2008年7月7日月曜日

会社は誰のものか

 サラリーマン時代、城山三郎のデビュー作となった「総会屋錦城」を、共感をもって読んだことを思い出す。その後私は経営コンサルタントという職業についたが、経営者の実態を見るにつけ会社は誰のものかという疑問を持ち始めた。とくに不快だったのは経営者による企業の私物化であった。彼らの思い上がりを抑止するには、錦城のような総会屋は必要悪とさえ考えた。法的に言えば答えは簡単で、会社は株主のものだ。しかし当時は株式所有の大衆化によって、個人株主はその自覚がなかった。大株主として陰の実権を握っていたのは資金を貸している銀行と、株式の持ち合い関係にある企業だった。その後ろ楯によって経営を委託された番頭に過ぎない経営者(特に社長)は権力をほしいままにした。大株主とは合い見たがいの関係だったので、よほどの失態がない限り干渉を受けることはなかったからだ。トップ交代は禅譲か役員会内部のクーデターに限られた。関電事件や三越事件、松阪屋はその代表例だ。私見では会社は株主、従業員、経営者の三者のものと考える。川俣社長時代の日産は組合との馴れ合い経営で有名だ。この場合は、コケにされたのは三者のうちの零細株主だけということになる。このような奇妙な日本的経営の権力構造は、最近になって覆された。そして株主の権力が圧倒的に強まった。原因は株式相互持合いの禁止、銀行の貸し出し率の低下などだ。一方で機関投資家の台頭により株主の権力は肥大化した。形式論的にいえば正常な姿だ。しかし実際には不具合が多い。株主の多くは目先の値上がりだけを期待するので、経営者に短期利益の追求だけを求める。企業や事業の長期的な発展には関心がない。マックスウエーバーが論じた資本家の精神などは全く期待できない。ここでもまた、大きな弊害が生じている。

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