2008年8月24日日曜日

崖の上のプニョ

 宮崎駿の新作「崖の上のプニョ」を観た。大いに期待していたが、率直な感想をいうと、たいしたことはなかった。以前から彼のファンなので、その作品に馴染みすぎているのかもしれないが、要するに同工異曲で新鮮さがない。
 テクニック面ではデジタル手法を避け、徹底的にアナログ手法にこだわったという。このやり方によって、画面の滑らかさや艶っぽさには見るべきものがあると評価されている。しかし物語のコンセプトや、展開には目新しいものがない。
 実は以前から宮崎の創作の方法に関心があったので、その観点から評価したかった。NHKの“プロフェッショナル・仕事の流儀”では、その要点を次のように紹介している。
 映画の奴隷
宮崎はイメージボードで構想を膨らませ、絵コンテによって脚本化し、アニメーターが描いた原画・動画を自ら手直しする。そして背景美術・色彩設計・撮影など各過程の細部に至るまで自らの色に染め上げる。宮崎にとって、映画制作は「作る」というより、「作らされる」という感覚だという。そこにあるのは、自らを「映画の奴隷」として見立てて、少しでも良い作品を生み出そうとする、全身全霊を捧げてゆくすさまじいまでの気迫だ。ゆえに宮崎は映画に関わる全スタッフに対して峻烈(しゅんれつ)なまでの気構えを求め、またそれ以上のものを自らにも求めていく。
 仕事の範囲は半径3メートル
「となりのトトロ」「千と千尋の神隠し」など数々の作品を世に送り出してきた宮崎。企画を生み出すとき、宮崎は「半径3メートルで仕事をする」という信念を大切にしてきた。宮崎は身近なところで出会ったものを梃子(てこ)にして想像力を最大限に膨らませ、イメージを紡ぎ出してゆく。家の近所で見つけたバス停や、スタッフの娘など、意外なほど近いところにアイデアの種はあるという。宮崎にとって映画とは単なる空想や作り話ではなく、日々の体験や出会ったものから生み出されたものにほかならない。宮崎は映画作りという過程に、自らの人生を刻印しているのだ。
 人に楽しんでもらいたい
67歳にして、宮崎を創作に駆り立てるものは何なのか。宮崎がこれまであまり語ることのなかった胸の内を明かした。「人に楽しんでもらいたいという意識なんだよ、動機はね。なぜ楽しんでもらいたいかといったら、楽しんでもらえたら、自分の存在が許されるんではないかっていう、無用なものではなくてというふうな抑圧が自分の中にあるから。…それは、何か幼児期に形成されたものがあるんだろうと思うんだけど。それを別にほじくりたいとは思わない。僕はとにかく人に楽しんでもらうことが好きですよ」。

 これらのコメントは、宮崎の創作の態度を述べたもので、私が求める“方法”については説明していない。私はアボロジニのエミリーの絵で感じたような、画像で表現する“方法”の本質を知りたいのだ。それは文字で表現する方法とは根本的に違う。文明社会では絵で表現するものと、文字で表現するものとは完全に分業化されている。しかし文字を知らないエミリーの絵には、文明社会では文字で表現せざるをえないものも含んでいる。たとえば民族の歴史感覚や世界観だ。もちろん絵だけでは表現できないものもある。例えば形式知、なかでも論理的な思考プロセスだ。しかし、それがないのは、アポロジーに必要がないからだ。つまり文化の違いなのだ。
 私が宮崎の創作の方法に関心があるのは、彼が形式知や論路的思考を否定しているからだ。彼は日常的に生じるイメージの断片を頭の中(潜在意識)の引き出しに溜め込んでおき、それをテーマに沿って脈絡もなくつなぎ合わせていくらしい。しかし脈絡がないというけれども、それは文明型の論理とか因果関係がないというだけであって、別の次元では脈絡があるらしい。私はそれが知りたいのだ。その脈絡つまり方法によって、宮崎のアニメは作られてきた。
 崖の上のプニョの出来栄えはよくなかったが、作品がいつも成功するとは限らない。したがって作品個々の評価と、方法とは別の話だ。私は、その見地から今後も宮崎の方法に注目し続けたい。

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