マルチ能力とは何かということである。簡単にいうと、それは異質の情報を組み合わせて、新しい情報を創出する能力のことである。今のところ、その創出を保証できる方法論は存在しない。当然ながら専門家もいない。専門別のカリキュラムはあっても、創造のためのカリキュラムは存在し得ないのである。その意味で、マルチ人間に必要なマルチ能力の開発は、大学のあり方とは無関係である。
現在に於ける教育体系のゴールは、大学である。したがってゴールを変えれば、それ以下の教育システムは一変するに違いない。もちろんその過程では大混乱が生じるだろう。そのリスクを冒して現行の大学を廃するとして、その代わりに何を想定するか。
答えは専門学校である。そのモデルは、現在の教育システムが米国から強制される以前に、既に日本にあったものである。さらに原型を辿るとドイツのマイスター制度にも行き着くであろう。専門学校の基本的な目的は、高級実務者の育成であった。この実務に即すという考え方は、本来はリアリズムの精神に通じるものだ。それが何時しか実利主義と混同され、さらにはアカデミズムをモットーにした帝国大学系の過大評価と重なって、一段下に位置づけられるようになった。しかし実際の社会生活で本当に役立ったのは、専門学校を出た実務者である。
ではアカデミズムを標榜した旧大学では何を教えたか。文系で学名を挙げると、法学、経済学、文学、哲学であり、理系では理学、医学、工学であった。面白いことに、理系では当初から理論的な理学の他に、実務的な医学や工学を加えている。たぶん理系では、文系のような観念的なアカデミズムは成り立たなかったのだろう。しかし戦後の新制度になると、専門学校がすべて大学に昇格したので、教科の内容は極めて多様になった。なにしろ専門学校の種類が多かったからだ。例示すると、工業、商業、農業、医療、教育、薬学、芸術、語学、体育、軍事など実にきめ細かく網羅されていた。
その一方で、アカデミズムの象徴ともいうべき哲学は姿を変え、教養学?として装いを新たにした。もはや西欧追随型の観念論が、時代遅れになったからだろう。大学型観念論の象徴とも言うべき経済学や哲学は、実社会では殆ど役に立っていない。今なお健在なのは法学のみであるが、これはもともと実学なのである。また文学はその性格からして、本来は大学で教えられるものではない。大学を出たからといって名作が書けるわけではないのだ。それにも拘わらず文学部をつくったのは、以前に私のブログで触れたように、西欧文明へのコンプレックスである。そのためフランス文学とかドイツ文学とか、当該国の名前を頭につけている。結果として、文学部で学ぶのは文学の創造ではなく、その翻訳や分析・解釈になってしまった。ただし国文学や考古学は本質的に事情が違う。その目的が他国の文明を倣うものではなく、自国の文化を研究することにあるからである。
それでは現在の大学を解体するとして、その後どのように再編するか。私の案は次のとおりである。
① 専門領域別に新専門学校を創設する。新専門学校の種類は、上述した旧制の専門学校を参考にする。ただし社会環境や科学技術の発展を考慮し、それに適合するように種類の増減と改廃を行う。たとえば情報専門学校、文学専門学校、哲学専門学校など。
専門学校の種類を増やす一方で、大学は大幅に縮小する。たとえば哲学専門学校の卒業生は極めて少数と思われるが、大学はそこから適性者だけを受け入れる。哲学に限らず卒業後の就職を考えれば、他の専門学校からの大学希望者も自ずから数が決まる。それに対応して大学の数も決まる。そもそも専門学校での履修内容だけで、実業界のニーズには十分に耐えられるはずだ。仮に不足があるとすれば、それは実務を遂行する過程で習得できる。したがって、その上の大学に進むには何か別のミッションが必要である。大学について考えるには、それを明確にしなければならない。たんに修士や博士などの肩書き授与機関では困るのである。今やそんな肩書きが通用する時代ではない。この問題を考えるには、哲学を例にとると分かりやすい。
金沢大学で哲学を教えている仲正昌樹教授は、その著“知識だけあるバカになるな”で次のように述べている。「常識的に正しい答えだと思っていることが、本当に正しいかどうかは分からない。それどころか本当の答えがあるかどうかさえ分からない。そんな底なし沼の状態で、自分で答えを見つけようと継続的に頑張ること」。それが大学でやることだ・・・・と。
極めて説得力のある説明だが、私はこれに加えて次のように補足したい。
