2008年8月25日月曜日

ツリー構造型思考の克服

 極端な専門分化の弊害については、多くの人が問題を感じていた。そのため学際的アプローチの必要性は、30年も前から叫ばれていた。しかし問題提起はあっても具体的な方法がなかった。この難問に応えられるようになったのは、ネットワーク思考のおかげだ。とくにインターネットという情報環境や、グーグルの検索しシステムの貢献は大きい。これらの革新的な技術によって、今までツリー構造に制約されていた思考方法は、一挙に開放された。本来ツリー思考は絶対のものではなく、既得権でもない。必要に応じて自由に構築すればよい。重要なのは、情報を集めて、ツリーを構築する方法だ。つまり方法の方法だ。それには新しいデザイン理論と計画理論が大きく貢献できるだろう。それにしてもテクノロジーの効果は大きい。20世紀を代表するアカデミズムが完成したために、ツリー構造型の科学や哲学はかえって行き詰まりになっていた。それをブレイクスルーしたのが、インターネット技術とグーグルの検索技術である。

2008年8月24日日曜日

忍耐は才能

 昨日、タクシーの運転手から面白い話を聞いた。彼は子供のころから絵が好きで、我流で描いてきたが、5年前からある大きな会派に属するようになったという。その後わずか3年で大賞を獲得し、いまでは号7万円で売れるほどになっているらしい。それでもタクシー稼業を続けている理由は、絵では食えないからだ。彼の説明によると、美術大学を出ても絵筆一本で生活できる人は数パーセント以下という。美大にいく人の殆ど全てが、生まれつき絵が上手い。私などは想像もつかないような特別の感覚と才能に恵まれている。その並外れた才能があっても食えないというのである。一方、統計によると、平凡なサラリーマンでも平均年収は500万ほどになるという。運転手にその話をすると、彼は笑って答えた。「平凡なサラリーマンと言うのは間違いです。彼らは大変な才能を元手にして生活しています」。私は膝を乗り出して質問した。「それは何ですか」。鸚鵡返しに返事が返ってきた。「忍耐です。忍耐は才能です。多分それは、画才などは比べ物にならないほど市場価値のある才能でしょう」。"

崖の上のプニョ

 宮崎駿の新作「崖の上のプニョ」を観た。大いに期待していたが、率直な感想をいうと、たいしたことはなかった。以前から彼のファンなので、その作品に馴染みすぎているのかもしれないが、要するに同工異曲で新鮮さがない。
 テクニック面ではデジタル手法を避け、徹底的にアナログ手法にこだわったという。このやり方によって、画面の滑らかさや艶っぽさには見るべきものがあると評価されている。しかし物語のコンセプトや、展開には目新しいものがない。
 実は以前から宮崎の創作の方法に関心があったので、その観点から評価したかった。NHKの“プロフェッショナル・仕事の流儀”では、その要点を次のように紹介している。
 映画の奴隷
宮崎はイメージボードで構想を膨らませ、絵コンテによって脚本化し、アニメーターが描いた原画・動画を自ら手直しする。そして背景美術・色彩設計・撮影など各過程の細部に至るまで自らの色に染め上げる。宮崎にとって、映画制作は「作る」というより、「作らされる」という感覚だという。そこにあるのは、自らを「映画の奴隷」として見立てて、少しでも良い作品を生み出そうとする、全身全霊を捧げてゆくすさまじいまでの気迫だ。ゆえに宮崎は映画に関わる全スタッフに対して峻烈(しゅんれつ)なまでの気構えを求め、またそれ以上のものを自らにも求めていく。
 仕事の範囲は半径3メートル
「となりのトトロ」「千と千尋の神隠し」など数々の作品を世に送り出してきた宮崎。企画を生み出すとき、宮崎は「半径3メートルで仕事をする」という信念を大切にしてきた。宮崎は身近なところで出会ったものを梃子(てこ)にして想像力を最大限に膨らませ、イメージを紡ぎ出してゆく。家の近所で見つけたバス停や、スタッフの娘など、意外なほど近いところにアイデアの種はあるという。宮崎にとって映画とは単なる空想や作り話ではなく、日々の体験や出会ったものから生み出されたものにほかならない。宮崎は映画作りという過程に、自らの人生を刻印しているのだ。
 人に楽しんでもらいたい
67歳にして、宮崎を創作に駆り立てるものは何なのか。宮崎がこれまであまり語ることのなかった胸の内を明かした。「人に楽しんでもらいたいという意識なんだよ、動機はね。なぜ楽しんでもらいたいかといったら、楽しんでもらえたら、自分の存在が許されるんではないかっていう、無用なものではなくてというふうな抑圧が自分の中にあるから。…それは、何か幼児期に形成されたものがあるんだろうと思うんだけど。それを別にほじくりたいとは思わない。僕はとにかく人に楽しんでもらうことが好きですよ」。

