七十歳を超えて間もなく、私は長年やってきた仕事から離れた。そのときの開放感と空虚感が交錯する不思議な感じは、いまでもはっきり覚えている。はじめのうちは開放感の方が強かったが、時間が経つにつれて空虚感が高まってきた。どのようにしてあり余る時間を使いこなすか。旅行したり散歩したり、カルチャークラブに参加したり、落ち着かない毎日だった。今更ながら、仕事一筋に過ごしてきた人生を悔やんだり、懐かしく思ったりした。
やがて誰もがやるように、本気で趣味探しをはじめた。油絵、ダンス、英会話、囲碁など手当たり次第にやってみた。たとえば囲碁の場合は、いつも負かされる相手の段位を尋ねたところ、まだ4級だという答えだった。これでは初心者の私ごときが、人並みになるには何年かかるかわからない。結局のところ、不器用な私は何一つとしてものにすることができなかった。
思案投げ首のある日、たまたま山本夏彦のエッセイ集“一寸さきはヤミがいい”を開いたところ、短歌に関する一稿があった。それによると、短歌はもともと芸術というほどのものではなく、庶民のちょっとした心得程度のものだったらしい。内容や形式や季語などと、難しく考える必要はなかったようだ。あえて言えば、リズム感を形成する5,7,5,7,7という文字数の約束だけだった。これなら私でもできそうだ。そう考えて始めたが、やっているうちにだんだん欲が出てきた。たんに文字を並べるだけでなく、家族や知人にも詠んだときの気持ちが伝わるようにしたいと思うようになった。そう考えたとき、閃くものがあった。そうだ!文字と写真を組み合わせたらどうだろう。私の短歌は、満点を100とすると30点にもならないし、写真も同じ程度だ。しかし2つを組み合わせると、30+30で60になるかもしれません。このやり方は大げさに言えば、新しいジャンルの開発ではないだろうか。早速この方法に「写真短歌」という名前をつけた。作品をいくつか知人や家族に見せたところ、お世辞だったかもしれないが、わりに好評だった。もともと芸術などと気取るつもりはない。ただ自分が納得できるものであればよいのだ。そしてもう一つ条件をつければ、安直にできることである。「短歌写真」は、この二つの条件にぴったりといえるだろう。
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