「つまり哲学者とは、“疑いの専門家”である。しかしそのような専門家を、実業界は求めるだろうか。すべてを疑う人物が組織の中で活動したら、仕事はまったく進まない。たぶん採用率はゼロだろう。しかし社会全体でみれば、疑いの専門家が存在するのは大へん有意義である。その専門家をどれだけ保有できるかは、その社会が持つ余裕とビジョンで決まるだろう。以上によって哲学専門学校の定員数も算出できるし、上位の大学で収容し得る人数も想定できる」と。
② 専門学校を主柱にするといっても、大学を全く廃止するのではない。大学には専門学校とは別のミッションが必要である。その要請はあらゆる専門分野ごとに発生する。ただし上でも述べたように、実社会で必要なスキルは全て専門学校の教育で習得できる。その上で何を求めるか。それを極めたら、人員も想定できる。上では哲学の例を取り上げたが、同じことが他の全ての分野でも検討されなければならない。それができない専門分野には大学は必要ないのである。
③ では、大学の定員はどうやって決めるか。上の例によると、哲学とは底なしの疑問の沼にどっぷり漬かることである。そうだとすると、その営みは哲学専門学校では終わらない。さらに続けるには大学が必要になる。この段階では再び適性者の選定が必要になるだろう。このようにして大学の定員も決めることができる。哲学の例と同じく、他の専門大学も定員を決めることは可能である。私の思い付きに過ぎないが、総平均すると専門学校から大学に進む学生の比率は十%程度になるのではないだろうか。卒業してもその多くが一般企業に就職できないから、別の就職口を設定しなければならない。たとえば大学や専門学校の教職や研究所である。しかし、それだけに限定することはないだろう。新概念に基づく大学卒をどれだけ収容できるかは、前にも述べたように、その国家や社会の余裕とビジョンで決まるはずである。
④ 大学の再編を上で述べたようにすると、いわゆる専門バカだらけになって、現代社会が求めるマルチ人間の育成がおろそかになると反論されるかもしれない。それには二つの面で答えることができる。
その1は、マルチ能力とマルチ知識は違うということである。たしかにインターネットが普及する以前は、博識というのは一つの才能であった。しかしインターネットが普及した現在では、知識やデータは簡単に検索できる。
その2は、マルチ能力とは何かということである。簡単にいうと、それは異質の情報を組み合わせて、新しい情報を創出する能力のことである。今のところ、その創出を保証できる方法論は存在しない。当然ながら専門家もいない。専門別のカリキュラムはあっても、創造のためのカリキュラムは存在し得ないのである。その意味で、マルチ人間に必要なマルチ能力の開発は、大学のあり方とは無関係である。
2012年3月10日土曜日
知識人と常識人
昨年の11月、このブログで「日本人に自虐精神を植え付けたのは誰か」と題して、知識人の責任を論じた。しかし、この論考には欠けている部分があった。それは知識人に対立するものとして教養人を挙げるに止まり、もう一つ重要な庶民すなわち“常識人”を挙げなかったことだ。日本人を理解するには、この常識人こそ最も重要な鍵になるだろう。
この反省に基づいて新たに想定した日本人の分類は、知識人、教養人、常識人の3つである。まず知識人についての定義は、基本的には前回と同じだ。要点を繰り返すと、その要点は以下の4つだ。
① 西欧文明に心酔し、伝統的な日本文化や日本文明を軽視する。
② 西欧文明を理解し翻案する手段として、外国語の習得を第一義とする。
③ 新しい日本文明の創造よりは、西欧文明の理解と模倣と解釈に専念する。
④ 日本民族固有の哲学や宗教観を侮り、コスモポリタリズムを信奉する。そのため往々にして、 アナーキーな言動にはしる。
このような知識人に対して、真のリーダーとして期待したいのは教養人である。一見したところでは知識人との違いが分からない。少なくとも知識の該博さにおいては、甲乙つけがたいからだ。しかし両者の間には本質的な違いがある。それは上の④に該当する部分だ。すなわち教養人は、民族固有の哲学や宗教観を重視し、借りもののコスモポリタリズムを信奉しない。しかもその言動は常に建設的かつ実践的で、知識人のように評論に止まることがない。