 これらのコメントは、宮崎の創作の態度を述べたもので、私が求める“方法”については説明していない。私はアボロジニのエミリーの絵で感じたような、画像で表現する“方法”の本質を知りたいのだ。それは文字で表現する方法とは根本的に違う。文明社会では絵で表現するものと、文字で表現するものとは完全に分業化されている。しかし文字を知らないエミリーの絵には、文明社会では文字で表現せざるをえないものも含んでいる。たとえば民族の歴史感覚や世界観だ。もちろん絵だけでは表現できないものもある。例えば形式知、なかでも論理的な思考プロセスだ。しかし、それがないのは、アポロジーに必要がないからだ。つまり文化の違いなのだ。
 私が宮崎の創作の方法に関心があるのは、彼が形式知や論路的思考を否定しているからだ。彼は日常的に生じるイメージの断片を頭の中(潜在意識)の引き出しに溜め込んでおき、それをテーマに沿って脈絡もなくつなぎ合わせていくらしい。しかし脈絡がないというけれども、それは文明型の論理とか因果関係がないというだけであって、別の次元では脈絡があるらしい。私はそれが知りたいのだ。その脈絡つまり方法によって、宮崎のアニメは作られてきた。
 崖の上のプニョの出来栄えはよくなかったが、作品がいつも成功するとは限らない。したがって作品個々の評価と、方法とは別の話だ。私は、その見地から今後も宮崎の方法に注目し続けたい。

価値観喪失の恐ろしさ

 食品や玩具などの有毒物質入り商品によって、中国の信用は地に落ちたが、このような退廃の原因は何だろう。プリンストン大学のペリー・リンク教授は、中国共産党支配によってもたらされた「価値観の喪失」によるものだという。すなわち中国には共産党が宣伝する真実と、大衆の生活から生まれる真実の二つがあるが、この二つの真実を併存させる矛盾が、価値観の喪失と偽善をもたらした。偽善の実例として、今なお天安門には毛沢東の巨大な肖像画を掲げているが、現実には資本主義の拡散を許している。政治的に従順でさえあれば、経済では何をやってもよいという風潮が生まれてしまったのだ。
 価値観の喪失や混乱は、差し当たっての日常生活には影響がないように見える。しかしその弊害は癌のように、長い年月をかけて健康な体を蝕む。中国では1956年から気狂いじみた反右翼闘争に大衆を駆り立てた。しかし毛沢東の死後は一変して、大衆に経済活動の自由を享受させている。かくして民衆の価値観は拠り所を失い、金儲けのためなら何をやっても良いという恐るべき事態に陥ったのだ。
 価値観の喪失がもたらす退廃の、格好の見本は日本である。戦後から現在にいたる戦勝国の政策と、それに便乗した左翼学者やマスコミなどによって、伝統的な価値観はことごとく破壊された。代わって提唱されたのはコスモポリタニズムであり、国連主義である。そのため朝日新聞のごときは、国益という用語さえタブーにしていた。しかし近隣諸国の露骨な国家エゴにさらされるにいたり、惰眠を貪っていた日本にも、どうやら覚醒の気配が窺えるようになった。今こそ祖国が培ってきた価値観を見直し、それに基づいた進路を確立しなければならない。

2008年8月23日土曜日

文学と政治

 文学的センスと政治的センスの間には、大きな隔たりがあるようだが、必ずしもそうではない。たとえばアンドレ・マルローは、政治への情熱と、文学への情熱を区別しなかった。日本でも三島由紀夫や江藤淳、大江健三郎、三浦朱門、村上龍など事例は多い。逆にドゴール、チャーチル、毛沢東など文学のセンスに恵まれた政治家の名前を挙げることもできる。日本の顕著な例は石原慎太郎だが、中曽根康弘元首相も俳人として知られている。
 文学的センスと政治的センスの間には、共通するものがあるのかもしれない。立花隆は政治家を、言語操作のプロだといったことがある。この見方も、文学と政治の共通する一つの側面を捉えたものといえるだろう。オバマとクリントンの選挙戦をみると一層その感を深くする。
しかし文学センスと政治センスは、もっと本質的な点で共通しているように思われる。あえて言えば、それは文学者あるいは政治家として、対象を認識する態度と方法ではないだろうか。文学および政治を構成するカテゴリーは、イデオロギー、テーマ、イメージ、デザイン、モチベーション、コントロール、コミュニケーション、・・・など筆紙に尽くせないほど多岐にわたる。この多様さと複雑さこそ、文学と政治の共通点である。
たとえばコミュニケーションについて考えてみよう。コミュニケーションの局面でも文学や政治では、無数ともいえる要素を考慮しなければならない。要素間には矛盾があるし、しかも時間とともに変化する。コミュニケーションを構成する要素の例として、人間を取り上げてみよう。男と女、老人と若者、善人と悪人、金持ちと貧乏人、学歴、職業・・・・このように分類していくと、おそらく際限がないだろう。しかもこの無数の要素の間および要素の内部では、必ず葛藤や争いが発生する。政治と文学は、このような取りとめもないもの、いわば混沌を対象にしなければならない。その難しさはただ事ではない。この複雑怪奇な状況に臨んで、行動の引き金になるセンサーは何か。多分それは、対象と状況を鋭敏に感じ取る能力であろう。言い換えれば認識能力である。
かくして対象や状況を鋭敏に感じとるセンス=認識能力こそ、文学と政治に共通する不可欠の能力といえるのである。かなり突飛な話だが、この仮説で文学者を評価してみたらどうだろう。例えば大江健三郎。一時はアナーキーな政治スタンスで人気を得たが、今では色あせている。とくに「沖縄ノート」では、劣弱な取材力(認識力)を露呈した。村上龍も、デビュー作の「限りなく透明に近いブルー」で示した感覚はすごかった。しかし「ハバナモード」あたりから最近のJMMにいたる政治的な発言を見ると、幾許の未熟さを感じる。そうとなれば、文学者としての村上龍についても、多少の評価替えが必要になるのだろうか。

