2008年7月4日金曜日

北条小学校の思い出

 教育の荒廃が叫ばれて久しくなりますが、未だに改善の気配は見えていません。荒廃の原因となった責任の所在や、対策についてはうんざりするほど論じられてきたのに、どうしてでしょう。この難問に対して私は、無謀にも一つの仮説を提示したいと思います。
 結論から言うと教育の決め手は、個人が本能的に希求する“存在証明(アイデンティティ)願望”の理解にあると考えています。その理由を私の体験からお話しします。  親父の仕事の都合で、私は小学校を6回変わりました。そのうち北条小学校(現在の兵庫県加西市)に転校したのは2年の2学期でしたが、3学期の終わりにはもう転出しなければなりませんでした。教室では、いつも青ばなを垂らした冴えない生徒でした。そのため友達は一人もなく、登校するのが辛かった。
お別れの当日、みんなに口ごもりながら挨拶したあと、一人とぼとぼと校門の方に歩いて行きました。その時、後から追いかけてくる足音がして、「田中くん」と呼びとめられました。担任の先生でした。そして私の手をとって、校門の横にある桜の木の下に連れていきました。「田中くん。君はクラスで2番だったのよ」。先生はいきなりそう言いました。私は口をあんぐり開けて、彼女の顔を見つめました。ニキビが目立つ顔でした。いま考えれば、彼女は師範学校を出たばかりの新米教師だったのでしょう。そして続けました。「転校しても、2番だったことを忘れてはだめよ」。
 そのあとも、少し話したように思いますが何も覚えていません。私は思いがけず2番と言われたことで、有頂天になっていました。全く想像もしなかったからです。 その後も転校を繰り返し、いじめにもあいました。そんなとき何時も心の支えになったのは、2番というキーワードでした。 たぶん2番というのは、本当ではなかったと思います。出来の悪い生徒だったことは、私自身がよく知っていました。それでもあのように嬉しかったのは、先生に無視されなかったという喜びでしょう。
人間の一生なんて儚いものです。だからこそ、人は誰でも無意識のうちに、自分の存在を証明したいし、認めてもらいたいと思っています。「士はおのれを知るもののために、死す」という中国の古い格言もそれを表しています。小説家も絵描きも、作品を通して“存在証明”に生涯を賭けます。かくして人を動機づける最も本質的な契機は、その人の存在証明願望を認めることだと思います。小手先の教育システムや手法ではないはずです。堂々巡りになりかねない教育論議も、この本質部分から始めたらどうだろうかと考えています。

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