さて本題は、日本人の圧倒的大多数を占める常識人である。とくに常識人を特徴づける知恵すなわち常識を軽んじてはならない。かつて日本の軍隊が強いのは、エリート将軍や将校でなく下士官だと言われた。またビジネス分野では、優れた企業に共通するのは中間管理職、とくに係長級の人材が揃っていることである。有名大学を出たキャリヤーと言われるグループは、優秀なものもいるが全く駄目なのもいる。つまり当たり外れが大きい。それに対して係長や下士官が押し並べて優れているのは、半端なエリートとは違って、現場で現場主義に徹した体験を重ねたからである。こうして得た体験こそが、知識と違う知恵の源泉になるのであろう。そしてこの常識人の知恵こそ、知識人の借りものに過ぎない知識を圧倒する武器になるのである。私の故郷には、農業を引き継ぐため故郷に残り、長年にわたり村長を勤めた友人がいた。若い頃は帰郷の度に彼と会ったが、そのときの話題はいつも私がリードして、共産主義の素晴らしさをまくし立てた。彼はいつも微笑して聞いていたが、別れ際には決まって「それでもアカは嫌いだ」と断言するのであった。
形式知に基づいて理路整然と語るのは、相応の訓練をやれば難しいことではない。しかし暗黙知は、その内容がきわめて複雑で膨大である。常識人はその説明の難しさを知っているので、軽々には語らないのである。その難しい内容を理解し、敢えて説明しようとするのが教養人である。その意味では、教養人と常識人は共感できる部分が多い。
この反省に基づいて新たに想定した日本人の分類は、知識人、教養人、常識人の3つである。まず知識人についての定義は、基本的には前回と同じだ。要点を繰り返すと、その要点は以下の4つだ。
① 西欧文明に心酔し、伝統的な日本文化や日本文明を軽視する。
② 西欧文明を理解し翻案する手段として、外国語の習得を第一義とする。
③ 新しい日本文明の創造よりは、西欧文明の理解と模倣と解釈に専念する。
④ 日本民族固有の哲学や宗教観を侮り、コスモポリタリズムを信奉する。そのため往々にして、 アナーキーな言動にはしる。
このような知識人に対して、真のリーダーとして期待したいのは教養人である。一見したところでは知識人との違いが分からない。少なくとも知識の該博さにおいては、甲乙つけがたいからだ。しかし両者の間には本質的な違いがある。それは上の④に該当する部分だ。すなわち教養人は、民族固有の哲学や宗教観を重視し、借りもののコスモポリタリズムを信奉しない。しかもその言動は常に建設的かつ実践的で、知識人のように評論に止まることがない。
さて本題は、日本人の圧倒的大多数を占める常識人である。とくに常識人を特徴づける知恵すなわち常識を軽んじてはならない。かつて日本の軍隊が強いのは、エリート将軍や将校でなく下士官だと言われた。またビジネス分野では、優れた企業に共通するのは中間管理職、とくに係長級の人材が揃っていることである。有名大学を出たキャリヤーと言われるグループは、優秀なものもいるが全く駄目なのもいる。つまり当たり外れが大きい。それに対して係長や下士官が押し並べて優れているのは、半端なエリートとは違って、現場で現場主義に徹した体験を重ねたからである。こうして得た体験こそが、知識と違う知恵の源泉になるのであろう。そしてこの常識人の知恵こそ、知識人の借りものに過ぎない知識を圧倒する武器になるのである。私の故郷には、農業を引き継ぐため故郷に残り、長年にわたり村長を勤めた友人がいた。若い頃は帰郷の度に彼と会ったが、そのときの話題はいつも私がリードして、共産主義の素晴らしさをまくし立てた。彼はいつも微笑して聞いていたが、別れ際には決まって「それでもアカは嫌いだ」と断言するのであった。
形式知に基づいて理路整然と語るのは、相応の訓練をやれば難しいことではない。しかし暗黙知は、その内容がきわめて複雑で膨大である。常識人はその説明の難しさを知っているので、軽々には語らないのである。その難しい内容を理解し、敢えて説明しようとするのが教養人である。その意味では、教養人と常識人は共感できる部分が多い。
2012年3月3日土曜日
複式簿記を使わない日本の財政システム
石原東京都知事は、東京都の財政が健全な理由として、複式簿記の適用を強調している。まさに卓見だと思う。彼がそう言えるのは、一橋大学の出身であるからだ。一橋大学の元を辿ると、旧制の東京高等商業学校である。当時、官立の高等商業は全国で十数校あったが、そこでの教育の目的は、産業・ビジネスの実務を教えることであった。このほか専門学校は工業技術の実務を教える高等工業学校、農業の実務を教える高等農林学校など産業別に数種類あって、日本の経済を支える中堅人材の育成に大いに役だった。
