2008年7月21日月曜日

エミリー・ウングワレー展」を見て

 先週の半ば国立新美術館でエミリー・ウングワレー展を見たが、その新鮮な感動の記憶は今なお脳裏に鮮やかだ。
 エミリーの出自はオーストラリアの原住民アボロジニで、大陸中央の砂漠地帯で生まれ、そこで生涯を終えた。そのため地球の他の地域とは全く隔絶した文化を継承したので、その画風も独特のものだ。点描画に似ているといわれることもあるが、本質的に異なるものだ。点描画の場合は視覚混合の理論に基づいて表現する手法である。しかしエミリーはそんな理論や手法とは無関係に、内発する動機が点描のような表現をもたらしたのだ。しかもその絵には、文明人が長い年月を掛けて忘却し廃棄してしまったものが内包されている。すなわち文字を超越するメッセージだ。
 もちろん文明人の絵は、さまざまな情感を伝えることができる。しかしそれはあくまで情感であって、言葉ではない。言葉は、口舌と文字でしか表すことができない。この文字の発明と操作こそ、文明の最も本質的な特徴といえるのである。一方、アボロジニには文字が無い。その代わり絵が、文字の役割も兼ねているのである。祖先から伝わった神話や歴史は、すべて絵の中に込められている。彼らは文字が無くても不便を感じない。文字の力を絶対視するのは、文明人の偏見というべきだろう。仮にエミリーの絵が語りかけるメッセージを、すべて文字で表すとしたら、いったい何万語を費やさなければならないだろう。
 エミリーの絵によって、私は多くのことを考え直すきっかけができた。例えば、彼女がカンバスや絵具という新しい材料に出会ったのは78歳のときだという。それから8年後に没するまでに3000点から4000点の作品を残した。その僅かの期間に爆発したエネルギーの源泉はいったい何なのか。奇しくも私はいま78歳だが、とてもそのようなエネルギーを持ち合わせてはいない。仮に持っているとしても、そのエネルギーをぶっつける対象が無い。いや、無いと思い込んでいるだけかもしれない。彼女の絵をみることによって、文明人がもっている常識なるものに、改めて疑問を感じざるを得ない。

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