2008年8月14日木曜日

脱亜論と別亜論

 敗戦後、すでに半世紀を遥かに越えるというのに、中国や韓国による謝罪要求や責任追及は止まることがない。その声が一時的に収まるのは、オリンピックや経済ピンチで、日本の賛同や援助が必要なときだけである。いずれ国内政局が紛糾したときは、世論をそらすために必ずや、政府主導による日本非難が始まるだろう。
 このようないやらしさは今に始まったことではなく、すでに明治時代から続いている。そのため福沢諭吉は脱亜入欧論を主張した。とくに当時の日本の基本路線であった東アジアとの交流強化は、本当に必要なのかと疑問を呈したのである。東アジア諸国とは、要するに中国と韓国のことだ。日本がこれらの因循な国から得るものは少ない。それよりは欧米諸国と親交を結ぶ方が、お互い利益することが多いと考えたのだ。
 この脱亜論は今も評判が悪い。とくにサヨクからはコテンパンだ。アジアという位置にあって共通する文化をもちながら、あえて孤児になる道を選ぶのかというわけだ。しかし日本と、これらの国の文化は、本当に共通するところがあるのだろうか。たしかに肌の色や容姿は似ているし、漢字を使ってもいる。しかしそれだけのことで、文化が共通すると言えるだろうか。
 筑波大学の古田博司教授は、多くの著書(たとえば“新しい神の国”)によってこの疑問を解き明かしている。つまり日本の文化は、中国や韓国のそれとは全く別物なのである。したがって日本は、殊更に東アジア文化から脱する必要はなく、はじめから別の文化をもつ国である。すなわちアジアを脱する意味の脱亜ではなく、アジアとは別を意味する別亜なのである。
 東アジア諸国との外交関係については、従来は地政学的な見地から論じられることが多かった。しかしこれからは文化論的な見地から検討する必要があるだろう。私は今まで日本の混迷が、文化論と文明論の混同によって生じるところが大きいと考えてきたが、その考察の範囲をさらに拡大し、国際関係論にまで及ぼす必要があると考えるに至っている。

2008年8月3日日曜日

デジカメ短歌の薦め

 七十歳を超えて間もなく、私は長年やってきた仕事から離れた。そのときの開放感と空虚感が交錯する不思議な感じは、いまでもはっきり覚えている。はじめのうちは開放感の方が強かったが、時間が経つにつれて空虚感が高まってきた。どのようにしてあり余る時間を使いこなすか。旅行したり散歩したり、カルチャークラブに参加したり、落ち着かない毎日だった。今更ながら、仕事一筋に過ごしてきた人生を悔やんだり、懐かしく思ったりした。
やがて誰もがやるように、本気で趣味探しをはじめた。油絵、ダンス、英会話、囲碁など手当たり次第にやってみた。たとえば囲碁の場合は、いつも負かされる相手の段位を尋ねたところ、まだ4級だという答えだった。これでは初心者の私ごときが、人並みになるには何年かかるかわからない。結局のところ、不器用な私は何一つとしてものにすることができなかった。
思案投げ首のある日、たまたま山本夏彦のエッセイ集“一寸さきはヤミがいい”を開いたところ、短歌に関する一稿があった。それによると、短歌はもともと芸術というほどのものではなく、庶民のちょっとした心得程度のものだったらしい。内容や形式や季語などと、難しく考える必要はなかったようだ。あえて言えば、リズム感を形成する5,7,5,7,7という文字数の約束だけだった。これなら私でもできそうだ。そう考えて始めたが、やっているうちにだんだん欲が出てきた。たんに文字を並べるだけでなく、家族や知人にも詠んだときの気持ちが伝わるようにしたいと思うようになった。そう考えたとき、閃くものがあった。そうだ!文字と写真を組み合わせたらどうだろう。私の短歌は、満点を100とすると30点にもならないし、写真も同じ程度だ。しかし2つを組み合わせると、30+30で60になるかもしれません。このやり方は大げさに言えば、新しいジャンルの開発ではないだろうか。早速この方法に「写真短歌」という名前をつけた。作品をいくつか知人や家族に見せたところ、お世辞だったかもしれないが、わりに好評だった。もともと芸術などと気取るつもりはない。ただ自分が納得できるものであればよいのだ。そしてもう一つ条件をつければ、安直にできることである。「短歌写真」は、この二つの条件にぴったりといえるだろう。