一方、その上位に位置づけられた帝国大学はどうであったか。発端の話に戻れば、経済・ビジネスに関する実務は全く教えなかった。この領域でかろうじて関連があるのは経済学部であろうか。ただし、ここでは複式簿記は教えない。それでも卒業後は、いっぱしの財務官僚として実務に携わるようになっていた。
現在、日本の国家財政や地方財政の分野で引き起こされる問題の多くは、実はこの複式簿記を適用しないシステムに起因している。驚くべきことに、日本の財政を支える基本システムは単式簿記なのである。単式簿記とは、現金の出入りだけを記録する大福帳システムである。周知のことと思うが、念のためにその問題点を挙げておこう。
① 現金の出納記録しか出来ない。
② 従って現金の授受を伴わない借り貸しの処理や、その繰り越しは別処理になる。
③ 資産の減価償却を処理できない。そのため固定資産はすべて当会計年度の費用になる。
④ したがって正確な固定資産管理ができない。国有財産の正確な金額評価ができない。
⑤ 繰り越し処理ができない単年度方式になるため、期末には未消化予算を無理に浪費。
⑥ 年度を越える長期プロジェクトは、財政予算システムでカバーできない。
⑦ そのため長期にわたる国家プロジェクトの立案が難しい。発想が短期的になる。
何故このような不合理なシステムがまかり通っているのか。不思議に思われるかも知れないが、前述したように理由は極めて単純である。帝国大学の法学部や経済学部を出て大蔵省に採用されたエリート官僚が、複式簿記を知らないからである。そのため実務を知らない素人でも理解できる単式簿記を採用したのである。一方の複式簿記というのは、中世のベネチュア王国時代に開発された会計手法であるが、極めて合理的な会計手法で、ずいぶん古くから世界標準になっている。その完璧さはピタゴラスの定理に匹敵するとさえ言われている。そのため現在では一般の企業はもちろん、財政面でも主要国の殆どが使っている。これを用いない日本の財政システムは、例外といえるだろう。エリート官僚がこれを使わない理由は前述したが、果たしてそんなことで済むのだろうか。
一方、その上位に位置づけられた帝国大学はどうであったか。発端の話に戻れば、経済・ビジネスに関する実務は全く教えなかった。この領域でかろうじて関連があるのは経済学部であろうか。ただし、ここでは複式簿記は教えない。それでも卒業後は、いっぱしの財務官僚として実務に携わるようになっていた。
現在、日本の国家財政や地方財政の分野で引き起こされる問題の多くは、実はこの複式簿記を適用しないシステムに起因している。驚くべきことに、日本の財政を支える基本システムは単式簿記なのである。単式簿記とは、現金の出入りだけを記録する大福帳システムである。周知のことと思うが、念のためにその問題点を挙げておこう。
① 現金の出納記録しか出来ない。
② 従って現金の授受を伴わない借り貸しの処理や、その繰り越しは別処理になる。
③ 資産の減価償却を処理できない。そのため固定資産はすべて当会計年度の費用になる。
④ したがって正確な固定資産管理ができない。国有財産の正確な金額評価ができない。
⑤ 繰り越し処理ができない単年度方式になるため、期末には未消化予算を無理に浪費。
⑥ 年度を越える長期プロジェクトは、財政予算システムでカバーできない。
⑦ そのため長期にわたる国家プロジェクトの立案が難しい。発想が短期的になる。
何故このような不合理なシステムがまかり通っているのか。不思議に思われるかも知れないが、前述したように理由は極めて単純である。帝国大学の法学部や経済学部を出て大蔵省に採用されたエリート官僚が、複式簿記を知らないからである。そのため実務を知らない素人でも理解できる単式簿記を採用したのである。一方の複式簿記というのは、中世のベネチュア王国時代に開発された会計手法であるが、極めて合理的な会計手法で、ずいぶん古くから世界標準になっている。その完璧さはピタゴラスの定理に匹敵するとさえ言われている。そのため現在では一般の企業はもちろん、財政面でも主要国の殆どが使っている。これを用いない日本の財政システムは、例外といえるだろう。エリート官僚がこれを使わない理由は前述したが、果たしてそんなことで済むのだろうか。
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